7月28日発売の東京創元社新刊、前川ほまれ著『藍色時刻の君たちは』の冒頭部分を3日連続で特別公開いたします!

【あらすじ】
2010年10月。宮城県の港町に暮らす高校2年生の小羽(こはね)は、統合失調症を患う母を抱え、介護と家事に忙殺されていた。彼女の鬱屈した感情は、同級生である、双極性障害の祖母を介護する航平と、アルコール依存症の母と幼い弟の面倒を見る凜子にしか理解されない。3人は周囲の介護についての無理解に苦しめられ、誰にも助けを求められない孤立した日常を送っていた。

しかし、町にある親族の家に身を寄せていた青葉という女性が、小羽たちの孤独に理解を示す。優しく寄り添い続ける青葉との交流で、3人が前向きな日常を過ごせるようになっていった矢先、2011年3月の震災によって全てが一変してしまう。

2022年7月。看護師になった小羽は、震災時の後悔と癒えない傷に苦しんでいた。そんなある時、彼女は旧友たちと再会し、それを機に過去や、青葉が抱えていた秘密と向き合うことになる……。

本日は第三章「二〇一一年二月 星の感触」を公開いたします。
ぜひご一読ください。

【プロローグ/第一章「二〇一〇年十月 海沿いの町」はこちら】



第三章 二〇一一年二月 星の感触


 浅い眠りから目が醒めると、冷たい空気が首筋に触れた。掛け布団を肩まで引き上げて、大きな欠伸を一つ零す。隣の布団では、雄大がまだ小さな寝息を立てていた。
 気怠く寝返りを打った瞬間、枕が普段より高いような気がした。後頭部に硬い感触を覚えたのと同時に、昨夜の記憶が一気に蘇る。勢い良く掛け布団を捲って、頭の形に凹んだ枕を退かした。
 枕の下には、バスタオルで包んだトートバッグが置かれていた。バスタオルの色はショッキングピンクで、生地には無数の水玉が描かれている。寝起きのぼんやりした頭だと、沢山の水玉は虫が這っているように見えた。
 バスタオルを開き、現れたキャンバス地のトートバッグを見つめた。恐る恐る中を覗き、昨夜仕舞った数々の銀色を取り出す。包丁、果物ナイフ、カミソリ、ハサミ、安全ピン。数がちゃんと合っているか確認している最中、自然と舌打ちが漏れた。刃物を枕の下に隠して過ごす夜は、安眠なんてできやしない。
 多くの銀色を再びトートバッグに戻すと、部屋の隅に目を向けた。ママの処方薬だけは、本棚に隠している。あたしが横になっている間も部屋に入って来た気配は感じなかったし、室内を漁られた形跡もない。それでも昨夜の虚ろな眼差しを思い出すと、確認せずにはいられなかった。ゆっくりと立ち上がり、本棚に近寄る。国語辞典と英和辞典を抜き取り、カモフラージュとして立てていた教科書を端に寄せると、ママの処方薬が入ったプラスチックケースが目に映った。
「ねぇちゃん。おはよう」
 背後から、眠たげな声が聞こえた。慌ててプラスチックケースを隠し、平然を装いながら振り返る。
「おはよう。今日は保育園ないから、まだ寝てなよ」
「ぼく、もうおきる」
 雄大は気怠そうに目を擦り、口をもごもごと動かした。
「……パンツ、ぬれちゃった」
「えっ、マジ?」
 小さな身体が、布団から這い出した。パジャマの股間は濡れて色を変え、薄いブルーのシーツには丸い染みが広がっている。子どものおしっこは、大人の尿より臭くはないような気がする。これからやるべき家事が一つ増えたとしても、少しの救いと思えた。
「漏らしたんなら、早く教えてよ」
「……ごめん」
 丸い瞳は、濡れたシーツを見つめている。責めるような口調になったことを反省しながら、付け加えた。
「別に、怒ってる訳じゃないよ。すぐ着替えないと、風邪引くじゃん」
「うん……そうかも」
「でしょ。もう二月になったんだしさ、おしっこも凍っちゃうよ」
「それはウソだよ」
「マジだから。あたしのおしっこは、よく凍ってるもん。氷柱みたいに」
 冗談を言うと、無邪気な笑顔が見えた。男の子はこんな下らない内容で、笑ってくれるから楽だ。これも、ささやかな救いなのかもしれない。
「んじゃ、チンチンもこおるの?」
「それは知らん。あたしには付いてないし」
「もしこおったら、すごくつめたいよね?」
「だろうね。だから次は、早めに教えて」
 雄大は三歳を過ぎた頃から、オムツは取れていた。それでもママが荒れた後は、こうやって漏らすことが何度もあった。心理的な影響なんだろう。シーツに染み込んでいるのは尿ではなく、五歳の子どもの不安だ。
「とりあえず、綺麗にしないと。着替えは、それから」
 本棚の側から離れ、刃物が入っているトートバッグの上に掛け布団を放った。ママの危険な行動を予防するためだとしても、虚しさが胸の中で淀む。今更になって、刃物の硬い感触が後頭部でじんわりと滲んだ。
 自室の襖を開けて、短い廊下を進む。家賃四万二千円の平屋は夏だと熱が籠もるし、冬だと氷の上を歩いているように底冷えしてしまう。外よりも室内の方が寒いような錯覚を感じながら、周囲の物音にさり気無く耳を澄ました。廊下が頼りなく軋んでいるだけで、ママが起きている気配はない。
 居間に続く磨りガラスの引き戸を開けると、ママが炬燵で眠っていた。テーブルの上には、様々な空き缶が置かれている。ビール、発砲酒、ハイボール、ピンクグレープサワー。梅酒のワンカップだけは倒れていて、おねしょに似た歪な染みをテーブルの上に描いていた。
「おさけくさいね」
 雄大の呟きを無視して、居間を横切って台所に向かった。戸棚から毛羽立ったタオルを取り出し、シンクの蛇口を捻る。温かい湯でタオルを濡らしてからパンツを脱がせ、幼虫がぶら下がっているような股間を拭いた。
「くすぐったーい」
「我慢してよ。チンチンが、かぶれても知らないからね」
 大まかにおしっこで汚れていそうな箇所を拭くと、柔らかいお尻を優しく叩いた。
「オッケー。そんじゃ、着替えてきな」
 下半身を丸出しにして、短い脚が廊下に向かって駆け出していく。去年より、雄大の走る速度は上がっている。あたしが全力を出しても、最近は追いつくことが難しかった。
 小さな背中に続き自室に戻ろうとすると、僅かに唸るような声が聞こえた。炬燵で眠っていたママが、奥歯が見えるほどの大きな欠伸をしていた。
「頭、痛っ……」
 ママは眉根を寄せながら、気怠そうに上半身を起こした。昨夜はお風呂に入っていないことを証明するかのように、脂ぎった小鼻にはファンデーションが粉を吹いて溜まっている。昨日の出勤前と同じ毛玉だらけのセーターを着て、リング状のピアスは両耳にぶら下がったままだ。
「凜子……コーヒー淹れてくれない?」
「嫌。自分でやって」
「お願い……凄く気分が悪いの。今立ったら、吐いちゃうかも」
 あたしは大袈裟に舌打ちをしてから、荒れた居間を眺めた。窓辺にはハンガーで吊るされた洗濯物がだらし無く垂れ下がり、その真下ではコンビニのビニール袋や丸まったティッシュが転がっていた。床に散乱する様々な物に埋もれるように、雄大が遊んだ玩具のレールが伸びている。その行方を目で追うと、壁際で途切れていた。行き止まった新幹線を見つめる。車内にはあたしたち三人だけが、取り残されているような気がした。
「お酒の缶は、ママが自分で片付けて」
「……コーヒー飲んだら、綺麗にするから」
 ママがとめどなくお酒を吞むようになると、家の中は荒れていく。散らかった部屋は、不安定な心を反映しているみたいだ。あたしが幾ら掃除をしたって、二、三日でまた酷い有様になっていた。
「……ブラックでお願い」
 返事はせず、再びシンクに向かった。鍋に水を張って、ガスコンロに火を灯す。この行動は親切でも、心配でも、愛でもない。酒臭いゲロで、床を汚したくないだけだ。
 ママの主治医からは吐いたものを代わりに掃除したり、欠勤の電話を代わりにしたり、酔っ払って床に寝ていても代わりに布団を敷いたりしないようにアドバイスされていた。家族が肩代わりや尻拭いをせず、お酒の問題をその都度本人に返すことが、アルコール依存症からの回復には重要らしい。その道のプロが言うのだから、正しいんだろう。ネットで調べた時も、同じようなことが書いてあった。
 でも、ママのゲロをそのままにしていたら、雄大が滑って頭を打つかもしれない。ちゃんと欠勤の電話を入れないと、仕事をクビになって家賃を滞納する羽目になるかもしれない。こんな寒い季節に廊下で寝ていたら、朝には凍死してしまうかもしれない。清潔な診察室で聞いた正しさと、荒れた家の中のリアルは違っていた。
 出来上がったブラックコーヒーを差し出すと、ママは礼も言わずに口を付けた。湯気の向こうの唇は、生気がなく青白い。昨夜のように『死にたい』と声に出すだけで、生きる上で必要な何かが少しずつ消えていくのだろうか。そんな子どもじみた空想を抱きながら、立ち去ろうとした。
「昨夜は、ごめんね……本当に辛かったの」
 今まで何度も聞いた言葉が、耳の中を冷たくさせた。どうせ明日も、同じような謝罪が繰り返される。怒りというよりも、諦めに似た虚しさが微かな溜息に変わった。
 無視して歩き出すと、途中で何かを踏んだ。足元には、多くの診察券が散乱している。思わず、その枚数を無言で数えた。一枚、二枚、三枚……合計七枚。近所にあるメンタルクリニックから、遠方の精神科病院まで種類は様々だ。多くの診察券は、処方薬を貰うためのチケットと変わらない。あたしはその中の一枚を拾い上げると、背を向けたまま奥歯を嚙み締めた。
「今通ってる病院以外の診察券は、全部捨てたって言ってたよね?」
「掃除してたら、昔のが出てきたから……眺めてただけよ」
「はっ? 掃除? どこが?」
 思わず振り返った。視界には、ママの噓を証明する光景が広がっている。
「本当に、新しく薬は貰ってきてないの?」
「もちろん……昨夜は、お酒吞んじゃったし」
「仕事帰りなら、受診できるじゃん?」
「何度も言わせないでよ……行ってないって」
 ママの生え際は白髪交じりで、艶のない枝毛が目立っている。あたしが小さかった頃はお洒落が好きで、二ヶ月に一回は美容室に通っていたのに。今は色が落ちてパサついた茶髪が、寝癖で乱れている。あたしは青白い顔を睨みながら、話題を変えた。
「ママさ、今日の予定って覚えてる?」
「……剛が、午前中に顔出すって言ってたけど」
 半分正解で、半分は不正解。確かに叔父さんが来るとは聞いていたけど、求めていた答えではない。今日はユニクロで、新しいダウンジャケットを買う約束をしていた。二日早いけど、あたしの誕生日プレゼントとして。ママが休みの日に、一緒に選ぼうと約束していたのに。あたしは表情を変えず、楽しみにしていた予定を忘れている女に向けて言い放った。
「叔父さんが来るまで、少しは掃除しといてよ」
「……わかってる」
「あとさ、歯を磨いて。息が凄くお酒臭いから」
 吐き捨てるように告げ、廊下に踏み出した。ママは、かなり頭がぼんやりしてそうだった。お酒がまだ残っているんだろう。それに、寝起きだし。本音ではママの体調よりも、約束を忘れられていたことに対する怒りばかりが胸を満たした。
「ねぇちゃん。ちょっときてー」
 声がした部屋に向かい、八つ当たりのように勢い良く襖を開ける。弟はまだパンツすら穿かずに、乗り物図鑑のページを捲っていた。

 タイヤが雪を踏み締める音が聞こえたのは、自室で弟とアニメ番組を見終わったタイミングだった。雄大がすぐに、窓を開けて顔を出す。
「あっ、おじちゃんきたー」
 弾んだ足取りで、部屋から飛び出す弟を追った。玄関の磨りガラスの向こうには、見慣れたシルエットが写っている。アブラゼミが鳴くような玄関ブザーが響くと、あたしより先に小さな手が鍵を開けた。冬なのによく日に焼けた叔父さんが、表情を崩して立っている。
「二人とも、元気してっか?」
 あたしが曖昧に頷くと、早速雄大が叔父さんの太い両脚にまとわり付いた。
「おじちゃん、ドクターイエローは?」
「特別、買ってきたど」
「やったー!」
「あんな真っ黄色な新幹線もいんだな。初めて見たっけ」
 叔父さんは、片手に膨らんだビニール袋を二つ握っていた。どちらも表面には、大型スーパーのロゴが印刷されている。浅黒い手がその中を漁ると、新幹線の玩具が入っている箱が弟の前に差し出された。
「おじちゃん、ありがとう!」
「電池も入ってっから、すぐ走るんでねぇか」
 雄大は「ママー、ドクターイエローもらったー」と叫びながら、居間に消えて行った。室内を駆ける弾んだ足音に、ビニール袋が揺れる音が重なる。
「凜子。これっ、差し入れ。生ものも入ってっから、すぐ冷蔵庫に入れてや」
 あたしは頭を下げて二つのビニール袋を受け取り、中を覗き込んだ。ソーセージやハム等の加工食品の他にも、簡単に食卓に出せる冷凍食品が詰まっている。
「叔父さん、いつもごめんね」
「栄養が偏んねぇように、野菜と果物もあっから」
「マジで、助かる」
「気にすんな。今の姉貴は、料理すらできねぇべ」
 叔父さんの口調は、新幹線を取り出した時とは違って尖っている。あたしは苦笑いを浮かべてから、ビニール袋の中で鮮やかな赤を宿しているイチゴに目を落とした。
「姉貴、また吞み始めてるんだべ?」
「うん……先週ぐらいから」
「半年も断酒してたのに、勿体無ぇ。俺が探した『AA』も、サボってるみてぇだしな」
『AA』はアルコホーリクス・アノニマスの略語で、飲酒問題を抱える人たちが集まる場だ。そこで共有する体験談や悩みは、アルコール依存症からの回復に役立つらしい。
「『AA』には先週ぐらいから、行ってないと思う……」
「んだべな。姉貴は酒吞むと、全部が億劫になっから」
「……まだ、なんとか仕事は休んでないけどね」
「時間の問題や。このままじゃ、そのうちクビになっと」
 叔父さんは舌打ちをしてから、眉間にシワを寄せた。あたしは誤魔化すには手遅れと思いながらも、再びビニール袋を覗き込んで無理やり笑みを作った。
「叔父さんが選んだイチゴ、凄く美味しそう」
「あぁ、それな。ウチで採れたヤツ。今は二番果の収穫がピークだからや」
「先月貰ったリンゴも、美味しかったな。蜜が沢山入ってて」
「寒みぃと、実が詰まっから。そんで糖度も上がんのよ」
 果樹農園を営んでいる叔父さんは、定期的に甘くて新鮮な果物をくれる。その反面、ママに対しては厳しい言葉を投げ掛けることが多かった。叔父さんが声を荒らげる度に、胸が騒めく。怖かったパパの面影が重なるからだろうか。
 自動車整備工場に勤めていたパパは、いつも帰ってくるのが遅かった。偶に早く帰ってきても口数は少なく、パチンコ雑誌を不機嫌そうに眺めていた。あたしが幼い時に『どうしてパパは、あんまり喋らないの?』と、ママに訊いたことがある。まだアルコールに依存していなかった頃のママからは『家の中が、静かでいいじゃない』と、答えになっていない返事をされたのを今でも憶えている。
 パパに初めて髪の毛を摑まれたのは、小五の夏だった。お風呂が沸いているのにテレビに夢中になっていたあたしを、大きな手が突然風呂場まで引き摺った。その頃のパパは工場を辞めて、仕事を転々としていた。エアコンの取り付け業者、牡蠣の養殖場、深夜の警備員。出社初日で俺には合わないと、仕事を辞めてしまったこともある。
 髪の毛を摑まれて以来、パパが無口なのは変わらなかったけど、言葉より先に手が出ることが多くなっていった。多分ママに対しては、無理やり身体を重ねるという暴力も加わっていた。歳が離れた弟が生まれた原点に、愛が存在していたのかは怪しい。雄大のことは大好きだけど、当時のママのことを想うと、今でも微かに苦い味が口の中に広がる。
 ママが離婚を決めたのは、お腹を蹴られるあたしの姿を見た瞬間だったらしい。確かにその時は「女の子の腹を蹴るなんて! ケダモノ!」と金切り声を上げて、パパに立ち向かって行った姿が目に残っている。当時は助かったけど、思い返すと胸に冷たい風が通り抜ける。あたしが離婚の切っ掛けを作ったみたいで、なんだか嫌だ。それにパパがいたら、ママがアルコールにハマる時間もなかったかもしれない。あたしと雄大を守ることに必死で、酔っ払っている暇なんてなかっただろう。四人であのまま暮らしていたら、誰かが殴り殺されていたかもしれないけど。
 パパのせいで、未だに中年男性は苦手だ。暴力の記憶は、自然と身体を強張らせてしまう。
「姉貴は、出迎えにも来ねぇのな」
 叔父さんは嫌味を一つ口にすると、雪が表面に張り付く長靴を脱ぎ始めた。つま先から落ちた白はすぐに溶けて、三和土のコンクリートを微かに濡らした。
 居間では、炬燵に入ったママが背中を丸めてテレビを観ていた。青白い顔色は朝と同じだけど、テーブルの上から空き缶は消え去っている。それに窓辺で吊るされていた衣類は畳まれ、床に伸びていたレールも片付けられていた。なんとか最低限の約束だけは、守ってくれたみたいだ。
「相変わらず、部屋ん中がごたごたしてんな」
 あたしとは違う感想を漏らしながら、叔父さんは炬燵の近くで胡座を搔いた。ママはリモコンでテレビを消すと、ようやく力なく口を開いた。
「……雄大の玩具、ありがとう」
「食品も買ってきたから。凜子に渡してる」
「……いつも、ごめん」
「謝るぐらいなら、二人のためにもちゃんとし。朝っぱらから、そんなシケた面してねぇでや」
 叔父さんがいるだけで、室温が少し上昇するような気がした。あたしは貰った食品を冷蔵庫に詰め込みながら、二人のやり取りに耳を澄ました。
「仕事は行ってんだべ?」
「今週は一度早退してるけど……なんとか」
「さっき凜子から聞いたけどや、昨夜も吞んでたみてぇだな?」
 イチゴを入れようとした手が止まった。告げ口のようになった後悔が、野菜室から漂う冷気と混じる。
「……もう吞まないから」
「噓つけ。これで何度目や。また救急車を呼ぶようなことがあったら、次は親戚中にバレっからな」
 いつかのサイレンの音が鼓膜の奥で蘇った。ママは以前、様々な病院やクリニックから手に入れた薬を大量に飲んで、病院に搬送されている。過量服薬をする前のママは本当に具合が悪そうで、普段のように『死にたい』と口にすることすらなかった。大量の薬の空袋と発泡酒の空き缶に囲まれ倒れているママを発見したのは、あたしだ。白目を剝いて口からヨダレを垂らす姿は、死人みたいだった。未だにあの衝撃的な光景が、脳裏に焼き付いている。その一件以来、ママがお酒を吞んで不安定になると、早めに処方薬や刃物のような危険物を隠す癖が付いていた。
「私は……別に、知られたって良いし」
「姉貴はそう思っても、二人が可哀想だべ。こんな酒浸りな母親を持って」
 叔父さんの視線を感じて、今度は絶対に手を止めないように意識した。プリン、チルドのハンバーグ、しらすの釜揚げパック、海苔の佃煮。頭の中を空っぽにしながら、食品を冷蔵庫に入れ続ける。
「気仙沼のおばちゃんたちも、最近姉貴が顔出さないって勘繰ってたしや」
「勘繰ってたっていうか……心配してくれてるだけでしょ」
「随分と、能天気やな。姉貴が離婚した時も、アイツらに陰で散々言われたべ。あのババアたちは、噂話が生き甲斐だからや」
 ママの肩を持つ訳ではないけど、誰が何を言おうと離婚の判断は間違っていない。パパの暴力から逃れるために、裸足で走った道路の冷たさを思い出す。目の上に青痣を作った当時のママが、脳裏を過った。
「俺が教えた『AA』も、行ってないんだべ?」
「通ってたけど……仙台は遠いから」
「偉そうに。近所の目があっから、わざわざ仙台にしたのにや」
 叔父さん曰く、アルコール依存症を患うことは、意志が弱くてみっともないことらしい。だから常日頃から、ママの病気のことは秘密にしろと言われていた。そんな母親がいたら学校でもいじめられると、根拠もなく念を押されている。ビニール袋からバナナを取り出した手に、思わず力が入る。黄色い皮には、あたしの指先の跡が刻まれていた。
「……『AA』は匿名での参加なんだし、別にどこだって良いじゃない」
「アホンダラ。会場に知った顔がいっかもしんねぇべ」
 雄大が居間の隅で、カチャカチャと玩具の新幹線を繫げている。その音だけが、しばらく耳の中で響いた。
「もう、知らん。そんな酒が好きなら、風呂にでも入れてずっと浸かってろ」
「私は別に……お酒が好きな訳じゃないし」
「また、トンチンカンなこと言って。朝から、酔っ払ってんのか?」
 視界の端で、ママが俯く横顔が映る。血色の悪い手は、キツく炬燵の掛け布団を握っていた。
「……素面でやり過ごせないことが、多過ぎるのよ」
「なんやそれ。姉貴は、社会を舐め過ぎだって」
 叔父さんの苛ついた声を搔き消そうと、勢い良く冷蔵庫の扉を閉めた。あたしは二人の側に寄ると、精一杯明るい声を出した。
「『AA』のことは、あたしからも言っとくね」
 間に入っても、叔父さんは鋭い眼差しでママを睨んでいる。
「ママも、ありがとうぐらい言ってよ。色々差し入れを持ってきてくれたんだから」
 新幹線の玩具に関しては、素直に礼を言っていたのに。居間に漂う重い沈黙を終わらせるように、軽い足音が響いた。
「おじちゃん、みてみて。ドクターイエローに『やまびこ』と『はやて』をがったいさせた!」
 張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。叔父さんはママから目を逸らすと、連なる車両に向けて何度か頷いた。
「おじちゃんも、せんろつくるのてつだってよ」
「よっしゃ、いいぞ。俺は誰かさんと違って、手先が震えてねぇから。こういう作業は得意なんや」
 玩具の線路に手を伸ばす大小の背中を眺めてから、ママの方に顔を向けた。落ち窪んだ目元には、濃い隈ができている。まだお酒臭い息が、ゆらりと鼻先に触れた。
 しばらくすると、叔父さんはおもむろに腰を上げた。ママは密やかな反抗のようにテレビを観続け、雄大はまだ黄色い新幹線に夢中になっている。見送りに立ったのは、あたしだけだった。
「んでな。まだ寒みぃから、風邪に気を付けろよ」
「叔父さんもね。今日は、ありがとう」
 あたしは玄関先で身体を抱きしめるように腕を組み、長靴が刻む足跡に目を落とした。降り続く雪が、この瞬間も庭先を白く染めている。頭の中にも、雪が積もれば良いのに。そうすれば、嫌な記憶だって真っ白に塗り潰してくれる。
「そうや。忘れるとこやった」
 顔を上げると、振り返った叔父さんが手招いていた。白い庭先に踏み出すのは億劫だったけど、色々と援助してもらったし拒否はできない。無理やり笑みを浮かべながら、足を進めた。
「凜子、明後日は誕生日だべ」
 浅黒い手が、ダウンジャケットの内ポケットを探っている。取り出されたのは、茶色の封筒だった。
「俺は、若い子の趣味は知らんから。自分で好きなの買えや」
 受け取ってから封筒に目を凝らすと、福沢諭吉がうっすら透けていた。
「三万、入ってっから」
「そんなに、貰えないよ。食品も沢山持ってきてくれたし」
「子どもが遠慮すんな。あんな母親だと、色々と手が掛かるべ」
「でも……」
「日頃から、家事や雄大の世話を頑張ってる訳だし。せめてもの駄賃や」
 封筒の上に雪が落ちて、すぐに溶けた。思わず、お札に染みないようにポケットに仕舞ってしまった。
「何に使っても、良いからや」
「……ありがとう」
「とにかく、これからも頼むぞ。凜子がいねかったら、この家は破綻すっからな」
 叔父さんは軽く手を挙げ、乗ってきた軽トラックに乗り込んだ。短いクラクションが響いた後、タイヤが雪を踏み締める音が不快に届く。徐々に小さくなるテールランプを見送っている最中、軽いはずの封筒が重さを増した。背後を振り向くと、あたしがいなくなったら破綻するらしい家が佇んでいる。
「雪、凄っ」
 あたしがどうこうの以前に、ボロい平屋は屋根に積もった雪で潰れそうだった。
 自室に戻ると、本棚の前に立った。隠している処方薬は無視して、違う段に並ぶ背表紙を指でなぞる。目当てのものは、一番端に仕舞っていた。慣れた手つきで取り出し、美術部の誰かが描いた表紙のイラストを眺めた。制服を着た男女が、東京タワーや浅草の雷門を指差している。空中を駆ける新幹線の車両には『二〇一〇年度・修学旅行のしおり』と、角張ったフォントで記載されていた。あたしが通っている学校では、高二の秋に修学旅行が企画されていた。参加はできなかったけど、しおりだけは貰っていた。表紙を捲り、二泊三日の日程表のページで手を止める。初日は仙台駅から新幹線に乗って、東京を目指す予定だった。その後は都内の観光スポットを見学して、班に分かれての自主研修も企画されていた。
 高二の修学旅行費として積み立てていたお金は、高一の終わりに返金してもらった。当時のママは精神科病院へ何度目かの入院が決まって、色々とお金が必要だった。今思えば、最初から修学旅行に行くことなんて無理だったと思う。あたしが二泊三日も家を空けたらと想像するだけで、冷たい汗が脇の下に滲む。叔父さんは気まぐれに差し入れを持ってきてくれるけど、保育園の送り迎えはしてくれない。それにママがまた過量服薬をしたら、幼い弟では救急車を呼ぶことすらできないだろう。
 不参加が決まってから、日に日に東京への憧れは強くなった。今の時代ネットで検索すれば東京の情報なんてすぐに出てくるし、お金さえあればお洒落な服だって簡単に通販で買える。わざわざ時間を掛けて足を運ばなくても、都会の欠片なんて手に入れることができる筈なのに。
『持ち帰るのは、最高の思い出』
 しおりの十二ページ目には、大きな文字で修学旅行のスローガンが描かれている。聞こえの良い言葉に、不参加が決まってから何度も胸を抉られた。ネットの情報だけじゃ、都会に吹くビル風や人混みの喧騒は感じられない。画面の中から服を選ぶのは便利だけど、生地の手触りはわからないし、原宿やスクランブル交差点を行き交う人波に交じることはできない。
 しおりを読み返す度に、修学旅行の行き先は憧れの地へと変わっていく。輝く街で煌めく人々と同じ空気を吸えば、新しいあたしに変身できそうな予感を漠然と覚えていた。
 深い溜息を吐いて、しおりを本棚に戻すと左耳に触れた。一個百円の樹脂製ピアスは、見るからに安っぽい。頻繁に触ってしまうせいか、偶に耳たぶが熱を帯びて腫れることがあった。数ヶ月前、刃物と一緒に安全ピンなんて回収しなければ良かった。そうすれば気まぐれに、ピアスの穴なんて開けることはなかったのに。
『これからも頼むぞ』
 さっき叔父さんが何気なく口にした言葉が、冷たい鎖のように身体を締め上げていく。あたし一人だけだったら、修学旅行だって行けたかもしれない。様々なタラレバを考えたとしても、現実での答えは決まっていた。今のママの元に、雄大を置いては行けない。
「こうなったら、来世に期待するか」
 冗談のつもりだったのに、呟いた声には切実な響きが込められていた。しおりの中に茶封筒を挟み、本棚に戻す。暗くなりそうな気持ちを忘れようと、小羽の姿を頭の中に思い浮かべた。彼女の高い鼻は見惚れてしまうほど綺麗で、アーモンド形の瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいる。本当なら今すぐにでも、小羽の側に飛んで行きたい。話を聞いてほしい、一緒にいたいという願いの他にも、湿った感情が渦巻く。制服の下にある二つの膨らみにも触れてみたいし、薄い唇にキスもしてみたい。誰にも相談できない秘密の感情は、下腹辺りを気怠く痺れさせた。
 小羽に友達以上の気持ちを抱くようになったのは、いつ頃からだろう。中学生の時に一緒の委員会になった時かもしれないし、初めてママの病気を打ち明けた時かもしれない。明確な日にちなんて忘れてしまったけど、小羽に対する愛情が冷めることはない。寧ろ、日に日に燃え上がっていく。いつか、本気で告白してしまいそうで怖かった。
 痺れた頭を冷まそうと、窓辺に向かった。窓を開ける前に結露したガラスに、ハートの形を指先で描く。それはすぐに滲んで、歪な形に変わった。
「ねぇちゃん、そといこう」
 背後で襖が開く音が聞こえ、窓ガラスに滲むハートを急いで消した。その先から、白く染まった庭先が透ける。
「外で遊ぶのは、午後になってからにして」
 振り返ると、黄色の新幹線を持った雄大が鼻息を荒くして立っていた。遊び盛りの五歳の子どもが、一日中狭い家で過ごすのは無理だ。まだ外では雪がチラついていたけど、午後には止むと予報で知っていた。
「そうじゃなくて、きょうはおべんきょうでしょ?」
「お勉強?」
「このまえ、ねえちゃんがでんわしてくれたじゃん」
 首を捻りながら、記憶を探る。先週、幼児教室の無料体験学習の予約を取っていたことを思い出す。その幼児教室には、雄大の保育園の友人たちが通っているらしく、「ぼくもいってみたい」としつこくねだられていた。根負けして塾に電話をしてみると、まずは十五分程度の無料体験学習を提案されていた。
「ヤバっ、そういえば今日じゃん」
 塾から告げられていた時間は、十一時四十五分だった。時刻を確認すると、ギリギリなんとか間に合いそうだ。
「急いでジャンパー羽織って、靴下も履いて」
「わかった!」
「あと、おしっこもしてきてよ」
 言い終わる前に、雄大は廊下に飛び出していった。あたしも、手早く外に出る準備を始める。ニット帽を被り厚い靴下を履いてから、着古したダウンジャケットに手を伸ばす。結局、あたしもママと同じだ。家族との大切な約束を忘れている。

 雪に延びるタイヤの跡や誰かの足跡を辿って、幼児教室を目指して歩き続ける。最初はビニール傘の下で幼い手を握っていたけど、進むにつれて雄大はあちこちと動き回った。
「フラフラしないで! 危ないでしょ!」
 雄大は黄色い新幹線を片手に摑んだまま、車道を横切ろうとした。あたしの叫び声は周囲に積もる雪に吸収され、家の中よりも響かない。
「ねぇちゃん、どうぶつのあしあとがあっと」
「そんなことより、歩道からはみ出さないでよ! 塾にも遅れちゃうって」
「あっ、ぐんてもおちてる」
 蛇行する小さな足跡を踏みながら、着膨れした背中を追った。最近、家族三人で外出したことはあっただろうか。当たり前のように、息子の習い事にすら付き添えないママを想う。ママは再びお酒を吞み始める前から、休日も怠そうにしていることが多かった。仙台の『AA』と職場を行き来する日々は、想像する以上に大変だったんだろう。だからといって、同情はできない。そのツケは、全てあたしが背負ってるんだから。
「ねぇちゃん、ほいくえんにだれもいねーぞ」
 目的の幼児教室と雄大が通う保育園は、網磯漁港に続く道路沿いにあった。保育園の正門前で背伸びをする後ろ姿に追い着くと、無人の園庭を眺めながら息を整えた。
「今日は、先生もお休みだからね」
「そっかー。ユリせんせいと、シンちゃんにあいたいなー」
「明後日になったらね。それに塾には、お友達がいるかもよ」
 園庭の滑り台や鉄棒が、雪で白く染まっていた。一日の多くを雄大と一緒にいるせいか、あたしの日常は幼い品々に囲まれている。居間で干された百十センチサイズの衣類、床に伸びる玩具のレール、テレビ画面から流れる子ども向け番組、保育園の保育士に渡す連絡帳、ママチャリ後部の小さな座席。癖のように左耳に触れると、ピアスの硬い感触が手袋越しに伝わる。あたしが、あたしだけのために選んだ安っぽいお洒落。こんな生活だからこそ、偶に本物の宝石のように輝いて見えるのかもしれない。
「あー、しんかんせんがおちた」
 雄大が指差す方を眺めると、正門の向こう側で黄色い車体が雪に沈んでいた。
「もうっ、急いでるのに何やってんのよ」
 慌てて、正門の柵の間から手を伸ばす。何度か繰り返しても、指先は空を切った。
「ちょっと、届かないんだけど」
「ねぇちゃん、がんばれ」
「塾の時間に遅れたって、知らないからね!」
 一度手を引っ込め、仕方なく柵を乗り越えた。あたしが不法に侵入した跡が、着地した雪の上にはっきりと残る。
「最悪……靴の中に、雪が入ったんだけど」
 ぶつぶつと文句を口にしながら、白に埋もれた黄色い新幹線を取り出した。軽く表面に付いた雪を手で払っていると、さっきのしおりが脳裏を過った。
「この新幹線ってさ、東京にも向かうの?」
 質問しながら、柵の間から湿った新幹線を差し出した。幼い手は、憧れの街に停まるかもしれない車両をすぐに受け取る。
「ドクターイエローは、おきゃくさんをのせないよ。せんろのけんさとかをするから」
「そうなんだ。因みに、東京に向かう新幹線って知ってる?」
「うん。かっこいいのは『はやて』かな。こんどから『はやぶさ』っていう、あたらしいしんかんせんがはしるんだよ」
 そういえば去年の年末頃に、東北新幹線が全線開通するというニュースが流れていた。その時に、今年から新しく運行するエメラルドグリーンの新幹線が紹介されていた。
「流石、毎日乗り物図鑑を眺めてるだけあるじゃん」
 もう一度両脚に力を入れて、柵をよじ登る。新幹線に乗って東京に向かう光景を思い描くと、雪で湿った靴下がすぐに乾いていくような熱を感じた。
「ねぇちゃんは、とうきょうにいきたいの?」
「フラフラ歩く人には、教えない」
 今日貰った三万円で新幹線の乗車券を買ったら、多くは残らないかもしれない。それでもただ東京の空気を思いっ切り吸い込んで、都会の煌めく人々が行き交う光景を眺めてみたかった。
「あっ、ねぇちゃんのふくから、またはねがでてっと」
 雄大の手が、あたしのダウンジャケットに伸びた。幼い指先は、縫い目からハミ出した羽毛を摘んでいる。
「これって、なんのはね?」
「さぁ、知らない。何だろうね」
 くすんだ羽毛を見ていると、さっきまでの空想が急速にしぼんでいく。三万円もあればお洒落なダウンジャケットが買えるし、もっと質が良いピアスだって手に入れることができる。今後の生活を想うと、目的なく東京に行くより物に使った方が良い。
「ねぇ、あたしって何色が似合うと思う?」
「あお! でも、なんで?」
「新しい服を買うか、迷ってるの」
「えー、いいな。ぼくはピンクのふくがほしい」
「雄大は、新幹線の玩具を貰ったでしょ」
 再び、雪道を歩き始める。網磯漁港の方に近づくと、潮風は冷たさを増した。
 ようやく到着した幼児教室は、平屋の貸家のような外観をしていた。玄関の引き戸を開けると、すぐ目の前に教室が広がっている。長机が並び、鉛筆を握る子どもたちが背を向けていた。
「こんにちは。本日、無料体験学習の予約をしていた住田です」
 一応、確認の意味も込めて『無料』という部分を強調した。教室では四人の中年女性が、それぞれ別の子どもたちに付き添っていた。みなエプロンを身に纏い、講師というよりは普通の主婦のようだ。あたしの挨拶を聞いて、近くにいた女性が顔を上げた。
「どうぞ、上がって。体験学習はそこの机でやりますので。座ってて下さい」
 講師が指差した先には、一組の椅子と机があった。雄大を促し、下駄箱に二つの靴を揃えて並べる。教室の隅で熱を放つ石油ストーブの臭いを嗅ぎながら、弟を指定された席に座らせた。すぐに、さっきの女性が近寄って来る。
「お待たせしました。本日雄大くんを担当させて頂く、高橋です」
 高橋さんは軽く挨拶をすませ、雄大と対面する位置に腰を下ろした。
「体験学習は短い時間ですので、早速始めましょうか。今日は読み書きの練習をしようかな。真っ直ぐ線を描いて、他にもひらがなを読んでみようね」
 机の上に、二枚のプリントと鉛筆が差し出された。ここに来る時とは違って、雄大の横顔には緊張の色が滲んでいる。
「まずはこの二つの絵を、線で結んでみてね」
 雄大は無言で頷くと、鉛筆で線を引き始めた。あたしも近くの椅子に腰掛けながら、幼い手元を見守った。
「おっ、雄大くんは線を引くのが上手いね。次もできるかな」
 雄大が引いた線に、素早く花マルが描かれる。それから次々と、机の上にプリントが現れた。
「次は、この絵の横に書いてある文字を読んでみようか。まずは『あ』からね」
「あ、い、す」
「正解。それじゃ今度は、区切らないで読める?」
「……あ、いす」
 プリントを見つめる横顔は、真剣な眼差しを浮かべている。石油の臭いが滲む温かな空気を纏いながら、教室の片隅で弟の成長を実感した。同時に、こんな瞬間に立ち会えないママが可哀想でもあり、虚しくもあった。アルコールはママの健康だけではなく、家族の時間も確実にすり減らしている。
 十五分はあっという間に過ぎた。高橋さんに頭を下げて再び外に出ると、雪の降る勢いは弱まっていた。天気予報は、ちゃんと当たりそうだ。
「たのしかった!」
 行きと違って、雄大の手には宿題のプリントが入った手提げがぶら下がっている。
「また、いく!」
「来週、もう一回だけ無料体験学習ができるよ。ってかさ、本当に通えんの?」
「うん! おべんきょうしたい!」
「途中で、やっぱ辞めたはナシだからね。本格的に通うと、月に五千円も掛かるんだから」
 宿題の見守りという新たなやるべきことができたけど、あの真剣な眼差しを思い出すと文句は言えない。小さな手を握りながら、何気なく空を見上げた。ビニール傘越しに、雪がチラつく寒空が広がっている。見慣れた灰色を眺めながら、見知らぬ都会の空を想い描く。
「ねぇ、雄大」
「なに?」
「東京に行くか、新しい服を買うか。雄大なら、どっちを選ぶ?」
「とうきょう!」
「答えんの、はやっ」
 迷いのない返答を聞いて、燻っていた気持ちが再び燃え上がっていく。事前に土曜保育を申請すれば、学校が休みの週末に弟を預けてから東京に向かうことができる。多分、お迎え時間の十八時までには、戻ってくることができる筈だ。東京タワーのような高いところは苦手だから、浅草の雷門だけ記念に観光して帰ってこようか。弟のお土産は雷おこしと、適当に新幹線グッズを買えば良い。
 具体的な想像を膨らませていると、自然と頰が緩んだ。上京することばかりを考えていたせいか、凍結した道路に足を取られそうになった。

 週明けの登校日、雪は降っていなかった。普段通り雄大を起こして、朝の支度を急かす。今日もママは、炬燵で眠っている。テーブルの上にはテレビのリモコンやマグカップが置かれていたけど、お酒の空き缶は散乱してはいなかった。
 家を出る時間を気にしながら、雄大の朝食を用意し始める。食パンにブルーベリージャムを塗って、コップに牛乳を注ぐ。手早く目玉焼きを作り、できた料理を炬燵の上に並べた。最後まで迷ったけど、湯気の上がったブラックコーヒーもマグカップに注いだ。
「雄大、早くご飯食べて」
 あたしの呼ぶ声を聞いて、廊下を駆ける足音が聞こえた。雄大が居間に来ると、ママが目を擦りながら上半身を起こした。今日も頭痛が酷そうだけど『大丈夫?』の言葉が喉元で引っ掛かる。今は人の心配より、あたしも制服に着替えないと。小羽と航平との待ち合わせに、遅れてしまう。
 全ての支度を終え、いつものように慌ただしく家を出た。小さな身体をママチャリの後部座席に座らせ、慎重にペダルを漕ぎ出す。背後から聞こえる遊び歌に、道路に撒かれた凍結防止剤を車輪が踏み締める音が重なった。
「ねぇちゃん。かえったら、しゅくだいしような」
「うん。良いよ」
 周囲に積もった雪が、目を刺すように朝の光を反射している。白んだ視界の中で、今日が誕生日ということを思い出した。
 開園時間ちょうどに雄大を保育園に預け、再び正門横に停めていたママチャリに跨った。走り出そうとした時、ダウンジャケットのポケットが震えた。携帯電話を取り出し画面に目を落とすと、ママからメールが届いていた。
『包丁って、どこにあるの?』
 さっきまで眩しかった光が、急速に翳っていく。メール画面を閉じたくても、内容が内容だけに無視できない。
『なんで?』
『料理するから』
 必要最低限の言葉が、画面を行き来する。包丁を使う目的に、料理以外が浮かぶのが虚しかった。とりあえず返信はせず、携帯電話をポケットに仕舞って、代わりにハンドルを握る。走り出すと、また凍結防止剤がプチプチと鳴った。背後から陽気な遊び歌が聞こえないせいか、その響きは耳障りだ。
 顔面に触れる冷たい空気が、嫌な想像を膨らませていく。背後でサイレンが鳴ったような気がして、恐る恐る後ろを振り返った。気のせいだったのか、赤色灯の光は見当たらない。ママチャリが残したタイヤ跡が、延びているだけだ。
 こんな気持ちになるぐらいだったら、ママの分も朝食を作れば良かった。
 気付くと待ち合わせ場所ではなく、自宅に続く道を進んでいた。
 ママチャリを乱暴に停め、玄関の引き戸を開けた。必要以上に足音を鳴らしながら、居間に踏み入れる。目の前の炬燵布団には、ママが抜け出した形がくっきりと残っていた。
「学校はどうしたのよ?」
 声がした方に顔を向ける。ママは冷蔵庫を開けて、中を漁っていた。
「そっちこそ、仕事は?」
「今日は休んだの……体調が悪くて」
 淀んだ両目が、泳いでいる。無言で観察していると、ママが左手を不自然に背後に回していることに気付いた。唐突に、あの忌まわしい臭いが鼻先に漂う。
「朝から、お酒吞んでるの?」
 短い沈黙が漂った後、冷蔵庫の扉が閉まる音が響いた。ママの左手には、予想通りビールの缶が握られている。
「……凜子には、関係ないでしょ」
 捨て台詞にしては、力のない声だった。ママは背を向けると、シンクの前でビールを口に運び始めた。一気に吞み干すように、喉を鳴らしながら缶を呷っている。
「あぁ、不味い」
 ゲップ交じりの声は、異常に明るい。ママはそれから何度も「不味い、不味い」と、同じ言葉を連呼した。
「なんで、こんなモノを吞まなきゃいけないのかしら」
 吞み干した缶を握り潰す不快な響きが、寒々しい空間に漂う。
「なんで、こんなモノに頼らなきゃいけないのよ……」
 不意に、潰れた空き缶が床に落下した。シンクの前で崩れ落ちる後ろ姿を見つめながら、だったら吞まなきゃ良いじゃんという返事が喉元で引っ掛かった。それが簡単に伝わったら、どんなに楽だろう。あたしが幾ら声を荒らげて叫んだって、ママには届かない。
 だから、アルコール依存症は病気なのだ。
 叔父さんの考えは間違っている。この病気は、意志の強さだけではどうにもならない。回復するためには、適切な医療を受けて、その後も同じ問題に苦しむ人々と悩みや苦しさを共有する。ママだって、それは理解しているはずだ。深い穴に落下していくような心地を覚えながら、一度唾を飲み込んだ。
「とりあえず、布団で横になったら? 最近はずっと、炬燵で寝てるし」
 こんな冷たい床の上で泣いていたら、余計気分は滅入ってしまうのに。震える背中に近づいても、ただ側で立ち尽くすことしかできない。
 ママは両目を潤ませながら、下唇を強く嚙んでいた。細い足が立ち上がるのを待ちながら、床に転がる潰れた空き缶に目を向ける。表面には、星のイラストがデカデカと描かれていた。みるみるうちに、視界は霞んでいく。
 まだ雄大が生まれる前、あたしが小さい頃の誕生日会は賑やかだった。窓辺には紙の輪っかが飾られ、周囲の壁には折り紙で作ったチューリップやバラの花が咲いていた。テーブルにはロウソクが立つホールケーキや、フライドチキンとポテトが並び、色とりどりのゼリーと新鮮な果物が入ったフルーツポンチがハート形の器に入っていたのを憶えている。まだ暴力を振るう前のパパは、小さな声でハッピーバースデーの歌で祝ってくれた。あたしはピザやお寿司より、ママが作るカレーを毎年リクエストしていた。ママは固形のルーは使わず、小麦粉と見たこともないスパイスでカレーを作っていた。具材は旬の野菜と角切りの豚肉で、前日から煮込まれたルーを纏う里芋や南瓜は口に入れただけで蕩けた。野菜の旨味とふんだんなバターが溶けていたせいか、子どもでも食べられる甘口に仕上がっていた。本当にママが作るカレーは美味しくて、必ずお代わりをしていた記憶がある。あの頃のあたしの誕生日は、お酒の臭いではなく、大好物のカレーの香りや、パパの歌声や、カメラのシャッター音が室内を満たしていた。
「今日が、何の日か覚えてる?」
 遠い記憶を頭の隅に追いやり、独り言のように呟く。ママは何度か洟を啜った後、か細い声で答えた。
「夕方から……仙台の『AA』……」
 あたしは目を伏せると、足元に転がるビールの空き缶を拾い上げた。不意に、また思い出してしまう。当時ママが飾り付けた壁には、折り紙で作った花の他にも沢山の星飾りが煌めいていたことを。
「だったら、参加して来なよ」
「……うん」
 潰れて歪んだ星をゴミ箱に放った。ようやくママの青白い手を取って、ふらつく身体を支える。廊下に出ると、雄大の落書きが目立つ寝室の襖を目指した。
「あたしも今日、学校休む」
 これ以上飲酒が続けば、また救急車を呼ぶハメになる。嫌な予感というより、それは確信に近い。今日はママがお酒を吞まないか、監視しないと。敷きっ放しの布団に、ゆっくりと華奢な身体を横たわらせる。
「それじゃ。何かあったら、呼んで」
 後ろ手で襖を閉め、自室に向かった。さっき空き缶なんて拾わないで、そのまま家を飛び出せたらどんなに楽だったんだろう。喉に引っ掛かった言葉を無邪気に吐き出せたら、気分は晴れたんだろうか。
 自室の本棚の前に立つと、修学旅行のしおりを迷わず取り出した。挟んでいた茶色の封筒だけを、ポケットの中に突っ込む。東京に行くのは、やっぱり夢のまた夢だ。あたしが長時間家を空ける訳にはいかない。一昨日、シーツに描かれた歪な染みを思い出す。ママの飲酒問題を、雄大の小さな身体では背負い切れないだろう。
 淡々と指先に力を入れて、しおりを引き裂いていく。日程表や東京駅構内の案内図や一日の感想を書くページが、次々と細かい紙片に変わった。一人だけの修学旅行は、出発することすらできずに終わりを迎えた。
 しおりを破り終えた後、床に仰向けになった。視線の先にある窓枠は、いつの間にか雪がチラつき始めた灰色を切り取っている。今まで何度も、同じような寒空を見上げてきた。陰鬱な灰色で、やたら広い空。あたしはこれからもずっと、この空の下で生きていくんだろう。枕の下に刃物を隠して、幼い手を握りながら。
「ダウンジャケットは、青色にしよっと」
 無理やり弾んだ声を出して、茶色の封筒を机の引き出しの中に仕舞った。それから居間に戻り、散らかった室内の掃除に取り掛かる。
 トイレや浴室等の水回りを綺麗にしながら、時々寝室の様子を覗いた。ママはお酒臭い寝息を立て、目を閉じている。横になっているママを確認してから、再び手を動かし始めた。真冬の水道水で雑巾を絞ると、指先が悴んで感覚が鈍っていく。
 数時間掛けて掃除を終えると、最後の仕上げに取り掛かった。ママが家のどこかにお酒や処方薬を隠してないか、隅々まで目を凝らす。あたしを突き動かしているのは、純粋に不安と恐怖だけだ。もう庭先で停まる鋭いサイレンの音は聞きたくないし、白目を剝いた顔だって見たくはない。
 冷蔵庫の野菜室で発泡酒二本と、台所の戸棚の奥で赤ワインの瓶が転がっているのを発見した。勿体無いけど、捨てるしかない。銀色のシンクに薄い黄金と血液に似た赤を流している最中、明日も同じようにお酒を捨てているような予感がした。

 掃除を終えてから少し休むつもりが、気付くと炬燵のテーブルに突っ伏して眠っていた。微睡みを終わらせたのは、玄関から響くブザーの音だった。慌てて口元に垂れたヨダレを拭い、炬燵から這い出す。叔父さんは一昨日来たし、他に訪ねてくる人は少ない。多分、ガス点検の挨拶か郵便の配達だろう。居間の窓からは、夕暮れの気配が差し込んでいる。飴色に変わった空間で掛け時計に目を向けると、いつの間にか十六時近くになっていた。
 玄関の磨りガラスに映るシルエットを見て、思わず目を丸くした。見慣れた黒髪に、プリーツスカートと通学バッグが透けている。急いで玄関先に顔を出すと、寒さで頰を赤らめた大好きな人が白い息を吐き出していた。
「あれっ、小羽じゃん。どうした?」
 平然を装おうとしたけど、思わず口元が緩んでしまう。小羽の背後には自転車が停まっているから、下校途中に寄ってくれたのを察した。
「ごめんね、急に。さっき一応、メールしたんだけどさ」
「マジか。爆睡してたから、気付かなかった」
 小羽は傘を差していなかった。ママとは違う血色の良い手が、雪で湿った前髪を搔き上げる。そんな些細な仕草が目に映るだけで、下腹辺りにムズムズする妙な感覚が滲んだ。あたしの指先で、その濡れた前髪を整えてあげたい。
「今日は、体調が悪かった感じ?」
「まぁ……あたしって言うより、ママがね」
「そっか。大変だったね」
 誰にでも口にできそうな短い返事だったけど、あたしの今日の辛さを共有してくれたような気がした。小羽と航平の前だと、ママの悪口も本気で言えるし、心の底から軽蔑もできる。同時にママの好きなところだって、偶に口に出すことができていた。二人は、他の同級生たちとは違う。相手を本当に理解するには、同じような立場にいる人間じゃないと無理なのかもしれない。
「そんな日もあるよね」
「まぁね。明日は、ちゃんと学校行くから」
 小羽の長い睫毛や、スッと伸びた鼻筋や、小さな唇を密かに脳裏に焼き付ける。こんな最低だった誕生日に、大好きな人が会いに来てくれた。それだけで、生まれてきて良かったと思える。
「少し、上がってく?」
「大丈夫。家に帰って、やることがあるし」
 小羽は微笑んでから、通学バッグの中を漁り始めた。
「今日寄ったのは、凜子に渡したい物があってさ」
 色白の手が取り出したのは、ピンクのリボンで結ばれた小さな不織布の袋だった。表面には、可愛らしいウサギのイラストが刺繡されていた。
「誕生日、おめでとう」
「マジで! 覚えててくれたんだ!」
「もちろん。本当は今朝、渡そうと思ってたの」
「超嬉しい。早速、開けて良い?」
 小羽が頷くと、プレゼントを受け取り、ピンクのリボンを解いた。中には、チューブタイプのクリームが入っていた。控え目な『organic』の文字の下には、葉を付けた柚子の手書き風イラストが描かれている。
「これって、ハンドクリーム?」
「そう。薬局の店員さんのオススメなんだよね。柚子の香りも爽やかだし、保湿力もあるんだって」
「マジ、ありがとう。絶対、学校にも付けてく」
「それとね、まだあるんだ」
 再び小羽が、通学バッグの中を漁った。今度は、じゃがりこのチーズ味が取り出された。パッケージの蓋の部分には航平の文字で『百歳おめでとう』と、メッセージが添えられている。その冗談は少しも笑えなかったけど、頰が緩んだ。
「航平も、朝から準備してたんだよ」
「このお菓子、あたし好きなんだ。アイツ、意外と見てるじゃん」
「あと、もう一個プレゼントがあるの」
 小羽が最後に取り出したのは、白いリボンが結んである紺色の小箱だった。思わず、息を吞んでしまう。あたしの見間違いでなければ、箱の表面に『+α』と言うブランドロゴが印字されていたからだ。
「マジ……」
『+α』は、最近注目されている自社店舗を持たないアクセサリーブランドだ。東京の限られたお店でしか販売されていなくて、デザイナーの強い拘りから通販の類は一切していなかった筈。この前コンビニで立ち読みした雑誌でも、最近人気の若手女優が『+α』のピンキーリングを嵌めていた。
「コレは、青葉さんから。東京に行った時に買ってきたみたい」
 青葉さんとは去年の文化祭で、初めて喋った。最初は小羽と仲良くしている嫉妬から、一方的な敵意を向けてしまったのを憶えている。東京の話題で盛り上がってからは、そんな嫌な気持ちは瞬時に晴れた。今では雄大も連れて小羽の家で一緒に餃子作りをしたこともあるし、先々週は出前途中の姿を見かけ真っ先に声を掛けた。青葉さんが偶にしてくれる東京の話は、毎回前のめりで聞いてしまう。
「嬉しいけど、貰って良いのかな? なんか高そうだけど……」
「受け取ってくれた方が、青葉さんも喜ぶよ。色々と迷って、コレに決めたみたいだから」
 絶対に落とさないよう、慎重に小箱を受け取った。リボンを解くこともできないまま、銀色で描かれたブランドロゴに見惚れてしまう。
「それじゃ。改めて、ハッピーバースデー」
「あっ……うん。わざわざ、ありがとうね。プレゼントも、大切にする」
 小羽は地面に足跡を残しながら、自転車に跨った。まだ話したかったけど、家に帰ったら沢山やることがあるんだろう。無駄に引き止めることはできない。その大変さは、痛いぐらい知っている。
 軒先で寒さを忘れ、同じ立場の友人に手を振り続けた。小羽の後ろ姿が完全に見えなくなると、雪で湿った前髪をかき上げて家の中に戻った。
 炬燵に足を入れて、貰ったプレゼントをテーブルの上に並べる。小羽と航平のプレゼントをもう一度眺めてから、意を決して小箱に手を伸ばした。叔父さんが巻き付けた冷たい鎖とは違って、白いリボンは簡単に解けていく。ゆっくり小箱を開くと、控えめな輝きが両目に映った。
「……超、可愛い」
 身体の奥底から、吐息交じりの声が漏れる。小箱の中には、星形のピアスが二つ並んでいた。色は肌馴染みの良さそうなピンクゴールドで、小粒なのも上品だ。片方を摘み上げると、樹脂製ピアスとは違う硬い質感が指先に伝わった。
 はやる気持ちを抑えながら、洗面所に向かった。鏡に顔を近づけ、小さな星を左の耳たぶに飾る。それからしばらく、様々な角度で左耳だけを眺めた。さっきまで胸を覆っていた暗闇の中で、ピンクゴールドの星が煌めく。
『色々と迷って、コレに決めたみたいだから』
 あの三人が、最低な誕生日を彩ってくれた。小羽と航平には改めてお礼のメールを送ることに決めたけど、青葉さんの連絡先は知らない。それでも今日中にちゃんと感謝を伝えたいし、何よりピアスが似合ってるかも見てほしい。この時間帯は仕事中かもしれないけど、一言添えて頭を下げるだけだ。それに今から家を出れば、余裕で保育園のお迎えには間に合う。
 右耳にもピアスをつけて洗面所を出ると、足音を忍ばせて寝室に向かった。物音をできるだけ立てないように、襖越しに耳を澄ませる。まだ寝息が響いているのを確認すると、あたしとママのスニーカーが並んでいる玄関を見据えた。

 ママチャリのハンドルを握り、凍結した道路を注意しながら進んだ。『大浜飯店』は、小羽のおじいちゃんが働く石材店の近くで暖簾を掲げている。徐々に周囲は、雪を被った田んぼしか目に映らなくなった。見通しは良いけど、冷たい潮風を遮る建物が無いのは辛い。海から吹く冷気に白い息を滲ませながら、必死にペダルを漕ぎ続けた。
 目的の外観が見えてくると、自然と頰が綻んだ。タイミング良く店の出入り口のすぐ側で、カーキ色のMA‐1を羽織った人物が背を向けて佇んでいる。顔を覗き込まなくてもわかる。絶対に、青葉さんだ。片手でピアスの感触を確かめ、ママチャリのスピードを上げた。声が届きそうな位置まで近付くと、深く息を吸い込んだ。
「青葉さん。こんにちは」
 振り返った美しい顔は、目を見開いていた。あたしが手を振ると、すぐに驚きの表情は消えた。
「ごめんねー。今はまだ、中休みなの」
「大丈夫です。ご飯食べに来た訳じゃないんで」
 やっと青葉さんの側に近寄り、ブレーキを握った。早速ママチャリから降りて、すぐに頭を下げる。
「小羽から、誕生日プレゼントを受け取りました。超嬉しかったです」
 顔を上げながら、ピアスがよく見えるよう髪を耳に掛けた。切れ長な目元が、何度か瞬きを繰り返す。
「凄く似合ってる。買う前は少し地味かなって心配したけど、全然そんなことないね」
「マジですか?」
「本当よ。このピアスを選んで良かった」
 口調は弾んでいたけど、零した笑みは普段よりも強張っていた。無理やり気を遣われているような不安に駆られ、まじまじと八重歯が覗く顔を見つめる。ふと、青葉さんが背にしている店の外壁が目に入った。トタンの壁には、殴り書きで二つの文章が並んでいた。
「気にしないで。ただの落書きだから」
 トタンの壁から目を離すと、青葉さんの笑顔が更に硬くなっていた。余計気になってしまい、再び壁に描かれた文字を見つめる。落書きの内容を知った瞬間、心臓が強く鳴った。
「酷い……」
「朝はなかったから、さっきヤられたみたい」
「警察には、通報したんですか?」
「してないよ」
「絶対、通報した方が良いですって。また、落書きされちゃいますって」
「そうね」
 他人事のような返事の後、あたしはもう一度落書きの内容を眺めた。
『鬼畜女は、死んで詫びろ』
『お前をなますにしてやる』
 口に出したくもない過激な文章だった。そもそも、誰に向けたメッセージなのかもわからない。『大浜飯店』は、何の変哲もない田舎の中華屋だ。落書きをする場所を間違えたのか、それとも逆にどこでも良かったのか。とにかく、歪んだ悪意がその文字から滲んでいた。
「油性のマジックみたいで、擦っても消えないのよ」
 青葉さんは鼻先を搔くと、妙に明るい口調で話題を変えた。
「今日って、外食とかするの?」
「いえ……そういう予定はないです」
「だったらせっかく来てくれたんだし、何か持って行きなよ」
「大丈夫です。お礼を言いに来ただけなので」
「遠慮しないで。こんな落書きがあったら、お客も寄り付かないしさ」
 あたしの返事を待たず、青葉さんは暖簾が仕舞われた店内に足を踏み入れた。彼女の手招きに誘われ、躊躇いながらもMA‐1の後に続く。客がいない店内は、静まり返っていた。斜めに差し込んだ夕暮れの橙や香ばしい残り香だけが、冷たい空気に交じっている。
「大浜のおじちゃんやおばちゃんは、いないんですね?」
「うん。今は家で休んでるの。すぐ準備するから、好きな席に座ってて」
「なんか……すみません」
「気にしないで。因みに、餃子と焼売ならどっちが好き?」
「えっと……どっちでも」
「それじゃ、餃子にするね」
 短い会話を交わして、カウンターの丸椅子に腰を下ろした。寒そうな厨房で、手際よく作業をする後ろ姿を眺める。今日の青葉さんは、やはり普段より元気がない。さっきの落書きのせいだろうか。大型冷蔵庫を開ける音や戸棚の扉を閉める響きを縫って、控え目に提案した。
「あの落書き、消すの手伝いますよ」
「大丈夫。適当に張り紙で隠すから」
「そうですか……でも、マジ最低ですよね。なんの恨みがあって、あんなこと書くんだろう」
 返事はない。その代わり、カウンター越しに二つの半透明なタッパーが差し出された。
「こっちは生餃子。こっちのタッパーには、カレーが入ってるから」
「えっ……カレー?」
「そう。先週から、カレーだけは任されてるの。今日のランチの時も割と出たから、勝手に好評だと思ってる」
 餃子だけだと思っていた。茶色のルーが透けるタッパーを目にすると、喉が仄かに熱くなる。
「カレーは甘口にしてあるから、弟くんも食べられると思うよ」
 お礼も忘れ、具材が透けるタッパーを凝視してしまう。ママが誕生日に作っていたカレーよりルーの色は薄く、豚肉ではなく鶏肉を使っているみたいだった。パッと見たところ、里芋や南瓜は入っていない。その代わり人参やジャガイモの切り方は大きくて、食べ応えがありそうだ。
「そうだ。大事な仕上げを忘れてた」
 青葉さんは思い出したように呟くと、厨房内の棚を探り始めた。彼女は取り出したものを、タッパーの上に載せた。
「ミックスナッツは、ご飯に混ぜて。ツナキューブは、らっきょや福神漬けの代わり」
 個包装されたおつまみが、それぞれ二つずつ転がっている。カレー専用という訳ではなさそうで、普通にスーパーやコンビニで売っている品だ。
「……こういう食べ方が、東京では流行ってるんですか?」
「全然。でも、意外とカレーに合うの。嫌なら、普通にこのおつまみは食べて。そのままでも十分美味しいから」
 ただのおつまみが、正直カレーに合う気は全くしなかった。ママにこのおつまみを見せたら、反射的にお酒を連想してしまうだろう。このミックスナッツとツナキューブは、雄大と食べることに決めた。
「青葉さんって、エスパーですか?」
「何、急に。そんな訳ないじゃない」
 色白の手が、二つのタッパーをビニール袋に仕舞い始めた。不意に、カレーの香りが強く漂う。密閉されたタッパーから滲んでいるのか、遠い記憶がもたらした産物なのかはわからなかった。
「あたし、誕生日にはいつもカレーをリクエストしてたんです。ピザとかお寿司とか、所謂ご馳走ではなく。ママが作るカレーが大好きだったので」
「それじゃ、今日のメニューと被っちゃった?」
「いえ……もう随分、ママは料理をしてませんから」
 朝のメールを思い出した。ママは今日、何の料理を作ろうとしていたのだろう。お気楽に、カレーとは思えない。胸の中にある天秤は『信用』とは真逆の方に傾いている。
「お母さんが料理をしないのは、体調のせい?」
「そうですね……最近、またお酒を吞み始めちゃって」
 以前小羽の家で餃子作りをした時に、ママの病気については軽く話していた。その時の青葉さんは、ママをけなすこともせず、わざとらしく同情することもせず、ただ静かに話を聞いてくれた。帰る時には雄大の頭を撫でて、ママの分の餃子まで多く包んでくれたのを憶えている。
「酔ってる時のママは、超ムカつくんですよね」
「そっか」
「でも……吞んでない時のママは嫌いになれないんです。偶に、自分でも馬鹿だなって思います」
 あんな華奢な身体を盾にして、パパの暴力からあたし達を守ってくれた姿が脳裏を過る。青痣を作ろうが、お腹を蹴られようが、真っ先にあたしと雄大を外に逃がしてくれた。当時のことを思い出すと、いつも僅かな熱が目頭に滲みそうになって困る。取り繕うように、慌てて話題を変えた。
「青葉さんって、次はいつ東京に行くんですか?」
「来週かな」
「良いな。あたしも一緒に行きたい。そんで、雷門を見るの」
「懐かしい。わたしは以前、割と浅草に近い場所で働いてたことがあって」
「えっ、どこですか?」
「短期間だけなんだけど、錦糸町の遊園地で」
 青葉さんは悪戯っぽく微笑み、すぐに小さく手を打った。
「それじゃ、今度一緒に東京に行く? 新幹線に乗れば、すぐよ」
 思わず息を吞んだ。さっきの何気ないお願いが、急に現実味を帯びていく。並んで新幹線に乗り込む光景を想像しながら、苦笑いを浮かべた。
「やっぱり無理かな。ママの調子が悪いし、雄大の世話もあるし」
 本音を隠しながら、丸椅子から腰を上げた。軽く頭を下げて、カウンターに置かれたビニール袋に手を伸ばす。
「青葉さんの超能力のお陰で、今年の誕生日はカレーが食べられそうです」
「わたしにそんな隠れた能力があったなんて、今まで気付かなかったよ」
「感謝して下さいよ。あたしが、気付いてあげたんだから」
 静かな店内に、お互いの乾いた笑い声が響いた。出入り口の方に歩き出そうとすると、いきなり青葉さんが派手な音を立てて両手を合わせた。すぐに短い唸り声のような、デタラメな呪文のような言葉が聞こえた。
「最後にもう一回、超能力で念を送っとく。来年の誕生日は、凜子のお母さんがカレーを作ってくれますようにって」
 愛想笑いを返そうと思ったのに、顔の筋肉が硬くなって動かない。胸の奥に波紋が広がり、青葉さんが戯ける姿が滲んでいく。目頭に熱が帯びていくのを、どうやっても止められなかった。
「来年より……今日からお酒を吞まないでって、ママにテレパシーを送ってください」
 いつの間にか、頰に生温かい感触が伝っていた。恥ずかしくなって顔を隠すように俯くと、タイル張りの床に雫が落ちた。これ以上床を汚さないように、右手で乱暴に両目を擦る。涙を止めようと思えば思うほど、口元は震え呼吸は乱れていく。心臓の鼓動も痛いぐらい早鐘を打ち始めた。
「ちゃんと念じたよ。大丈夫だから、今はゆっくり深呼吸して」
 穏やかな声がすぐ耳元で響いた。何度も「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら、冷たい手があたしの頭を撫でている。密着しているMA‐1からは脂っぽい匂いがしたけど、全く不快ではない。青葉さんの手は冷たいのに、胸の感触は凄く温かかった。
「ごめんね。わたしが調子に乗ったから。ゆっくり息を吸って、吐いて。そうね。その調子」
 青葉さんの掛け声に合わせて、乱れた呼吸を整えていく。突然の動揺に陥りながらも、握りしめたビニール袋は絶対に離したくはなかった。このカレーだけは、落とす訳にはいかない。
「折角の誕生日なのに、わたしなんかに会いに来てくれてありがとね」
 お礼を言いに来たのは、こっちなのに。返事をしたくても、呼吸の仕方がわからなくて声が出せない。
「凜子は絶対に、優しい大人になるよ」
 ママや弟の世話をしてるから?
「凜子の周りには、これから沢山の人が集まると思う。だって、一等星のように明るいもん」
 あの家に縛り付けられてるのに、本当かな?
「いつか、凜子の行きたい場所に行けるから大丈夫」
 東京にも行ける?
「絶対保証する。わたしはエスパーだから。予知能力だってあるの」
 声に出せないまま、脳裏で疑問を投げ掛ける。あたしが洟を啜ることしかできなくても、青葉さんはずっと優しく囁いてくれた。次第に、呼吸が楽になっていく。肺が正常に酸素を取り込み始め、動悸が治まっていくのがわかった。
 でも、あと十秒だけで良いから身を任せていたい。
 青葉さんが抱き締めて頭を撫でてくれている時だけは、久しぶりに子どものままでいられた。

 気分を落ち着かせてから外に出ると、完全に陽は落ちていた。壁に描かれた落書きを薄闇が覆い、過激な内容が霞んでいる。落書きがこれ以上増えないように願いながら、ママチャリに跨った。貰ったお土産を前カゴに入れて、最後に振り返る。
「餃子とカレー、美味しくいただきます」
 見送りに来た青葉さんが、口元から八重歯を見せた。さっきまであたしの頭を撫でていた手を、小さく振っている。
「凜子、ハッピーバースデー」
 頭を下げてから、ペダルを思いっ切り踏み出した。海から吹く風が泣き腫れた両目を心地よく冷やし、凍結した道にママチャリのライトが寂しく伸びる。今だけは、東京よりもこの町が好きになれた。都会とは違って人影がないし、こんな酷い顔を誰かに見られる心配はない。
 家には戻らないで、そのまま保育園に向かった。お迎えには少し早い時間だけど、貰った餃子やカレーを早く食べたい。カレーは辛くないと聞いたから、雄大も喜ぶだろう。
 保育園に着くと、朝と同じ場所にママチャリを停めて園内に入った。お迎え時間を打刻するタイムカードを押して、近くにいた顔馴染みの保育士に声を掛ける。雄大の名前が呼ばれると、廊下の奥から疾走する足音が聞こえた。聞き慣れたリズムだ。姿が見えなくても、弟のそれだとわかる。
「ねぇちゃん、おむかえはやいね」
 現れた雄大は、汗で前髪が湿っていた。今日も怪我なく元気に遊んでいたことが伝わる。担任の保育士に排泄回数や日中の様子を聞いた後、並んで外に踏み出した。
「ねぇちゃん、やくそくおぼえてっか?」
「うん。塾の宿題やるんでしょ」
 後部座席に雄大を乗せ、チャイルドシートをロックした。自宅に続く道を漕ぎ進みながら、ママのことを考える。もう、起きているだろうか。今日の十九時から始まる仙台の『AA』まで、あの状態で向かうのは難しいだろう。外出は無理でも、せめてシャワーぐらいは浴びて、何日か分の汚れを洗い流しておいてほしい。
「夕飯は、カレーと餃子だよ」
「やった! ママもいっしょ?」
「さぁ……どうだろうね」
 夕飯を準備する度に毎日繰り返される質問に対して、今日も曖昧な返事をした。二人だけの食卓に慣れてしまったのは、実はあたしだけなのかもしれない。
 自宅に着いてチャイルドシートを外すと、恐る恐る玄関の引き戸を開けた。三和土に目を落とした瞬間、小さな息が漏れる。予想に反して、ママのスニーカーは消えていた。それに室内からは、うっすらシャンプーの残り香が漂っている。嬉しい誤算に戸惑っていると、先に靴を脱ぎ始めた雄大が言った。
「ママは、まだおしごと?」
「そうだね……もしかしたら、仙台に寄ってから帰ってくるかも。ご飯は先に食べてよっか」
 あたしも靴を脱ぐと、そのまま寝室に向かった。敷きっぱなしだった布団は畳まれ、室内も軽く片付けてある。久し振りに現れた畳はくすんでいたけど、染みや汚れは目立たない。
「あの人、本当にエスパーかも」
 独り言にしては弾んだ声が、冷たい寝室に響いた。
 ママの分のカレーと餃子を冷蔵庫に仕舞ってから、炬燵に夕食を並べた。迷った末にミックスナッツはご飯に混ぜ、皿の隅にツナキューブを添えた。
「ねぇちゃん。ごはんに、まめがはいってっと」
「豆じゃなくて、ミックスナッツね。この茶色いのはアーモンドで、白いのはカシューナッツ、このギザギザしたのは胡桃かな。喉に詰まらせないように、よく嚙んでよ」
「わかった。あと、このしかくいのは?」
「これは、ツナキューブ。魚のマグロを、甘辛く固めた大人のお菓子みたいなもの」
「おかしと、ごはんをいっしょにくうんか?」
「もうっ、つべこべ言わないで」
 雄大と一緒に手を合わせ、カレーを口に運ぶ。ママが作るものよりバターは効いていなかったけど、ルーは甘くて鶏肉の旨味が溶け出している。問題のミックスナッツを混ぜたご飯は、意外なほどカレーに合った。三種類のナッツの食感は心地良く、甘いルーに仄かな塩気とコクが足されている。ツナキューブは箸休めというより、カレーと一緒に食べた方が美味しかった。甘辛いツナの風味は、味の輪郭をはっきりとさせスプーンが進んだ。結局、あたしと雄大はカレーをおかわりして、餃子も全て平らげた。
 食器を洗い終わると、再び炬燵に足を突っ込んだ。小さな手が宿題を広げる様を眺めながら、明日は登校しようと強く誓う。人影のないお店の中で『大丈夫』と繰り返された声が脳裏で響く。青葉さんが予知した未来は、胸の中でお守りに変わっていた。
「せんひくもんだいからやるー」
 間延びした声を聞いて、宿題に手を伸ばす。A5サイズの用紙は、計六枚あった。ザッと内容に目を通すと、両端の絵を線で結ぶ問題やひらがなを読む練習が控えている。プリント一枚一枚の設問数は少なく、意外と時間が掛からずに終わりそうだ。真剣な眼差しを浮かべ鉛筆を握る弟の横顔に、あたしは時折アドバイスをした。
「曲がる線を書く時は、紙から鉛筆を離さないで。最後もしっかり止めるんだよ」
 雄大は素直に、黙々と宿題をこなしていく。幼い指先が握る鉛筆は、問題に沿って次々と直線や曲線を描いた。への字の線、くの字の線、波打つ線、S状の線。様々な線を眺めながら思う。弟は、勉強が好きなのかもしれない。これから長い人生の中で、この子はどんな線を描いて行くのだろう。
「ねぇちゃん、つぎは『は』のひらがなをよむもんだいな」
 雄大が目を落とすプリントには三つのイラストと、その横にひらがなが描かれていた。
「は、な。は、ぶ、ら、し。は、り、ね、ず、み」
「花、歯ブラシ、ハリネズミ。今度は一文字ずつ、区切らないで読んでみ」
 辿々しくひらがなを音読する声を、玄関を乱暴に開錠する音が搔き消した。反射的に、居間の掛け時計に目を向ける。ママが『AA』に行ったとしたら、まだ帰宅するには随分と早い時間だ。
「ママ、かえってきた」
「……雄大は、宿題の続きやってて。教室でも、授業中は席に座ったままでしょ」
 立ちあがろうとする弟を制して、あたしだけ炬燵から這い出した。居間の磨りガラスを開けると、玄関でママがスニーカーを脱いでいた。ママの顔は、明らかに赤らんでいる。あたしが口を開くより先に、約束をまた破った女が呟いた。
「そんな顔しないでよ」
 ママは俯きながら廊下に踏み出した。あたしとすれ違う前から、お酒の臭いを放っている。
「これで、最後。明日は、吞まないから……」
 力なく寝室の襖が閉まった。振り返らず、握った掌に爪を突き立てる。こんな現実に直面してもまだ、青葉さんをエスパーだと信じていたかった。そうじゃないと、予知してくれた未来も否定することになる。
 何度か深呼吸をして、居間に戻った。磨りガラスの引き戸を開けると、雄大がプリントから顔を上げた。
「ママは?」
「疲れたから、寝るって。そんなことより、宿題の続き、続き」
 何事も無かったような顔を作って炬燵に足を突っ込んだけど、全く温かさを感じない。雄大は何か言いたげな表情を浮かべながらも、再びプリントに目を落とした。
「次の『ほ』が、さいごのもんだいー」
 あたしが頷くと、雄大が緊張した面持ちで息を吸い込んだ。
「ほし、ほんだな、ほうちょう」
 さっきよりスラスラ読めたことより、三つの単語が胸に沁みた。思わず、あたしも声に出してしまう。
「星、本棚、包丁」
 まるで、ここ数日の出来事を象徴しているような単語だった。お酒臭い息を思い出しそうになって、青葉さんの『大丈夫』を頭の中で繰り返す。何度も何度も。あたしが本当に信じられるまで。
「ねぇちゃん、どうした? ボーッとして」
「幼児教室の先生も、エスパーかもって思っただけ」
 首を捻る雄大に向けて、微笑む。あたしはこれからどんな線を描いて、誰のために言葉を紡いでいくのだろう。幼い手がプリントを片付ける音を聞きながら、左耳の星に触れる。僅かな痛みが走っても、指先を離しはしなかった。


♯3 二月の手紙

 最初に、昨日の外来診察の時は泣いてしまってごめんなさい。
 確かに先生がおっしゃる通り、どこに行ってもわたしはわたしのままで生きていくしかないんですね。そんな当たり前のことを、今更実感しました。本音を言えば、辛過ぎる真実です。
 再入院の件は、納得しています。日に日に調子が悪くなっているのは、自覚していますので。夜は眠れなくなってきてるし、朝方は特に気分の落ち込みが酷いです。唐突に涙が溢れることもあって、あの子の側に行きたいと最悪な考えが浮かぶことも増えています。先生は「瑠璃ちゃんも、それは望んでないと思う」と慰めてくれたけど、あたしが望んでいるのです。あの子の手を、もう一度握ることを。
 昨日の外来診察で即日入院を提案された時、わたしは何度も首を横に振ってしまいました。本当、ワガママだったと反省しています。結局、再入院日を一ヶ月先にしてくれたこと、感謝しています。その代わり、先生が提示した約束はちゃんと守ります。薬は飲み忘れない。辛い時は頓服薬も併用する。希死念慮が酷くなる前に病院へ連絡する。そして、来月の再入院日には必ず行く。
 わたしは診察中ずっと、二月に再入院をしたくない理由を説明しませんでしたね。口にしたら「そんな理由なの?」と呆れられ、「やっぱり、今日入院した方が良いんじゃない?」と、告げられるのが怖かったからです。本当にごめんなさい。こっちに帰って来てから、先生にちゃんと伝えるべきだったと思い直し、すぐに手紙を書くことに決めました。卑怯ですけど、許して下さい。
 わたしが今すぐの再入院を頑なに拒んだのは、石細工が関係しています。実は先週、やっと満足のいくリンゴが完成したんです。ブロック状の白御影石を形成して(近くのホームセンターで買いました)、両手に収まるサイズに仕上げました。特にリンゴの自然な丸みを出すのが難しくて、何度も失敗しました。他にも先端の果梗の細さや梗窪にできるシワを彫るのに苦労しました。仕上げはアクリル絵の具を使って、全体を赤く塗りました。
 完成したリンゴは、石工職人が作るモノよりは見劣りします。所詮は素人の作品で、プロとは歴然の差がありますから。でも、家族に対する祈りを込めながら、白御影石を彫ったり削ったりを繰り返したのは本当です。
 ただ、もう一つだけ作りたい石細工があるのです。初めて自分のためではなく、他人のために作りたいと思いました。それが完成したら、石細工はキッパリ辞めようと思います。正真正銘、わたしの最後の作品です。今までのペースを踏まえると、完成までに一ヶ月ぐらいは掛かりそうな気がしました。だから、二月中の再入院は嫌だったのです。
 唯一、漁港の女の子の前では自然に笑えます。自分でも不思議です。東京での暮らしが頭を過るからでしょうか。その子の家に行くと、背筋が伸びて頭の中の霧も晴れていくんです。家族をサポートしていた時の経験が、無意識のうちにそうさせるんでしょうね。改めて思うと、悲しい原動力です。
 とにかく最後の作品が完成したら、入院して体調を整えますので。その時は、よろしくお願い致します。それでは、再入院日の三月十一日に。先生、わたしの意向を尊重してくださってありがとうございました。


【この続きは書籍版でお読みください】

藍色時刻の君たちは
前川 ほまれ
東京創元社
2023-07-28


■前川ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年生まれ、宮城県出身。看護師として働くかたわら、小説を書き始める。2017年『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』で、第7回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』は第22回大藪春彦賞の候補となる。その他の著書に『セゾン・サンカンシオン』がある。