「翻訳のはなし」第2回
「仕事椅子の話」中原尚哉
先日、隣家のご主人から垣根越しに訊かれました。
「翻訳ってのは一日じゅう座り仕事なんだろう。腰、痛くならねえのかい？」
たしかに翻訳者の三大持病は腰痛、肩こり、眼精疲労と申します。仕事も能力も意欲もあるのに腰が痛い、肩が痛い、目がつらい、だから机にむかえない、仕事ができないという経験談や伝聞を先輩方から聞かされました。自営業者としては生活の危機。出版界としても損失です。だから仕事用の椅子には費用を惜しんじゃいけないよ、翻訳者にとっちゃ大事な仕事道具の一つだからねと。
それから三十年。おかげさまで一度も腰痛や肩こりに悩まずこの仕事を続けてこられました。翻訳者ばかりでなく作家やほかのデスクワークの方でもおなじ悩みを持つ方は多くいらっしゃいます。参考になるかどうかわかりませんが、私流の腰痛対策の椅子選び、座り方をここで書きとめておこうと思います。
どんな椅子がいいかなんてお買い物論よりも、まず座り方です。考え方としては、上半身の体重を腰でささえず、なるべく（できれば全部）背もたれにあずけてしまいたい。それを実現するのが、最近プログラマーやゲーマーの座り方としてときどき紹介されるものです。まず座面高を最低位置に下げ、背もたれを大きくリクライニングさせます。そして机の下に腰まで深く潜りこみ、伸ばした手が机上のキーボードに届くようにする。PCモニターは低く垂直に立て、画面中心と目の高さがあうように。足の下には台をおいたほうがいいでしょう。この座り方に呼び方があるのかどうか知りませんが、個人的にはスーパーカー座りと呼んでいます。車高の低いイタリア製スーパーカーではこういう座り方になるはず（乗ったことはありません）。ほとんど寝ころがっているので傍目（はため）にはだらしないですが、腰と背中を守るためなので勘弁してもらいましょう。
欠点を挙げるとすると、この座り方はキーボード作業専用です。赤ペンを使うゲラの校正では背中を立てる椅子に移動します（そのため腰痛や肩こりが発生します）。そしてほとんど寝ている姿勢なので……眠気への耐性はゼロです。頭の奥にわずかな眠気があるだけで一切抵抗できずに脳がシャットダウンします。その点は覚悟していただくしかありません。
ではこの座り方に最適な椅子はなにか。ちまたに腰痛を予防する高級椅子と称するものはいろいろありますが、スーパーカー座りに最適なのはやはり自動車用シートでしょう。となるとおすすめはドイツのシートメーカー、レカロのオフィス用製品です。自動車用シートをそのままキャスター脚に取り付けたものです。
利点はまずサイドサポートの存在。自動車のシートではここに両肘をおいた姿勢で、伸ばした手が自然にハンドルにかかるように設計されています。机で使うとそのハンドルの位置にキーボードが来るわけです。肩から肘までささえられているので筋肉は緊張せず、長時間すわっても肩こり知らずです。
自動車用として安全基準を満たしたシートなので、万一の事故時にドライバーの脊椎を保護するように背面は分厚い鉄板を使った強固な構造です。オフィス用としては過剰品質のようですが、体重のほとんどを背もたれにあずけるこの座り方では決して無駄ではありません。同様に無用に思えるヘッドレストも、深く後傾する座り方ではむしろ必須です。
眼精疲労はさすがに椅子で予防するものではありませんが、少なくとも後傾姿勢から見下ろし気味にディスプレイに目をむけるのでドライアイの予防になります。
たしかに価格はお高いです。私が二十代半ばで買った初代は二十万円台でした。でもメンテナンスしながら二十年以上も第一線で働き、過酷なスケジュールのときも肩と腰と目を守ってくれました。そして退役後も妻用に使われています。二代目ももちろんレカロで、最近は十万円台から買えるのでお求めやすくなったものです。
冒頭の隣家のご主人の質問にはこう答えました。
「仕事の道具ですからね、それなりに高い椅子を使ってます」
ご主人は車に乗る方で、ブランド名を挙げただけですぐに通じました。建設現場で働く職人さんなので、仕事の道具に費用を惜しまないという点も共感してもらえたようです。
■中原尚哉（なかはら・なおや）
翻訳家。1964年生まれ。東京都立大学人文学部英米文学科卒。2021年、ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』が第7回日本翻訳大賞を受賞。他の訳書にドイル『失われた世界』などがある。
この記事は〈紙魚の手帖〉vol.04（2022年4月号）に掲載された記事を転載したものです。
