「翻訳のはなし」第1回
「エンタメ翻訳党宣言」田口俊樹
のっけから自著の宣伝めいて恐縮ながら、私は去年『日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年』という、タイトルそのまま、過去四十余年に及ぶ拙訳の誤訳、仕事の失敗の数々を詫(わ)びるエッセイ集を上梓(じょうし)した。で、この本のサブタイトルの「エンタメ翻訳」ということばが気に入っている。和製英語とも言えない「エンタメ」ということばの軽薄な響きもむしろ心地よい。
世間一般には、私の肩書きは「英米文学翻訳家」である。が、そう書かれるたび、呼ばれるたび、いえいえ、そんな大層なものじゃございません、とついつい言いたくなる。もちろんただの呼称だ。世間さまにはことさら当方を持ち上げているつもりなどないのかもしれない。それでも、昔からどうにもなじめなかった。
それがこの自著を出したことで、ようやく気づくことができた。そうか、おれって「エンタメ翻訳者」じゃん! はたとそう思ったときには、ちょっと大げさだが、四十余年翻訳をやってきて、ついに自分のアイデンティティを見いだせたような、ずっともやもやしていたものにすっと光が射したような、爽快感さえ覚えた。
では、私の思う「エンタメ翻訳」とはどんな翻訳のことか。エンタメ作品を訳すからエンタメ翻訳というだけではない。翻訳自体がエンタメと言える翻訳のことだ。
まずエンタメ翻訳は読者を第一に考える。これは当然のことのようで実はそうでもない。翻訳者は読者のほうを向くべきか、作者のほうを向くべきかという問いかけが昔からあるからだ。特定の作家の研究をされ、翻訳もなさる外国文学者にこの問いをぶつけたら、「作者」と答えられる方々のほうが多いのではないだろうか。一方、エンタメ翻訳者は、編集者の依頼によるあてがいぶちの作家の作品を訳すことが多い。基本、作者にさほど義理はない。下世話なことを言うようだが、そうした現状に鑑(かんが)みても、作者ではなく読者のほうを向くのが自然だ。読者をもてなす(エンターテイン)ことこそエンタメ翻訳者の本分である。
世間一般には、私の肩書きは「英米文学翻訳家」である。が、そう書かれるたび、呼ばれるたび、いえいえ、そんな大層なものじゃございません、とついつい言いたくなる。もちろんただの呼称だ。世間さまにはことさら当方を持ち上げているつもりなどないのかもしれない。それでも、昔からどうにもなじめなかった。
それがこの自著を出したことで、ようやく気づくことができた。そうか、おれって「エンタメ翻訳者」じゃん! はたとそう思ったときには、ちょっと大げさだが、四十余年翻訳をやってきて、ついに自分のアイデンティティを見いだせたような、ずっともやもやしていたものにすっと光が射したような、爽快感さえ覚えた。
では、私の思う「エンタメ翻訳」とはどんな翻訳のことか。エンタメ作品を訳すからエンタメ翻訳というだけではない。翻訳自体がエンタメと言える翻訳のことだ。
まずエンタメ翻訳は読者を第一に考える。これは当然のことのようで実はそうでもない。翻訳者は読者のほうを向くべきか、作者のほうを向くべきかという問いかけが昔からあるからだ。特定の作家の研究をされ、翻訳もなさる外国文学者にこの問いをぶつけたら、「作者」と答えられる方々のほうが多いのではないだろうか。一方、エンタメ翻訳者は、編集者の依頼によるあてがいぶちの作家の作品を訳すことが多い。基本、作者にさほど義理はない。下世話なことを言うようだが、そうした現状に鑑(かんが)みても、作者ではなく読者のほうを向くのが自然だ。読者をもてなす(エンターテイン)ことこそエンタメ翻訳者の本分である。
*
昔、原文との間合いは不即不離が翻訳の極意と聞いたか読んだかして、なるほどと思ったことがある。これは実際に翻訳を経験すればするほどよくわかる至言だ。もうひとつ、大いに首肯(しゅこう)したのが宮脇孝雄(みやわき・たかお)さんの名著『翻訳の基本』の副題「原文どおりに日本語に」だ。これまたまことにそのとおり、誰も反論できまい。それでも、だ。時にえいやっと原文を離れる勇気を持つのがエンタメ翻訳ではないだろうか。訳者のスタンドプレーではなく、あくまで読者をもてなすためという但(ただ)し書きがつくけれども。また、きっとこれには異論もあろうとは思うが。
ただ、もてなしにもいろいろある。こってりしたもてなしも、あっさりしたもてなしも。クールで洗練された都会風のもの、垢(あか)抜けずとも温かい田舎風のもの、逆に見当ちがいのもてなし、ありがた迷惑のもてなしというのもあるだろう。何事もそうであるように、もてなしにもセンスが要る。それでもただひとつ確かに言えるのは、心がこもっているかどうかだ。センスよりこれが大切かもしれない。心がなければ、世の翻訳者はいずれ機械翻訳に負けるだろう。
あとは、その人の翻訳でしか味わえないもてなしといったオリジナリティがあれば、鬼に金棒だが、これまた自明の理(り)のようでそうでもない。翻訳は無色透明であるべきで、翻訳者は黒子(くろこ)に徹すべし、という考えもあるからだ。確かに出しゃばりすぎの翻訳はいただけない。なので、これについては私としても判断のつかない部分がある。ただ、無色透明をめざすのは訳者の勝手としても、訳文には訳した者の刻印がどうしても残る。また、エンタメ翻訳者には、せっかく訳す以上、原作をよく見せたいというバイアスが訳すまえからかかっているものである。この二点は指摘しておきたい。
昔、原文との間合いは不即不離が翻訳の極意と聞いたか読んだかして、なるほどと思ったことがある。これは実際に翻訳を経験すればするほどよくわかる至言だ。もうひとつ、大いに首肯(しゅこう)したのが宮脇孝雄(みやわき・たかお)さんの名著『翻訳の基本』の副題「原文どおりに日本語に」だ。これまたまことにそのとおり、誰も反論できまい。それでも、だ。時にえいやっと原文を離れる勇気を持つのがエンタメ翻訳ではないだろうか。訳者のスタンドプレーではなく、あくまで読者をもてなすためという但(ただ)し書きがつくけれども。また、きっとこれには異論もあろうとは思うが。
ただ、もてなしにもいろいろある。こってりしたもてなしも、あっさりしたもてなしも。クールで洗練された都会風のもの、垢(あか)抜けずとも温かい田舎風のもの、逆に見当ちがいのもてなし、ありがた迷惑のもてなしというのもあるだろう。何事もそうであるように、もてなしにもセンスが要る。それでもただひとつ確かに言えるのは、心がこもっているかどうかだ。センスよりこれが大切かもしれない。心がなければ、世の翻訳者はいずれ機械翻訳に負けるだろう。
あとは、その人の翻訳でしか味わえないもてなしといったオリジナリティがあれば、鬼に金棒だが、これまた自明の理(り)のようでそうでもない。翻訳は無色透明であるべきで、翻訳者は黒子(くろこ)に徹すべし、という考えもあるからだ。確かに出しゃばりすぎの翻訳はいただけない。なので、これについては私としても判断のつかない部分がある。ただ、無色透明をめざすのは訳者の勝手としても、訳文には訳した者の刻印がどうしても残る。また、エンタメ翻訳者には、せっかく訳す以上、原作をよく見せたいというバイアスが訳すまえからかかっているものである。この二点は指摘しておきたい。
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わざわざ言うまでもないが、翻訳に絶対はなく、ひとつの原作を百人が訳せば百通りの翻訳が出来上がるだろう。それでも分類するとすれば、自分の翻訳はどんな部類なのだろうといつ頃からか気になり、思いがけず見つけた答が「エンタメ翻訳」だったわけだ。答が見つかったからといって何が変わるものでもないのだが、最初に書いたとおり、不思議なほど気持ちがすっとした。自分が長らくやってきたことに自分で名前をつけるというのは、なんとも気分のいいものだ。どこまでも個人的なことではあるのだけれども。
■田口俊樹(たぐち・としき)
翻訳家。1950年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。主な訳書に、ライス『第四の郵便配達夫』、マクドナルド『動く標的』、テラン『その犬の歩むところ』、ブロック『死への祈り』などがある。
この記事は〈紙魚の手帖〉vol.03(2022年2月号)に掲載された記事を転載したものです。