7月28日発売の東京創元社新刊、前川ほまれ著『藍色時刻の君たちは』の冒頭部分を3日連続で特別公開いたします!

【あらすじ】
2010年10月。宮城県の港町に暮らす高校2年生の小羽(こはね)は、統合失調症を患う母を抱え、介護と家事に忙殺されていた。彼女の鬱屈した感情は、同級生である、双極性障害の祖母を介護する航平と、アルコール依存症の母と幼い弟の面倒を見る凜子にしか理解されない。3人は周囲の介護についての無理解に苦しめられ、誰にも助けを求められない孤立した日常を送っていた。

しかし、町にある親族の家に身を寄せていた青葉という女性が、小羽たちの孤独に理解を示す。優しく寄り添い続ける青葉との交流で、3人が前向きな日常を過ごせるようになっていった矢先、2011年3月の震災によって全てが一変してしまう。

2022年7月。看護師になった小羽は、震災時の後悔と癒えない傷に苦しんでいた。そんなある時、彼女は旧友たちと再会し、それを機に過去や、青葉が抱えていた秘密と向き合うことになる……。

本日はプロローグと第一章「二〇一〇年十月 海沿いの町」を公開いたします。
ぜひご一読ください。



同居という、我が国のいわば「福祉における含み資産」――一九七八年 厚生労働白書


プロローグ


 何も握ってない左手を、ぼんやり見つめる。わたしの指は細くて短い。何故か生まれつき、薬指の第二関節は腫れているかのように太かった。結婚指輪を嵌めたり外したりした時も、痛みが走ったのを憶えている。
 掌に描かれた生命線は、途中で途切れていた。縁起の悪そうな手を幼い頃に父に見せたら『事故には気を付けろよ』と、本気で心配されたことを不意に思い出した。
「今までの率直な、お気持ちをお聞かせ下さい」
 弁護士の質問が聞こえ、顔を上げた。真っ先に目に映ったのは、裁判官の無表情だ。今は、手なんてどうでも良い。場にそぐわないことを考えてしまったのは、被告人質問に対する緊張の表れだろうか。
 弁護士が立つ席に顔を向け、喉元に力を入れる。それでも、すぐに言葉は出てこない。再び俯いてやっと、掠れた声が漏れた。
「世話をするのは辛い時もありましたが、憎んだことは一度もありません」
 背後の傍聴席から、誰かの咳払いが聞こえた。振り返らなくても、手に取るように分かる。多くの視線が、わたしの背中に注がれていることが。
「今でも、心の底から愛しています」
 本音だった。わたしの返答を聞くと、弁護士は何度か頷いた。一拍置いて、再び質問が飛ぶ。
「犯行を振り返って、どう思いますか?」
「……身を焼かれるような後悔しかありません」
 力なく告げたと同時に、鼻の奥が湿り始める。あの子の最後の表情を思い出すと、脳が上下左右に揺さぶられた。
「ビニールから透けて見えた、苦しむ顔が忘れられません」
 一気に目尻は熱を帯び、視界は滲んでいく。ここで泣いても、虚しさが積もるだけなのに。余計、死んでしまいたいほどの後悔が燃え上がるだけなのに。そんな想いとは裏腹に、証言台から見える法廷の景色は曖昧になっていく。
 涙が頰を伝わりながら、掌を握ったり開いたりを繰り返した。その度に、細い首を絞めた時の感覚が鮮明さを増した。この手に残っている感触を忘れたいけど、憶えておかないといけない。わたしが犯した罪と、これからも共に在るために。
 洟を啜ってから目元を拭ったタイミングで、弁護士が別の質問を投げ掛ける。背後の傍聴席から、また誰かの咳払いが響いた。


【第一部】


第一章 二〇一〇年十月 海沿いの町


 磨りガラスの向こうは、灰色に染まっていた。見慣れた曇り空を思い浮かべてから、手元に目を戻す。賞味期限が迫っている卵が、まな板の上に二つ転がっている。
 使い込んだフライパンにサラダ油を垂らし、コンロのスイッチを入れた。おじいちゃんは卵をご飯に掛けるから、目玉焼きは私とお母さんの分だけを作れば良い。油が跳ねる音と一緒に、フライパンの上で白身が色を変えていく様を眺めた。
「今日は、寒みーぞ」
 振り返ると、タバコを耳に挟んだおじいちゃんが鼻を擦っていた。既にスウェット上下の寝巻きを脱ぎ、着古した作業着を羽織っている。染みが目立つ手には、丸まったスポーツ新聞が握られていた。真新しいインクの香りが、卵を焼く香りに交じっていく。
「コンビニ、行ってきたの?」
「んだ。ヤニっこ切れてや」
「だったら、お母さんのヨーグルトも買ってきて貰えば良かった」
 おじいちゃんはダイニングテーブルの椅子に座ると、スポーツ新聞を捲りながら低い声を出した。
「一日ぐれぇ、食わなくてもヘーキだ」
「でも、お母さん便秘になりやすいし」
「飲んでる薬に、下剤も入ってるべ?」
 返事はせず、少し焦げてしまった目玉焼きを平皿に載せた。抗精神病薬を内服していると、腸の動きが鈍くなる場合がある。お母さんは過去に何度も、酷い便秘に陥っていた。腹痛を訴えた時、薬局で浣腸や整腸剤を買う役目はいつも私だ。おじいちゃんの軽い返事が、耳の奥で乾いた音を立てる。
「小羽、菜っ葉のおひたしは残ってるっけ?」
「昨日の?」
「んだ。あったら、出してけろ」
 ライターを擦る音が聞こえた後、苦い煙が漂った。タバコの影響で黄ばんだ壁紙を横目に、思わず口を尖らせる。
「制服に、臭い付くんだけど」
 すぐに椅子を引く音が聞こえた。立ち上がったおじいちゃんは隣に並ぶと、咥えタバコのまま換気扇のスイッチを押した。白い煙が、揺らめきながら吸い込まれていく。
「そんなにタバコ吸ってたら、肺がんになるよ」
「今止めたって、何も変わらんて」
 おじいちゃんが冷ややかに笑うと、口元から黄ばんだ歯列が覗いた。私はそれ以上の小言を飲み込み、ワカメと油揚げの味噌汁を作る準備に取り掛かる。底が黒ずんだ鍋に水を張ると、隣から痰の絡んだ咳払いが聞こえた。
「今日は、夕飯いらんから」
「吞んでくるの?」
「んだ。三上さんが、しつこくてかなわねぇの。あの人んち、最近ゴタゴタしてたっぺ。色々と話し聞いてほしいんだべな」
 三上さんは、笑った時の恵比寿顔が特徴的な人だ。頑固なおじいちゃんが唯一、職場で心を許している同僚。先週も二人で釣りに出かけ、大きなカレイを持ち帰って来ていた。
 灰皿代わりにしている空き缶の中に、短くなったタバコが消えた。おじいちゃんは換気扇の下で、何故か掌を握ったり開いたりを繰り返している。
「どうかした?」
「起きたら、手っこ痺れてしゃぁねぇの。昨日、たがねと石頭を握り過ぎたんだべか」
 浅黒くて、ゴツゴツした手を眺めた。『たがね』は、石を割ったり表面を削ったりする道具だ。『石頭』は、小型の槌を指す。おじいちゃんは十代の頃から、東松島市の石材店で働いている。俗に石工と呼ばれる職人で、岩盤から切り出された石に彫刻を施し、墓石や記念碑に仕上げるのが主な仕事だ。石材店の敷地内には、様々な作品が展示されている。大きなカエル、招き猫、狛犬。鍵盤の白黒も石で表現されたグランドピアノは、かなり目を引く。
「手、大丈夫?」
「ヘーキだ。また石っこ削ってるうちに、治るべ。迎え酒と一緒や」
 おじいちゃんは何度か咳き込んだ後、再び椅子に腰掛けてスポーツ新聞を捲り始めた。私は一度、着ている制服の袖口に鼻を近づけた。予想とは違って、タバコ臭くはない。その代わり、目玉焼きの匂いを強く感じた。
 朝食を全て作り終わったタイミングで、廊下から足音が聞こえた。足の裏をぺたりぺたりとくっ付けるような音に、床が軋む響きが重なる。お母さんが起きた気配を察して、少し濃くなった味噌汁を器によそった。
「香澄、やっと起きたな」
 おじいちゃんの呟きを搔き消すように、台所の引き戸がガラッと音を立てて開いた。顔を出したお母さんは、まだ寝間着姿のままだ。XLサイズの色褪せたTシャツに、膝が擦り切れたジャージを穿いている。椅子に腰掛けると、お腹の贅肉が幾つかの層を描いた。
「お母さん、おはよう。ってか、寒くないの?」
「そういえば、そうねぇ」
「長袖、着たら?」
「ご飯食べたらね」
 お母さんは肉付きの良い頰を揺らし、口元を緩ませた。垂れた大きな胸が、Tシャツに描かれた英語のプリントを歪ませている。白髪交じりのショートカットは、所々酷い寝癖でハネていた。長い睫毛と筋の通った高い鼻だけが、昔は誰もが振り向くような美人だった名残を漂わせている。
「今日の味噌汁、少し塩辛くなっちゃったかも」
「大丈夫よ。小羽ちゃんの料理は、全部美味しいから」
「いや、本当に分量間違えたの。無理だったら、残して」
 制服のポケットからスマートフォンを取り出し、画面に目を落とす。もう七時二十分を過ぎている。今日も待ち合わせ時刻に遅れそうな予感を覚え、胃の奥に焦りが滲んだ。
「おじいちゃん、私の分の目玉焼き食べる?」
「なして?」
「時間ヤバそう。食べてる暇ないや」
 おじいちゃんが無言で頷くのを確認してから、二人分の朝食を食卓に並べ始める。お母さんが箸を握った瞬間、私のお腹が激しく鳴った。
 二人が朝食を食べている間、洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗ってから、セミロングの髪を後ろで適当に束ねる。目の前の鏡には、青白い顔が映し出されていた。昨夜はテスト勉強に追われ、深夜二時まで起きてしまった。寝不足の目元は腫れぼったくて、眼差しは淀んでいる。多くのクラスメイトのようにアイメイクでも施せば、多少は瞳に光が宿るのだろうか。三人分の歯ブラシと電気シェーバーしか置かれていない洗面台を眺めていると、小さな溜息が漏れた。
 準備を終え、通学バッグを片手に再び台所に戻った。最後に、昨日の残り物を詰め込んだ弁当箱を冷蔵庫から取り出す。おじいちゃんは朝食を食べ終え、作業着の胸ポケットにタバコを仕舞っている最中だった。お母さんはまだ、目玉焼きを口に運んでいる。
「お母さん、今日のデイケアでは何するの?」
「なんだろうね。わかんないや」
「とにかく遅刻しないように。それに寒いから、何か羽織って行くんだよ」
 話しながらも、壁に吊るされたお薬カレンダーに目を向けた。一週間分の曜日の横には、朝薬、昼薬、夕薬、就寝薬を入れるポケットが設置されている。
「ご飯食べたら、ちゃんと薬飲んでね」
「はーい」
「それと、家を出る時は昼薬を忘れないように」
 目玉焼きの黄身を上唇に付けながら、お母さんが微笑んだ。先週は大丈夫だったけど、先々週は二回も薬の飲み忘れがあった。調子だけは良い返事を聞いても、手放しで信用はできない。
「薬のこと、約束だからね。それじゃ、今日もニコニコー」
 人差し指で、まん丸な頰に刻まれたえくぼを軽く突いた。ずっと続けている子どもじみた儀式は、いつの間にか『いってきます』の代わりになっていた。
 玄関で合皮のローファーを履いて、引き戸を開けた。外に出ると、波音を纏った風が制服のプリーツスカートを揺らす。十月の海は、曇り空の下で深緑に濁っている。絶えることのない潮騒は、今日も一定のリズムで網磯地区に響いていた。
 自宅の斜向かいにある網磯漁港では、ワカメやノリの養殖が盛んに行われている。簡単に端から端を行き来できる小さな漁港だけど、船溜まりに並ぶ漁船の数は多い。漁港のコンクリートの上には大量の縄やウキが放置され、太平洋から吹く潮風に晒されていた。網磯漁港の右側には赤と白のクレーンが伸びる大きな造船所があり、眺める海は見通しが悪くて狭く感じる。海が窮屈に感じられるのは、遠くに見える石巻工業港の影響もあるんだろう。
 砂浜を掘って人工的に造られた石巻工業港は、宮城県北部の物流拠点として発展していると、社会の授業で習ったことがある。沢山のクレーンが空に向かって伸び、国内外からの大型船の往来も多い。敷地内にある製紙工場の煙突から出る煙が、より一層空を曇らせていた。
 玄関脇に停めている自転車に跨り、自宅を振り返った。『織月』と描かれた表札の文字は霞んでいる。トタン造りの外壁は潮風の影響で錆び付いていて、お世辞にも立派とは言えない。築四十年を超える古びた平屋は、近所の二階建て住宅と比べて明らかに見劣りしていた。本当は自室があるような大きな家に住んでみたいけど、贅沢は言えない。台所の磨りガラスに映るお母さんのシルエットを眺めてから、待ち合わせ場所に向けてペダルを踏み出した。
 松林の小径を抜け、北上運河に架かる短い橋を渡り、市民センターや広大な田畑を通過した。左手の向こうには、航空自衛隊が所属する松島基地が存在している。まだこの時間帯は、空を駆けるブルーインパルスの翼は見当たらなかった。
 私が卒業した小学校の前に差し掛かると、片手でスマートフォンを取り出した。待ち合わせ時刻まで、あと一分を切っている。信号に焦れながら国道45号線を横切ると、同じ制服が淀川付近で既に待機している姿が見えた。私に気付いた凜子が手を振っている。航平はマウンテンバイクに跨りながら、教科書に目を落としていた。
「ごめん、また遅れちゃった」
 二人の側に着くと、謝りながらブレーキを強く握った。凜子は「全然、大丈夫」と微笑み、航平は背負っていたバックパックに無言で教科書を仕舞い始めた。普段の航平はミステリ小説を片手に待っていることが多いけど、今日は教科書を読んでいる。そんな姿を見て、忙しい朝のせいで忘れていたテストに対する焦りが急に強くなる。
 航平を先頭に、淀川に架かる国道45号線沿いを進む。車道を走る木材を積んだトラックや軽自動車が、次々と私たちを追い抜いていく。仙台銘菓の『萩の月』の看板広告を通り過ぎると、隣でママチャリのハンドルを握る凜子が細い眉を寄せた。
「ってか、ヤバイんだけど。昨日、寝ちゃった。小羽はどんな感じ?」
 私よりやや短めの髪が、潮風に煽られてなびいていた。最近ピアスの穴を開けたらしい左耳は、寒さのせいなのか、膿んでいるせいなのか、赤く色付いている。
「先生が匂わせてた範囲だけは、目を通したよ。でも、自信ないな」
「どこが出そうなんだっけ?」
「前やった小テストから、六割は出すって」
「マジか……それ知ってたら、一夜漬けしたのに」
 凜子は大袈裟な溜息を吐いた後、間延びした口調で続けた。
「でも、やっぱ無理だったかもなー」
「何が?」
「一夜漬け。昨夜は、アイツがなかなか寝なくて」
「アイツって、雄大くん?」
「そう。昨日はママが、特に調子悪かったからさ。お風呂から寝かし付けまで、全部あたしの役目」
 凜子が運転するママチャリの後部には、チャイルドシートが備え付けられている。だらりと伸びたシートのベルトが、車体の動きに合わせて揺れていた。
「雄大くんって、何歳になったんだっけ?」
「今、五歳。保育園でもふざけてばっかりで。この前も同じ組の子とケンカしちゃって、あたしが謝ったんだから」
「雄大くんって、活発そうだもんね」
「活発っていうか、落ち着きがないだけ。再来年には、卒園なのに」
 卒園という響きが妙に耳の中に残り、徐々に卒業という言葉に置き換わっていく。前を向いて、約一年半後の未来に想いを馳せる。どうしてか、今日の空模様のように全ては曇っていて不明瞭だ。二〇一〇年が終わるまで、あと二ヶ月。二〇一一年になったら本格的に進路を決めることになり、二〇一二年の春には高校を卒業だ。今年があっという間だったことを考えると、一年半の猶予は長くない。
 通学路を進み続けると、徐々に大型パチンコ店が目立ち始めた。歩道沿いに並ぶ幟が、風を受けてはためいている。いつも左折している交差点で赤信号に捕まったタイミングで、凜子が言った。
「航平は、今日のテストどうなのよ?」
 少し前で停まっていた制服が振り返る。航平が掛けている黒縁メガネは、浅黒い肌と絶妙に馴染んでいた。横に流している前髪の毛先に、白く固まった整髪料が残っている。彼は、口元にある黒子を指先で搔きながら大きな欠伸をした。
「もう、諦めた。住田と同じで、昨夜は寝てたし」
「そういう割には、さっき必死に教科書読んでたじゃん」
「さっき読んでたのは、数学の教科書や。今日の英語は、もう捨ててっから」
 言葉通り、投げやりな口調だった。私は口を挟まず、普段のように二人の会話に耳を澄ませた。
「そうやって、あたしや小羽を油断させてるんでしょ?」
「そんなことしねぇって」
「寝てたのも、実は噓なんじゃないの?」
「マジだから。昨夜は『大浜飯店』から出前頼んで、それ食ったら超眠くなってや。睡眠薬でも入ってたかもしんね」
 お腹が鳴った。ラーメンや餃子が有名な『大浜飯店』は、おじいちゃんの職場のすぐ側で営業している。一昨年開業した中華屋で、メニューも豊富だ。ラーメンは一杯三百八十円で、餃子は一皿百八十円。広い店内にはカウンターや机の他にも座敷があり、夜は中華料理をつまみにお酒を吞む人が多い。おじいちゃんも仕事帰りに、偶に足を運んでいるらしい。
 凜子の追及から逃げるように、二つのレンズが私の方に向けられた。
「織月んちも、大浜さんとこから出前頼むべ?」
「ごく偶にね。お母さんが、あそこの味噌ラーメン大好きなの」
「味噌ラーメンより、五目あんかけ焼きそばの方がうめぇべや。今度、そっち頼んでみ」
 航平の弾んだ返事が、寒空の下に漂った。おじいちゃんから毎月預かっている食費は、三万円。上手にやり繰りしないと、月末には寂しい料理が食卓に並ぶことになる。いくら『大浜飯店』のメニューが安いとはいえ、気軽に出前を取る勇気はない。
「そやそや、織月は大浜さんとこの新しいバイト知ってる?」
「新しいバイト? あの店って、夫婦二人で切り盛りしてなかったっけ?」
「でもや、昨日はいきなり綺麗な女の人が出前に来たの。今度、見てみ」
 曖昧に頷くと、信号が青に変わった。ゆっくりとハンドルを握りなおし、ペダルを強く踏み込む。
「住田、一緒に赤点取っぺな」
「あたしは、きっと大丈夫。さっき小羽から、超重要な情報を聞いたし」
「何、それっ。俺にも教えてや」
「餃子臭い人には、嫌です」
「五目あんかけ焼きそばしか、食ってねぇつーの」
 二人のやり取りを耳にしながら、徐々に通学路の風景が霞んでいった。お母さんは昼薬を忘れずに、家を出ただろうか。先週はデイケアに行くのを渋っていたから、少し心配だ。明日は二週間に一度導入している訪問看護師が来る予定だから、最近の様子をちゃんと伝えないと。英語の文法や数学の定理より、重要な内容を頭の中で整理した。
 学校の正門を通り抜けると、駐輪場に自転車を停めた。二人とはクラスは違う。ローファーから上履きに履き替えたら、それぞれのクラスメイトと過ごす時間の方が長かった。
 三人で適当な会話を繰り返しながら、昇降口に向かって歩き始める。航平は一昨日読んだらしいミステリ小説のトリックを解説し、凜子はいつものように私と腕を組んで興味なさそうに相槌を打っている。
「小羽、後ろの髪が凄いハネてるよ」
「えっ、本当?」
「うん。ちょっと待って、直してあげる」
 凜子に櫛で寝癖を直してもらっている途中で、冷たい風が頰を打った。季節は確実に、厳しい冬に向かっている。三人で一緒に登校するようになった頃は、まだ頭上に夏空が広がっていたことをふと思い出した。
『織月と住田の親も、あの病院さ通ってんだべ?』
 秘密を囁くような航平の声が、脳裏に蘇った。ここら辺で入院できる精神科病院は、一つしかない。よく考えてみると、割とありふれた偶然だ。
『ちょっと、話さねぇ?』
 二人とも部活やバイトをしていないけど、授業が終わると一目散に学校を飛び出していた。校内で家族の病を口にするのは気が引けるし、妙な噂がたっても困る。そんな事情もあって、予定を合わせるのは登校時が一番楽だった。家族の病で繫がった関係は、それ以来緩やかに続いている。
「オッケー、完璧」
 凜子の弾んだ声を聞いて、礼を告げてから再び歩き出す。校舎に入る前に見上げた空は、早朝と変わらず曇っていた。そんな鈍色に向けて、お薬カレンダーに昼薬が残っていないことを祈った。

 帰りのホームルームは、予想外に長引いた。他のクラスの子たちが廊下を行き来する気配を感じながら、黒板の上に設置された掛け時計を睨む。普段の終業時間より、もう十五分も過ぎている。
「お前ら、来年は最上級生なんやぞ! 本当に自覚あんだべな!」
 激昂する担任の声を聞いて、教壇に目を向けた。休み時間に少しうるさかっただけで、こんなに怒らなくてもいいのに。それに、騒いでいたのは一部の男子だけだ。静かにテストに備えていた人間としては、正直迷惑だ。
「他の奴らも見て見ぬ振りだったみたいだな! なして、注意しない? クラス目標に反してるべ!」
 自然と、教室の出入り口付近に貼られた英文を眺める。
『One For All, All For One』
 一人はみんなのために、みんなは一人のためにと脳裏で呟く。元々好きではなかったスローガンが、余計嫌いになった。口には出せないけど、この言葉は大きな矛盾を孕んでいるような気がする。『一人はみんなのために』に従えば、このまま目を伏せて担任の怒りが収まるのを待てば良いんだろう。でもそれだと、帰宅したら様々な家事が控えている者にとっては辛い。夕食の準備、掃除、洗濯、お母さんの服薬管理、それに明日も行われるテストの勉強。家事のスタートが遅れたら、そのぶん机に向かう時間が深夜にズレ込んでしまう。
「最近、緊張感が足りな過ぎるんでねーか」
 担任が大袈裟に溜息を吐くのを耳にしながら、もう一度クラス目標に視線を向ける。『All For One』の箇所が妙に霞んで見えて、何度か瞬きを繰り返した。自分を犠牲にして他人を助けることは、そんなに大事なことなんだろうか。担任の捲したてる声を聞きながら、誰にも訊けない問いが頭の中を巡った。
 やっとお説教が終わり、足早に廊下に踏み出した。普段学校を出る時刻より、もう三十分は過ぎている。
 中古で買った自転車に、変速ギアは付いていない。スピードが出るまで、自然と立ち漕ぎになった。横目には、校庭が映っている。白線で描かれたトラックに沿って、ジャージを着た同級生がジョギングをしていた。
 高校入学を機に、本当は陸上部に入りたかった。小さい頃から足の速さには自信があったし、中学のマラソン大会では六位に入ったこともある。でも、そんな希望は入学二日目の時点で諦めた。今の生活スケジュールを考えると、部活やバイトをやるのは到底無理だ。
 ハンドルを強く握り、必死に帰りの通学路を疾走し続ける。お揃いのジャージを着て汗を流すクラスメイトたちが、徐々に視界から消え去っていく。部活すら参加できないと悟った時の絶望感は、もう忘れてしまった。走りやすそうなジャージを着ることはできなかったけど、最新の携帯電話には買い替えてもらえた。そんな風に納得しながら、ペダルを漕ぐ両足に力を入れる。高校に隣接する三階建ての介護施設の庭では、車椅子に乗ったお婆さんと職員らしき人が花壇に目を向けていた。なんだか、羨ましい。今の私には、花をゆっくりと見る時間なんてない。
 漁港から漂う生臭い風を感じて、スピードを緩めた。庭先に自転車を停め、立て付けの悪い玄関の引き戸を開ける。三和土には、お母さんのスニーカーが放置されていた。片方は裏返り、もう片方は紐が解けている。脱いだローファーの隣に、汚れたスニーカーを揃えて並べた。
「ただいま」
 居間の明かりは灯っているけど『おかえりなさい』は、聞こえない。眉を顰めながら、短い廊下を進んで行く。居間に続く磨りガラスの格子戸を開けると、室内の端から端を行き来する太い身体が目に映った。
「お母さん、ただいま」
 返事はない。テレビから流れる情報番組の音声に、ブツブツと独り言が重なっている。不意に、お母さんの服装が朝と同じだということに気付いた。
「ねぇ、ちょっと。お母さん」
 再度呼び掛けると、やっと虚ろな瞳と目が合った。お母さんはすぐに、苦しそうな表情を浮かべた。
「大変なの。午前中からずっと、プーちゃんが足にまとわりついてきて」
「……で、今日はデイケアに行ったの?」
「無理よ。家を出ようとしても、プーちゃんが邪魔してくるもの」
 大袈裟な溜息を吐いて、室内を行き来する太い両足を見つめた。いくら目を凝らしても、お母さんが口にする『プーちゃん』の姿は認識できない。それでも、何年も繰り返し聞かされた説明で簡単にその容姿は想像できた。真っ白い毛で覆われたフワフワな生き物。一見するとシャム猫にも見えるらしいけど、目は三つあって尻尾は二股に分かれているらしい。
 無言で台所に足を向けた。壁に吊るされたお薬カレンダーを眺めると、今日の昼薬が手付かずのまま残っている。朝の祈りは、届かなかったみたいだ。
 再び居間に戻っても、お母さんはまだ室内を歩き回っていた。付けっ放しのテレビには、大盛りの海鮮丼が映っている。石巻の定食屋が取材されているらしく、海老やマグロの切り身が丼からはみ出ていた。私は画面を見つめたまま、小さく溜息を漏らした。
「お母さん、足がムズムズしない?」
「そりゃ、するわよ。プーちゃんが、ずっと舐めてくるし」
「とりあえず、頓服薬を飲もっか」
 今のお母さんは、抗精神病薬の副作用が出現している。足のムズムズ感は、アカシジアと呼ばれる錐体外路症状の一種だ。主治医曰く、アカシジアを訴える大半の患者は『足に違和感がある』とか『座っていられない』と口にするらしい。お母さんの場合は、プーちゃんに足を舐められていると表現することが多かった。
 海鮮丼を頰張るテレビリポーターから目を離し、足踏みをする素足を眺めた。お母さんの足の爪に塗ってあるマニキュアは、剝がれかけている。色はくすんだ紫で、私も仕上げを手伝っていた。地味なのか派手なのかよくわからない色を見つめてから、頓服薬を保管しているクリアケースに手を伸ばす。『織月香澄様』と表記されている薬包を取り出し、慣れた手付きで封を切った。
「これ飲んでさ、少しお話ししない?」
「でも、プーちゃんが……」
「頓服薬を飲んだら、きっとプーちゃんは足を舐めなくなるよ」
 副作用止めの白い錠剤を差し出すと、お母さんは恐る恐る口の中に入れた。居間のローテーブルに置かれていたコップに、クリームパンのような手が伸びる。太い身体と対照的に細い喉が上下したのを確認すると、話題を変えた。
「今日ね、英語のテストがあったの。明日は苦手な数学なんだよね」
 肉付きの良い手を握って、窓枠の影が伸びる座椅子にそれぞれ腰を下ろす。お母さんの額には汗が滲み、掌には熱がこもっている。ずっと腰を下ろすことができず、室内を徘徊していたと察せられた。
「お母さんは、何の教科が得意だった?」
「……水泳」
「体育ってこと? 今のお母さんからじゃ、全く想像が付かないんだけど。すぐ沈んじゃいそう」
「小ちゃい時は、浜で泳いでから……その時も、よくプーちゃんに足を引っ張られてたの……何度か、溺れそうになったこともあるし」
 その記憶は間違っていると感じながらも、否定せずに頷いた。お母さんの病的体験が活発になったのは、私が小学生になった頃からだ。それまでも幻聴や妄想を知覚していたと思うけど、少し風変わりで物静かな美人として片付けられていたらしい。今でいう『不思議ちゃん』に近いイメージだろうか。精神科病院を受診した当初は『精神分裂病』と診断され、今は『統合失調症』と呼び名は変わっている。
「あっ、プーちゃんが腸の中に入ってきた」
「大丈夫だよ。私が側にいるし」
 この症状は、医学的に体感幻覚と名付けられていた。身体に関係する幻覚で、通常では考えられない内容を口にすることが多い。以前のお母さんは『化け猫が脳を食べている』や『化け猫が皮膚の下を這っている』と話していた。化け猫という表現が怖くて、私が小学生の頃に可愛らしい名前に変えた。それ以来お母さんも『プーちゃん』という呼び名を使っている。
「今度は、胃を舐めてる」
「舐めてるだけなら、大丈夫だよ」
「そのうち、齧られるかも……」
「もし血を吐いたりすれば、私がちゃんと救急車を呼ぶから」
 それからしばらく様子を見たけど、荒唐無稽な発言が止まることはない。夕薬を早めに飲ませてみても、結果は同じだった。
「プーちゃんの尻尾は違法電波を受信するから、だんだん部屋の空気が変わってきてる。小羽ちゃんは、息苦しくないの?」
「私はヘーキ」
「……窓開けて。それと、ハンカチを口に当てないと」
 電波に関連した妄想も、お母さんがよく表出する症状の一つだ。立ち上がろうとする太い身体を必死に制して、居間の掛け時計に目を向けた。帰って来てから、まだ一切家事に手をつけていない。頭の中でやることを数えてみても、溜息が増えるだけだ。
「このままだと、小羽ちゃんも違法電波で痺れちゃう」
 瞬きもせず、目を見開く横顔を見つめた。お母さんの鼻は本当に形が良い。高さがあって、鼻先は嫌味がない程度に美しく尖っている。
「携帯電話の電源を切って。それに、テレビも消さなきゃ」
「そんなことしなくても、大丈夫だよ」
「悠長なこと言って……いざという時は、小羽ちゃんだけでも逃げなさいね」
 まるで、テレビドラマや映画に出てくるようなセリフだった。いくら非現実な内容でも、お母さんは本気でそう信じている。化け猫に付きまとわれ、違法電波に怯える現実。一瞬、居間の中が真っ白になったような気がして、片手で目元を擦った。すぐに色彩を取り戻すと、やるべきことの優先順位が変わっていた。
「家にいるのが不安だったらさ、一緒に散歩にでも行く?」
 私の提案を聞いて、お母さんが微かに頷いた。症状が強く出現している時は、今までも一緒に近所を歩き回っていた。外の風に触れると気分転換になるし、硬い表情も少しだけ和らぐ。それにお母さんは、網磯漁港から見える明かりが大好きだ。暗い海に映るネオンを眺めた後は、徐々に落ち着きを取り戻すことも多い。
「上着取ってくるね。ちょっと、待ってて」
「小羽ちゃん、せめて口に手を当てて。できるだけ、違法電波を吸わないように」
 不安げな表情を一瞥してから、短い廊下に踏み出した。海風に煽られ、背後にある玄関の引き戸が頼りなくガタつく。振り返った先の三和土には、二足の靴が並んでいる。履き古したお母さんのスニーカーを見つめながら、口元に手を当てた。生温かい息が掌に触れて、指の間を抜けていくだけだ。違法電波なんて、全く感じない。
 外に出ると、陽は落ちかけていた。視界に映る空は、藍色と橙がグラデーションを描いている。その下で、船溜まりに並ぶ漁船が濁った海に浮かんでいた。
「見て見て、空が綺麗だよ」
 私が弾んだ声を出すと、俯き加減だったお母さんが少しだけ顔を上げた。特に何も感想を口にすることはなく、太陽が海に沈む光景を眺めている。
「とりあえず、いつもの場所まで歩く?」
「……まだプーちゃんが付いてきてる」
「大丈夫だって。そのうち、いなくなるから」
 網磯漁港のコンクリートに触れる微かな波音を耳にしながら、肩を並べて歩き出した。近隣の民家の窓は、柔らかな光で染まっている。潮風に交じる夕食の香りを嗅いでしまうと、口の中に唾が滲んだ。日暮れの網磯漁港から見る家々は、どこも温かな空気を纏っている。
「お母さんは、今日何食べたい?」
「何もいらない……プーちゃんが腸の動きを止めてるし」
「そんなこと言って。後でお腹減っても、知らないからね」
 もう少し経てば、早めに飲んだ夕薬が効いてくるはずだ。病的体験が軽減したら、家に戻って手早く夕食を作れば良い。確か冷蔵庫には、焼きそばの生麵が残っていた。それなら、炒めるだけですぐに出せる。
 網磯漁港の端に着くと、沖に向かって防波堤が突き出ていた。右手には造船所のクレーンが伸び、視界の先では石巻工業港のネオンが派手な明かりを灯している。お母さんが気に入ってる場所で、どちらともなく足を止めた。
「あそこに、入ったことってあるの?」
 沖の方で灯る人工的な光を指差す。短い沈黙の後、隣で洟を啜る音が聞こえた。
「ないよ」
「いつか、行ってみれば?」
「ここから眺めてるだけで、十分」
 お母さんが人工的な光に目を細めている最中、チラリと地面の方を確認した。もう、足踏みは止まっている。それから、一緒に海を眺めた。夕暮れは終わりを告げ、藍色と橙が混ざりそうだった空はいつの間にか黒く染まっている。星は一つも見えないけど、宇宙が透けているような不思議な夜空だった。
「明るくて、忙しなくて。小っちゃな、東京みたい」
 潮風に攫われるような声を聞いて、隣に顔を向けた。すぐにお母さんのささくれた唇が上下する。
「東京はねぇ、空より地上に星があるから。あっちに住んでた頃、パパがよく言ってたの」
 お母さんがパパと呼ぶ人間は、世界で一人しかいない。毎年欠かさず、私の誕生日にだけ連絡をくれる人。脳裏に父のことが過り、自然と話題を変えた。
「で、プーちゃんはいなくなった?」
「そういえば、そうねぇ」
「それじゃ、家に戻ろっか。お腹減っちゃったよ」
 少しだけ強引に、肉付きの良い手を握った。お母さんは時折、離婚前に住んでいた東京のことを話す。私はその度に頷きながらも、胸に淀む本音は口にしなかった。都会のような人の多い街で、高校生が母親と手を繫いで歩いていたら目を引くかもしれない。混雑した地下鉄で独り言を呟いていたら、周囲から顔を顰められるかもしれない。この辺りが、人影の少ない静かな港町で良かった。誰かの目を気にすることなく、こうやって柔らかい手を引くことができる。
「夕食は、焼きそばで良い?」
「うん。でも、もやしは入れないでね。水っぽくなるから」
「贅沢言っちゃって。今日の焼きそばには、大量に入れよっと」
 私の冗談を聞いて、お母さんが拗ねるように下唇を突き出す。お互いの靴底が鳴る音が、穏やかな波音に交じった。
 家に戻ると、制服のまま焼きそばを炒めた。汚れた食器を洗うのだけは、お母さんの役目だ。水飛沫や洗剤の泡が飛び散るシンクを一瞥してから、私は軒先に急いだ。
 海風で湿った洗濯物を取り込み、居間で下着やバスタオルを畳み始める。その途中で、まだ浴槽に湯を張ってないことに気付いた。立ち上がったついでに、布団も敷いておいた方が要領は良い。
 浴室と寝室に行って戻ってくると、ローテーブルに置かれたスマートフォンが振動していた。画面には『おじいちゃん』と表示されている。今日は吞んでくると聞いていたけど、もう帰ってくるのだろうか。もしかしたら、夕食の催促かもしれない。震える物体を耳に当てると、よく通る声が鼓膜を揺らした。
「小羽ちゃんか?」
 聞こえてきたのは、おじいちゃんとは違う声だった。雨垂れの染みが滲む天井を見上げながら、電話口の相手を探る。恵比寿顔が脳裏を過り、ハッと息を吐いた。
「三上さん……ですか?」
「んだんだ。今日、武さんと吞む約束してたべ。今、大浜さんのとこ来てて」
 三上さんの息遣いは荒く、確かな焦りが滲んでいた。嫌な予感を覚え、スマートフォンを握る指先に思わず力が入る。
「大浜さんの店で吞んでたんだけどや、武さんの様子がおかしくて」
「おかしいって……酔っ払ってるんですか?」
「違う違う。そんな吞んでねぇもの。なんかや、手っこも足っこも痺れて立てねぇの。さっき、救急車呼んでっから」
 息が詰まった。おじいちゃんはお酒に強く、深夜まで吞んでも酩酊して帰ってきたところは見たことがない。気付くと、苦い唾が口の中に滲んだ。
「それで……今、おじいちゃんは?」
「店の座敷で横になってる。口も回んねぇから、まともに話せねぇっぺよ」
 電話口から、おじいちゃんの短く唸るような声が聞こえた。同時に、うっすらとサイレンの音が響き始める。
「救急車、来たみてぇだ。どこの病院さ行くか決まったら、また連絡すっから。小羽ちゃんは、携帯近くに置いててけろ」
 返事をする前に、電話が切れた音が耳の穴を冷たくさせた。無意識に、片付けの途中だった洗濯物に手を伸ばしてしまう。畳み終えた長袖のTシャツは、裏表が逆だった。
 床に置いたスマートフォンの画面に目を落としながら、深呼吸を繰り返す。このままじゃ、ダメだ。動揺していたら、その気配はきっとお母さんにも伝播する。制服のスカートに付着していた糸くずを手で払って、喉元に力を入れた。
「お母さん、ちょっと来て」
 何度か呼び掛けた後、廊下を進む特徴的な足音が聞こえた。磨りガラスの格子戸が開くと、私は無理やり笑みを浮かべた。
「今ね、三上さんから連絡があったの。おじいちゃんのことで」
 頰に力を入れて、笑みを絶やさずに続ける。
「大浜さんのお店で吞んでたらしいんだけど、調子が悪いんだって。これから救急車で、病院に向かうみたい」
 救急車という言葉に反応したのか、お母さんの瞬きが多くなる。できるだけ不安を抱かせないように、穏やかな口調を意識した。
「多分、私たちも病院に行くことになると思う。もし入院ってなったら、色々と同意書にサインしないといけないし」
 お母さんが精神科病院に入院した際の記憶をなぞる。その時は、おじいちゃんが様々な書類にサインをしていた。入院同意書、緊急連絡先、差額室料同意書等々……確か成人した家族のサインが必要だったはず。そうなれば、お母さんに側にいてもらわないと困る。
「それって、やっぱり……」
「プーちゃんのせいじゃないよ。多分、お酒の影響かな」
 先回りした返事を発しながら、脳裏では全く別のことを考えていた。運ばれた病院にもよるけど、向かうとなれば電車かタクシーになる。今の時間だとJR仙石線は一時間に二本しか走ってないし、いくら掛かるかわからないタクシー代を支払えるかは不安だ。その二つを天秤に掛けた結果、電車で向かうことに決めた。運ばれる病院が、せめて駅から近いことを願った。
「三上さんが、また連絡してくれるって。とにかく、家を出る準備しとこう」
「うん……」
「さっきの上着を羽織って。あと、お母さんの保険証も忘れずに。病院に着いたら、それで身分の確認をされると思うからさ」
 この状況で、妄想が再燃したらキツい。お母さんが廊下に踏み出す後ろ姿を見送ると、スマートフォンが再び振動した。急いで、耳に押し当てる。
「小羽ちゃん、受診先決まったぞ」
 相槌を挟みながら、まだ畳んでいない洗濯物の数々を眺めた。おじいちゃんが運ばれるのは、石巻方面にある総合病院らしい。初めて聞いた名称を、思わずもう一度確認した。
「アイズミ病院ですよね?」
「んだ。藍染めの藍に、イカ墨の墨や」
「藍墨病院……藍墨病院……」
 告げられた病院名を、間違えないように何度も復唱してしまう。
「オイは酒吞んでるし、ついてぐのは無理だ。小羽ちゃんたちが、病院さ行ってくれるか?」
「わかりました。私と母が、これから電車で向かいます」
 礼を告げて電話を切ろうとすると、引き止めるような声が続いた。
「電車ば、乗んねぇで。今から小羽ちゃん家に、バイトの子が向かうからや」
「……バイトの子?」
「んだ。店に出てたんだけど、もう上がるって言ってや。石細工体験にも参加したことがあるみてぇで、武さんとも少し面識あるって」
 確かにおじいちゃんの石材店では、一般向けの石細工体験プログラムを月に何度か開催している。スマートフォンから続く割れた声が、再び思考の歯車に油を注した。
「一緒にタクシーで行ぐって。小羽ちゃんたちは、玄関先に出ててけろ」
「でも、タクシー代が……」
「それは、立て替えてくれるべ。武さんの携帯も、その子に持たせっから」
 唐突に電話が切れた。この数分間で起きたことが、目まぐるしく脳裏を駆け巡る。
 唸るような声が聞こえていたから、おじいちゃんの意識はあるのだろう。でも立てないということは、重篤な状態なのかもしれない。耳に残る鋭いサイレンの音が、心配と不安を煽っていく。
「ジャンパー着たよ」
 身支度を終えたお母さんが、廊下に立っていた。片手には、保険証を握っている。その姿を目にすると、騒めいていた胸が一気に凪いでいった。
「お店の人が、タクシー呼んでくれたみたい。もう、外で待ってようか」
「タクシーに乗るの、久しぶりね」
「……とりあえず、保険証は私が持っとくよ。落としたりしたら、大変だからさ」
 受け取った保険証を制服の内ポケットに仕舞い、小走りで玄関に向かった。こんな時でも、やり残した数々の家事が脳裏にチラつく。
「あっ、お湯出しっ放しかも」
 急いで踵を返した。洗面所を横切る途中で、不意に足が止まる。鏡に映る制服姿を見て、明日もテストが控えていることを思い出した。

 外に出て数分もしないうちに、ヘッドライトの光が暗い路上を照らした。タクシーが目の前で停車すると、すぐに助手席のドアが開いた。
「織月さん?」
 助手席のドアから上半身を覗かせたのは、髪を後頭部で一つに束ねた女性だった。顔半分が影に覆われ、表情はよく分からない。何も反応しないお母さんに代わって、私が小さく頷いた。
「とにかく、乗って」
 今度は後部座席のドアが開いた。お母さんの手を引きながら、先にタクシーに乗り込む。車内は、仄かに香ばしい匂いが漂っていた。女性が羽織っているカーキ色のブルゾンに染み付く、ラーメンや餃子やチャーハンの匂いのせいだろうか。
 タクシーが走り出すと、助手席の女性がこちらを振り返った。
「救急車が来た時も、武さんの意識はあったの。ただ……手足に力が入らなくて」
 美しい顔立ちに目を奪われる。一重の切れ長な目元が印象的で、お母さんと同じぐらい鼻筋が通っていた。薄闇の中でも肌の白さが目立ち、頰から顎にかけての輪郭はシャープな曲線を描いている。小さな口元から覗く八重歯だけが、幼い愛くるしさを演出していた。
「トイレで尻餅をついているのを、わたしが見つけて。立ち上がらせようとしても、なかなか足に力が入らなくて……」
 転倒前後の状況を話す内容が続いた。彼女が他の席に注文を取りに行った際、トイレに立つおじいちゃんとすれ違ったらしい。その足取りはかなりふらついていて、自然と目に留まったそうだ。予想通り、すぐにトイレから派手な物音が響いたと告げられた。
「二人掛かりで席に戻したんだけど、徐々に顔つきも歪み始めて。上手く表情を作れないっていうか……」
 言い淀みながらも、再び薄い唇が上下する。
「痺れのせいか、腕を上げることもできなくて。これは、お酒のせいじゃないなって」
 彼女は目を伏せると、再び身体を前に向けた。タクシーが路上を走行する音だけが、妙に耳に響く。隣を向くと、お母さんは口元を半開きにして車窓をぼんやり眺めている。仕方なく、私が沈黙を破った。
「ご迷惑お掛けしました……」
「……今考えれば、もっと早く救急車を呼んでれば良かった」
 力ない声を聞きながら、刻々と料金が加算されていくタクシーメーターを見つめた。
「あなたは気にしないで、全部プーちゃんのせいだから」
 突然、お母さんが呟いた。隣の太腿に触れて合図を送っても、気にする素振りはない。
「プーちゃんって、違法電波を操れるし。きっとおじいちゃんの手や足が痺れたのも、磁場が乱れた影響ね」
「ちょっと……お母さん」
「プーちゃんは多分、ラジオかインターネット回線を使ってお店に忍び込んだんだと思うの。あの化け猫は、そういうの得意だから。それで、あなたは大丈夫?」
 車窓から入り込んだ街灯の明かりが、助手席で前を向く美しい横顔を照らしている。彼女は何度か瞬きを繰り返すと、再びこちらを振り返った。
「わたしは、大丈夫です」
「なら良かった。因みに、あなたのお名前は?」
「申し遅れました。浅倉青葉と言います」
「浅倉さん、一応携帯電話の電源は切っておいた方が安全ね。それと運転手さん、有線の交通情報には気をつけて。プーちゃんが、噓の情報を流してるかもしれないから」
 反射的に「いい加減にしてよ!」と、強めに口にしていた。お母さんは肩をすくめると、芝居掛かった溜息を吐いて再び車窓の方を向いた。
「母が……すみません。気にしないで下さい」
 スカートの端を強く握りながら、俯く。恥ずかしくて、頰が一気に火照っていた。おじいちゃんのことに気をとられていたせいで、お母さんの頓服薬を持参するのを忘れていた。強い後悔を覚えると、車内に漂う薄闇が急に濃度を増した。
「電源、切りましたよ」
 そう声が聞こえ顔を上げると、二つ折りの携帯電話がこちらに向けて掲げられていた。画面は真っ暗で、付着している指紋で汚れている。
「なので、安心してください」
 浅倉さんが穏やかに呟いた。携帯電話が視界から消えた後、私はようやく座席の背もたれに身体を預けた。
 しばらくして、藍墨病院の正門が見え始めた。徐行したタクシーが、敷地内に入っていく。薄明かりが灯る正面玄関前に着くと、運転手はサイドブレーキを引いた。タクシーメーターは、四千円近い金額を表示している。
「支払いは、済ませておくから。二人は、早く行って」
 申し訳ない気持ちはあったけど、素直に頷いた。お母さんを促して、タクシーのドアを開ける。暖房が効いていた車内とは違って、冷たい風が吹きつけてくる。
 正面玄関の自動ドアは、固く閉ざされていた。外から院内に目を細めても、常夜灯が点々と灯っているだけで人影はない。
「こっちの玄関は閉まってるから、違うところから入ると思うんだけど……」
 吐いた白い息を割りながら、辺りを見回す。『休日・時間外出入り口』と表記された看板が目に留まり、肉付きの良い手を強く握った。その看板に描かれた矢印に沿って進むと、煌々と明かりが灯る場所を見付けた。
「多分、あそこだ」
 休日・時間外出入り口には、警備員が待機する窓口があった。早口で事情を説明すると、警備員は受話器を手に取り、どこかに電話を掛け始めた。
「今から看護スタッフが来るんで、少々お待ちください」
 事務的な口調が窓口から届くと、繫いでいた手にまた力が入った。何かの合図だと勘違いしたのか、肉付きの良い手が握り返してくれる。外はこんな寒いのに、お母さんの掌は汗ばんでいた。
 姿を見せた看護師は、若くて化粧の濃い女性だった。お団子にした髪は茶色く、両耳にはリング状のピアスがぶら下がっている。彼女に誘導されながら、院内の暗い廊下を進んだ。
「あのっ……おじいちゃんの様子は?」
「意識はあるから安心してね。ゆっくりとなら、会話は成立するし」
 どこかで最悪な事態も想定していた。看護師の返答を聞いて、安堵の溜息が漏れる。
「搬送後は、頭部を撮影する検査や点滴を実施してるの」
「おじいちゃんは、頭の病気なんですか?」
「詳しくは、医師からの説明になるかな。まずはご家族からも、少しお話を伺いたくて」
 看護師に案内されたのは、小さな個室だった。四人掛けの机の上には透明なファイルに入った書類とノートパソコンが一台置かれ、壁際にはレントゲン写真を映す機器が設置されている。椅子を引いて腰を下ろすと、窓がないせいか息が詰まった。
「早速なんですけど、幾つか教えて欲しいことがありまして」
 看護師の視線が、隣に座るお母さんに注がれた。
「武さんは過去に、大きなご病気ってされたことあります?」
 お母さんは目を泳がせ、何度か洟を啜った。殺風景な空間に漂う沈黙は、耳の中に痛みを走らせる。看護師は一度小さく咳払いをすると、質問を変えた。
「武さんって、毎日何らかの薬って飲んでますかね?」
 お母さんはやはり黙り込んだまま、無言で目を伏せた。慣れない環境で、緊張しているのが伝わる。看護師が細い眉を僅かに寄せた瞬間、口を挟んだ。
「特に内服している薬はありません。どこかの病院に入院したという話も、聞いたことはないです」
 看護師の長い付け睫毛が、私に向けられる。
「それじゃ、お薬手帳とかは持ってないよね?」
「はい。元々、病院は苦手みたいで……」
「健康診断とかで、高血圧や糖尿病を指摘されたことはない?」
「血圧は高いって……本人は、あまり気にしてなかったですけど」
「因みに、最近の体調はどうだった? 例えば眩暈や頭痛、手足の異常を口にしたり」
「今朝、手が痺れるとは話してました……」
 看護師の視線が、もうお母さんに向くことはなかった。派手な化粧とは違って、深爪の指先がパソコンのキーボードを叩き続ける。
「武さんの体重と身長ってわかる?」
「確か百六十五センチの、六十五キロです。健康診断の用紙を、覗いたことがあるので」
「因みに今日も、仕事に行ってたんだもんね? それじゃ、日常的に手助けがいることもないか」
 思わず家事は一切やらないと口に出しそうになったが、ゆっくりと飲み込んだ。今は、そういうことを知りたい訳ではないんだろう。自立して歩けるとか、トイレを漏らさないとか、手助けなく着替えられるとか、日常的な生活動作を訊かれているような気がした。その他にも幾つか短い質問が続くと、看護師は透明なファイルに手を伸ばした。
「医師の説明があるまで、書類の記入をお願いしようかな」
 私たちに向けて差し出された書類には、住所や緊急連絡先を書く欄が並んでいた。
「ペンは持ってないよね?」
「はい……急いで来たので」
 白衣のポケットから抜き取られたボールペンは、迷いながらも母に差し出された。肉付きの良い手は恐る恐るボールペンを受け取ったけど、文字を書き始める気配はない。虚ろな眼差しを、紙面に向けている。
「あのっ……これって、私が書いても良いですか? 母だと時間が掛かると思うので」
「別にサインとかはないから大丈夫だけど、第一連絡先は大人のご家族が良いかな」
 紙面に目を落とすと、第三連絡先まで記入する欄があった。
「第一連絡先は母にしますけど……第二連絡先は私でも良いですか?」
「うーん。他にご家族とかはいない?」
 一瞬、東京に住む父の姿が浮かんだ。私の誕生日だけ『おめでとう』と『ありがとう』のメールをやり取りする関係。既に再婚をしていて、新しい家庭を築いている人間に迷惑を掛ける訳にはいかない。
「いません……」
「少し遠方に住んでる人でも良いから、親戚の方とかは?」
「……親戚付き合いは、全く無くて」
 看護師は少し悩んだ後「とりあえず、あなたの連絡先を書いておこうか」と、口にした。許可を受けて、紙面にボールペンを走らせる。第一連絡先は殆ど使っていないお母さんの携帯番号を、第二連絡先は私の携帯番号を、第三連絡先は空欄のまま提出した。
 看護師が席を外してから数分経つと、白衣を着た中年男性が現れた。口元には無精髭が張り付き、掛けているメガネの奥には僅かに疲労の色が滲んでいる。
「どうも。本日、当直をしている医師の田村です」
 対面に位置する椅子に座った医師は、こちらを一瞥してから言った。
「急なことで、お二人も驚いたでしょう?」
 私が曖昧に頷くと、医師が何度かメガネのブリッジに触れた。
「検査の結果や身体所見から、武さんは脳梗塞を発症しているようです。お二人は、この疾患をご存じですか?」
 さらりと告知された病名を聞いて、心臓が強く鳴った。医師の質問を聞いても、お母さんは何の反応も示さなかった。代わりに、私が首を横に振った。
「……詳しくは知らないです」
「そうですか。まずは、この疾患について簡単に説明しますね」
 医師は一度咳払いをしてから、淡々と話し出した。
 脳梗塞は、血の塊によって脳の血管が閉塞する病気らしい。脳の血管が途中から詰まると、そこから先に酸素や栄養を含む血液が届かなくなってしまう。そんな状態が続けば脳の神経細胞が壊死し、様々な障害が生じてしまうと聞かされた。
「脳梗塞には、三つの病型がありまして」
 医師の話に頷きながら、説明された内容を脳裏で整理する。
 心臓で作られた血の塊が原因で発症する場合を『心原性脳塞栓』と呼び、血管内に溜まったコレステロールが原因で発症する場合を『アテローム血栓性脳梗塞』と呼ぶ。
 脳の深部を流れる細い血管が詰まり発症する場合を『ラクナ梗塞』と呼ぶらしい。
「脳のダメージを受けた部位にもよりますが、それぞれ予後が違うんです。この三つの中で最も重症化し易いのは、心原性脳塞栓ですね。前触れなく突然発症し、脳の広範囲に影響を及ぼすケースが多いので」
 医師は一度言葉を区切り、続ける。
「逆に比較的予後が良いとされているのは、ラクナ梗塞です。ラクナとは、ラテン語で『小さなくぼみ』という意味なんです。脳の細い血管が詰まるので、ダメージを受ける範囲も十五ミリ未満と小さいんですよ。経験上、発症時に意識障害を伴うケースは少ないですね。中には、発症しても無症状の方もいるぐらいですから。しかし、症状が軽いからといって放置するのは非常にマズいんです。ゆくゆくは認知機能に障害が出たり、新たな脳血管障害の誘因になりますので」
 医師は机に置いてあるパソコンを操作しながら、一度咳払いをした。
「撮影した画像を確認すると、武さんはラクナ梗塞でしょう」
 パソコンが、こちらに向けられた。画面には、胡桃を白黒で写したような画像が表示してある。すぐに、脳だとわかった。
「これは、武さんの頭部をMRIという検査で撮影した画像です。この部分が、妙に白くなっていますよね?」
 医師が指差した箇所に目を凝らす。脳の一部に、確かに白い点が映っていた。
「武さんの右手の痺れや舌のもつれは、この病巣の影響だと思います」
 今朝換気扇の下で、閉じたり開いたりを繰り返していたシワの寄った手を思い出す。
「脳は謂わば、身体全体を統制する司令塔ですから。障害された部位によっては、様々な症状が出現するんです。典型的なものだと、病巣と反対側の手足に麻痺が出たり、痺れを感じたり、口角が下がったり、話しにくくなったり。要は運動や感覚、発声に関係することが障害されてしまうんです」
 白い点がある方には『Left』と表記してある。病巣と反対側に麻痺が出るという説明を思い出しながら、掠れた声で訊いた。
「手術は、するんですか?」
「現状、必要ないかな。主に、点滴や内服による保存的治療を続ける予定です」
「手や足の痺れは……いずれ治るんですか?」
「引き続き経過は追っていきます。さっきラクナ梗塞は比較的予後が良いと話したけど、全員がスムーズに回復できる訳ではないからね。血栓が移動すると、残念ながら入院後に症状が悪化するケースもあって」
「そうですか……」
「それにラクナ梗塞の発症は、高血圧が関係している場合が多いですから。入院中に血圧のコントロールや、生活習慣の改善についても指導していきます」
 頷くことしかできなかった。短い沈黙を破ったのは、隣から響く大きなクシャミだった。お母さんは何度か洟を擦ると、一度深く頭を下げた。
「先生、どうか父をよろしくお願いします」
「武さんの病状がいち早く回復するように、努めていきます」
「何かありましたら、協力しますので」
「ありがとうございます。それでは早速、入院に関する書類の説明に移りますね」
「お願いします」
 普段とは違うまともな姿を見て、強張っていた身体の力が抜けた。今更になって、夕薬が効いてきたのかもしれない。今までも症状に左右されていない時は、こんな風に落ち着いた態度を取ることができていた。ふくよかな体型に、貫禄が滲み始める。お母さんは澄んだ眼差しを浮かべながら、また何度か洟を啜った。
「先生、一つお訊きしたいことがあるんですけど」
「なんでしょう?」
「パソコンを使えるということは、病院内にWi-Fiが飛んでるんですか?」
「院内の全て、という訳ではないんですが。それが何か?」
 美しい鼻の穴が微かに膨んだ瞬間、嫌な予感を覚えた。
「もしプーちゃんが点滴の管なんかをイタズラするようなことがあれば、Wi-Fiの電源を落とした方が良いと思います」
 医師が、書類を取り出そうとする手を止めた。お母さんは秘密を告げるように、声を潜めた。
「プーちゃんは、Wi-Fiを使って高速移動ができるんですよ」
「プーちゃん……ですか?」
「まだ公表されていないのですが、政府関係者からの情報です。一応、先生だけにはお伝えしておいた方が良いと思いまして」
 ずっと淡々としていた医師の表情に、僅かに苦笑いが浮かんだ。
「ご忠告、ありがとうございます」
 入院申し込みや治療計画について記載された書類が、お母さんに向けて差し出される。紙が擦れる乾いた音が、やけに耳に残った。
 私が口を挟み、お母さんはようやく全ての書類にサインを終えた。医師が一礼して何処かに消えると、入れ替わるように先ほどの看護師が顔を覗かせた。
「不備がないか、一度書類を確認しても良いですか?」
 お母さんの丸文字が記載された書類を手渡すと、彼女は一枚一枚目を落としながら口を開いた。
「この時間帯は、もう事務が閉まってるの。入院手続きは後日になるんだけど、次はいつ来院できそうかな?」
「やっぱり、早い方が良いですよね?」
「そうだね。できれば」
「……明日来ます」
「因みに、事務は十七時までだからね」
 学校から直接自転車で向かえば、余裕を持って間に合う。でも、手続きの際には大人が必要だろう。一度家に戻ってお母さんと電車で向かうとなれば、十七時に間に合うかは正直自信がなかった。
「入院手続きの際には、預かり金として十万円を頂いてるの。それは大丈夫?」
 喉が詰まり、すぐに返事ができなかった。そんな大金を財布に入れたこともない。十七や十という数字が、頭の中で交互に浮かんでは消えていく。
「今日って、おじいちゃんに会えますか?」
「短時間なら、大丈夫よ」
「……お金のこと、訊いてみます」
 思わず、目を伏せる。履いていた茶色のローファーに、お母さんから伸びた影が触れていた。
 看護師に案内された大きな部屋には、カーテンで仕切られたベッドが縦一列に並んでいた。消毒液の匂いが室内に漂い、白衣を着た人々が忙しなく行き交っている。
「武さんのベッドは、一番奥なの」
 看護師の背中に続き、通路を進んだ。所々に置いてあるカートには、ガーゼや注射器がまとめられている。吊るされた点滴や血圧計が幾つも横目に映り、大人がゆうに横になれるストレッチャーが壁際で数台待機していた。私たちが歩く足音に、時折患者の呻く声が重なった。
 仕切られたカーテンを開けると、ベッド上でおじいちゃんが横になって目を閉じていた。腕には半透明な管が伸び、頭の方に置かれた心電図の機器が尖った波形を描いている。壁には酸素を供給する瓶も設置してあった。今の状態には必要ないのか、酸素マスクは口元を覆ってはいない。
「おじいちゃん」
 呼びかけると、腫れぼったい瞼が開いた。右側の口角だけ不自然に下がり、聞いていた通り表情は歪んでいた。
「ふまんな。やっへもうた」
 舌が回らない声に、仄かにお酒の臭いが交じっていた。おじいちゃんの顔を見てしまうと、喉や鼻の奥が熱くなる。
「私たちは大丈夫だから、おじいちゃんはゆっくり休んで」
「あふには、ちはうひょうひょうにうふふ」
 何度か聞き返して『明日には違う病棟に移る』と、理解した。
「おじいちゃん、もう喋らなくて良いよ」
 預かり金の問題を、胸に仕舞い込んだ。こんな状態で話すのは酷だ。明日ちゃんと、事務の人に事情を説明して十万円は待ってもらうしかない。こんなにも辛そうなんだし、即刻追い出されることはないだろう。
 私は腰を屈め、点滴の繫がっていない方の手を握った。おじいちゃんは握り返そうとしたようだけど、弱い握力しか伝わらない。
「今日は、もう帰るね」
 おじいちゃんが僅かに頷いたのを確認し、ずっとベッドサイドで棒立ちのお母さんに目線を送った。
「お母さんは、何か言うことある?」
「お父さん、先生にはWi-Fiのことを伝えといたからね」
 お母さんなりのエールを聞いてから、私はゴツゴツとした掌を離して立ち上がった。踵を返そうとすると、痰の絡んだ声が背中に触れた。
「はふみ」
 呂律の回らない声だったが『香澄』と、はっきり聞こえた。疲れ切った眼差しは、お母さんを捉えている。
「ほはねのいふほほ、ひふんだほ」
 上手く伝わらなかったのか、お母さんが軽く首を捻った。
 休日・時間外出入り口に向かいながら、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。時刻は、もう二十一時を過ぎている。避難経路を示す誘導灯が、薄暗い廊下を緑色に照らしていた。
 窓口に到着すると、制帽を直している警備員に早口で告げた。
「先ほど入院した織月武の家族です。今日はもう帰ります」
「入院手続きの件は、医療スタッフから聞きましたか?」
「はい……また、明日来ます」
「最後に、ご家族の身分証をコピーしてもよろしいでしょうか?」
 制服の内ポケットから、お母さんの保険証を取り出した。仰々しく受け取った警備員が、奥の方に消えていく。一区切りついて安心したせいか、唐突な尿意が下腹部を襲った。
「お母さんは、トイレ大丈夫?」
「うん。ヘーキ」
「私は、ちょっと行ってくる。保険証を受け取ったら、ここで待ってて」
 トイレは、ここから少し戻ったところにあった筈だ。下腹部に力を入れて、今歩いてきた暗い廊下を振り返った。
 用を足し終わると、想像以上に身体が疲れていることに気付いた。手洗いをした後、洗面鏡に映る青白い顔色を見つめる。帰ったら家事の残りやテスト勉強が控えている現実を想うと、自然と眉根が寄った。
「あっ、ユウコじゃん」
 不意に、静かだった廊下の方で声が響いた。二つの足音が、トイレ前の廊下で立ち止まる気配が届く。
「お疲れ。トモミも、今日夜勤だったんだ?」
「そうなの。採血のスピッツ切れちゃって。検査室に取りに行くとこ」
 トモミと呼ばれる女性の声には、聞き覚えがあった。多分、さっきまで対応してくれた看護師だ。気不味さを感じ、このままトイレから出て行くのを躊躇ってしまう。
「救外は忙しい?」
「まずまず。イレウスとアッペと、ラクナだったおじいちゃんが運ばれてきたよ。さっきまで、家族対応してたの」
 おじいちゃんの話が出て、瞬時に息を潜めた。
「ってかさ、その患者の娘がプシコっぽくって。一緒に来た高校生の孫から、話聞いちゃったよ」
「へぇ。そうなんだ」
「しっかりした子だったから、良かったけどさ。でも親がそんな感じだし、可哀想だったな」
 違法電波なんか信じていないのに、反射的に口元を手で覆っていた。喉に思いっきり力を入れて、息を止める。青白かった顔色が、徐々に赤みを帯びていく。二つの足音が完全に消えたのを確認して、やっと息を吐き出した。肩で呼吸を整えながら、蛇口を捻る。気付くと、もう一度意味もなく手を洗っていた。
 プシコは「精神科」という意味を指す医療用語だ。お母さんの掛かり付けの精神科病院では聞いたことはないけど、風邪を引いて受診した身体科病院のスタッフが、ひそひそと話しているのを耳にしたことがある。
『娘がプシコっぽくって』
 さっきの看護師は、医療用語を口にしているようには聞こえなかった。軽蔑や侮辱するような響きだけが、ガムのように耳の中に貼り付いて取れない。思わず、蛇口を全開に捻っていた。石鹼の泡がゆるゆると排水口に流れていくだけで、淀んだ気持ちは何も変わらない。
 しばらくして、ようやく水を止めて顔を上げた。洗面鏡に映る口元には、何故か笑みが滲んでいた。顔の筋肉が、無意識のうちに平然を装おうとしている。そんな虚しい表情と、数秒だけ目を合わせた。

 外に出ると、骨を軋ませるような冷たい風が制服を襲った。隣でくしゃみをする音が、星のない夜空の下に漂う。
「タイミングよく、電車に乗れると良いけど……」
 正面玄関の方に歩きながら、スマートフォンで手元を光らせる。ネットで最寄り駅の時刻表を確認すると、予想通り一時間に二本しか電車は走っていなかった。
「小羽ちゃん、タクシー呼ぼうよ」
「えー。四千円ぐらい掛かるじゃん」
「お母さんの隠し財産、使っても良いから」
「そんなのないでしょ?」
「あるわよ。国会議事堂に電話したら、すぐに振り込んでくれるもの」
「あっそ。とりあえず、ダイエットがてら駅まで歩こうか」
 スマートフォンをポケットに仕舞い、顔を上げた。不意に、少し離れた場所で人影が見えた。薄闇を纏った人物もこちらに気付いたらしく、手を振っている。
「あの人って……」
 歩調を緩めながら、目を凝らす。縁石に座っていた浅倉さんが、小走りで近寄って来る姿が見えた。
「二人とも、お疲れ様」
「……待っててくれてたんですか?」
「そう。これを、渡すの忘れて」
 彼女は洟を啜ると、ポケットから二つ折りの携帯電話を取り出した。見慣れた灰色のストラップが、夜風に揺れている。おじいちゃんの携帯電話だった。
「わざわざ……すみません。ご迷惑お掛けしました」
「気にしないで。それより、武さんの様子はどうだった?」
 受け取った携帯電話は、氷のように冷たかった。長い時間、外で待機していたのが伝わる。
「先生の説明では、脳梗塞だったみたいで……」
 言葉を詰まらせながら、医師から聞いた内容を辿々しく伝えた。浅倉さんは時折頷くだけで、口元を結んだままだ。
「そんな感じです……」
 話し終えた後、強い風が吹いた。乱れた前髪を指先で払っていると、浅倉さんが呟く。
「武さんも大変だったけど、二人も疲れてるでしょ。特に君は、明日も学校だよね? 早く帰って、お風呂で身体を温めないと」
「そうですね……それに、終電も近いし。急ぎます」
 仙台方面に向かうJR仙石線の終電は、二十二時だ。もたもたしてると、間に合わない。
「何言ってんの。帰りも、タクシー呼ぶから。わたしが払うんで」
「大丈夫です。行きも払ってもらったし……電車で帰ります」
「遠慮しないで。折角待ってたんだから、これぐらいさせてよ」
「でも……」
「こんな寒いんだから、駅まで歩いたら風邪引くよ」
 浅倉さんはブルゾンのポケットから携帯電話を取り出し、すぐに耳に当てた。戸惑いながら横顔を眺めていると、隣から咳き込む声が聞こえた。お母さんの美しい鼻からは、鼻水が垂れている。この夜を切っ掛けに、熱でも出たら大変だ。ようやく、浅倉さんの好意に甘えることに決めた。
 タクシーが到着すると、行きと同じように後部座席に乗り込んだ。数分もしないうちに、お母さんのイビキが車内に漂う。
「すみません、うるさくて」
 鼻を軽くつまんだり、頭の位置を少しだけ変えると、イビキが寝息程度に変わった。
「えっと、名前は小羽ちゃんだっけ?」
「あっ、はい」
「寝てても、良いよ。起こしてあげるから」
「大丈夫です。三十分もしないで着きますし」
 足元から漂う温い空気が眠気を誘ったけど、欠伸を嚙み殺した。またお母さんのイビキが酷くなったら、対処しないといけない。車窓が映す夜の風景を漫然と眺めながら、帰宅した後にやるべきことを脳裏で数える。
「おうちに帰ったら、他にご家族はいるの?」
「いません。ウチは離婚してるんで」
「そっか。わたしの両親も離婚してるの。同じね」
 どう返事をして良いか、わからなかった。結局、頷くだけに留めていると、浅倉さんが振り返った。
「ねぇ、コレ見てくれない?」
 私に向けて、携帯電話が差し出された。受け取って画面に目を落とすと、御影石で作られた丸い物体の画像が表示されていた。所々凸凹が目立ち、上部には小さな窪みがある。
「以前、小羽ちゃんのおじいちゃんが働いてる店で作ったんだ」
「石細工体験に、参加した時ですか?」
「そう。これは、最初の作品。どうかな?」
 返事に戸惑った。正直、そこら辺に転がっているただの丸い石にしか見えない。無理やり集中して観察すると、上部にある窪みがなんとなく果物を想起させた。
「桃……いや、葡萄ですか?」
「残念。これは、リンゴ。他にも作ったの」
 浅倉さんは、他にも画像を見せてくれた。その全てが、リンゴの石細工だった。全て歪な円形をしていて、やはりどれもただの石にしか見えない。作品の底の方には、名前の青葉と掛けているのか葉っぱの形をしたサインがさり気なく彫られている。
「今ではすっかり石細工にハマっちゃって。ホームセンターで、石工用の道具も買っちゃった」
「……おじいちゃんが退院したら、伝えときます。きっと、喜ぶから」
 口先だけの感想を告げた。浅倉さんは得意気に八重歯を覗かせると、再び前を向いた。
「小羽ちゃんは、高校生だっけ?」
「今は高二です。青葉さんは、お幾つなんですか?」
「わたしは、二十六」
 私と比べて、十歳近く離れた大人だった。成人している女性は、往復のタクシー代が五千円以上になっても顔色は変わらない。
「小羽ちゃんは今、何かハマってることってある?」
「私は……別に何も」
 気の無い返事をしてしまったせいか、会話が途切れた。おじいちゃんのことで色々とお世話になったのに、不味かったかもしれない。意識して、少しだけ声のトーンを上げた。
「今週はテストが沢山あって、忙しいんです。明日は苦手な数学だし」
「大変ね。それじゃ、帰ったら勉強するんだ?」
「うーん……今日は疲れちゃったし、諦めて寝るかもしれません。明日も学校が終わったら、さっきの病院に行かなきゃいけないんで」
「えっ、なんでよ?」
「まだ、入院手続きが終わってなくて」
「それってさ、小羽ちゃんも行かなきゃダメなの?」
 再び、車窓に目を向ける。対向車線を走るトラックのヘッドライトが、胸の奥の本音を一瞬だけ照らした。
「お母さん一人じゃ、不安なんで」
 それだけ告げて口元を結んだ。他人にお母さんの病気のことを、詳しく語る気はない。さっき噓でも、目を閉じておけば良かった。そうすれば、気不味い三十分はすぐに終わった筈なのに。
「明日、わたしが代わりに行こうか? 小羽ちゃんのママさんと一緒に」
 唐突な提案を聞いて、目を見張った。浅倉さんは洟を啜りながら、一方的に続ける。
「そうなったら、私物の差し入れも必要よね。最低限必要な物って、洗面用具や歯ブラシやコップぐらいでしょ? 病衣とかタオルは、契約する予定?」
「一応……」
「それじゃ、持ってく衣類は下着ぐらいか」
 社交辞令や冗談ではないことを察して、慌てて首を横に振った。
「大丈夫です。お金に関することも、伝えないといけないし。お気遣い、ありがとうございます」
 流石に、赤の他人にそんなことを頼めない。会話を終わらせ、隣に目を向けた。寝息と一緒に、透明な鼻水が垂れ掛かっている。制服のポケットからティッシュを取り出そうとすると、再び浅倉さんが口を開いた。
「だったら明日、チャーハンと餃子を作って持って行くよ。それとも、夕飯は外で食べてくる?」
「家で食べると思いますけど……大丈夫です」
 さっきから、大丈夫を連発している。浅倉さんとは今日が初対面なのに、色々と気遣ってくれる真意が理解できなかった。おじいちゃんの第一発見者としても、やり過ぎのような気がする。彼女の善意には裏があるようで、少しだけ身構えた。
 黙ったまま助手席から目を逸らし、ティッシュでお母さんの鼻水を拭いた。流れる景色は人通りが少なく、道路沿いに広がる田んぼは闇に塗り潰されている。所々並ぶ街灯が辛うじて車道を照らしているけど、圧倒的に夜の密度は濃い。瞬きもせずに寒々しい風景を眺めていると、視界に映る全てが曖昧になっていく。ぼんやりと脳裏に浮かんだのは、排水口に泡が流れていく光景と、その時に感じた息苦しさだった。
 ようやく、浅倉さんの善意の理由に気付いた。
「私って、可哀想に見えます?」
 零れ出た声は、狭い車内に明るく響いた。寂しさや微かな怒りを隠しながら、喉元で言葉を紡ぐ。
「お母さんはずっとこうなので。私にとっては、これが普通なんです」
 助手席に座るカーキ色のブルゾンが、あの看護師の白衣に変わっていくような気がした。お母さんは変なことを口にするけど、沢山優しい言葉も掛けてくれる。見えない『何か』に振り回される時もあるけど、その『何か』から守ろうともしてくれる。表情を失くしている時も多いけど、丸い顔にできるエクボはとても可愛らしくて優しい。薬を飲み忘れる時もあるけど、作った料理は毎回残さずに食べてくれる。
 そんなお母さんのことを、何も知らないくせに。
「だから、同情しなくて大丈夫ですよ」
 今日、何度目の大丈夫だろうか。少しだけ尖ってしまった口調が恥ずかしくなり、意味もなくスカートのプリーツを指でなぞった。
「勘違いしないで。小羽ちゃんを可哀想とも思ってないし、同情もしてないんだけど」
 浅倉さんは勢い良く振り返ると、真っ直ぐな眼差しを向けた。
「明日もテストがあるみたいだし、勉強に集中したいのかなって」
「……すみません」
「謝る必要なんてないでしょ。小羽ちゃんは何も悪いことをしてないんだから」
 浅倉さんの背後から覗くタクシーメーターが、音もなく数字を変えた。彼女は再び前に向き直り、独り言のように呟く。
「どうしても、パリッとならないんだよ」
「……何がですか?」
「焼き餃子の皮。それに、チャーハンも油っぽくなっちゃうし。別にお客さんに出す訳じゃないんだけど、なんか悔しくて」
 どう返事をして良いかわからなかった。そのまま会話を終わらせるように、車窓に目を向ける。
「毎回作り過ぎて。ひとりじゃ、食べきれないだけだから」
 防風林の松林のシルエットを見て、海に近い道路を走っていることに気付く。大量の消波ブロックが保管された空き地を過ぎた辺りから、車内に漂う生暖かい空気が瞼を重くさせた。
「私は、皮がしなっとしている方が好きです」
 家に着くまで、寝ないと決めていたのに。隣から響くイビキに誘われるように、抗えない眠気の渦に吞み込まれていく。
「チャーハンも油っぽいぐらいが、美味しいと思います」
 素直な返事ができたのは、久しぶりに餃子やチャーハンを食べたくなったからだろうか。それとも酷い眠気が、気を緩ませたせいだろうか。判断が付かないまま、心地良く意識が途切れた。


♯1 十月の手紙


 先生、お元気ですか?
 と言っても、先月の外来で顔を合わせましたね。先生のことだから、この瞬間も誰かの痛みに向き合っているのでしょう。
 書き始めの文章を考えているうちに、いつの間にか一時間以上も経っていました。先生が前回の診察の時に口にしたことは、当たっていますね。確かにわたしは、色々と考え過ぎてしまう性格のようです。
 先生が「あっちに行ったら、手紙を頂戴ね」と言ってくださったこと、実は凄く嬉しかったんです。手紙を書くのは、半年前に友人に宛てたのが最後かな。とにかく、こっちに来てから感じたことを頑張って綴っていこうと思います。
 事前にお伝えしていた通り、今は叔母夫婦と同居しながら中華屋を手伝っています。わたしの仕事は、お店の掃除や出来上がった料理をお客さんのテーブルまで運ぶのが主です。最近は、出前に向かったりもしてるんですよ。車の免許は持ってないので、岡持ちの付いた自転車で料理を届けます。寒いし慣れないこともあるけど、土地勘のない町を疾走するのは妙に楽しかったりもするこの頃です。
 叔父が作る料理ですが、本当に美味しいんです。先生にも、是非ご馳走したいぐらい。チャーハンはパラッとしていて、仄かにニンニクを効かせています。四川風の麻婆豆腐からは花椒が香って、痺れと辛さのバランスが絶妙なんです。一番人気のメニューは、餃子です(わたしのオススメは味噌ラーメンです)。先生だけに、餃子の餡に入れる隠し味を教えちゃいます。叔父曰く、コクを出すために仙台味噌とハチミツを少し混ぜてるんですって。ご自宅で餃子を作る機会があれば、一度試してみてください。因みに先生は、餃子の皮がパリパリしている方が好きですか? それともしなっとしている方が好きですか? 来月の外来日に、また同じ質問をしますね。
 話は変わって、わたしがこっちに来てから一番驚いたことは何だと思います? 海風の冷たさでもなければ、言葉の訛りでもありません。電車が一時間に二本しか走っていないことや、料理を作る叔父の手際の良さでもないんです。
 正解は、この町の夜の静けさです。寝付けない日は、ひとりで散歩に出掛けることもあります。夜道に街灯は点々としかありませんし、コンビニも東京のように多くはないです。深夜になれば、全く人影はありません。本当に辺りは暗くて静かで、広い夜空が様々な音を吸収しているような、夜の闇が耳の穴を塞ぐような、不思議な感覚がします。この町に来て初めて、静寂の意味を知ったような気がしました。この夜の中を、母や妹と一緒に散歩してみたかったな。
 最近、漁港の近くに住む女の子と知り合ったんです。その子にも、夜の静けさについて話してみました。なんだかピンときていない様子で「いつも波音は聞こえるから」と、苦笑いを向けられました。地元の方は、この夜を何とも思わないのでしょうね。同じ宮城県出身の先生も、そうでしょうか?
 いざ書き始めると、長くなってしまいました。最後に一つだけ、報告があります。こっちに来て、石細工を始めました。まだ全然、イメージ通りの形にはならないけど、暇をみつけては石に触っています。最終的には、本物と見分けが付かないリンゴを作りたいです。

 PS 先生の自宅を知らないので、この手紙は病院の住所に送ります。ちゃんと届きますように。



藍色時刻の君たちは
前川 ほまれ
東京創元社
2023-07-28


■前川ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年生まれ、宮城県出身。看護師として働くかたわら、小説を書き始める。2017年『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』で、第7回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』は第22回大藪春彦賞の候補となる。その他の著書に『セゾン・サンカンシオン』がある。