『眠れない夜にみる夢は』の刊行を記念して、深沢仁さんに読書日記を御執筆いただきました。海外の小説を読むことが多いという深沢さんの読書の日々を、日記を通じてお楽しみいただければ幸いです。
Web東京創元社マガジンでは、今回公開する読書日記のほかにも、『眠れない夜にみる夢は』の第二話「明日世界は終わらない」をただいま全文公開中です。収録五作品中、とりわけ人気の高い作品ですので、この機会にぜひお試しください。
・6月新刊 深沢仁『眠れない夜にみる夢は』刊行記念 収録短編「明日世界は終わらない」を全文公開!
特別書き下ろし掌編(2種類)の配布企画も書店にて実施中です。書店によって、配布される掌編が異なりますので、詳細は以下より御確認ください。
・6月新刊 深沢仁『眠れない夜にみる夢は』刊行記念 購入者特典書き下ろし掌編配布企画!(配布書店リストあり)
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本を読むときはブックカヴァーをかける。本を傷つけないようにしたい、というより、単純に読んでいる本を周囲に知られたくないからだ。一方で、足を運んだ美術展や、いま聴いている音楽について伏せることはあまりなく、むしろ積極的に公開することのほうが多い。映画やドラマの話は、そういえばほとんどしていない。日々インプットしているものについて、自分がどういう基準で明かしたり隠したりしているのか、考えてみるとよくわからない。
担当編集氏に「読書日記を書いてみませんか」と言われたとき、それは新しい試みだ、と思った。仕事として提案されない限り、自分からはやらないだろう。だから好奇心で、やってみますと答えてしまった。
私たちは都内にある大型書店にいた。打ち合わせ前の待ち合わせ場所だ。
担当氏がレジに並んでいる間、私は海外の本が並ぶコーナーをぶらぶらした。本屋さんで本を選ぶときは、まずタイトルと装丁で手に取って、最初の数ページを読んで自分に合うかどうかを判断する。そんなふうに売り場を眺めていて見つけたのが、ジャン=クロード・カリエール『ぼくの伯父さん』(小柳帝訳/アノニマ・スタジオ)だった。
目を引く赤色、装画もタイトルもそのフォントも、「ぼく」が「僕」ではないところすら、完璧に深沢の好みだった。帯にある「ジャック・タチによるフランス映画の名作 待望の初邦訳」という文章は読まなかった。あるいは、一瞬目をやったけどすぐに忘れた。なぜなら後日に本編を読み終え、訳者あとがきに進んでから初めて、「この本は映画のノベライズである」という情報に気づいてびっくりしたからだ。
良くも悪くも、私の読む本の八割以上は海外ものだが、フランスというのは珍しい。ピエール・エテックス氏によるイラストの素晴らしさにも惹かれて最初の数ページをめくり、この文章はきっと好きなタイプだ、と思いながら読み進め、
「家で飼われているという意味では、ぼくらは少し似ていたね」
のくだりまできたところで、トドメを刺された気がした。自分はこの本を買うだろうと、わかった。
ただしその場で購入はしなかった。あ、好き、と思った本をすべて買っていたら破産してしまう。家にはすでに百冊だか二百冊だかの積読があるのだから……と本を置き、担当氏と打ち合わせを済ませ、その後一ヶ月ほどしてからお迎えした。積読が減ったわけではない。頭の片隅にあの赤が残って、いつまでも離れなかったから、どうしても手に入れたくなったのだ。そしていろんな優先順位をすっ飛ばして読んだ。
予想していたよりも、さらに、もっとずっと好きだった。
さっきから、「好き」しか言っていなくて申し訳ない。でも、どうしようもなく相性のいい本というのが世の中にはあって、幸運にも出会ったら、恋に落ちるしかないのだ。その理由は、あとから考えれば挙げることができるけど、説明しすぎては冷めてしまうからいけない、予感がする。私はとにかく、「ぼく」の伯父であるユロ氏を気に入ってしまった。彼の滑稽さ、無頓着さ、自由さに憧れた。ちょうど「ぼく」がそうだったように。
元は映画であることがわかり、読みながらやたら映像が浮かんでくるのは、随所に挟み込まれている絶妙なイラストのせいだけではなかったのだと納得した。だが、ネットで検索してみて、映画がコメディに分類されているらしいことに少しびっくりした。可笑しな場面はたしかにあったものの、「ぼく」が子どもの頃に大好きだった伯父について回想するという形で紡がれる物語に、私はノスタルジアを感じていた。失われたものについて記されている文章というのはいつだって物悲しい。「ぼく」の語りはどこか哲学的だとも思った。そこが好きだった。
ちなみに現時点で、原作の映画はまだ観ていない。アップルTVでレンタルできることはわかっているので、『ぼくの伯父さんの休暇』といっしょに観るリストに追加してある。
そう、この映画はシリーズもので、日本で公開されたのは『ぼくの伯父さん』が先ではあるものの、製作されたのは『ぼくの伯父さんの休暇』が先だという。タイトルのせいで紛らわしいが、『ぼくの伯父さんの休暇』に「ぼく」は出てこない。両者に共通して登場するのはユロ氏のみだ。私はすぐに『ぼくの伯父さんの休暇』のノベライズ版も購入した。絶版と復刊を繰り返しているこの本、残念なことに、いまはどの版も新品では手に入らないようだったので、古書店を通した。『ぼくの伯父さん』とおなじアノニマ・スタジオが発行したもので、これまた装丁からして素敵である。二冊並べて壁に飾りたいくらいだ。こちらは回想ではなく、ユロ氏がバカンスを過ごすホテルの滞在客がつけている日記という形式で話が進む。『ぼくの伯父さん』よりもわかりやすくファニーな場面が多かった。でも、やっぱりどこか寂しさも混ざっていて、ときに不思議な感動も覚えた。たとえば「私」が妻の散歩をサボった場面や、仮面舞踏会でユロ氏が思いがけず若い娘を救った場面に。読み進めるうちに、ユロ氏に対して、またほかの滞在客たちに対しても、泣き笑いしてしまうような愛しさと優しさを感じた。登場人物を愛せるようにできている本が、私はとても好きだ。
また別の日に担当氏と書店で待ち合わせ、同じように目をつけて購入したのがジェイムズ・スティーヴンズ『月かげ』(阿部大樹訳/河出書房新社)だ。
中村明日美子氏の美しい装画と、「月がなかったなら 孤独ばかりが 目に映っただろう」という帯の文句。その横には、「ジョイス、イェイツに並ぶ巨匠の傑作」ともある。イェイツ! 以前イギリスが舞台のファンタジー小説のシリーズを書いたとき、私は彼の本にずいぶん影響を受けた。架空の存在ではなく、暮らしの中にいるものたちとして記録される妖精や霊たちの姿が理想的だったからだ。
さらに私は、昔から月が好きである。どうしてかわからないが、覚えている限り小学生の頃から、月をほとんど信仰の対象のように見上げてきた。タイトルにも帯にも「月」の出てくる本に惹かれるのは、身についた癖みたいなものだ。
夜に読んだ。半分以上は深夜、湯船に浸かって読み進めた。まだ一度しか読んでおらず、正直、よくわからない部分もあった。別にかまわない。よくわからない、と思う小説も、私は嫌いではない。あまりにもわかりやすい、よりずっといい。
短編集だが、表題作の「月かげ」と、最初に収録されている「欲望」が特に好みだった。「支配人」の最後のシーンもよかった。明るい話はひとつもないと言っていい。読み終えてみて、この本に登場した人物の中で一番幸福なのは「欲望」の夫だったのではないか、と思い、なんと救いのない本だろうと微笑んだ。だが想像するに、この本が書かれた頃、この本の隅々にまで滲んでいる絶望はなにも特殊なものではなく、アイルランド中に溢れていたのだろう。それを掬いあげていったらこうなったのではないか。
「でも眠っているとき、たしかに精神は光のスピードで動くんだよ」
深沢はほぼ毎日夢をみる人間なので、「月かげ」の導入部、彼のこの言葉には、奇妙な共感もした。
訳者あとがきも独特で、それだけで読み物として面白かった。またいつかゆっくりと読み返したい。そのときもきっと夜中になるだろう。その夜もきっと夢をみるだろう。
大人になるまでほとんど読んでこなかった本のジャンルにSFがある。数年前にキジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』(三角和代訳/創元SF文庫)に出会い、これがSFなら自分はSFが好きかもしれないと発見して以来、少しずつ買い始めた。本当に少しずつ。
先日ついにアイザック・アシモフ『わたしはロボット』(伊藤哲訳/創元SF文庫)を読んだ。
ちょろりとでも洋画やアニメを嗜んでいれば、〈ロボット工学の三原則〉はどこかで聞いたことがあるだろう。その原典なのだからいつかは読まなければいけない、とは思っていた。ただ、中学生の頃に映画『アイ,ロボット』を観た私は、その原作が『わたしはロボット』なのだと思い込んでいた。実際には、コンセプトこそ『わたしはロボット』を基にしているとはいえ、脚本はほぼオリジナルだったらしい。本のあらすじにも目を通すことなく買って積んだままにしていた私は、本を開いてみて初めて、映画とはストーリーがまったくちがう、と気づいた。連作短編集ということすら知らないで読み始めたのだ。映画で結末を知っているアクション・ストーリーを文章でなぞるだけだとしたら退屈かもしれないな、と危惧していた私には嬉しい驚きだった。
本編を読み終え、初めてあらすじを見てみたら「SF史上に輝く、傑作中の傑作」とあったが、そのとおりだった。
小説を書くときには主人公が必要である。よほど特殊な物語でない限り、主人公以外にも複数の人物が出てくるだろうが、話の中で果たす役割によって、名前がついたりつかなかったり、台詞があったりなかったり、一度きりの登場で終わったり何回も出てきたりする。小説だからそれは仕方ないのだけど、でも、深沢の理想としては、たとえば担当氏に「じゃあ次は、ここで三行だけ登場したカフェ店員、この人を主人公にした話を書いてみましょう」と持ちかけられても、たとえば読者の方に「過去に遡って、主人公が子どもの頃に通った小学校を舞台にした話が読みたいです」と言われても、OKノープロブレム、とすぐに書き始められる世界が本の中に成立していることだと思う。旧式のゲームではないのだから、主人公に宿屋の場所を教えるためだけに存在していてそれ以外はなにもできず、過去も未来もなく、物語がなにもない人なんていてはならない。だって私たちが生きているこの世界に、そのような存在はない。
岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)を読んで、つくづくそんなことを思った。
この本はフィクションではない。出版社の紹介によればエッセイらしい。社会学者である著者が、「どうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたい」と思い、「この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について」綴ったものである。唐突すぎるエピソード、意味のよくわからない展開、結末とも呼べない、ふわりと途切れるだけの終わり。そういうものが並べられている。透明でちいさな原石たち、磨けばもっと美しくなるかもしれないものが、そのまま置いてある。だから心地よい。
面白いのは、これを読めばたぶん、読んだ人それぞれが、いつか自分がすれ違ったきり忘れていた「断片」を思い出すであろうことだ。始まりは不明で、オチも解説もなく、なぜか印象に残っている、いつかの一瞬。私たちはそういうものに囲まれ、それを積み重ねて生きている。起承転結がうまくつくことなんて滅多にないのだ。最近の社会は、意味とか答えとか利益とかを求めすぎていてお互いの首を絞め合っているように思う。この本にはそれがない。
読み途中の本に、須賀敦子『須賀敦子全集 第6巻』(河出文庫)がある。
これまで紹介してきた本は、実はどれも初めて読んだ作家のものだったが、全集を読んでいるくらいだから、須賀敦子さんはちがう。彼女の本に出会ったのは二〇一九年、イタリア旅行をする少し前のことだ。
旅行前にイタリアに関係のある本を読もうと思って、ふと目に留まったのが須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(河出文庫)だった。その静かな文体が心地よくて、描かれている異国での生活の手触りみたいなものがひっそりと美しくて、引き込まれた。
大人になるにつれ、イタリアという国が、どんどん気になる存在になっていく。
初めてイタリアに興味を持ったのは、中学生の頃、江國香織『冷静と情熱のあいだ Rosso』(角川文庫)を読んだときだと思う(ちなみに『霧のむこうに住みたい』の解説は江國香織さんである)。その後、高校生のときにアメリカに留学して、ホームステイ先にイタリア人の女性がいた。私のステイ先は特殊で、家主はアメリカ人の老女、高校生は深沢ひとり、あとはいろいろな国の大人が入れ替わり立ち替わり滞在する、という、ホームステイというよりはルームシェアにちかい環境だった。その中でもそのイタリア人女性は親切で陽気で、一番話しやすかった。たまに、彼女が故郷のだれかと電話しているとき、壁越しに聞こえてくるイタリア語が好きだった。何度か夕食を作ってくれて、イタリア語の「いただきます」も教わった。なんて言うのかは覚えていないが、「発音がいい」と褒めてもらったことは覚えている。帰国後、高校二年生で初めてイタリアに行き、大学では、第二言語にイタリア語を選んだ。残念ながらここで学んだこともほぼ忘れてしまったが、英語のほかに言語を学ぶとしたらイタリア語がいいなあという漠然とした感覚はずっとある。
本でも、ときどきイタリアに出くわす。『冷静と情熱のあいだ Rosso』のほか、アメリカの友人に贈られたElizabeth Gilbert『Eat Pray Love』(Bloomsbury Publishing PLC|翻訳は『食べて、祈って、恋をして〔新版〕』那波かおり訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)では、著者が人生を回復するために最初に訪れたのがイタリアだった。『わたしのいるところ』(中嶋浩郎訳/新潮クレスト・ブックス)で知ったジュンパ・ラヒリはインド系アメリカ人だが、イタリア語に魅せられてイタリア語で同書を書いている。エッセイ集『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳/新潮クレスト・ブックス)まで読むと、彼女がどれだけイタリアとその国の言語に熱狂しているかがよくわかる。須賀さんも、最初に留学したのはフランスだったのに、生きるのを決めたのはイタリアだった。
自分はイタリアが好きなのか、イタリアが好きな作家を好きなのか、もはやよくわからない。『霧のむこうに住みたい』があまりによかったので、イタリア旅行には、『須賀敦子全集 第1巻』を持っていった。ツアーだった高校生の頃よりも自由で、素敵な体験ではあったけれど、短い旅は慌ただしく、本当はもっとのんびりしたかった。カフェからぼんやり広場を眺め、あてもなく散歩をしてふらり聖堂に立ち寄り、バカンスの時期には海岸沿いの街まで足を伸ばす、そんな暮らしをしてみたい。なにより、自分のイタリア語への解析度をあげなくてはならない。イタリア人の魅力はたぶん、イタリア語でやり取りして初めて深くわかるものなのだ。
私はイタリア語を話せるようになって、『霧のむこうに住みたい』の本の中に住みたい。
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・6月新刊 深沢仁『眠れない夜にみる夢は』刊行記念 収録短編「明日世界は終わらない」を全文公開!
特別書き下ろし掌編(2種類)の配布企画も書店にて実施中です。書店によって、配布される掌編が異なりますので、詳細は以下より御確認ください。
・6月新刊 深沢仁『眠れない夜にみる夢は』刊行記念 購入者特典書き下ろし掌編配布企画!(配布書店リストあり)
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本を読むときはブックカヴァーをかける。本を傷つけないようにしたい、というより、単純に読んでいる本を周囲に知られたくないからだ。一方で、足を運んだ美術展や、いま聴いている音楽について伏せることはあまりなく、むしろ積極的に公開することのほうが多い。映画やドラマの話は、そういえばほとんどしていない。日々インプットしているものについて、自分がどういう基準で明かしたり隠したりしているのか、考えてみるとよくわからない。
担当編集氏に「読書日記を書いてみませんか」と言われたとき、それは新しい試みだ、と思った。仕事として提案されない限り、自分からはやらないだろう。だから好奇心で、やってみますと答えてしまった。
私たちは都内にある大型書店にいた。打ち合わせ前の待ち合わせ場所だ。
担当氏がレジに並んでいる間、私は海外の本が並ぶコーナーをぶらぶらした。本屋さんで本を選ぶときは、まずタイトルと装丁で手に取って、最初の数ページを読んで自分に合うかどうかを判断する。そんなふうに売り場を眺めていて見つけたのが、ジャン=クロード・カリエール『ぼくの伯父さん』(小柳帝訳/アノニマ・スタジオ)だった。
目を引く赤色、装画もタイトルもそのフォントも、「ぼく」が「僕」ではないところすら、完璧に深沢の好みだった。帯にある「ジャック・タチによるフランス映画の名作 待望の初邦訳」という文章は読まなかった。あるいは、一瞬目をやったけどすぐに忘れた。なぜなら後日に本編を読み終え、訳者あとがきに進んでから初めて、「この本は映画のノベライズである」という情報に気づいてびっくりしたからだ。
良くも悪くも、私の読む本の八割以上は海外ものだが、フランスというのは珍しい。ピエール・エテックス氏によるイラストの素晴らしさにも惹かれて最初の数ページをめくり、この文章はきっと好きなタイプだ、と思いながら読み進め、
「家で飼われているという意味では、ぼくらは少し似ていたね」
のくだりまできたところで、トドメを刺された気がした。自分はこの本を買うだろうと、わかった。
ただしその場で購入はしなかった。あ、好き、と思った本をすべて買っていたら破産してしまう。家にはすでに百冊だか二百冊だかの積読があるのだから……と本を置き、担当氏と打ち合わせを済ませ、その後一ヶ月ほどしてからお迎えした。積読が減ったわけではない。頭の片隅にあの赤が残って、いつまでも離れなかったから、どうしても手に入れたくなったのだ。そしていろんな優先順位をすっ飛ばして読んだ。
予想していたよりも、さらに、もっとずっと好きだった。
さっきから、「好き」しか言っていなくて申し訳ない。でも、どうしようもなく相性のいい本というのが世の中にはあって、幸運にも出会ったら、恋に落ちるしかないのだ。その理由は、あとから考えれば挙げることができるけど、説明しすぎては冷めてしまうからいけない、予感がする。私はとにかく、「ぼく」の伯父であるユロ氏を気に入ってしまった。彼の滑稽さ、無頓着さ、自由さに憧れた。ちょうど「ぼく」がそうだったように。
元は映画であることがわかり、読みながらやたら映像が浮かんでくるのは、随所に挟み込まれている絶妙なイラストのせいだけではなかったのだと納得した。だが、ネットで検索してみて、映画がコメディに分類されているらしいことに少しびっくりした。可笑しな場面はたしかにあったものの、「ぼく」が子どもの頃に大好きだった伯父について回想するという形で紡がれる物語に、私はノスタルジアを感じていた。失われたものについて記されている文章というのはいつだって物悲しい。「ぼく」の語りはどこか哲学的だとも思った。そこが好きだった。
ちなみに現時点で、原作の映画はまだ観ていない。アップルTVでレンタルできることはわかっているので、『ぼくの伯父さんの休暇』といっしょに観るリストに追加してある。
そう、この映画はシリーズもので、日本で公開されたのは『ぼくの伯父さん』が先ではあるものの、製作されたのは『ぼくの伯父さんの休暇』が先だという。タイトルのせいで紛らわしいが、『ぼくの伯父さんの休暇』に「ぼく」は出てこない。両者に共通して登場するのはユロ氏のみだ。私はすぐに『ぼくの伯父さんの休暇』のノベライズ版も購入した。絶版と復刊を繰り返しているこの本、残念なことに、いまはどの版も新品では手に入らないようだったので、古書店を通した。『ぼくの伯父さん』とおなじアノニマ・スタジオが発行したもので、これまた装丁からして素敵である。二冊並べて壁に飾りたいくらいだ。こちらは回想ではなく、ユロ氏がバカンスを過ごすホテルの滞在客がつけている日記という形式で話が進む。『ぼくの伯父さん』よりもわかりやすくファニーな場面が多かった。でも、やっぱりどこか寂しさも混ざっていて、ときに不思議な感動も覚えた。たとえば「私」が妻の散歩をサボった場面や、仮面舞踏会でユロ氏が思いがけず若い娘を救った場面に。読み進めるうちに、ユロ氏に対して、またほかの滞在客たちに対しても、泣き笑いしてしまうような愛しさと優しさを感じた。登場人物を愛せるようにできている本が、私はとても好きだ。
ユロ氏のような人物がいる世界で私も生きたい、と思う。
また別の日に担当氏と書店で待ち合わせ、同じように目をつけて購入したのがジェイムズ・スティーヴンズ『月かげ』(阿部大樹訳/河出書房新社)だ。
中村明日美子氏の美しい装画と、「月がなかったなら 孤独ばかりが 目に映っただろう」という帯の文句。その横には、「ジョイス、イェイツに並ぶ巨匠の傑作」ともある。イェイツ! 以前イギリスが舞台のファンタジー小説のシリーズを書いたとき、私は彼の本にずいぶん影響を受けた。架空の存在ではなく、暮らしの中にいるものたちとして記録される妖精や霊たちの姿が理想的だったからだ。
さらに私は、昔から月が好きである。どうしてかわからないが、覚えている限り小学生の頃から、月をほとんど信仰の対象のように見上げてきた。タイトルにも帯にも「月」の出てくる本に惹かれるのは、身についた癖みたいなものだ。
夜に読んだ。半分以上は深夜、湯船に浸かって読み進めた。まだ一度しか読んでおらず、正直、よくわからない部分もあった。別にかまわない。よくわからない、と思う小説も、私は嫌いではない。あまりにもわかりやすい、よりずっといい。
短編集だが、表題作の「月かげ」と、最初に収録されている「欲望」が特に好みだった。「支配人」の最後のシーンもよかった。明るい話はひとつもないと言っていい。読み終えてみて、この本に登場した人物の中で一番幸福なのは「欲望」の夫だったのではないか、と思い、なんと救いのない本だろうと微笑んだ。だが想像するに、この本が書かれた頃、この本の隅々にまで滲んでいる絶望はなにも特殊なものではなく、アイルランド中に溢れていたのだろう。それを掬いあげていったらこうなったのではないか。
「でも眠っているとき、たしかに精神は光のスピードで動くんだよ」
深沢はほぼ毎日夢をみる人間なので、「月かげ」の導入部、彼のこの言葉には、奇妙な共感もした。
訳者あとがきも独特で、それだけで読み物として面白かった。またいつかゆっくりと読み返したい。そのときもきっと夜中になるだろう。その夜もきっと夢をみるだろう。
大人になるまでほとんど読んでこなかった本のジャンルにSFがある。数年前にキジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』(三角和代訳/創元SF文庫)に出会い、これがSFなら自分はSFが好きかもしれないと発見して以来、少しずつ買い始めた。本当に少しずつ。
先日ついにアイザック・アシモフ『わたしはロボット』(伊藤哲訳/創元SF文庫)を読んだ。
ちょろりとでも洋画やアニメを嗜んでいれば、〈ロボット工学の三原則〉はどこかで聞いたことがあるだろう。その原典なのだからいつかは読まなければいけない、とは思っていた。ただ、中学生の頃に映画『アイ,ロボット』を観た私は、その原作が『わたしはロボット』なのだと思い込んでいた。実際には、コンセプトこそ『わたしはロボット』を基にしているとはいえ、脚本はほぼオリジナルだったらしい。本のあらすじにも目を通すことなく買って積んだままにしていた私は、本を開いてみて初めて、映画とはストーリーがまったくちがう、と気づいた。連作短編集ということすら知らないで読み始めたのだ。映画で結末を知っているアクション・ストーリーを文章でなぞるだけだとしたら退屈かもしれないな、と危惧していた私には嬉しい驚きだった。
本編を読み終え、初めてあらすじを見てみたら「SF史上に輝く、傑作中の傑作」とあったが、そのとおりだった。
私は子どもの健気な執着に弱いので、最初の「ロビー」にまず心を摑まれた。でも、なにより夢中になったのはグレゴリー・パウエルとマイク・ドノヴァンのペアだ。彼らの知的でユーモアがあってサーカスティックな会話、ああいうものを延々と読むのが私は大好きである。窮地に陥ったときにも軽口を叩くセンスがあり、投げやりなときでさえどこか冷静で、頭の中では常に計算を進めているような人たち。ミステリなら探偵役になるところだが、SFだとこんなふうに登場するのか。できればいつか、原書でも読んでみたいと思う。難しい単語だらけで半分もまともにわからないかもしれないけれど、パウエルとドノヴァンの会話部分だけでも、英語でのやり取りを見てみたい。そしてもちろん、アシモフのほかの著作も読まなければいけない。この年から無限のSF世界に足を踏み入れられるのは、大変だけど幸福なことだ。
小説を書くときには主人公が必要である。よほど特殊な物語でない限り、主人公以外にも複数の人物が出てくるだろうが、話の中で果たす役割によって、名前がついたりつかなかったり、台詞があったりなかったり、一度きりの登場で終わったり何回も出てきたりする。小説だからそれは仕方ないのだけど、でも、深沢の理想としては、たとえば担当氏に「じゃあ次は、ここで三行だけ登場したカフェ店員、この人を主人公にした話を書いてみましょう」と持ちかけられても、たとえば読者の方に「過去に遡って、主人公が子どもの頃に通った小学校を舞台にした話が読みたいです」と言われても、OKノープロブレム、とすぐに書き始められる世界が本の中に成立していることだと思う。旧式のゲームではないのだから、主人公に宿屋の場所を教えるためだけに存在していてそれ以外はなにもできず、過去も未来もなく、物語がなにもない人なんていてはならない。だって私たちが生きているこの世界に、そのような存在はない。
岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)を読んで、つくづくそんなことを思った。
この本はフィクションではない。出版社の紹介によればエッセイらしい。社会学者である著者が、「どうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたい」と思い、「この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について」綴ったものである。唐突すぎるエピソード、意味のよくわからない展開、結末とも呼べない、ふわりと途切れるだけの終わり。そういうものが並べられている。透明でちいさな原石たち、磨けばもっと美しくなるかもしれないものが、そのまま置いてある。だから心地よい。
面白いのは、これを読めばたぶん、読んだ人それぞれが、いつか自分がすれ違ったきり忘れていた「断片」を思い出すであろうことだ。始まりは不明で、オチも解説もなく、なぜか印象に残っている、いつかの一瞬。私たちはそういうものに囲まれ、それを積み重ねて生きている。起承転結がうまくつくことなんて滅多にないのだ。最近の社会は、意味とか答えとか利益とかを求めすぎていてお互いの首を絞め合っているように思う。この本にはそれがない。
去年地元の書店で面陳されているのを手に取ったから新刊だと信じていたが、いま調べてみたら発行は二〇一五年だった。なにかのフェアだったのか、あるいは書店員さんの趣味だったんだろうか。帯に「紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞!」とあるのだから、二〇一六年以前に出版されているに決まっているのに、またまったく見ていなかった。自分の思い込みの激しさと情報処理能力の偏りにはびっくりしてしまう。
読み途中の本に、須賀敦子『須賀敦子全集 第6巻』(河出文庫)がある。
これまで紹介してきた本は、実はどれも初めて読んだ作家のものだったが、全集を読んでいるくらいだから、須賀敦子さんはちがう。彼女の本に出会ったのは二〇一九年、イタリア旅行をする少し前のことだ。
旅行前にイタリアに関係のある本を読もうと思って、ふと目に留まったのが須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(河出文庫)だった。その静かな文体が心地よくて、描かれている異国での生活の手触りみたいなものがひっそりと美しくて、引き込まれた。
大人になるにつれ、イタリアという国が、どんどん気になる存在になっていく。
初めてイタリアに興味を持ったのは、中学生の頃、江國香織『冷静と情熱のあいだ Rosso』(角川文庫)を読んだときだと思う(ちなみに『霧のむこうに住みたい』の解説は江國香織さんである)。その後、高校生のときにアメリカに留学して、ホームステイ先にイタリア人の女性がいた。私のステイ先は特殊で、家主はアメリカ人の老女、高校生は深沢ひとり、あとはいろいろな国の大人が入れ替わり立ち替わり滞在する、という、ホームステイというよりはルームシェアにちかい環境だった。その中でもそのイタリア人女性は親切で陽気で、一番話しやすかった。たまに、彼女が故郷のだれかと電話しているとき、壁越しに聞こえてくるイタリア語が好きだった。何度か夕食を作ってくれて、イタリア語の「いただきます」も教わった。なんて言うのかは覚えていないが、「発音がいい」と褒めてもらったことは覚えている。帰国後、高校二年生で初めてイタリアに行き、大学では、第二言語にイタリア語を選んだ。残念ながらここで学んだこともほぼ忘れてしまったが、英語のほかに言語を学ぶとしたらイタリア語がいいなあという漠然とした感覚はずっとある。
本でも、ときどきイタリアに出くわす。『冷静と情熱のあいだ Rosso』のほか、アメリカの友人に贈られたElizabeth Gilbert『Eat Pray Love』(Bloomsbury Publishing PLC|翻訳は『食べて、祈って、恋をして〔新版〕』那波かおり訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)では、著者が人生を回復するために最初に訪れたのがイタリアだった。『わたしのいるところ』(中嶋浩郎訳/新潮クレスト・ブックス)で知ったジュンパ・ラヒリはインド系アメリカ人だが、イタリア語に魅せられてイタリア語で同書を書いている。エッセイ集『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳/新潮クレスト・ブックス)まで読むと、彼女がどれだけイタリアとその国の言語に熱狂しているかがよくわかる。須賀さんも、最初に留学したのはフランスだったのに、生きるのを決めたのはイタリアだった。
自分はイタリアが好きなのか、イタリアが好きな作家を好きなのか、もはやよくわからない。『霧のむこうに住みたい』があまりによかったので、イタリア旅行には、『須賀敦子全集 第1巻』を持っていった。ツアーだった高校生の頃よりも自由で、素敵な体験ではあったけれど、短い旅は慌ただしく、本当はもっとのんびりしたかった。カフェからぼんやり広場を眺め、あてもなく散歩をしてふらり聖堂に立ち寄り、バカンスの時期には海岸沿いの街まで足を伸ばす、そんな暮らしをしてみたい。なにより、自分のイタリア語への解析度をあげなくてはならない。イタリア人の魅力はたぶん、イタリア語でやり取りして初めて深くわかるものなのだ。
私はイタリア語を話せるようになって、『霧のむこうに住みたい』の本の中に住みたい。
■深沢仁(ふかざわ・じん)
2010年、詩集『狼少女は羊を逃がす』を自費出版。翌年、『R.I.P. 天使は鏡と弾丸を抱く』で第2回「このライトノベルがすごい!」大賞優秀賞を受賞、本格的な執筆活動をスタートさせる。20年には作品集『この夏のこともどうせ忘れる』で第12回高校生が選ぶ天竜文学賞を受賞。ほかの著書に〈英国幻視の少年たち〉シリーズ(全6巻)、『渇き、海鳴り、僕の楽園』などがある。











