第14回創元SF短編賞の公募は2022年1月13日に開始しました。2023年1月10日の締切までに487編の応募があり、編集部4名で分担する第一次選考で2月24日に68編を選出したのち、編集部4名による合議の第二次選考で3月27日に次の6編を最終候補作と決定いたしました。

阿部 登龍(あべ とりゅう)「竜は黙して翔ぶ」(「竜と沈黙、あたらしい物語について」より改題)
稲田 一声(いなだ ひとこえ)「鶏(にわとり)の祈り永久(とわ)に」
河野 咲子(かわの さきこ)「祝炎月の娘たち」(「祝炎月の花園」より改題)
木下 充矢(きのした みつや)「遙かなる賭け」
斉藤 千(さいとう せん)「馬が合う」
坂崎 かおる(さかさき かおる)「ベルを鳴らして」

 この段階で通過者に感想と指摘を伝え、約2週間の期間で一度改稿していただきました。編集部の総意として、細部の指摘はせず、大きく気になった点を順に伝えました。
 最終選考会は、宮澤伊織、小浜徹也の二選考委員により4月25日、東京創元社会議室で行い、受賞作を次のとおり決定いたしました。(山田正紀選考委員は急病のため選考委員を辞退されました。現在は快復されていらっしゃいます。)

受賞作 阿部登龍「竜は黙して翔ぶ」




選評  宮澤 伊織

 第6回創元SF短編賞をいただいた自分に選考委員のオファーが来て、正直なところ頭をよぎったのは「早くない?」の一言だったが、ベテランと若手を一人ずつ入れる方針とのことで、前年から引き続きの山田正紀さんに加えて、今回と次回を私が担当するはこびとなった。どうぞよろしくお願いします。
 選考直前に山田さんが急なご病気で入院されたので(無事退院されたとのことでほっとしました)、結果的に私ひとりと東京創元社編集部小浜さんで選考する体制になり、これは責任重大だぞと内心大いに動揺したが、考えてみればそれは錯覚で、一人だろうと百人だろうと、選考委員一人一人の負う責任は変わらないのである。
 さて、最終候補六作をすべて読み終えて、レベルの高さにまず驚いた。いずれも文章力は申し分なく、最終選考までを勝ち抜いてきた理由と、他にない個性がそれぞれに感じられ、応募者の皆さんの多彩なアイデアを楽しみながら読ませていただいた。
 一方で、「惜しい」と思わされることも多かった。構成上の欠陥やカタルシスの不足で、せっかくの題材が生かし切れていないケースが散見されたからだ。
 ストーリーテリングの基本をシンプルに言うなら、「読者の期待を高めて、それに応える」ということに尽きる。分解すると、「期待を高める」「高めた期待に応える」という二つのフェイズがある。今回の選考における評価のポイントは、いかにこの二つをうまくこなしたかに絞られたと言える。作品ごとの講評で具体的に見ていこう。
 稲田一声さんの「鶏の祈り永久(とわ)に」。ある町の住民だけがタイムループに囚われ、脱出できないまま、ループする五日間の中で生活していくことになる。終わりのない繰り返しに住民たちが疲弊する中、鶏の脳を媒介した記憶移植技術が発明される。主人公は町の外に暮らす息子に記憶を共有してもらおうかと考えるが、息子を巻き込むことに躊躇いを覚え、逆に息子の記憶を自分に書き込んでもらう。それまで知らなかった息子の考えを知り、自分とは異なる時間に進む息子の未来を祈る……。
 まず、ひとつの町単位のタイムループという、個人の物語も群像劇も描ける枠組みがよかった。今回の候補作中で最もキャッチーで、広い読者層の興味を引きそうな設定だ。それだけにストーリーが惜しかった。作中でタイムループは解決せず、主人公が個人的な満足を得て終わる。前半で高めた読者の期待に応えることができていない。冒頭の、自分がループに囚われていることを息子に思い切って告白するというシーンもその後回収されないので、「掴み」が本当に掴みでしかなく、宙ぶらりんになっている。そうした構成上の欠陥もあるが、一番の問題は、「状況が解決しないまま主人公が諦めて終わる話」を読者がどう思うかということだ。そんな話を読みたい人はいない。
 実のところこれはこの作品だけではなく、小説家志望者が陥りがちな罠だ。私にも経験がある。話にリアリティを持たせようとした結果、キャラクターの行動が小さく、せせこましくなり、話がつまらなくなるのだ。試しにまったく共感できない人格破綻者や、こんな奴いないだろうと思うような極端な人物をメインキャラクターにしてみるとよい。作者の枠をぶち壊してくれる。
 斉藤千さんの「馬が合う」。女性による奉納流鏑馬を伝統的に受け継いできた山間の村。流鏑馬の射手を務めるはずだった姉を亡くした主人公は、村の大人たちに姉の跡を継ぐよう頼まれるが、幼少期の落馬の記憶で、馬に近づくことができない。そこに動物とコミュニケーションできる〈ドリトル〉という開発中のシステムが持ち込まれる。主人公は〈ドリトル〉を介して姉の愛馬だった八兵衛と会話し、馬に乗れるようになる。しかし〈ドリトル〉の重大な欠陥が発覚して実証実験は中止。挫折しかける主人公だが、八兵衛の持っていた姉の記憶を〈ドリトル〉を介して共有したことで、人馬の絆が深まる。トラウマを乗り越えた主人公は、〈ドリトル〉を使わずに流鏑馬に挑む。
 愛する人を失った悲しみ、喪失感を丁寧に書いた作品だ。姉を亡くした寂しさを馬と分かち合うシーンでは涙ぐんでしまった。断固として「私は、今、不快です」と言い続ける馬がかわいい。ところが話が全体的におとなしく、平板な印象を受けてしまう。この話はどんどん面白くなりそうだな、という期待を高めることに失敗しているのだ。第一の原因は、主人公の行動が基本的に受け身だからだろう。周りに頼まれて、流されて、仕方なく、気の進まない仕事をする……というのはよくあることで、リアルではあるが、そのままでは物語を引っ張る力がない。主人公が事態に対して受け身である場合、誰の予想も超えるような事態が次々に起こり、いったいどうなるんだと読者の興味を引きながら、主人公が自主的に行動せざるを得ない状況を作っていかなければならない。
 木下充矢さんの「遙かなる賭け」。2031年、金星探査機が高層大気に残された群知性型超並列プロセッサを目覚めさせ、七億年前に滅びた金星の知性体がアップロードした精神とコンタクトする。地球の生態系の素になったのも、金星クラウド知性が種族の未来を賭けて播種した微生物だった。目覚めた彼らと協力して、地球人類は金星地表に残された旧文明の情報をサルベージする。そこには未知の恒星間文明の証拠が残されていた……。
 SFを書くぞ! という情熱と楽しさが伝わってくる作品だった。惜しむらくは短い尺にあれもこれもと詰め込みすぎて、短編としての筋がぼやけてしまったことだ。金星知性を発見した地球人の会話、金星知性の活動ログ、12年後の金星地表のサルベージと、三つのパートがバラバラで、ダイジェスト感が出てしまっている。高めた期待にそれぞれちゃんと応えようとしているはずなのに、駆け足なので損をしているパターンだ。このネタは余裕のある枚数で読みたかったと思わされた。腰を据えて長編にするか、どれか一つのパートに絞って書けばもっとよいものになったと思う。
 もう一つ、金星知性の活動ログの書き方が人間的すぎるのが気になった。たとえば金星知性の主観で「外皮の輝度を変調させて『言った』」というような表現がなされているが、彼らにとってそれが自然な意思疎通方法なのだとしたら、わざわざ異化するような表現はしないはずだ。人間とは違う存在の主観を描写したいのであればそこは逃げてはいけない部分だし、逆に翻訳による言葉の綾で面白くもできるはずである。
 河野咲子さんの「祝炎月の娘たち」。沈丁花の迷宮に取り囲まれたダフネの街は、一年に一度、祝炎月の終わりとともに迷宮もろとも燃え、再生する。住人は〈既知の瑪瑙〉と呼ばれる宝玉から一年間の託宣を引き出し、託宣の通りに一年を過ごす。予知された未来が決して覆されることのない決定論的なこの街に燦來(サンドラ)という少女が訪れ、託宣に記された未来に刃向かい、愛する男を街から連れ出そうとする。主人公は無駄なことと思いながらも燦來を自宅に住まわせ、その動向を見守る。そして祝炎月の最後の日が訪れる……。
 非常に完成度の高い短編で、独自の世界を構築することに成功している。描写も流暢で美しく、文章に酔いしれるような体験ができた。夜、主人公が眠り込んだ夫の肌に紋様を刻み込むシーンは本当によかった。ストーリーテリングも巧みで、何度も細かく意外な展開を仕掛け、読者を飽きさせない。しかし一つだけ重大な欠陥がある。それは物語の終わらせ方だ。
 この話の主役は、決められた運命に抗おうとする燦來だ。語り手である主人公は傍観者であって、物語を引っ張っていく力はない。自然、読者は燦來の抵抗が成功するかどうかに注目して(期待して)読み進めることになる。だが、その期待は実らない。ラストシーンで燦來の計画は潰え、諦めてダフネの街の循環に取り込まれて終わる。この話は最初に挙げた稲田さんの作品と同じ過ちを犯している。もう一度繰り返すが、「諦めて終わる話を読みたい読者はいない」のだ。未来は決定されていて変えられないという描写を重ねれば重ねるほど、物語のベクトルは、その運命を覆す方向に強化されるのだが、この作品はそれを無視している。諦めて静かに終わるのは、いくら美しくても、物語としては駄目なのだ。
 バッドエンドを面白く読ませるのはハッピーエンドより遙かに難しく、読者に納得してもらうために何倍もの労力が必要になる。失敗させるのであれば、成功したと思わせてからの急転直下、盛大に、破壊的に大失敗させなければならない。なおかつ読者に、ああこの要因はわかっていたはずなのに目を背けていた、これなら失敗してもしかたがない、と納得してもらうよう周到に準備しておく必要がある。バッドエンドや苦い結末を書きたいなら、ホラーやハードボイルドが参考になるだろう。
 坂崎かおるさんの「ベルを鳴らして」。昭和初期、邦文タイプライター学校に通う主人公は、中国人教師の「先生」と出会い、タイピングの腕で完敗したことをきっかけに心を通わせる。第一次上海事変が起きて先生は学校を去るが、その際主人公の名前に使われる「楸」の活字を残していく。戦中、中支派遣軍軍司令部のタイピストとして働いていた主人公は、次に軍が向かう先の村が先生の故郷だと気づき、「楸」の活字を使って命令を改竄するが、先生が活字を置いていったのは偶然だろうかと訝しむ。戦後、夫の故郷であるドイツのハーナウを訪れた主人公は、碁盤の目状の街路にちりばめられたレリーフが、かつて先生に例文として見せられた実在しないグリム童話の文面通りで、街路を文字盤に見立てられることに気付く。例文の順番通りに街路を辿っていくと、骨董品屋に導かれる。そこには先生が使っていたタイプライターが主人公を待っていた。先生は未来を書き換えていたのだ。
 情感に満ちた、非常に巧みな小説である。時代背景を映したストーリーも、邦文タイプライターというガジェットの絡め方も見事だ。将来作者の商業短編集が編まれたらそこに含まれておかしくない、いい小説だった。作者も手応えがあったと思うし、この出来で受賞しなかったことにショックを受けたのではないだろうか。
 この作品の惜しいところは、中核となるSFのアイデアを巡る語りが強く抑制されているため、肝心の「タイプライターで未来を書き換える」というネタが埋もれて、ちょっと幻想味のあるくらいの一般小説として読めてしまうことだ。終盤の謎解きもやや読者を置き去り気味で、ともすれば主人公の思い込みにも見えてしまう。「SFの企画を出すと通らない媒体で、一般小説のふりをしてSFを書こうとしたような小説」とでも言えば伝わるだろうか。それでも書けてしまうし、読めてしまう。小説が上手いが故の落とし穴と言えるかもしれない。商業ではそういった闘いを強いられることもあるだろうが、せっかくSFの賞なのだから、抑制を外して、アイデアの可能性をもっと探究してもよかった。
 これは読者が何を期待して読むかという話にも関係する。ずっと一般小説ですよという体で進行しておいて、終盤で「実はSFでした!」とやるのは、作者が期待するほどうまく機能しない可能性が高い。この作品の場合、先生が未来を書き換えている伏線を張るために、序盤から違和感のある描写をちりばめ、「表面的なストーリーの裏に何かあるのかも?」という期待感を醸成していけば、終盤に向かう確かな筋を通すことができただろう。
 阿部登龍さんの「竜は黙して翔ぶ」。主人公は竜レースの騎手となるべく生まれたが、残酷なスポーツと見なされ竜レースは廃止される。大人になり、母国を離れ、拡張ワシントン条約事務局の査察官となって違法な動物取引を捜査していた主人公は、竜レースの復活をもくろむ「女王」と呼ばれる人物を追って母国に向かう……。これ以降は実際に読んでもらえばいいので詳細は省く。今回の受賞作である。
 書きたいこと、読ませたいことがはっきりしたSFだった。とにかく竜が好きで、竜を書くのだという突出した作家性がストーリーと噛み合っている。拡張ワシントン条約事務局というハッタリの利いた設定をはじめとして、ネタの出し惜しみがないのもよかった。期待を高めながらの話の盛り上げ方もよい。クライマックスではキャラクターの感情が乗ったレースの描写が爽快だった。
 けっして完璧な作品ではない。荒削りな部分もあるし、どこか既視感を覚える「オタクの手癖」で書いているような部分も目に付いた(私もファンライター気質なのでわかる)。後半語られる大ネタが描写ではなく、キャラクターの口による設定語りに留まっているのがもったいない。タイトルもあまりよろしくなく、「黙して翔ぶ」という割に内容は静かな印象がまったくなかったし、作中での「沈黙」というキーワードの使い方も唐突であまりハマっていない気がする。そもそも竜というのがどうやら異星由来などではなく、この作品の地球土着の生物らしいと気付くまでに時間が掛かったので、最初は《パーンの竜騎士》のような、どこか別の惑星の話なのかと思いかけた。地球を舞台になんの説明もなく竜を出して、「この世界には竜が当然存在しますが、何か問題でも?」という顔で新人賞に応募してくるのは、意図しているならたいしたタマだし、素でやっているならなかなかの狂気である。しかしそうした問題も、最終的な評価を覆すようなものではなかった。「上手い小説」というより「面白い小説」だったことが受賞の決め手だったと表現することもできるだろう。
 総評を述べる。今の世の中、創作は誰でもできる。特に小説は言語が使えるなら本当に誰にでも書けるのだ。そんな中、特に商業で小説を書こうという人間が、頭一つ抜けるような、力のある作品を書くために必要なのは、情熱、執念、愛、狂気といった言葉で表現される、誰にも真似できない何かだ。私はそれを殺意と呼ぶが、とにかく「この題材では自分が一番凄いものが書ける」「このネタで自分以外書けなくなるくらい全部やりつくしてやる」「仮にこの作品から二次創作がどれだけ生まれようとも自分が一番強い」「この作品で全員ぶっ殺してやる」「何もかも焼き尽くしてやる」「めちゃくちゃにしてやる」というくらいの気持ちで臨んでほしい。
 阿部登龍さん、受賞おめでとうございます。今後の活躍を楽しみにしています。
 最終選考に残った方々にも、応募いただいた皆様にも、健闘を称えて拍手を送ります。楽しい選考でした。ありがとうございました。


選評  小浜 徹也(東京創元社編集部)

 毎回、創元SF短編賞に再挑戦してくださっている応募者は数多く、また近年はウェブ上に複数のSFコンテストがあり、ウェブマガジンに発表される短編や掌編も増える一方だ。紙の同人誌活動も、1980年代にSF創作誌が興隆していた頃がもどってきたかのようで頼もしくもあり、そうした場所で見知ったお名前の方々にご応募いただけるのは心強いかぎり。もっともそれは、過去の発表作を参照して、作家性について参考にさせていただく機会が増えたということでもあり、応募作の出来だけを頼りに評価が決まらない時代になったということでもある。
 今回の最終候補作は6編。
 恐縮ながら、評価の低かった順に述べる。

 斉藤千「馬が合う」は動物との意思疎通もの。語り口は素直で好感をもてる。中心アイデアとなる、動物とのコミュニケーション装置の名が〈ドリトル〉というのも洒落ている。
 語り手の女子高校生は、800年間、代々女性が奉納流鏑馬(やぶさめ)の射手を務める家系の生まれ(現実の伝統的な流鏑馬では男性が務める)。名手と謳われた姉が昨年不慮の死をとげたことで、語り手は射手となるよう村から要請された。だが彼女は幼い頃の落馬の記憶がトラウマとなっている。そもそも人間を相手にするのも不得意だ。そこへ村の大人たちが導入したのが、新開発された〈ドリトル〉だった。
 堅調に意思疎通が進んでいたところ、突如として〈ドリトル〉をとりあげられるあたりが山場だが、この前後が疑問だった。馬とはすでにさまざまなニュアンスを通じさせられるようになっていたはずで、〈ドリトル〉がなくなっただけで関係性が白紙に返る(またその主な理由が、言葉がわからなくなっただけ)というのが展開上の都合のように受けとれる。全体に、馬自身の立場、伝統を守ろうとする人々の立場、さらに言えば〈ドリトル〉の立場から物語を顧みたとき、ストーリーを最優先したがためのような薄みを感じた。
「この物語にとって個々の人物は何か」というのは当然の問いかけだが、「個々の人物にとってこの物語は何か」と反問してみるのは有用だと思う。これは人物だけでなく、小道具や舞台にまで当てはまる。
 稲田一声「鶏(にわとり)の祈り永久(とわ)に」。著者は第12回以来2年ぶりの最終候補。この著者も語り口が優しい。
 舞台となるのは、5日間のタイムループに陥った町。特定の日時になるとメモもデータもすべて失われるが、町の人々だけが連続した記憶を保っている。彼らは原因を究明しようとし、「脱出」の方法を模索するが、当然ながら手掛かりは得られない。そうこうするうちに(体感年で)10年が過ぎた。
 語り手は離婚した男。月に一度、元妻のもとにいるひとり息子が泊まりにくるのが楽しみで、それが5日ごとになったのはとても嬉しいが、会うたびにくり返すのはほぼ同じ会話だ。
 10年たつうちに、町内ではメンタルを病む人々も増えていく。そのとき問題解決の糸口となったのが、題名にもある鶏。語り手は養鶏場を経営しているのだが、いつのまにか独学し実験を重ねた人々の手で、この鶏600羽の脳をUSBメモリとして利用し記憶を保存することに成功する――というのだが、このギミックがどうにも飲み込みにくい。鶏たちも連続した記憶を持っていると分かった、というのもご都合主義的に思える。万がいち、題名の回文を思いついたがための設定だったとしたら、かなりの無理筋でもったいない。
 結末部の、息子の記憶を一日ぶんだけ自分の脳に移すという展開も納得しづらかった。最後の最後に自分が息子から遠ざけられていたことを知らされるのは衝撃的でいいのだが、全体に、ループする町というアイデアと、語り手の個人的な物語のサイズ感が見合っていないのではないか(サイズ感の落差ということでは、第12回の「サブスクを食べる幽霊たち」も同様に感じた)。
 木下充矢「遙かなる賭け」は、先の2作品とまったく趣の異なる、7億年の時をはさんだ金星と地球の物語。億年単位のスケールというだけで感動させられる。5億年前の地球のカンブリア爆発は、金星生命がいつか地球人となる存在に発見されることを祈って、地球に生命を育むため最後にいちかばちかで送りこんだ播種によるものだったという着想も素晴らしい。
 物語は2031年、地球が送った探査機が金星成層圏に到達し、そこで接触した微生物クラウドからメッセージを受けとったことにはじまる。解析の結果、7億年前の金星生命の物語が再現され、以後はホーガン『星を継ぐもの』ばりに、ほぼディスカッションのみで遠大な物語が語られるのはいいのだが、情報量の多さもあり、設定と展開だけを説明されるようで読みづらい。この倍の長さで探求の手順を丹念に描いてもらえたら、と残念に思った。
 前半と後半で語り口が違うのが気になったが、のちに作者がウェブ公開した際の注記から、別の賞に投じ公開もされた25枚の作品に後半部を書き足したものと分かった。これはさすがに無頓着で、枚数次第で組み立ては変わる。80枚の長さなりに全体を再構成してほしかった。
 なお作品の結末では太陽系外へ乗り出す手掛かりが示され、さらにスケールの広がる予兆があるのだが、それが4億年前にアーカイブに記録されたものというのは、偶然性を持ち込みすぎではないか。なお、微生物クラウドも窒化珪素アーカイブも、7億年のうちに変化・劣化しないのだろうかと疑問に感じた。金星最後の日についても、メッセージから再現するのではなく、割り切って、『星を継ぐもの』の序章のチャーリー視点のエピソードのように、知られざる金星生命の物語として語ってもよかったのではないかと思う。
 坂崎かおる「ベルを鳴らして」。「ベル」とはタイプライターが一行ごとに文頭へ戻るときに鳴る音を示す。
 アイデアとしては宮内悠介「盤上の夜」に重なる印象で、名手が身体拡張する先が囲碁盤ではなくタイプライター。語り口は端正で、タイピングの説明も分かりやすい。
 1920年代後半ないし30年代初頭に物語ははじまる。語り手は邦文タイピストに憧れて専門の学校へ進んだ女性。彼女はタイピングの才覚があり、中国人の先生の指導のもとで瞬く間に熟達する。学校での先生との、またライバルとなる友人との会話も自然で、詳細な練習風景の描写をはじめ、さまざまなタイピングのコツも披露され、知識読み物としても面白い。やがて日中戦争がはじまり、彼女は漢口に渡り、そこで意図しなかった事態を引き起こす。終戦後かなり経って、彼女は結婚相手の故国ドイツへ旅し、そこでタイプの文字盤の活字がひとつひとつ立ち上がるような幻想体験に襲われ、クライマックスを迎える。
 一編の美しい奇蹟の物語である。しかしそれを素直にSFの受賞作として推せるだろうか。最後に挿入される架空のグリム童話がグリムの故郷の街の各所と符合する工夫は面白いとはいえ、そこまでの話と融けあっていないように感じる。また確かに作中には、早い段階からタイピングを外挿(エクストラポレート)させたり、チャペックが発表したばかりのロボット物語との関連をほのめかしたりして、SFに接近する要素は窺えるのだが。
 そう考えていたところで、梗概を見て驚いた。著者は作中の要所要所を「先生が未来を書き換えた」「すべての運命が記された文字盤」としている。そのようには読みとれなかったのだ。ぼくの洞察不足だろうか。あるいは著者が抑えて書きすぎたのかも知れない。梗概の意図に沿って、未来予知と分かるような方針で改稿を提案することはできるだろう。だが、それがこの作品にとって良いことなのか、さらに著者の今後の活動方針にかなっているのだろうかという躊躇がどうしても残った。
 河野咲子「祝炎月の娘たち」。著者の前回の最終候補作「海底劇場にて」は、現世の事物を示す単語が多々導入されてSF面で納得しづらいものがあったが、今回は完全な幻想小説にふりきっている。山尾悠子の最初期作を連想させる世界を濃密に構築した、人を魅入らせる小説だ。
 いずこにあるとも知れぬ、白熱した太陽にさらされた街。一年をかけて行なわれる剣士たちの競技会が終わると、街は三日三晩つづく焔に焼き払われる。街はその灰のなかから新しく再生し、前年の託宣に告げられたとおりの一年を迎える。街の人々はみな翼を持つ不死者であり、前世までの個々の記憶を残しながらも新たな人間関係を得てよみがえる。ただ、街の地下にある広大な図書館には、すべてが記され、残されていた。焔の日々まで残りひと月とせまったある日、世界の外部から、託宣に記された未来を信じようとしない、翼のない少女が訪れる。これもまた託宣が予言した出来事であった。
 プログラムされた一年を物語として自覚して生きる人々と、その物語を綴る書記官たちの日々と表現することは可能な作品だが、SF的メタフィクションとして解釈できるような書かれ方ではない。とはいえ幻想世界の成り立ちは成り立ちなりに語られており、その解説のパートが長くつづくことからしても、それを作中で消化するだけの会話やエピソードがもっと必要なように思う(割愛してしまうと奥行きが減じる)。また、小説全体が読者にとっての現実と隔絶した異様な世界であるからには、語り手を通して少しずつ読者の前に姿をあらわすための工夫、仕掛けがもっと欲しいところだ。
 なお、小説そのものが受け入れていると言ってもいい「世界のことわり」に対して、それを最後まで信じない翼のない少女は、物語に別の観点と価値観をもたらす存在であってもよかったのでは。一定の諦観に囲まれたなかでは駄々っ子に見えてもったいなく感じた。
 阿部登龍「竜は黙して翔ぶ」は、選考委員ふたりとも文句なしの一位評価だった。歴代最終候補作のなかでも数少ない、親しみやすい近未来アクションSFだ。
 人類とともに太古から竜の存在する地球。読者の暮らす現実と大きく異なっているのはその点と、1983年に深宇宙から、死滅した先進文明の(映画「コンタクト」を思わせる)膨大な科学情報がもたらされたこと。その情報が地球上のあらゆる生物のプリントを可能にし、かくして世界から食用家畜がいなくなり、過剰なまでの動物愛護活動がもたらされた。それと同時に地下マーケットでの人工動物の密造と密売が横行するようになっている。主人公の30代の女性は、それを取り締まる国連の部局の上級職員であり、かつて競技竜の騎手を志した、竜飼いと呼ばれる一族の末裔であった。
 主人公のバディとなる若い生意気な女性職員も生き生きと描かれており、最後に主人公が20数年ぶりの竜レースに挑んで幕を下ろすのも綺麗に決まっている。ハードボイルド的なけれん味のある一人称は、ときおり意識しすぎてキャラクター演出が生硬になってしまう部分もあるし、ハードボイルドなりに読者に対して説明が不足しがちな箇所も見受けられるが、不満点ははっきりしているし、そもそも物語の起伏が明瞭な作品なので、完成形も見えやすい。著者は長らく竜へのこだわりが強かったというが、幅広い作風で活躍していただける筆力の持ち主と信じて受賞作とさせていただいた。