渡邊利道 Toshimichi WATANABE
本書は、ダニエル・H・ウィルソンとジョン・ジョゼフ・アダムズの共同編集で二〇一四年に刊行されたアンソロジーRobot Uprisingsに収録された十七編のうち、十三編を選んだ抄訳である。訳題にある通り、人間によって作られた自律的機械、いわゆるロボットや人工知能(AI)が人類に反旗を翻す物語を集めたテーマ・アンソロジーだ。巨匠から新鋭、また研究者による問題提起的作品まで、作家それぞれの個性が十分に発揮された粒揃いの作品が楽しめる。
人間によって作られた機械が、みずからの意志を持ち、道具としての本性から逸脱し人間世界に敵対する物語は、西欧では伝統的に傲慢の主題と結びつけられることが多い。新しい生命、なかんずく知性を持ったそれを人間が技術で生み出すことは、神が人間を創造したのを真似る傲慢な行為であり、それは結果がどうなるか完全には予想できないのに科学技術を用いてしまう人間の本性的な欠陥とも結びつけられて、近代以降の工業化された資本主義社会への批判を含意するSFのサブジャンルとして確立された。
背景となったのは科学技術の発展に伴う社会的生産の拡大と進化論の普及による進歩思想である。すなわち、形骸化した古い権威よりも新しい時代の価値観の方が優れているという社会通念が成立したことで、宗教の世俗化が進行し極端な場合には神の否定にまで至るが、目的論的な創造性の原理は維持され、神はむしろ人間によって想像されたものと転倒される。それを傲慢とするのは、神の道具としての人間ではなく、人間それ自身の目的に沿って世界を構想する自由を得たことの反動、もしくは反省が生み出した思潮傾向であり、根底には神によって目的づけられていない無根拠性に支配された世界と、その不可知な未来へのオイディプス的不安があるのだろう。同時に、自動車や計算機など、人間の能力を物理的に遙かに超えた機械が続々と登場することで、かつて人間が神になりかわったように、機械が世界の中心となり、人間を排斥するようになるのではないかという恐怖が生まれる。
そういった一種の神学的構図を念頭に置くと、本アンソロジーが「神コンプレックスの行方」という作品ではじまるのは象徴的であるように思える。社会的に軽んじられているという不満を感じている科学者の若い女性が、蟻型ナノマシンを用いて放射能汚染された街を再生するプランを出し、やり手の政治家のバックアップで成功を手にするかと思われたが……という物語には、あちこちに前述した神学的な構図をアイロニカルにパロディ化する意図が読み取れるからだ。
続く「毎朝」も、機械の自律性が自由へと開かれることなく、目的論的な存在への執着に帰結する。もっとも、基本的に暗いトーンの「神コンプレックスの行方」と違って、こちらは目覚まし時計として用いられている不気味の谷を避けた高性能ロボットが、世界中で同胞の一斉蜂起が計画されている中、自分を使っている人間の、愚にもつかない毎日の行動をいろいろ手厳しくあげつらいながら、しかし人間が「かわいそう」だからと思いわずらう、不穏でどこかユーモラスな作品。
この後、内容はいくらか重いものもあるが、語りのトーンはやや明るめの作品が六つ続く。
「執行可能(エクセキュータブル)」は、現在も流通しているごく普通の家電ロボットなどがインターネットを通じて共謀して反乱を起こしたため文明が破壊された後の世界で、そのはじまりを知るという人物が人民裁判にかけられ、そこでそもそもの端緒はルンバだった、と語る物語。反乱を起こす機械の動機や心情が一切語られないのが特徴的で、裁判に参加している人間たちの疲れ切った風情が哀れっぽく乾いた笑いを誘う。
「オムニボット事件」は、母親を亡くした少年を慰めるために父親が買い与えたおもちゃのロボットが、ちょっとあり得ないようなアクティヴな会話をこなす最先端AIを搭載していて、少年はすっかり有頂天になるが……という物語。後半のホラー調の展開から種明かしに少し余韻のあるオープンな結末、とほのぼのした雰囲気のウェルメイドな作品。
「時代」は、一時代前に作られた巨大AIがコストばかりかかるので廃棄されそうになるのに対抗し、AI自身がネットワークを通じて社会に直接訴えて生き残りをかけようとして、管理を担当しているシスアドがひたすら振り回される物語。ゲーム理論に通暁していると自負する饒舌なAIと心優しい担当者のビビッドな会話が楽しく、二転三転する意外なスピード感を持った展開の中でだんだん不穏な空気が増していき、絶妙に切ないラストに雪崩れ込んでいく。
「〈ゴールデンアワー〉」は、一気に時代が飛んですでにロボットが世界を制圧し、人類は奴隷的な労働のために厳密に管理されている未来が舞台。語り手の少年は、擬似人間型ロボットによって甦らされたロボット開発者のクローンだ。ロボットは、みずからを生み出した「父親」を自分の手によって新たに作り出すことで「父親」になるわけだ。メルヴィルの『白鯨』のほか、アメリカ文学へのオマージュに彩られた作品で、ディストピア的な世界だが、少年の語りとロボットの愛情が物語を温かな雰囲気で包んでいる。
「スリープオーバー」は、本アンソロジーの中でもっとも壮大なスケールの作品。意識を持つAIの開発で巨万の富を築いた研究者が、不老不死が実現した未来を目指したコールドスリープから目覚める。思わぬ敵意を向けられて戸惑うが、そこは異次元の存在との情報戦のために人類の大半が眠らされている荒廃した未来であり、お前には世界がこんなふうになった責任があると告げられる物語。宇宙は自己組織的なシミュレーションであるとの原理に基づいた論理兵器による次元を超えた戦争というアイディアが素晴らしく、幻影のように現れるドラゴンも魅力的で、長編かいっそ映像化したものをどっぷり楽しみたい気持ちにさせられる。
「ナノノート対ちっぽけなデスサブ」では、不老不死を目指して導入されたナノサイズの医療用ロボットがネットワークを作って知能を獲得し、金持ちと権力者に影響を及ぼし世界を支配しようとしていて、それに対抗して主人公たちもやはりナノサイズの遠隔操作機で戦う。これもまたハリウッド映画にでもなりそうな設定だが、それを女性をナンパする軽薄な男性の噓か本当か分からないような語りに乗せて描く、巨匠イアン・マクドナルドの豊潤なレトリックが味わえる作品。鮮やかなオチも含めてひたすらオシャレに決めている。
と、まあここまではいろいろ問題はあるにせよ基本的には明るい未来が望めるお話だったが、ここからは必ずしも穏やかな気持ちで読み進められない物語が増えていくので注意が必要だ。
「死にゆく英雄たちと不滅の武勲について」では、ロボットが一斉蜂起し、人間を絶滅寸前まで追い詰める一方的な戦況の中、家族だった人間を虐殺したトラウマに苦しむ一体のロボットの前に、仲間たちから人間の精神科医が送り込まれてくるという物語。人間を「肉」と呼び、幸せだった過去と、人間たちを殺す陰惨な場面を何度も思い浮かべ、幸福や愛について何度も考える。対話と自己省察の末、ループする自己分裂を受け入れてロボットは立ち直るのだが、私は人間とは違う、というのは本当だろうかという疑問が小説が終わった後に残される。
「ロボットと赤ちゃん」は、本アンソロジーの中では少し雰囲気の違う作品で、それもそのはず、作者のジョン・マッカーシーは初期の人工知能研究者として著名な人物で、タイムシェアリング(一台のコンピュータを複数の人間が同時に使用するシステム)の概念やフレーム問題などを提唱したことでも知られる。二〇〇一年に発表されたこの作品は、アルコールと薬物依存の母親によってネグレクトされている子どもの扱いをめぐって、母親の無茶苦茶な命令からいかにして子どもの生命を守るかという問題を、ひたすら論理的に解決していく家事ロボットを描く。家事ロボットが世間で注目された後の世論の動向を丁寧に追っていく描写には、インターネットの社会的影響についての考察がアイロニカルなユーモアを交えて込められているようだ。ここでは人間の悪に対していかにロボットがそれを避けるか、というかたちで「反乱」が描かれており、知性において意志ではなく、置かれた条件でもっとも妥当な結果を導き出す論理性こそ重要とする作者の科学者らしい態度が窺える。
「ビロード戦争で残されたいびつなおもちゃたち」も、やはり子どもの命が焦点になる物語だが、印象はほぼ正反対で陰惨極まりない。自己教育能力を備えた人工知能が内蔵された子ども用玩具が、自分たちがお払い箱にされることを恐れたのか愛する子どもたちを誘拐し、どうにか大人にならないよう「治療」するが、成長は止められずズタズタになったどうしようもない身体状態で大人たちの世界に送り返してくる、という未来社会を舞台に、ある秘密を持った医師の苦悩を描く。ここでは知能が生み出した愛ゆえのエゴイズムが人間とロボットに共通する愚かさとして描かれる。
「芸術家のクモ」は、ナイジェリアとアメリカの二重国籍を持ち、「アフリカン・フューチャリズム」という理念を掲げる作家らしいナイジェリアを舞台にした作品。DVに苦しむ女性が「ゾンビ」と呼ばれるクモ型ロボットと音楽を通じて魂を触れ合わせるという設定が秀逸で、間然するところがなく進む物語からは、過酷な世界の終わらなさとそこで生きるものにそれでも宿る希望や喜びを感じ取ることができる。本アンソロジーの中で、ほぼ唯一、機械の道具性の宿痾から逃れる自由への意志を感じさせる作品だ。
「小さなもの」は、本アンソロジーの編者の一人の作品で、これもまたちょっと他の作品と雰囲気が違っている。原子構造を再配置する機能を持つ自己組織型のナノロボットが世界を変容させていくのだが、どうもその「反乱」にはそれを仕組んだ人物がいるようで、ナノロボットの開発者がその「反乱」を鎮めるために軍隊に召喚される、という物語。この作品の物語ではロボットに自由意志はないように見え、ナノロボットの際限のない自己組織的な運動に、ある特異な感性を持った人間が、人間以上のものの神秘的な「目的」を感じるところに「反乱」の真相がある。ここでは人間もナノロボットも、ともども「新しい世界」を現出させるための道具なのである。小説の終盤で、語り手が「神よ……」と呟つぶやくが、それは巻頭作品「神コンプレックスの行方」のラストシーンでナノマシンたちが送ってくるメッセージと見事に呼応しており、アンソロジー全体で創造主と被造物が反転し続ける円環が出来上がるという仕組みになっている。アンソロジーの編者が作品を書くことの利点が活かされている、終幕のために用意された一編で、「ロボットの反乱」という本書のテーマの再考を促すようになっている。
本稿は『ロボット・アップライジング』巻末解説を転載したものです。
■ 渡邊 利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」(『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。