「翻訳のはなし」第3回
「持ちこみ成功!」越前敏弥


 自分から出版社に持ちこんだ企画はどのくらいありますか、とよく尋ねられる。残念ながら、すごく少ないです、数えるほどしかありません、と答えざるをえない。特にミステリの場合、話題作や有名作家の新作は発売前に版権が確定していることが多く、そういうときはどうにもならない。おもだった賞の受賞作の場合も同じで、最終候補作ぐらいならたまに脈があるかもしれないという程度だろう。

 実のところ、古典新訳以外で、自分の企画が通って刊行された翻訳書は、これまでにトーマス・ブレツィナの『ダ・ヴィンチのひみつをさぐれ!』『ゴッホの宝をすくいだせ!』『ミケランジェロの封印をとけ!』という〈冒険ふしぎ美術館〉三部作だけで、これにしても、『ダ・ヴィンチ・コード』の勢いがなければ出版できなかったかもしれない。

 そんなわけで、実現性が低いことは承知しているが、それでもこれまで読んできた原書のなかで、訳したくてたまらない作品はいくつかある。

 そう言えば、以前、この《紙魚の手帖》より前に出ていた《ミステリーズ!》のVol.51(二〇一二年二月刊)にも似たテーマで書いたことがあり、そのときは、日本でほぼ未紹介であるイギリス本格の雄(ゆう)、デイヴィッド・ウィリアムズのパリー主任警部シリーズなどを紹介したが、残念ながらその後もお声がかからず、いまとなってはやや賞味期限切れの感が否(いな)めない。とはいえ、明快な謎解きとロマンス成分がほどよく配されたすばらしいシリーズなので、興味のある人は調べてもらいたい。

 そのほか、二十年ほど前に読んだ純文学作品で、いまも心から離れないものがある。第二次世界大戦の前夜から二十世紀末までにかけて、三代にわたるアスリート一族の喜怒哀楽を描いたマジックリアリズム風味の作品で、これほど美しい文章、これほど深い含意(がんい)に満ちた文章には前にもあとにもお目にかかったことがない。すでに四社に蹴(け)られたが、あきらめるつもりはなく、仕事の合間に少しずつ訳し進めている。

 あとは、十九世紀のだれでも名前を知っている巨匠による版権切れ作品の新訳をひそかに狙っていたが、数年前に某大手出版社からほかの人による新訳が出たので、あきらめたというケースもある。まさかあれに目をつけているやつが自分以外にいたなんて。もっと早く動いて、さっさと訳せばよかった。くやしい。ああ、思い出すとつらい。

 とまあ、持ちこみについては、翻訳の仕事をはじめてから二十年余り、なんだか冴えなかったわけだが、先日ついに念願の翻訳ミステリの持ちこみ企画が通り、この夏に刊行されることになった。版元は、そう、東京創元社だ。東京創元社では、ここ五年ほどのあいだに、自分の知っているだけでも、『コードネーム・ヴェリティ』『そしてミランダを殺す』『死んだレモン』『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』『平凡すぎて殺される』などの傑作が、訳者の持ちこみをきっかけに刊行されているので、わたしも一念発起(いちねんほっき)したしだいだ。

 タイトルは『ロンドン・アイの謎(なぞ)』。作者の名前はシヴォーン・ダウド――と聞いて、ぴんと来た人もいるかもしれない。二〇一六年に映画化されて話題になった『怪物はささやく』の原案を書いた女性作家だ。正確には、本人が四十七歳で他界したあと、遺された構想をもとにパトリック・ネスが書きあげたのである。ダウドは存命中にはほとんど無名だったが、死後に刊行された未発表作品がつぎつぎと大変な評判を博し、カーネギー賞も受賞した。

 ダウドの作品はファンタジーのジャンルに属するものが多いが、逝去(せいきょ)の数か月前に発表された『ロンドン・アイの謎』は、子供も大人も楽しめる本格ミステリだ。主人公は十二歳の少年テッドで、脳の働きがふつうとは少しちがう(作中では「症候群」とだけ説明されている)。遠まわしな言い方や身ぶりから人の気持ちを読むのは苦手だが、むずかしいことを考えつづけるのは得意で、特に気象学の知識は専門家並みだ。ある日、いとこのサリムが訪ねてきて、テッドの一家といっしょに市内観光へ出かけ、大観覧車ロンドン・アイにひとりで乗りこむ。ところが、おりてきた客のなかにサリムの姿はなかった。閉ざされた観覧車のカプセルから、いったいどうやって、どこへ消えたのか。やがてテッドは、独特のすなおな視点からみごとに謎を解き明かす。

 この作品の強烈な魅力や、持ちこみに至る一風変わったいきさつなど、書きたいことは山ほどあるが、あとは今夏刊行【編集部註:2022年7月刊】の訳書のあとがきで読んでもらいたい。どうぞお楽しみに。

 と、この原稿を書くための下調べをしているあいだに、傑作の香りがぷんぷんする未訳原書を見つけたので、さっそくキンドルで読みはじめたところ……これはすごいぞ! 行けるぞ!




■越前敏弥(えちぜん・としや)
翻訳家。1961年生まれ。東京大学卒。主な著書に『文芸翻訳教室』『翻訳百景』が、訳書にゴダード『石に刻まれた時間』、ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』、ロボサム『生か、死か』、フレドリック・ブラウン『真っ白な噓』、クイーン『Xの悲劇(角川文庫版)』『災厄の町』などがある。



この記事は〈紙魚の手帖〉vol.05(2022年6月号)に掲載された記事を転載したものです。

紙魚の手帖Vol.05
倉知淳ほか
東京創元社
2022-06-13


ロンドン・アイの謎
シヴォーン・ダウド
東京創元社
2022-07-12


グッゲンハイムの謎
ロビン・スティーヴンス
東京創元社
2022-12-12