訳者まえがき
世界史の教科書では、十五世紀初めよりヨーロッパ人による海外進出が始まり、大洋を探検航海することで、彼らにとってそれまで未知だった世界各地の細部が、徐々に明らかになっていったとされている。そのいわゆる大航海時代も終わりに近い十七世紀後半に、バッカニアと呼ばれる海賊たちがいた。カリブ海でスペインの植民地や商船を襲撃した、イングランド、フランス、オランダの海賊である。無筆の荒くれ者というイメージとは裏腹に、当時の海賊のなかには航海日誌をまめにつけている者もいた。ある海賊団に属していた七人の海賊のしたためていた日誌をもとに、彼らのリアルな生活、航海、戦闘の模様を冒険物語風に明らかにするのが本書である。
著者のキース・トムスンは、アラバマ州バーミングハム在住の作家。『ぼくを忘れたスパイ』、『コードネームを忘れた男』(ともに新潮文庫)といったミステリ作品が日本でも紹介されており、〈ニューヨーク・タイムズ〉紙に軍事問題やスパイ関連の記事も寄稿している。
本書で描かれるバッカニアたちの冒険は一六八〇年の春、現在の南米コロンビアと中米パナマの間に横たわる未開のジャングル、ダリエン地峡から始まる。
最初に登場するのは、その地域に先住するクナ族の王アンドレアス。スペイン人にさらわれた孫娘、美しいプリンセスを救出するために、サンタ・マリアにあるスペイン要塞を襲撃しようと考える。しかし部族の者たちだけでは心もとない。ならば援軍を雇おうと考えて頭に浮かんだのが、海賊だった。
たまたまその頃、カリブ海を根城にスペインの船舶や町を襲うバッカニアが、近くの島に大集結していた。前年の十二月からそこに集まり、パナマ北岸にあるスペインの港湾都市ポルトベロを襲ってかなりの量の銀を手にしたのだが、ダリエン地峡が太平洋(彼らは南海と呼んだ)への扉をひらくかもしれないという耳寄りの情報を手にしたことで、さらに欲を出していた。ダリエン地峡を渡ることができれば、パナマ湾から南海へ出ることができる。南海での略奪の初っ端に、スペイン人が中南米各地から搾取した山のような金銀財宝が保管してあるパナマを襲撃すれば、想像を超える膨大な収穫を狙えるのだった。
しかし問題がひとつある。案内人をつけずに自力でダリエン地峡に入っていけば、迷うのはもちろん、生き残れる確率もゼロに近い。危険に満ちたジャングルがどこまでも広がっているのである。
そこに、願ってもない案内人がやってきた。それがすなわち先述のクナ族の王、アンドレアスである。自分たちが案内をするから、サンタ・マリアの要塞に囚われているプリンセスの救出に手を貸してほしい、それが終わればあとは好きなだけ略奪を働けばいいと、じきじきに話を持ちかけてきたのである。
スペイン人という共通の敵を前に、クナ族の王と海賊たちの利害は一致した。すみやかに共同戦線が張られたものの、お互いをよく知らない即席の同盟関係には不安や猜疑心がつきものだ。何かあるたびに海賊たちの胸に疑念が沸き起こる。ひょっとしてクナ族はオレたちをスペイン人に引き渡そうと考えているのではないか……。
しかし、このプリンセス救出作戦は、物語の幕開きにすぎない。パナマ襲撃のあとも、バッカニアたちは南海航路を進みながら、スペインの商船や植民地を次々と襲って旅を続ける。途中仲間割れあり、叛乱あり、極度の飢えや脱水症状あり。激しい戦闘で命を落とす者もいれば、無人島に置き去りにされる者や、スペイン人捕虜と友情を育む海賊もいる。
「短いながらも愉快な人生」というのが海賊たちのモットーで、本書の原題Born to Be hanged(吊されるために生まれてきた)に象徴されるように、絞首刑になって早期に人生を終える者が多いなか、山ほどのお宝を持ち帰って陸にあがり、裁判にかけられて、驚くべき判決をいいわたされた海賊もいる。初めて原書を読んだときには我が目を疑い、英文の解釈を間違えたかと、何度も同じ行を読み直したほどの衝撃だった。
そんな波瀾万丈の海賊たちの生活や戦いの模様が、当事者たちの記した日誌という、生の資料をつなぎ合わせて再構成されるのだから、面白くならないはずがない。
しかし海賊の日誌は悪事の記録であり、裁判では犯罪の明確な証拠となって、絞首台行きに直結することもある。そんな事情もあって、必ずしも事実が正確に記されているとは限らない。まずい部分はうやむやにする一方、自分の偉業をことさら大げさに書き立てるのは日常茶飯なのだ。
そこで作者は、どの事件に対しても、入手できた海賊たちの日誌の叙述をすべて突き合わせて、その異同をつまびらかにし、かつまた第三者の客観的な記録も参照して、そこから浮かび上がる真実を浮き彫りにしていく。
本書のベースとなる日誌の著者のひとりに世界的な博物学者ウィリアム・ダンピアがいる。二〇二二年には、岩波文庫で長らく絶版となっていた彼の著作『最新世界周航記』が復刊されて話題となった。他の海賊たちが日誌に克明に記すパナマ湾の戦闘の模様を、ダンピアはあっさり一文だけで終え、代わりにビンロウの果実の説明に数ページを費やすなど、博物学者になる萌芽が見られて面白い。
そもそも、将来世界的な学者になる人間が、なにゆえ海賊船に乗りこんで略奪に手を染めていたのか。彼だけではない。ダンピアと仲の良い航海士、バジル・リングローズもまた、優秀な数学者であり、母国語の英語にくわえてラテン語とフランス語も流暢に話す才人だ。適性に合った仕事は他にいくらでもあったろうに、なぜ海賊に身を落としたのか。
このあたりの事情も、本書を読むとよく理解できる。主要な海賊については、教区内の洗礼や結婚などが記録されている教会区記録簿に当たるなどして、本人が日誌には記さなかった興味深い生い立ちまで掘り下げている上に、時代の空気が肌で感じられるように生き生きと描写しているため、彼らがどのような葛藤を経て海賊になったのかがわかるのである。
陸の厳格な階級社会とは違い、海賊の暮らしは平等主義が基本で、船長の選出や罷免は投票によって民主的に決められる。遠征に出発する際には契約書も作成され、そこには労働災害に対する補償までが細かく定められているのだから驚かされる。
階級の壁を越えられぬ社会で下層の人々が覚える息苦しさと、世界には知らない土地がまだ果てしなく広がっているという時代の開放感。本来なら相容れぬふたつの要素が、本書では個性豊かな海賊たちの活躍によって絶妙にブレンドされ、血湧き肉躍る物語が生まれた。
世界の国々が未分化状態で、いわばなんでもありのロマンあふれる時代の空気を見事に表現している本書を手に、読者のみなさんも今すぐ、数世紀前のロマンあふれる南海の旅に出発してほしい。
航海の友は、前述のウィリアム・ダンピアやバジル・リングローズをはじめ、クナ族の文化に心酔する船医のライオネル・ウェイファー、二十代の若さでありながら勇壮な活躍を見せて老若問わず仲間たちからの信頼が厚いリチャード・ソーキンズ船長、お宝によく鼻がきく有能な策士でありながら、飲んだくれで感情のコントロールが利かないバーソロミュー・シャープなどなど、一癖も二癖もあるキャラの立った海賊たちだ。
彼らと懇意になれば、建物の四軒に一軒が酒を飲ませる店か娼館だという、海賊たちがこぞって集まる都市、ポート・ロイヤルの話もじかにきけるだろう。〝新世界のソドム〞とも呼ばれた、社会の制約から解き放たれた港町には、ほかにはない妖しい魅力がある。ただしこの時代はまだ梅毒の治療法は確立されておらず、尿道に水銀を注入されて苦しむことになるので、はめをはずしすぎないように注意したい。
海賊たちの活躍する舞台は海ばかりではない。ときにカヌーに乗って決死の川下りをしたり、クロコダイルやアナコンダが生息する茶色い水のなかを歩いて渡ったり。途中負傷して仲間たちについていけなくなれば、敵対する先住民の村に置き去りにされて、生きながら焼かれる覚悟を強いられる場合もある。また、海賊船にも船医が乗っていることが多いが、船医がいない場合に医者の仕事が割り当てられるのは船大工であり、四股切断には船の修理につかったのこぎりが、そのままつかわれることも覚えておこう。
一六八〇年の春から始まって、一六八二年春に幕を閉じる、およそ二年にわたる長い冒険の旅。つねに命の危険にさらされているから、まず退屈はしないはずだ。
■杉田七重(すぎた・ななえ)
東京都生まれ。東京学芸大学卒。英米文学翻訳家。主な訳書にエドワード・ドルニック『ヒエログリフを解け』、ウィリアム・ダルリンプル&アニタ・アナンド『コ・イ・ヌール』、ジェラルディン・マコックラン『世界のはての少年』、クリス・ヴィック『少女と少年と海の物語』などがある。