東京創元社4月の新刊、砂村かいり著『黒蝶貝のピアス』から約170ページを3日連続で一挙特別公開!

【あらすじ】
前職で人間関係につまずき、25歳を目前に再び就職活動をしていた環は、小さなデザイン会社の求人に惹かれるものがあり応募する。面接当日、そこにいた社長は、子どもの頃に見た地元のアイドルユニットで輝いていた、あの人だった――。
アイドルをやめ会社を起こした菜里子と、アイドル時代の彼女に憧れて芸能界を夢見ていた環。ふたりは不器用に、けれど真摯に向き合いながら、互いの過去やそれぞれを支えてくれる人々との関係性も見つめ直してゆく。年齢、立場、生まれ育った環境――全てを越えた先の物語。

最終日の本日は第三章「屈託」を丸ごと公開いたします。
ぜひご一読ください。



  屈 託


     □

「もう本当に雑な男でさあ。まあでも顔がいいから無罪っすよ」
 半年ぶりに会った志保は相変わらずおしゃべりで、そして新たな恋を得ていきいきしていた。
 志保の恋愛は、サイクルが早い。いつもネタを豊富に抱えていて、愚痴にも深刻さがなく、どんな手痛い体験にも笑いを添えておもしろおかしく話し聞かせてくれる。首の後ろでひとつにまとめた髪にシュシュが巻かれているのは大学の頃から変わらない。前髪の厚さや眉の形も、いつ会っても志保スタイルだ。時代に流されたくないんだよねといつか語っていたっけ。
「谷くんは元気?」
 志保は自分が橋渡しをした恋人たちの話を聞くのが三度の飯より好きだ。
「元気なんじゃないかな」
「なにそれ」
「最近全然会ってないんだもん。仕事仕事で」
「あれ、谷くんってそんな仕事人間だったっけ」
「仕事人間っていうか、バイトの子たちに気を遣いすぎっていうか」
 自分から連絡して友達を呼びだす。それだけでよかったんだ。なんて簡単なことなんだろう。
 亜衣とパエリアを食べた日にふと思い至ったこと。それは、しばらく女友達と遊んでいないという事実だった。自分には同性の友達がいないのではないか。そんな不安が兆したとき、真っ先に思い浮かんだのが志保の顔だった。
「結婚したら『谷環』かあ、なんか字面があんまり人名っぽくないね」
「ちょっとなにそれ、飛躍しすぎ」
「『タニタマキ』って片仮名にしたらいい感じかも。ちょっとアーティストっぽい」
「ああ、どこで切れるかわからない感じがね」
 女性が改姓しなきゃだめとは決まってないじゃない。その言葉は自分には口にする権利がない気がして、冷たい水と一緒に飲みこんだ。
 仙田志保と仲良くなったきっかけは、大学に入学してすぐ、自分が健康診断の日にちを間違えたことだった。
 新入生は、授業が始まるまでのわずかな期間に、学部ごとに健康診断の日時が割り当てられる。入学式の日に手渡された膨大な書類の中に交じっていたその概要を環は見落としており、気づけば経営学部の実施日は過ぎていた。学生課の事務で事情を説明し、不安いっぱいに交ざりこんだ法学部の健康診断で、最初に声をかけてきたのが志保だった。
 おせっかいな子だった。人と人とをつなぐのが自分の使命だとでも思っているようだった。経営学部に入学した自分の元同級生と環を引き合わせてくれたおかげで、環は授業が始まっても孤独ではなかった。その三人でたびたびカラオケや買い物に繰り出したし、顔の広い志保を通じて飲み会や合コンの誘いを受けるうちに人脈が広がった。
 学部は違えど交流は続き、卒業しても連絡を取り合っていた。お互い社会に出て会う頻度が減っても、志保は遠くから環にエネルギーを分け与え続けた。
 いつから没交渉になってしまったのだろう。記憶をたぐる環の前に、ほわほわと湯気を立てるスープカレーが運ばれてきた。メニューを開いて即決した北海道野菜のカレーが、木製の椀に満たされている。ごろんと大きな男爵いもに、つやつやと青いオクラ。スパイスの香りが食欲を刺激する。志保の前にはきのことチキンレッグのカレーが置かれた。
「環って食べるの好きだよね」
 子どものようにはしゃぐ環に、志保が目尻を下げて笑った。
 食べるのが好きじゃない人なんているの? そう切り返そうとして、上司の顔が浮かんだ。
 菜里子がゆっくり昼休憩をとっているところをあまり見たことがない。環や亜衣が外へランチに行っている時間に、自分の席でパンを齧ったり簡易食をとったりして終わりということが多いようだ。あの人はきっと、食にそこまで興味がない。
 スプーンをカレーに沈めると、細かい油膜が集まってきた。スープは思いのほか透明で、やや塩気が強いが複雑な旨味があった。
「下北沢まで来た甲斐があったよ。街の雰囲気ずいぶん変わったよね? 駅もダンジョンみたいでさ……」
 反応がないので目線を上げると、志保は黙々とスープカレーを口に運んでいた。
 そうだった。普段はおしゃべりなのに、志保は食事中はいっさい会話をしないのだった。いったん食べ始めると、こちらから話しかけても必要最低限の反応しかない。最初の頃は戸惑ったものの、そういう育ちなのだろうと納得してからは、彼女のことを一歩深く理解できた気になれた。
 食後のコーヒーに切り替えたところで、志保のスマートフォンがメッセージを受信した。
「んっ」
 志保が口元を押さえながら画面を確認し、破顔する。
「よかった、ノージーも来れるって! しかも彼氏さんと」
「えっ、えっ?」
 突然もたらされた情報に環は戸惑う。ノージーとは大学時代つるんでいた三人のひとりで、もともと志保の高校の同級生だった野尻弓子のことだ。学部が一緒でともに講義を受けた仲だが、大学の外では志保抜きで会ったことはない。個人的な連絡も必要最低限しか取り合ったことがない。そのことに志保はきっと気づいていない。
「無理かもって言ってたけど都合ついたみたい。あと十五分くらいだって」
 口元をほころばせて志保は言う。心の底から嬉しそうな様子だ。
「えっ……あの、弓子ちゃんも来るんだ?」
「ああ、ちゃんと言ってなかったっけ。環に会うならもちろん呼ばなきゃと思って声かけてたの。仕事の都合で微妙だって聞いてたんだけど、大丈夫になったみたい。彼氏も連れておいでよって言ったらほんとに連れてくるって。やーん最高」
「そっか、よかったね」
 あ、わたし今、笑顔を作ってる。口の端を引き上げながら環は自覚する。
 今日はふたりでじっくり深い話をしたかったんだけどな。積もる話をいろいろ聞いてほしかったんだけどな。新しい仕事のことも、上司の恋人をほんのり気にかけてしまっていることも。
 きっかり十五分後に弓子が入店する。亨輔の店で売っているようなインド綿のワンピースを着た弓子は、大柄な男性を伴っている。
「ノージー! こっちこっち!」
 他の客がふりむくくらい大きな声で志保は弓子を呼び、手招きする。天井から垂れ下がるフェイクグリーンをかき分けるようにしてふたりはやってくる。
「やだもう! 久しぶり!」
「いやいや先月会ったやんけ」
「そうでしたあ」
 合流するなり志保と弓子はコントのようなやりとりを繰り広げる。
 先月も会ってるのか。それなのにこのテンションなのか。ふたりのときは、わたしは呼ばれないのか。もやもやした思いを抱きながら、環も中途半端に腰を浮かせてふたりに挨拶した。
 弓子が迷わず志保の隣に座ったので、必然的に彼女の恋人が環の隣になった。男性用の整髪料のにおいが、店内に漂うスパイスの香りに混じって自己主張する。食欲がわずかに削がれた気がした。
「あーお腹空いたっ」
 ひととおり挨拶を済ませ、弓子がメニューを開く。寺井と名乗った男が横からそれを覗きこみ、すいませえんと店員を呼びつけた。
「ラム肉のカレーふたつ、『やや辛』で。食後にアイスコーヒーふたつ。で、いいよな?」
 いいよな? の部分だけ恋人の顔を見て、寺井はオーダーした。弓子は小さくうなずいてメニューを閉じる。彼女の意志がいったいどこに反映されたのか、環にはわからなかった。
 寺井は司法書士の卵で、七月に筆記試験を受け、合格したら十月の口述試験に臨むのだという。法学部出身で現在は小さな弁護士事務所の秘書をしている志保と、法曹界の話題で盛り上がっている。斜めに向かい合う弓子と環は気まずく視線を交わした。弓子のほうでも、自分たちが環にとって招かれざる客であることを薄々察しているようだった。
 自分と単独で会う時間は、志保にとってはさほど価値がないのだろうか。もしかして、一度の外出で複数人と会うほうがコスパがよいと考えているのだろうか。酸味の強いアイスコーヒーを啜りながら環はぼんやりと思考する。あまりおいしくない、薄いコーヒー。「湖」のコーヒーが飲みたいな。
 膝に置いた鞄が振動した気がした。はっとして手を突っこみ、スマートフォンを探りあてる。鞄の闇の中で、LINEのメッセージを知らせるバナーが光を放っている。
『環ちゃんの好きそうなカクテルがいろいろあるバーだから、楽しみにしててね』
 以心伝心。胸のうちに灯りがともる。豆電球ほどの、小さな灯りが。

     ■

『編集長の意向もございまして、帯の色は赤でお願いしたいと思います。できましたら候補でいただいたものよりわずかに明るい赤をいただけるでしょうか?
 また添付の通り下から実寸6センチが帯で隠れるので、モチーフを少々上に上げていただいたほうがバランスが取れるかと思います。いかがでしょうか?』
 編集者からのメールを確認し、菜里子はInDesignを開いて画面に向かう。かちかちとマウスをクリックして、二頭の犬のイラストを全体のやや上方にずらした。
「亜衣さーん、どう思う?」
「いいんじゃないですかね。個人的に足元が多少帯に隠れるくらいでもいいかと思ったんですけど」
「私も正直そう思った」
「まあこの辺はセンスの問題ですよね」
 イラストデータはクラウドで共有しているためそれぞれの席で確認できるものの、ふたりでひとつのモニターを見ながらあれこれ確認したり意見を交わしたりすることのほうが多い。
 雑誌社からも赤字の入った二稿が届いているので、午後は赤字直しだ。主にデザイナーの亜衣の仕事だが、菜里子もダブルチェックに携わる。亜衣のおかげで、季刊誌のデザインの仕事まで請け負えるようになった。
 さっきまで低く唸るように響いていたシュレッダーの音が途絶えた。顔を上げると、環が所在なさそうに佇んでいる。郵送物や宅配物に貼りつけられていた伝票をひたすらシュレッダーにかけるという申し訳ないほどの単純作業を終えたようだ。
 ああ、指示を与えなきゃ。お願いしたいことは山ほどあるはずなのに、ぱっと浮かんでこない。っていうかはっきり声がけしてくれればいいのに。「次、何したらいいですか」とか「ご指示ください」とか。
「あっそうだ、あたしそろそろ名刺切れそうなんですよ。環さんに引き継ぎがてら発注しちゃっていいですか?」
 亜衣が菜里子の心を読んだかのように言うと、環がほっとしたのが空気で伝わってきた。
「あっうん、だったらお願い」
「菜里子さんは足りてます?」
「うーん、ひと箱追加しておこうかな」
「了解でーす」
 亜衣が環の隣へ移動するのを見ながら、何かを忘れているような気がした。名刺と聞いて思いだしかけたような。ああ、名刺だ。環のぶんも作ってやらなければ。肩書になんと入れるか、あるいは肩書なしでいいか、考えること自体を忘れてしまっていたのだ。まだ雑用の範囲とはいえあれこれやってもらっているのに、ひとりだけ肩書なしというのも不憫な気がした。
「っていうか、環さんのも発注しません?」
 またも亜衣が先取りする。
「あ、うん、そうなのよ」
「了解でー……あ、『事務』でいいですか?」
 同じポイントに行き着いたらしい亜衣に問われ、即答できない自分がいた。普通の会社なら、こんなことあり得ない。一瞬流れた空気で、自分の不手際が亜衣にも環にも見透かされたのがわかった。
「――うん、事務で。あ……いや、やっぱりちょっと保留で」
「了解でーす」
 求人サイトでも「イラスト・デザイン会社のオフィス事務」という案件で募集をかけたのだから問題はないはずなのに、なんだか環のほうを見ることができなかった。
 ふたりが一緒に昼休憩に入ると、自分の心がほっと緩むのがわかった。作業に区切りをつけて立ち上がる。緊張は目上の人間に対してのみ発動するわけではないのだとつくづく思う。
 昔から気になっている左目の下の大きめのほくろを意味もなくチェックするのが習慣になっていた。給湯コーナーの鏡に自分を映したとき、小さな違和感を覚えた。鏡面に顔を寄せる。頰にかかった髪の毛の一本が、白い。つまみあげて目の前に持ってくる。本当に白い。うわっ、と思わず声が出た。
 頭頂部が映る角度でさらに鏡と向かい合う。両サイドの髪を持ち上げてみる。左のこめかみにもう一本見つかった。
 自分の体に裏切られたような気がして、抜くことも切ることもできずにしばらく立ち尽くしていた。

 美和との再会は、意外に早く訪れた。
 仕事帰りのドラッグストアには、往年のヒットソングのインストゥルメンタルが流れている。主旋律を鳴らすシンセサイザーが妙な具合にベタっとしていて、音に軽さがない。そんなことを気にかけながら売り場を巡っていると、通路の交わる部分で小さな人影に接触しそうになった。菜里子は慌ててカートの持ち手をぐんと手前に引いた。
「大丈夫?」
 スカイブルーのワンピースの胸の部分に縫いつけられたハート形のスパンコールがちらちらと輝いた。顔を上げたのが美和の娘だったことに、今度はさほど驚かなかった。
 私のこと覚えてる? 視線をとらえてそう問いかけようか迷った。少女の興味は菜里子の背後の菓子コーナーに向いている。遠慮のない手つきで陳列棚からチョコレート菓子をつかみとり、しげしげとパッケージを眺めている。ああ美和の子だ。高校時代の彼女のちょっとした挙措が蘇り、目の前の小さな娘に重なる。
 周囲を見回すまでもなく、サンダルのヒールを鳴らして美和が現れた。今日は全身黒づくめで、相変わらずチェーンの付けられたサングラスが胸元で揺れている。菜里子を見て、おあっというような不用意な声を漏らした。喜びよりも戸惑いの分量が多い表情を浮かべて。
「美和じゃーん」
 軽さを心がけて声をかけてみる。あはは。どこか仕方なさそうな顔で美和は笑った。
「まだまだ暑いよね」
「暑いね。あっ、こら」
 だめだめ、そんなの今日買わないよ! まるで間を持たせるためであるかのように、菓子を握りしめる娘を鋭く注意する。
 そうだ、前回聞き損ねたことがたくさんあったんだ。この機を逃すまいと思った。
「そういえば今更なんだけどさ、今って渡邊美和じゃないんだよね。名字訊いてもいい?」
「いや渡邊だけど?」
「あっ……ごめん」
 即答されて、反射的に謝罪が口をついた。
 あれっ、シングルマザーだった? いや、夫が転職した関係で大宮に来たと言っていたはず。それなら、まさかあれから離婚した? 頭の中で冷や汗が流れる。
「どうして謝るの?」
 こうした反応に慣れている様子で美和は切り返した。その台詞は、自分自身が誰かに対して放ったものであるような気がした。あれ? あれ?
「結婚したら女が名字変えるって決まってないよ? うちはダンナがあたしの名字に合わせて変えたよ」
 ――あ。
「そっか」
 世間にとらわれていたのは私だ。なんて傲慢で、愚かだったんだろう。自分の中に落としこんでさえいない価値観を環にかざしたのだ、私は。
 環に謝りたい。泣きたいくらい切実に思った。
 同時に、美和とのあの蜜月がもう二度と戻らないことを悟っていた。こちらを見つめる旧友の顔でそれがわかった。何の感情も宿していないようで、けれど無表情を選択していることが表す、強い意志。もう手遅れで、そして、それでいいのだ。
 せめて娘の名前をたずねて、それで終わりにしよう。この町で生きてゆくなら、きっとまたばったり会うだろうから。
「お名前、訊いていい?」
 腰をかがめてふたたび娘の視線をとらえようとするも、娘はこちらを見もしない。聞こえてすらいないようだ。ワンピースの鮮やかなスカイブルーだけが目に焼きつく。
「会話が苦手なんだ」
 美和がぽつりと漏らした。一瞬、誰のことを言っているのかわからなかった。
「年相応に言葉を交わせないんだよね、うちの子」
「そっか」
「子ども産むと、ほんといろいろあるよ。いろいろだよ」
 あなたとはもう、別の世界に住んでるから。菜里子の耳にはそんなふうに聞こえた。

     □

『環ちゃん、今日もお疲れ。秋にぴったりのほろ苦いコーヒーをどうぞ』
『わ~ありがとうございます。いただきまーす』
『環ちゃんをイメージして淹れてみました(笑)』
『え、わたしってほろ苦いですか?(笑)』
 船橋とのLINEはゆるやかに続いていた。
 大人らしい、軽妙なやりとり。どこか青臭い亨輔とは、言葉の雰囲気がまったく違う。心に新しい風が吹きこんでくるのを環は感じていた。
 亨輔はここのところ、連絡ひとつよこさない。何かの駆け引きのつもりなのだろうか。焦れた環が「忙しそうだね」とメッセージを送ると、「うんめっちゃ忙しい」と返ってきてそれきりだった。恋人を寂しがらせているという自覚は皆無のようだ。
 誕生日プレゼントはうさぎのぬいぐるみだった。そろえた両手に載るくらいの大きさをしていて、もふもふした毛はココア色だった。かわいいことはかわいいけれど、二十五歳の誕生日に恋人から贈られるものとしてどのような感想を持てばいいのかわからず、入っていた紙袋にそのまま戻して袖机のいちばん大きな引き出しに押しこんである。ハートのピアスをもらったとき、次はリングがいいなとさりげなく伝えたつもりだったのに。
 もういいや。スマートフォンをリュックにしまいこみ、坂道に足を向ける。
 駅前から自宅のある住宅街までは、ひたすら坂道を上ってゆく。急勾配というわけではないけれどそれなりの角度と長さがあるため、上りきったときにはわずかに息が切れる。
 思索に耽りながら歩いているうちにいつのまにか帰り着いているというのが理想だけれど、夜道ではそんなふうにゆったり上ることもできない。
 以前、坂の途中で自転車に乗った痴漢に遭った。誕生日だった母のため、大学の帰りに母の大好きなレアチーズケーキを買って歩いていた夏の夕方だった。
 ふと背後に人の気配がすると思ったときには、パーカーのフードをすっぽりかぶった中年の男が至近距離にいた。鞄と土産のケーキの箱で両手が塞がっていた環の尻をすっと撫で、マウンテンバイクを猛スピードで漕いで走り去っていった。一瞬のことで声も出せなかった。
 優しい両親に心配をかけたくなくて、帰宅後は明るくふるまった。出前の寿司もレアチーズケーキもほとんど味がしなかった。以来、夜道では必要以上に警戒しながら速足で歩いている。あれからしばらく、レアチーズケーキを食べることができなかったくらいだ。母の誕生日がめぐってくるたびに蘇るその記憶は、環の心に恐怖と不快感を呼び起こす。
 信号のある横断歩道をふたつ越える頃には、商業施設も遠ざかって街灯の明かりだけになる。環は何度も後方を振り返った。
 今越えてきたばかりの十字路を曲がってきたサラリーマン風のスーツの男が見えた。靴音を響かせ、速足で上ってくる。わずかに動悸が速くなる。
 環はリュックから再びスマートフォンを取り出した。画面に気をとられているふりをしてさりげなく歩調を落とし、男を先に行かせようとした。
 かつ、かつ、かつ。革靴の踵を鳴らして男がやってくる。スマホを見つめるふりをしながら、少しだけ道の中央に寄った。そうすればぶつからずに追い越してもらえるはずだった。
「警戒してんじゃねーよ、デブ! 失礼だろうが」
 野太い罵声が夜道に響き渡り、環は危うくスマホを取り落としそうになった。自分を追い越して数歩先に立つ男が、夜空をバックに両目をぎらつかせて環をにらみつけている。
 ――え、今何が起きているのか。頭の中が真っ白になる。え。え。え。
「警戒するな」「おまえはデブ」「俺に失礼」……短い中に凝縮されたそれらの情報が勢いよく脳内をめぐる。わたしはいったい何を糾弾されているのか。道を譲っただけなのに。口の中がみるみる干上がり、見たいわけでもないのに男の少し飛び出た眼球を凝視してしまう。
 数秒間なのか一分以上経ったのかわからなかった。男は親の敵でも見るような視線を環に浴びせたのち、肩をいからせて坂道を上っていった。そのシルエットが視界から完全に消えても、環は靴の裏が吸盤で地面に貼りついたようにその場を動けなかった。
 泣き寝入りするのはもう嫌だ。バスタブに沈みこみながら、それだけを思った。なんとか足を地面から引き剝がして帰り着いたあとも、あの怒りに満ちた野太い声が脳内に鳴り響き、消えてくれそうになかった。わたしがいったい何をしたというのか? 何を責め立てられ、体型までジャッジされなければならなかったのか?
 ――だってきみ、太ってるじゃん。
 アイドルタレント事務所の男のひとことは、環の自己肯定感を大きく削りとった。
 身長百六十センチの環は当時、五十八・五キロだった。BMIというものを初めて計算してみたら、二十二・八五と出た。肥満ではなく普通体重のゾーンに収まってはいたものの、適正体重とされる数字を二キロほど上回っていた。
 オーディション会場で出会う女の子たちが軒並み無駄な肉のないほっそりした体型だったことに、環はずいぶん遅れて思い至った。自分が書類選考すらなかなか通過しなかった理由にも。わたしという存在は、なんと滑稽だったことだろう。関わった人々の困惑を想像し、顔から火が出そうな思いだった。
 芸能界に入れるかもしれないだなんて、容姿を商売道具にしようだなんて、大いなる勘違いだった。あれから頑張って節制し、なんとか五十五キロを超えないように日々努めているものの、少し気を緩めればあっという間に太る体質だということも知った。二の腕も太腿も腰回りも常にもたついているような気がする。でも、それは他人に迷惑をかけるような部類のことじゃないはずだ。わたしの体をジャッジしていいのは、わたしだけだ。
 いつもなら入浴後は飲み物だけ補給して自分の部屋へ行くのだが、今日は居間に留まった。自分のために毎朝作りおきしているダイエットティーをジャグから湯のみに移し、ソファーでテレビを観ながらくつろぐ両親を背後から見つめた。
 おいしくもまずくもないこのダイエットティーを、環は自分が標準よりふっくらしていると自覚した頃から毎日欠かさず飲み続けている。飲んだからといって体重が減ったわけではないが、飲んでいるおかげでこれ以上太らないのかもしれないと思うとやめどきがわからない。
 ぎゃはははは、あほか。きんきんしたお笑い芸人の声が、食器同士のぶつかる音にかぶさる。
 テレビでは両親の好きなバラエティ番組が流れ、スタジオでベテランのお笑い芸人たちが司会の若い女性を笑っていた。女性は眉をぎゅっと寄せたままの不自然な笑みで、違うんです違うんですと繰り返している。どんなシーンなのかわからないながら胸が痛んだ。「安東ちゃんの口からそんな言葉が出るとは!」と続ける男性芸人の大きな声は、先程夜道で浴びせられたものに響きが似ていて体が縮こまる思いがした。
 女性司会者がアップになる。どうやらフリップに書かれた内容を読み間違え、しかもそれが卑猥な単語に聞こえたために、芸人たちが大げさに笑って進行を阻害しているようだ。きつい関西弁の芸人は、間違えたときの表情や口ぶりを悪意をこめて誇張し、またスタジオの笑いを誘う。女性は必死に流れを元に戻そうとしているが、また大声で糾弾され笑われる。
 すみませんすみませんと繰り返すその女性司会者の顔がオーディション会場で会話した少女に似ている気がして、環は思わず両親のソファーに近づき、ふたりの頭の間から画面を凝視した。別人だと確信してからも胸が騒いだ。
 クラスの男子から名前をいじった品のないあだ名で呼ばれていた時期があった。小学四年のときと、中学の一時期。環が嫌がれば嫌がるほどおもしろがって広められた。仲のいい女子に見て見ぬふりをされたのが何よりこたえた。名付けてくれた両親に相談できるはずもなく、一日も早く進級してクラス替えになることを祈り続けるほかなかった。あの日々の痛みがつむじ風のように心を吹き抜けてゆく。
 テレビに出る仕事というのは、用意された台本に則り、自分の感情を殺して動かなければならない。時には無知なふりをし、不条理を受けとめ、平気な顔をしてふるまわなければならない。お金をもらうためとはいえ、なんて酷なのだろう。人の心が殺されてゆくのを観賞するのって、なんてグロテスクな娯楽なんだろう。
 かつて自分を魅了してきたアイドルも、心の中で涙を流しながら仮の笑顔をテレビに映していたことがあるのだろうか。自分はなぜ、あんなにも無邪気に憧れることができたのだろう。肌が粟立った。
「……おもしろい?」
 L字型のソファーの端にそっと腰かけながら、どちらにともなく問いかけた。両親が本当にこの番組を楽しんで観ているのか確かめたくなった。メインパーソナリティを務めるお笑い芸人を母が気に入っているために毎週つけられているこの番組を、環は真剣に観賞したことがなかった。がちゃがちゃしていて猥雑な印象があり、くつろいだ夜の時間にふさわしいとは思えない。
 父は口の中だけで低く「おう」と言い、母はテレビに向けていた笑顔をそのままこちらに向け、また正面に戻した。ふいに、強い苛立ちを感じた。
「なんかかわいそうじゃない? この人」
 ぽつりとつぶやいてみた。画面の中ではようやく進行を戻した司会者が、笑顔を貼りつけて次のコーナーの趣旨を説明している。さすがにプロなので顔の強張りはもう解けているが、環はさっきの痛々しい表情を忘れられなかった。
「え? いじられてたこと?」
 母がちらりとこちらを見る。
「うん。泣きそうになってたじゃん」
 執拗なからかいを「いじり」と表現することに違和感を覚えながらうなずいた。
「なに言ってるの、おいしいじゃない。サトっちにいじられるなんてうらやましいわ」
「それが仕事なんだしなあ」
 父がテレビに視線を固定したまま母の言葉にかぶせるように言った。
 その話題はそこで終了だった。見えない線がぴんと張られたように感じた。
 あのね、さっきそこの坂のとこでね。言いかけて、口をつぐんだ。テレビはCMに切り替わり、スーツ姿の時岡イチヤが「優秀な人材の派遣ならお任せください!」と微笑んでいる。
 頭の中が散らかったまま、二階への階段を上る。体がずっしりとよけいな水分を含んだかのように重く感じる。このあまりにもひどい夜を上書きしてくれるものを求めて見渡した自分の部屋はやけに狭く見え、ますます落ち着かない気分になった。
 思いたって、ずいぶん使っていなかった鞄をクローゼットから引っぱり出す。その中からさらに久しぶりに取り出したペンケースのジッパーを引くと、白い花弁のようなものがひらひらと回転しながら落ちてきた。かがんで拾い上げる。少し丸まった小さな紙切れに書かれていたのは自分の文字だった。
「工数を意識し、パフォーマンスを上げます!」
 頰がぐしゃりと嫌な具合に歪むのを感じる。ああ、見たくもないものを見た。くしゃくしゃに丸めてごみ箱に落とす。今朝燃えるごみを出したばかりで空だったごみ箱の底が、ぽとっ、とかすかな音をたてた。
 各自「今月の目標」を毎月設定し、上長のチェックを受けてOKをもらったら清書し、専用ケースに入れてパソコンの脇に立てる。それが前の職場でのルールになっていた。特に何も目指しているわけではないところから「目標」を立てるのは至難の業で、環は常にネタ切れ感を覚えていた。毎月毎月、呻吟しながらそれらしい言葉をひねり出した。
「正確性にこだわり、丁寧に作業します!」
「新しい業務を習得し、ステップアップを図ります!」
 先輩や同僚の書いた目標から少しずつ真似するようになった。借り物の言葉が常時視界に入るのはあまりメンタルによくなかった。いったいなんのための目標なのだろう。ただただ「やってる感」を演出しているようで空疎な気持ちになった。カルトめいていたようにも思う。
 全国に拠点のある電子機器メーカーだった。地方限定正社員として入社した環はてっきり埼玉支社に配属になるものと思っていたが、辞令には「東京本社」の文字があった。
 東京といっても、都民のベッドタウンである緑豊かな町に最寄り駅はあった。首都圏のどこへ行くにもアクセス便利な武蔵浦和駅からでさえ二回乗り換えが必要で、しかも駅からシャトルバスに乗らなければならないという立地だった。山を切り開いて開発された広大な土地に建てられた工場。そこに併設されたいくつかの事務棟のうちのひとつが環の職場だった。
 通勤の便を考えて社員寮に入る独身者が多い中、環はひとり暮らしをすることを選んだ。一人娘を慈しみ育ててくれた両親は反対するかと思ったが、拍子抜けするほどあっさり同意し、アパートを借りるための保証人になってくれた。
 ずっと「東京の人間」になってみたかった。雑誌に載っている読者モデルも、養成スクールで出会った友達も、独特の魅力的なオーラを放っているのは東京生まれ東京育ちの子だった。東京の空気を吸って生活しなければ醸しだせない雰囲気があるような気がした。これを機会に都民になろうと思った。辺鄙な場所でも、二十三区内じゃなくても、東京は東京だから。
 思えばなんてチープな東京かぶれだったのだろうと環は自嘲する。垢抜けた人は、どこから来ようがどこへ行かされようが垢抜けているのだ。
 ペンケースを取り出した目的を思いだし、環は作業にかかる。以前愛用していたカラーペンで、手帳にちまちまと書きこみをしてゆく。亨輔の誕生日。亜衣の誕生日。そして、菜里子の誕生日。最近まではスマートフォンのカレンダー機能でスケジュール管理をしていたけれど、アナログの感触がふと恋しくなり、もう残り三か月ぶんとなった今年の手帳を再び活用し始めた。
 クリスマスだからまだ先だけれど、亜衣にはどんなものを贈ればいいだろう。ヒントを求めて、教えてもらったInstagramのアカウントにアクセスする。「推し活用だから」と聞いていた通り、亜衣のタイムラインは時岡イチヤで埋め尽くされていた。公式写真、CD、ファンクラブのグッズ、それに写真集や雑誌。亜衣の自宅やどこかのカフェと思われるテーブルの上に置かれたそれらの写真には、火傷しそうなほどの情熱がこめられている。
「お迎えしちゃいました!」という最新投稿は昨夜の日時になっている。発売されたばかりであるらしい分厚い写真集はまだセロファンに包まれていて、部屋の照明を白く照り返している。「うおー、もう買われたんですか! 今回も一番乗りじゃないですか!?」「さすがmoriloveさん! 男前ッスw」投稿にぶら下がっているコメントたちを読むかぎり、亜衣は時岡イチヤのファンの間でもかなり惜しみなく投資するタイプの古参ファンであるらしい。クールでとっつきにくいという第一印象は、もう環の中にかけらも残っていない。
 自分には何か情熱を注げるものはあるだろうか。テレビの中のアイドルにすら古傷を抉られる。手芸や絵を描くのも得意なほうだったけれど、アトリエNARIで日々本物のセンスに触れていると、自分の作りだすものなど価値がなさすぎる気がして意欲はしぼむ。
 凡人として凡庸な人生を歩む覚悟が、まだ足りていない。手帳もスマートフォンも投げだして泣きたい気分になる。階下から母の作るカレーのにおいが漂ってきた。

     ■

 つらい人に寄り添うのも、本来は専門スキルのいることなのかもしれないな。菜里子はぼんやり考える。
 電話の奥では、順子の声が雨のように降り注いでいる。おかげでなんとなく雨天のような気がしてくるが、窓の外には乾燥した空気と闇が広がっているだけだ。
 納期の迫っているイラストを仕上げるため、ひとり会社に残りパソコン作業を続けていた。制作に集中しすぎて判断力が鈍っていたのか、振動したスマートフォンを反射的に引き寄せたとき手が滑って通話ボタンを押してしまったのだ。通話口から順子の声が聞こえだしてから、もう二十分近く経つ。
『たまにはおもちゃがプカプカ浮かんでいないお風呂に入りたいですよ、あたしだって』
「そうだよねえ」
『そういや最近、満を持して食洗機を買ったんだけどね。分割だけど』
「おお」
『これで食器洗いは免除になったんだから文句垂れるなよ? って言うわけよ」
 主語が割愛されたセンテンスは、だいたい彼女の夫についてであることを菜里子は把握している。
「冗談じゃないよね。食洗機ってなんでもいきなり突っこめるわけじゃなくて下洗いが必要じゃない? 大型調理器具とか繊細な器とかはそもそも入れられないじゃない?』
「そうだよねえ」
 食器洗浄機を使ったこともないのに菜里子は同調する。
『手洗いする分の何割かが減ったってだけの話なのに、まるまる免除になったって思えるの意味わからないよね。何にも見えてないわけよね、キッチン回りのことなんて』
「うんうん」
 室内の空気が冷えてきたのを感じ、椅子の背にかけてあったカーディガンを外して自分の肩に移動させた。今年の冬は断熱シートを窓ガラス全面に貼りつけよう。事務所の光熱費はばかにならない、省エネしないと。ここのところ純利益が思うように伸びていないのは、売上に対して経費がかかりすぎているからだろうだし。
『絶対おかしいよね? あたしだって人間なのにさ』
 そうだよね、順子は人間なのにね。
『結婚制度と奴隷制度って何が違うわけ? 何なんだろうね?』
 そうだよね、そんなのおかしいよね。
 どんなふうに返しても、言葉は柔らかな沼地の底へつぷつぷと沈んでいってしまうかのようだ。順子の愚痴はますます熱を帯びてゆく。かといって、同調する以外に何ができるだろう。結婚生活というものを経験したことのない自分に。
 話の切り上げかたがわからず、菜里子はスマートフォンをハンドフリー設定にしてデスクに置いた。再びスタイラスペンを握り、モニターの中の描きかけの少女の髪や服に陰影をつけてゆく。乗算や減算を繰り返し、素材に立体感が現れてくる。デジタル作画の中で最も楽しい工程なのに、神経を通話内容に持っていかれているためその楽しさを半分ほどしか味わうことができない。
 私、最近、順子の感情のごみ箱にされているような気がする。そんな自分の気持ちに気づいて菜里子はぞっとする。
 友達の力になりたい、せめて心を癒せる存在でありたいと願う一方で、どこか押しつけられた役割を演じさせられているかのような違和感が、胸の奥にたしかにあった。
 高校を卒業して家を出るまで、菜里子は母のストレスの捌け口にされていた。母本人にその自覚があったのかはわからない。
 夫について、義両親について、教師やママ友たちについて、近所の人たちについて、母は壊れた蛇口のように延々と愚痴を吐き出し続けた。菜里子に向かって。
 歳の離れた兄ふたりは部活動で帰りの遅くなることが多く、土日も家を空けがちだった。菜里子だってアイドル活動で忙しくしていたのに、しかもそれは母の希望だったのに、家の手伝いは菜里子だけが命じられていた。
 レッスンで疲れ果てた体に鞭打って大量に積み重なった家族五人分の食器を洗っていると、母の愚痴は予約再生されたテレビ番組のように始まった。菜里子が相槌を打つのを完全にやめてもそれは続いた。娘の反応など求めていなかった。壁に向かって言葉を放っているも同然だった。
 逃げ場のないキッチン。愚痴というBGM。見たくもない他人の心の汚泥をなすりつけられているようで、菜里子は一刻も早く自分の部屋に戻りたくて手を動かした。
 もしかしたらあのとき、もっと親身に聞くふりをすればよかったのだろうか。私に寄り添うスキルがなかったせい? 折に触れ当時を思いだすたびに、自分にも問題があったのではないかという考えが生まれる。そうでなければ、あまりにも報われない気がして。
『――っておかしいよね、絶対。母親だって保育士みたいにある日突然保育のプロになるわけじゃないのにさ』
「ああ、うん、そうだよね」
 おざなりな相槌に気づいたのか、順子はしばし言葉を止めた。
『そういえばさ』
「あ、うん」
『こないだテレビに矢嶋さんが出てたよ』
「えっ?」
『矢嶋恒成』
 聞き取れなかったゆえの「えっ?」ではなかったのに、順子はゆっくりと繰り返した。
 あのぼそぼそした声が、もっさりした藁色の前髪からのぞく細い両目が、恵に隣をキープされて歩く姿が、ついさっき目にしたように蘇る。タブレットの上を走らせていた指が止まった。
『深夜の音楽番組にちょこっと出てただけだけどね。アイドルプロデュース界隈の秘話を語るとか言って、何人かと一緒にスタジオで喋ってた。あの人、今もまだアイドルをプロデュースしてるみたい。Flozen Flowerって知ってる? なんか五人組の』
「……知らない」
 当時は個人でやっていたが、現在は事務所を起こして資金援助も得ながらプロデュース活動をしているらしい。インディーズではなく、メジャーレーベルの仕事であるらしい。テレビから知り得た彼の近況にインターネットで補充した情報を加えて順子が語るのを、菜里子は黙って聞いていた。
『サディバタの話はひとことも出なかったけどね。ははは!』
「……そうなんだ」
『恵とかは今も連絡取り合ってるかもね。最後に会ったときちらっとそんなこと言ってなかったっけ』
「知らない」
『菜里子さあ』
 いつのまにか順子の声がみずみずしさを取り戻していることに菜里子は気づく。
『恵とちゃんと仲直りしといたほうがいいよ』
「え?」
『だってまた四人でバタ会やりたいじゃん。このままずっと気まずいなんて嫌じゃん、あの頃を否定してるみたいで。せっかくあたしたち、稀有な体験をした仲間なんだもの』
 ええと――
 困惑で言葉を失う。恵ばかりか明日香とも距離ができてしまったことは、心をよぎるたびに菜里子の胸をわずかに曇らせていた。でも、順子は今のままでいいと思ってくれているのだと勝手に認識していた。
 私と順子、恵と明日香。ふた組に分かれるのが自然じゃない? 思い出ってそんなに美しく保たなきゃだめ? あの頃を全力で駆け抜けただけじゃだめ?
『最後のバタ会ってロンドンオリンピックの年だったよね。五年……六年前?』
「あの、順子」
『なに?』
「その……稀有な体験より、私は普通の高校時代がよかったな。普通の高校生やりたかった」
 言葉を選びながら発したつもりなのに、順子が電話の向こうで息を吞むのがわかった。スタイラスペンを御守りのようにぎゅっと握りしめる。作業はまるで進まない。画面の中の少女はまだ体の一部が背景透過されたままだ。
『……え、サディバタやらなきゃよかったっていうこと……?』
「違うよ。順子たちに会えたことも、ステージで歌ったことも、たしかに稀有な、貴重な体験だと思ってるよ。でもほら、私は順子たちと違って器用じゃないから、人前に立つこと自体に違和感があったっていうのは正直あるかな。あのあたりからなんか人生設計狂っちゃったっていうか、ほら、順子たちと違って子どももいないし。普通に部活に入ったりしてたらどうなってたかなって今頃になって考えたりもするよ」
 結婚も出産もしていないことに引け目を感じているわけではない。ただ話をわかりやすくするために、菜里子は子どもの話を出した。美和の娘のあどけない顔が瞼の裏に浮かんだ。
『イラスト描いて身を立てて、女社長として部下まで持ってる人が、どうしてそういうこと言うの?』
 どうしてって言われても。
『言いたくないけど菜里子、病んじゃってるんじゃない? 結婚願望はないって前に言ってなかった?』
 病んでいるのはそっちじゃないの? 膨れ上がった違和感がとうとう発火しそうになる。それでも、旧友は菜里子の思いにまるで気づかぬように言うのだった。
『ねえ、会おうよ。また四人でバタ会やろうよ。オリンピックイヤーじゃなくてもいいじゃない。昔のことは水に流してさあ』

 順子の提案には曖昧な返答しかできなかった。だって、どんな顔して会えと言うのだろう。
 菜里子は大きな鏡に映りこんだ自分を見つめる。黒いケープに覆われた首の上に乗っかった顔はひどくむくんで見えた。左目の下の大きめのほくろは、やっぱりとても目立つような気がする。
 それでも美容院に満ちるパーマ液やカラー剤のにおいに、ささくれた心が不思議となだめられてゆく。自分が画材のにおいの中で働いているように、この人たちもこういう特殊なにおいと共存しているのかと考えると、勝手に親近感が湧いてくる。
 朝からコーヒーを飲みすぎたせいで食欲がないのか、食欲がないからコーヒーを飲みすぎたのかわからないが、胃がどんよりして何も食べたいものがないまま昼休みのため外へ出た。先日染めたばかりの髪をもう少し短く整えたい気がして、まだ昼間だというのに足が美容院へ向かった。他人に丁寧にケアされるあの時間の心地よさがやみつきになってしまったのかもしれない。
 それにしても、前回この美容師の腹が大きく膨らんでいることに、なぜ自分は気づかなかったのだろう。出産予定日は再来月の十二月だという。
「えっと……失礼ですけど、おいくつですか?」
 施術前に丁寧にブラッシングしてくれる美容師についたずねてしまう。
「二十九です。来月で三十になります」
「そっか……」
 環くらいかと思っていたが、亜衣と同い年だったか、そうか。いずれにしても菜里子より若い女性がライフステージを駆け上がっている事実は変わらず、わずかに落ち着かない気持ちになった。出産どころか結婚さえしないと自分の意志で決めているのにアンビバレントな思いを抱えている自分が、時折つくづく嫌になる。
「おめでとうございます」
 既に何百回も投げかけられているであろう祝いの言葉を口にすると、きりりと引きしまっていた彼女の表情がゆるりと柔らかく崩れた。その美しい変化に菜里子は心を奪われる。ゆるぎない幸せを手に入れた者だけが見せる微笑み。
「産休っていつからなんですか?」
 予約アプリの事前アンケートで「なるべく静かに過ごしたい」にチェックを入れているくせに、常になく自分から美容師に話しかける。今日はそんな自分をおもしろがるくらい心の余裕があった。
「今月末からなんです。なので戸塚様、いいタイミングでいらしてくださいました」
「本当ですよね。でもせっかく指名したいと思える美容師さんが見つかったのに、っていう思いはあります……あ」
 ああ不謹慎ですよね、なに言ってるんだろ私、もちろんおめでたいことなのに。己の失言を慌てて繕うも、美容師は特に気分を害した様子もなく淡々と作業を続ける。毎朝のドライヤーの熱で傷んだ毛先がしゃきしゃきと切り落とされ、頰や鼻に、ケープの上に、はらはらと散る。
「ミツツボアリって知ってます?」
 肩の上から唐突に言葉が降ってきた。
「ミツ……?」
「ミツツボアリです。蜜の、壺の、蟻」
「ああ、蟻」
「はい。オーストラリアの乾燥地帯にいるんです」
 どこにつながるのかわからない話に菜里子は耳を澄ます。口数の増えた自分に美容師も呼応してくれている気がして嬉しく感じた。
「蜜壺役の蟻は、みんなに口移しで蜜を移されてお腹がぱんぱんに膨れてるんです、葡萄の粒みたいに。そういうのが何匹も巣穴の天井からぶら下がってるんです。一生動けないままで」
「へえ……蜜をストックするため、みたいな?」
「そうなんです! 生きる貯蔵タンクなんです」
 背を丸めて鏡の前に置いていたスマートフォンに手を伸ばす。ブラウザを立ち上げて検索エンジンの窓に「ミツツボアリ」と打ちこもうとすると、「ミツツ」の時点で目当ての単語がサジェストされた。
「わあ、これですか」
 ヒットした画像を美容師に向けて確認すると、それですそれですと鏡の中で嬉しそうにうなずく。頭部や胸部の何倍も膨れあがった蟻の腹部は、限界値を超えても空気を吹きこみ続けた風船のようだ。グロテスクとも言えるのに、それが琥珀色に輝いているせいか不思議と気持ち悪さは感じない。
「アボリジニの人たちが巣穴を掘り返してその蟻をデザートとして食べるんですって。おいしいらしいですよ」
「うわ、食べちゃうんだ。あっほんとにそう書いてある」
「ええ。砂漠の貴重な糖分だから」
「砂漠のデザートか……」
 たしか砂漠って、英語でdesertっていうんじゃなかったっけ。英語は得意じゃないが、その発音の響きはなんとなく記憶していた。デザート・オブ・デザートか。アイドルのユニット名のようだとひとり思った。
「妊婦みたいだと思いませんか」
 菜里子の髪をひと房掬いながら、大きな腹の美容師はつぶやく。
「内臓が圧迫されて、子宮だけはゴム風船みたいに膨らみ続けて、自分の体がどんどん変わっちゃって。やっぱりぎょっとしちゃうんですよね。別の生き物になっちゃったみたいな」
 とっさに何も返せなかった。自嘲にも自尊にも思えるトーンだったから。
 小顔で全体的にスレンダーな彼女は、たしかにバランス的に出っ張った腹がよく目立つ。街中で好奇の目を向けられることもあるかもしれない。
「そういえばこの前初めて白髪を見つけちゃったんです、二本も。もうショックでショックで」
 自分からも何か差しだしたい気分になって菜里子は口を開く。髪に関する話題だからか、美容師はすっと仕事の表情に戻った。
「ああ、さっきありましたね。でも戸塚さん、人の頭には髪の毛が十万本もあるんですよ。十万分の二ですよ」
「たしかに……でも……」
「大丈夫ですよ、まだまだ。ボリュームもありますし」
 サイドを整えた美容師は、前髪に取りかかるため菜里子の斜め前に回りこむ。大きな腹が視界に入る。その中で動いているもうひとつの心臓を、腕と脚を折り曲げている小さな人の存在を、そっと想像してみた。
 頭頂部をチェックしていた美容師が、あ、と小さな声を漏らした。
「十万分の三……いや……五かもしれないです」

     □

 どことなく彩りに乏しい日々に、船橋がいてくれてよかった。今夜は、そんな気持ちを再確認する時間になるはずだった。
「主語が大きいんじゃないかな」
「え」
 瞬時に意味をとらえきれず、環は酒に濡れた男の口元を見つめた。
「『世の中の男性』ってひとくくりにされたら、男は嫌な気分になるよ。環ちゃんだって『女ってみんな計算高いよね』とか言われたら嫌でしょ」
「……そうですね」
 たしかに落ち着くバーだった。学生時代に恋人に連れていかれたダーツバーのようにがちゃがちゃうるさくないし、友達が誕生日を祝ってくれたワインバーのようにかしこまりすぎてもいない。木材を多用した店内には清潔感が漂い、環の好きなラムベースのカクテルも豊富にある。強いて言えば、窓が少ないため少しばかり圧迫感がある気がする。大きく切り取られた窓に囲まれたアトリエNARIで働いているうちに、建物の中にいても外部の様子のわかる環境に体が慣れてしまったようだ。
 片側を壁につけたテーブル席で、環は船橋と向かい合っていた。アルバイトに店を任せて出てきた船橋からは、わずかにコーヒーの香りがした。
 菜里子との距離感について相談するのが主な目的だったはずなのに、いざふたりになるとなんだか欠席裁判でもするかのような気まずさを覚え、無難な会話ばかりがぽつぽつと続いた。せっかくの時間を少しでもわかり合うために使いたくて、環は先日の夜道でのことを話したのだった。世の中の男性って怖いです、と最後に付け加えて。
 主語が大きい。たしかにそうかもしれない。でも、男性に煩わされた経験のない女性なんてこの世にいるだろうか。自分が大げさだとはどうしても思えない。
 沈黙がふたりの間に横たわった。どうやら話題を間違え、彼を不快にさせたらしい。どうやって軌道修正したらよいのかわからず、ラム・コリンズを口に運ぶ。
 どうして自分の恋人に先に話さなかったのだろう。後悔が心を侵食し始めていた。
「――昔ね、ロッキー山脈で迷子になったことがあるんだ」
 組み合わせた両手の上に顎を乗せて、船橋は唐突に語り始めた。環の脳内で世界地図が開かれる。
「ロッキー山脈……、えっと北アメリカ、ですよね」
「そうそう、USAとカナダにまたがってる」
「遭難したってことですか?」
「いや、パーティーとはぐれただけだからあくまで迷子なんだけどさ」
 空気を修復したいのは相手も同じらしいとわかって、環はわずかに安堵する。
「俺大学で山岳部だったんだけど、同期にショーンっていうアメリカ人留学生がいてね。卒業した後も一緒に旅行とかしたりしてたんだ。とにかくアウトドア大好きで、日本に興味を持ったきっかけもマウントフジの完全な美しさに魅せられたからって言うんだよ」
 よどみなく、滑らかに、船橋は語り続ける。昔、祖母宅にあった糸車を思いだした。カラカラとよく回る糸車で祖母は羊毛から糸を紡ぎ、気が遠くなるほどの手間をかけて環にセーターを作ってくれた。綿あめみたいな白に少しグレーの混じった、肌触りのちくちくするセーター。
 船橋のよく動く喉仏を見ていると、声という糸が喉の内部にある歯車で紡がれ、細く吐き出され続けているような気がした。カラカラ、カラカラ。
「……気づいたらショーンたちの背中がずいぶん遠くなっちゃってるわけ。歩けば歩くほど自分がどこにいるのかわからなくなって。で、そのうちに日が暮れてくるわけよ。山での闇は恐怖でしかないよね」
 きっといろんな人に語ってきたんだろうな。船橋の迷いのない言葉選びを聞いていると、そんな気がした。お気に入りのエピソードなんだろうな。話したくて、話してるんだろうな。環はグラスの結露を指先でそっとなぞった。
「そんで突然、真っ暗な空から雹が降ってきたんだ。ゴルフボールくらいあるでっかい雹がさ、ばらばらって。痛いのなんの」
「ゴルフボールですか」
 このくらいの、と指で輪っかを作る船橋に、目を見開いてみせる。無意識に相手の求める反応を探している自分に気づき、苦い気分でグラスに口をつけた。ラム・コリンズの中で、輪切りレモンが溺れている。
「そうそう。びしびし降ってきて全身を叩くの。痛いのなんの」
 カラカラ、カラカラ。船橋の喉の糸車はよく動く。
 そういえば。童話『眠れる森の美女』で、王女は魔法使いに「糸車で指を刺して死ぬ」という呪いをかけられ、本当に刺して死んだような昏睡状態に陥るのだ。けれど実際のところ糸車には指に刺さるほど鋭く尖った部分がないことから、専門家の間で長いこと議論になってきたって聞いたことがある。誰からだっけ。ああ、亨輔だ。
「……"May I come in?"って訊くと"No"って返ってくるわけよ。耳を疑うじゃん。ほんのちょっと前まで仲良くわいわい登ってたんだよ、ジョークとか飛ばしながら……って、聞いてる?」
「あ、はい、聞いてます」
 身が入っていないことを見抜かれた気がして、環はしゃんと背筋を伸ばす。話はここからがいいところだったのだろう、船橋は口の端を歪めている。
「まあ、つまりみんなアジア人差別を隠しもしないわけでさ。昼間はどんなに友好的でも、夜って人の本性が出るよねっていう話」
 船橋はやや乱暴に話を締めた。思いだしたようにジャックダニエルのグラスをつかみ、顔を反らして呷る。先程よりも大きく喉仏が上下する。ウイスキーってそんなふうに吞むものだったっけ。
「差別か……嫌ですよね、差別は」
 無難な相槌を打つ。再び沈黙が落ちる。ミックスナッツの器に手を突っこみ、ほどよく塩気のあるアーモンドをぽりぽりと齧った。
 せっかく約束を実現させ、膝を突き合わせて吞んでいるというのに、思ったほどにはこの時間を楽しめていない。彼も同じ思いなのだろう。だから自分の十八番であろうエピソードを脈絡なくぶちこんでくるのだろう。
 今日はたまたま波長が合わないのかもしれないし、菜里子に対する罪悪感が邪魔しているのかもしれない。自分を納得させるように思いながら、テーブルの下で足首をクロスさせた。
「差別のない人がいいですよね、友達になったり一緒に遠出したりするなら……」
「環ちゃんはさ、自分の中に差別はないって言える?」
 テーブルに肘をついた船橋はグラスを自分の顔の前にぶら下げるように持ち、やや寄り目気味になった。環はゆっくりと瞬きをした。
「ないつもりではあるんですが……もしかしたら深層心理にあるかもしれません」
「『つもり』じゃだめだよ」
 お代わりいる? おざなりにたずねる船橋に「ミネラルウォーターで」と答えると、露骨につまらなそうな顔になった。上司の恋人は、思いのほか子どもっぽい男のようだ。
 わたしはいったい彼に何を期待していたのだろう。両親の待つ家が急に恋しくなる。けっして他人をぞんざいに扱わない、自分の恋人のことも。
 三杯目のジャックダニエルを口に運び、船橋は小さく喉を鳴らして言った。
「差別のないつもり、優しい人のつもり、正しい人のつもり。『つもり』でいるのはお手軽でいいよね。そういうのがいちばんタチが悪い」
 絡み酒という言葉が頭に浮かぶ。落ち着こう、と思った。この人は社長の恋人なのだ、そんな悪い人間であるはずはない。何より、よるべない自分をふんわりと受けとめてくれた人ではないか。
 じじっ。テーブルの隅に置いておいたスマートフォンが短く振動した。仰向けて置いていたので、通知バナーが現れて引っこむのが見えた。業者からの宣伝メールのようだ。船橋の視線を感じながら、環は腕を伸ばして端末をぱたんと裏返した。
「もしもだよ」
 顔を環のスマートフォンに向けたまま、船橋が口を開く。
「もし、きみが一生スマホを使えなくなる代わりにアフリカの子どもの命をひとり救えるとしたら、どうする?」
「は……?」
「きみはもう、スマホを使えなくなる。その代わり、名前も顔も知らないアフリカの子どもが地雷を踏んで命を落とすのを阻止することができる。きみの払った代償は誰にも知られない。さあ、どうする?」
 この場を設けた後悔が、今度こそくっきりと形をとった。きっと今、自分は泣きだしそうな顔をしているのだろう。
 もうやだ。助けて。
 助けて、亨輔。

     ■

 互いに着衣のまま、彼は荒々しく挿入してきた。酒臭い息が菜里子の顔に吹きかかり、見慣れた天井が揺れる。丁寧にアイロンをかけたオーガニックコットンのワンピースがめくり上げられてくしゃくしゃになっているのが、行為中もずっと気になっていた。
「燃えちゃったね」
 菜里子の体から離れた船橋はごろんと仰向けになり、天井に向かって言葉を吐く。
 燃えたのはあなただけでしょう。そう返してやりたいのをなんとかこらえながら、呼吸を整える。流されでもしないかぎり性愛から遠ざかりがちな菜里子は、彼に合わせているくらいがちょうどいいのかもしれないと思っていた。
「シャワー借りるね」
「どうぞ」
 三十代になった自分がセックスをするなんて、若い頃は想像もしなかったな。四十代になっても、もしかして五十代になってもするのだろうか。出産を知らない体のままで。もそもそと下着を直しながら思考の輪郭をなぞる。やがてバスルームから流水音が聞こえてきた。
 二十三時も過ぎた頃に突然やってきた船橋は、玄関で出迎えた菜里子をひょいと抱え上げてそのまま寝室のベッドまで運んだ。深く口づけられ舌を吸われて抵抗心を早々に手放した自分のせいとは言え、本当にそのままなだれこみセックスに至ってしまうと不満がじわじわと心を侵食した。外の埃や汚れを寝床に持ちこまれるのは嫌だったし、穏やかなひとりの時間が台無しだ。彼が現れるまで見ていた資料を棚に戻し、ベッドの上に除菌消臭スプレーを吹きかけながら、重めの溜息が漏れた。
「何かお飲みになります? ご主人様」
 菜里子のお気に入りの今治タオルで洗い髪を拭きながら菜里子のソファーで我が家のようにくつろぐ船橋に、皮肉をこめて声をかけた。
「うーん、ミネラルウォーター、プリーズ。氷ましましで」
「……お酒じゃなくていいの?」
「吞んできたから」
 ああ、そう。おざなりに言って冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。残量が中途半端なのでこのままどすんと彼の目の前に置いてやりたい気もしたが、氷を落としたグラスに注いで出してやる。
 船橋の体は煙草くさくはなかったから、居酒屋ではなくバーで吞んできたのだろうとあたりをつける。いつものあのバーだろうか。誰と?
 小さな疑問を、菜里子はすぐに手放す。口に出して約束したわけではないが、互いに詮索しないのがふたりのルールだった。結婚について話題にしないことも。
「もうクリスマス? 気が早いね」
 ローテーブルに広げていたリーフレットを、船橋は手にとって眺めている。イラストを担当した、洋菓子チェーンのクリスマス商品のリーフレットだ。
「全然早くないよ。夏の終わりに発注してくるところもあるよ」
「ああ、仕事のやつね」
 さして興味なさそうに言って、船橋はリモコンでテレビをつける。がちゃがちゃとやかましいバラエティの音声が部屋に流れこむ。CMに切り替わり、名も知らぬ女性タレントが「ぱっくりふっくらカンダの煮豆!」と痛々しいほどハイテンションで叫ぶ。抱き合った余韻を生活感が一気に押し流す。
 この様子だと、そのまま泊まるのだろう。セックスだけして帰られても微妙だけど、あたりまえに泊まられるのもなんだか腑に落ちない。うちは無料の宿泊所じゃないし、シングルベッドはふたりで眠るには狭い。それでも、歩いてもさほどかからない距離の自宅にさっさと引き上げられるよりはましな態度なのだろうと、菜里子はなんとか自分の気持ちを立て直した。
 テレビの前から動かない男をそのままに自分の入浴の準備をし、脱衣所のレールカーテンを引く。船橋が先に使ったため空間は蒸していて、壁にも天井にもびっしりと細かな水滴が付着している。びしょびしょのバスマットを、苛立ちながら取り替える。
 客人がいることを気にせずに、いつものように時間をかけて入浴することにした。食事はどうしても手抜きになりがちだが、入浴時間はきっちりと確保することにしている。
 湯張りしながら、バスタブの外で体を洗う。船橋に口づけられた部分、強く揉まれた部分、そして挿入された部分。たっぷりとした泡で包みこむと、少しだけリセットできたような気がした。
 入浴剤の封を切り、湯の中へさらさらと振り入れる。濃い緑の粉がさっと湯に溶けて、鮮やかな明るい黄緑色に変わる。フリーランス時代にパッケージデザインを担当した分包タイプの入浴剤で、メーカーからもらった分がまだ中途半端に残っていたのだった。「ヒーリングフォレストの香り」「エターナルオーシャンの香り」「エレガンスフラワーの香り」の三パターンを納品した。モチーフの曖昧な商品にイラストを付けるのは想像の余地のある作業で、頭を悩ませながらも存外楽しんだ記憶がある。
「ヒーリングフォレストの香り」の湯に体を沈めた。この香りから森を想像しようとしてみるものの、いつもうまくいかない。意識をあえてぼんやりさせていると、やがて毛穴という毛穴から汗がぞろりと出てくる。その瞬間がたまらなく好きだった。
 頭を空っぽにしていたいのに、ソファーでだらしなくくつろいでいるであろう男の姿が浮かぶ。乱暴に使われた体の奥がまだ熱を持っている。こんなとき、自分が女という生き物であることを強く意識させられてよるべない気持ちになる。
 ――結婚とかは、あんまり考えてないの。
 恋が始まったばかりの頃、菜里子は船橋に告げた。
 ――仕事も忙しいし。家庭への憧れもないから。
 三十一歳だった。期待していると思われることが重荷になりそうだったので、早い段階で伝えたほうがいいと判断した。牽制球を投げるような気分だった。
 ――へえ。じゃあ、身軽でいいね。
 船橋はへろっと笑って言った。八重歯が少しのぞいて、この男が自分に必要だと感じたことを覚えている。
 あれから五年。自分たちはまだ、のんびりつながっている。それはいいが、こんなふうに体も居住空間も無遠慮に消費される日々は結婚生活とさほど変わらないんじゃなかろうか。それなら、一緒に住んで家賃や光熱費を折半するほうがよほど経済的ではないか。最近、そんな考えが時折頭をめぐる。自分がひどく小さな、つまらない人間になってしまったような気がする。
 家庭を持ちたいわけではない。しかしこのままでいいとも思っていない。そんな中途半端な気持ちがあることを、湯船のなかで菜里子は静かに認めた。
 面倒くさいと思われたくない。面倒くさいことが嫌いだから。だけど。
 自分の人生のデザインは、今のままでいいのだろうか。
 着替えて髪を乾かし部屋に戻ると、男はソファーから半分ずり落ちたまま高いびきをかいていた。
     □

 ぼそぼそとした恋人の歌声を、甘い風がさらってゆく。
 夕暮れになると僕の町にはチョコレート工場のにおいが漂う、いつかきみを自転車で連れてゆきたい、そんな甘ったるい歌詞にもメロディーにも環は聞き覚えがない。
 煙突から吹きだすチョコレートの香りがふたりを濃厚に包む。深く息を吸いこむと、肺までチョコレート色になりそうだ。この界隈の住民は、いつもこんな香りに包まれて暮らしているのだろうか。
「なんの歌だっけ、それ」
「槇原敬之。でもモデルはここじゃなくて地元の大阪の工場だった気がする」
「よく知ってるね」
 昔の歌でしょ? 言いかけて、口をつぐむ。環と出会う前、ずいぶん年上の女性と付き合っていたと聞いている。
 アトリエNARIに入社して初めて、欠勤してしまった。
 昨夜、船橋とあまりに実りのない時間を過ごしたために、帰宅後ひとりで吞み直したところ、人生初の二日酔いになってしまったなんて情けないにもほどがある。頭痛が酷くて遅刻したいと連絡を入れると、菜里子は快く「それなら一日休んでゆっくり治して」と返してくれた。
 体調が戻ってくると、自分の恋人が猛烈に恋しくなった。
 ――忙しいんだろうけど、会っていろいろ話したいんだ。だめかな。
 環からの連絡に、亨輔は「あ、ちょうど武蔵浦和のロッテの工場が見たかったとこ」と返してきた。相変わらず、違う重力のはたらくどこか別の星で暮らしているみたいな男。それとも、わざと温度差を感じさせるという駆け引きなのか。
 自分の住む町にある製菓会社の工場には、小学生の頃社会科見学で入ったことがあった。自宅とは別方向にあるため、大人になってからは足を向ける機会がないままだった。
「タイミングがよかったね。いつでも生産ラインを稼働させてるわけじゃないだろうし。一度このチョコの風を浴びてみたかったんだよね」
 邪気のない亨輔の笑顔を、環はちらちらと見つめる。高架を走る埼京線の音が語尾を消し去ってゆく。
「チョコが苦手な人にはつらいかもしれないね、このにおい」
「うわ、その視点はなかった。さすが」
 亨輔は環の頭を引き寄せた。大きな手でぐしゃぐしゃと髪をかき回され、胸が熱くなる。
「でもたまちゃんは好きでしょ? チョコ」
「うん」
「すっげーチョコ食いたくなるね。帰りにいっぱい買っていこ」
「うん……」
「『チャーリーとチョコレート工場』もまた観たいなあ。アマプラにあるかな」
 環のときめきにも気づかずに亨輔は喋り続ける。そういえば五月だったかな、ポーランドかどっかの高速道路でタンクローリーが横転してチョコレートが何トンも流出する事故があったよね。不謹慎だけど、ちょっとうまそうって思っちゃったよね。もったいないよね。
 ふたりでフェンスにもたれるようにして無機質な工場を眺め、甘いチョコレートの風に吹かれていると、驚くほど心が平らかになった。
 口元に小さな妖精が宿ったかのように、最近の何もかもを環は話した。夜道で恫喝されたこと。上司の恋人になんとなく近づいてみたこと。亨輔に会えなくて、ずっとやきもきしていたこと。
「ごめんね」
 亨輔は率直に謝った。他の男性とふたりで吞みに行った環のことは、ひとことも責めずに。
「中間決算が終わって、上半期よりめちゃめちゃ高い売上目標出されちゃって、なんか全然余裕なかった。あんまり余裕のない顔見られたくないからさ、俺」
 体をこちらに向け、頭を下げる。寝ぐせのついた黒髪が揺れた。
 そうだ。この人の「忙しい」に「忙しい」以上の意味はないのだ。駆け引きも含みも当てつけもないのだ。どこまでも透明な湖のように。
「夜道、通話しながら歩くと今度はスリに遭うっていう話も聞くから、ほんと多方面に気をつけて。ごめんね、いつも一緒にいられなくて」
 大きな手がまた環を引き寄せた。通行人もいる舗道だというのに、人目も憚らず抱きしめられる。亨輔のシャツからは、彼の店で扱っているインドのお香のような香りがかすかにした。
「ちょっとちょっと、苦しいよ」
 抵抗を示しつつも、嬉しかった。涙が出るほど嬉しかった。こんなふうに心の通う時間がほしかっただけなのに、ふらふらと回り道をした自分が猛烈に恥ずかしかった。幼いのは自分だ。この人の器はなんて大きくてあたたかいのだろう。
 環をきつく抱きしめたまま、先程の続きらしき部分を亨輔は歌った。また風が吹いて、チョコレートが強く香った。
「……菜里子さんとも、すんなりわかり合えたらいいのにな」
 固い胸の中で、自然に言葉がこぼれた。
「え?」
「ただわかり合いたいだけだったのにうまくいかなくて、なんか変な方向に走っちゃった」
 亨輔は腕の力を緩め、環を優しく解放した。再び広くなった視界の隅で、犬を連れた中年女性がこちらから目を逸らすのが見えた。
「なんのためにわかり合うのかな」
 今度は環が「え?」と訊き返す番だった。
「わかり合うっていうのは、相手との距離をゼロにするためじゃなくて、適切な距離を探すために必要なんじゃないかな。うまく言えないけど」
 飾らない言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。こしらえものじゃない、彼自身の言葉が。
「亨輔」
「あい」
「もし亨輔が……一生スマホを使えなくなって、その代わりにアフリカの子どもひとりの命を救えるとしたら、どうする?」
 あの屈辱を蘇らせながら、環は言葉を投げかける。あのとき、黙りこくってうつむいた環を船橋はせせら笑ったのだ。きれいごとだけじゃ生きていけないよ。もっと柔軟な大人にならなきゃね。
「なら手放すしかないじゃん」
 眉ひとつ動かさずに、亨輔は即答した。
「えっ? あ、いや、もちろんそうすべきなんだろうけど」
「けど?」
「けど……スマホなしでどうやって生きていくの? こんな現代社会を」
「別に俺、スマホそんなに好きじゃないし。人間が機械に振り回されてるっていう感じがして」
「はあ」
「仮にガラケーに戻ったとしても充分生活できるよ、もともとそれでやってきたんだから。それか携帯会社で働いてる友達に頼んで、スマホに代わる便利ツールを開発してもらうね。要はスマートフォンっていう名前じゃなきゃいいんでしょ?」
 ああ、この人にはかなわないなあ。胸の中を風が吹き抜ける。
 その迷いのない目がとらえる世界に、どうかずっといられますように。そのために、ぶれない軸を持った人間になれますように。チョコレートを鼻先に差しだしてくるような風に吹かれながら、環は小さく祈った。

     ■

「……あれ?」
 食べ損ねた朝食代わりのカロリーメイトをひと口齧りとったとき、入力作業をしていた亜衣がぽつりとつぶやいた。
 窓の外には雨がしとしとと降り続いている。この事務所は菜里子の席の右手側と背面の壁が一面ガラス張りになっていて、曇天から線状の雨が降ってくるのが座ったままでも確認できる。
 モニターを見つめたまま亜衣は動かない。
「どうしたの」
 たずねると、一瞬言い淀むような気配を見せてから続ける。
「アングリカさんのぶんが……まだなんですよね」
 ――え?
 そのひとことで意味を察し、肌をぞわりと撫でられたような気がした。
「入金、ないの?」
「はい。請求書でもちゃんと九月末日までにって書いたんですが……」
 株式会社アングリカは、ハロウィンイベントのポスターのイラストを依頼してきた英会話教室を運営する会社だ。裏で何らかの取引があるのか、今回は代理店の営業は口利きだけをして、代金はアングリカから直接支払われることになっていた。納品は七月に済ませている。
 不払い。不穏な単語が菜里子の脳裏に浮かぶ。
 フリーランスの頃も、入金トラブルはぽつぽつあった。会社を立ち上げたとき、もう個人だからといって舐められずに済むという安堵を覚えたものだった。
 いや、まだトラブルと決まったわけではない。何かの間違いかもしれない。経理担当がうっかりしていて、ということもあり得る、はずだ。
「落ち着こう」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいて、菜里子はカロリーメイトを脇へ置き、メーラーを立ち上げる。そう、いったん落ち着こう。代理店の担当者と交わした最後のメールを探しだす。
 あった。
「NARIさんのジャックオランタン、先方も大変気に入っておられます。このたびはお世話になりました」担当者である林という男のメールは、そのように結ばれている。
 アングリカの公式サイトを開く。ハロウィンイベントについての情報はまだどこにも上がっていない。
 すぐにでも電話をして確かめたい衝動に駆られるが、まずは簡単な様子うかがいから始めるのがビジネスの基本であるのは自明のことだ。
『平素は大変お世話になっております。アトリエNARI経理担当の毛利です。すっかり秋も深まってまいりましたがいかがお過ごしでしょうか。さて標題の件、アングリカ様の案件につきましてまだ先方からのご入金の確認が取れない状況のためご連絡いたしました。何かの行き違いでしたら何卒ご容赦願います』
 亜衣からメールを打ってもらい、ひと呼吸置く。窓の外の雨が強くなったような気がする。カロリーメイトの袋をつかもうとしたとき、自分の指先が汗ばんでいることに気がついた。
 待たされることになるだろうと覚悟したが、十数分後に受信箱が新着メールを知らせた。林からだ。再び背中に緊張が走る。
 型通りの挨拶に続き、
『弊社の業務都合により、お伝えするのが遅れておりました。
 諸事情により今回のNARI様のイラストは採用なさらない方向との旨、アングリカ様よりご連絡がありました。
 納品いただいたデータについては既に返還されており、他の目的へ転用なさっていただいて構わないとのことです。
 お力になれず、またお知らせが遅くなりましたことをお詫び申し上げます』
「……は!?」
 久しぶりに大声を出した気がした。何から何まで意味がわからない。いや、日本語としてはわかるが、取引相手が放つ言葉としては理解も受容もできない。
 ラフを送った時点で立ち消えになったことは、これまでにないわけではなかった。しかし納品完了後にというのはさすがに経験がない。
 先方の要望を取り入れて制作した。油彩だからコストも時間もかかった。見積書も納品書も請求書も交わした。採用不採用といった次元の話ができる段階などとっくに過ぎている。納品済みデータの「返還」など何の意味もないことくらい、小学生でもわかるだろう。
 亜衣と環の心配そうな視線を感じながら、林の携帯に電話をかけた。心臓が早鐘を打つ。
 コール音が消えて相手が応答する。
『すーみーまーせーんー』
 林は笑いを含んだ声で一音ずつ引き伸ばしながら言った。わざと下手に出てこちらを丸めこもうとするような意図を感じた。
『弊社としても大変申し訳ないと思……』
「えっ、ごめんなさいあの、今回ってコンペじゃなく直接のご指名でしたよね?」
 思わず相手の言葉を遮り、かぶせるようにたずねた。
『もちろんそうなんですけど、実は他にも候補がいたようなんです。実際たまにいらっしゃるんですよ、クリエイターとのお付き合いに慣れてないクライアントさんって。困っちゃいますよねえ。申し訳ありませんねほんとに』
 業界人独特の抑揚をつけて、林は用意してあったような台詞を述べる。
 そんなことあっちゃいけないだろう。なんのための代理人なのか。費やした制作時間は、手間は、コストはどうなるのだ。そもそもデータを返還されたところで、先方が保存していないと誰が言い切れるのか。
『今回は材料費として一万円お支払いくださるとのことでして、それでなんとかご容赦いただけないでしょうかねえ』
 菜里子の苛立ちを先取りしたように林が言う。
 一万円。頭がくらくらしてくる。馬鹿にしているのか。しかもそこまで具体的に話が進んでいたなら、なぜこちらが気づいて連絡するまで放置したのだ。怒りで喉が焼けついたように熱く、言葉が出てこない。
 この小さな会社に法務部はない。法務担当を雇用できるほどのゆとりはない。それを知っているからこその態度だろう。足元を見られているのだ。
 まったくの無言でいたのは適切な言葉が出てこなかったからだが、それが少なからず林を威圧したらしい。彼が沈黙に耐えかねたように口を開いた。
『CEOがもっと賑やかなイラストにしろって口を挟んだらしいんですよ』
 錦の御旗のように、林はCEOという言葉を使った。ときどきメディアに顔を出して経営論をぶつアングリカのCEOの、年齢のわりにつるんとした肌を菜里子は思い浮かべた。
「……え、いやいや、発注時のご希望は逆でしたよ。コピーが引き立つようなシンプルな絵にしてほしいって……せめて着手する前に希望変更いただければ」
『とにかくそういうことなんですよ』
 林の声のトーンが変わった。もはや面倒くさそうな態度を隠しもしない。溜息まで聞こえた。それはビジネス用に装着した仮面を剝がす音だった。
『うちだって顔を潰されたようなもんですから……被害者同士ってことでご納得いただけるとありがたいんですがねえ』
 幼児を諭すような声。どこか既視感のあるやりとり。恵のキンと高い声が耳朶に蘇った。そうだ、あのときと似ている。
「……そちらも被害者なら、一緒に訴えませんか?」
『訴える!? 誰を!?』
 菜里子の震える声を、林は嘲るように制した。
『あのねえ、NARIさん。もうちょっと大人になりましょうよ。世の中、大手企業に振り回されるクリエイターなんてごまんといるんですよ。今回は作品を使用したわけじゃなくて未使用のままなんですから、先方の仰る通り他に転用して元をとればいいじゃないですか。かぼちゃの絵なんてこの時期いくらでも需要はあるでしょう?』
 たしかこの人、私より少し若いんじゃなかったっけ。どうしてこんなに尊大な態度をとれるのだろう。創作や作品に対するリスペクトなんてかけらも持ち合わせていないのか。痺れた脳の隅で、新たな怒りがふつふつと湧いてくる。
「納得できかねます。請求を踏み倒すのを認めろというお話で合っていますか? 林さんが間に入ってくださらないなら、こちらから直接アングリカさんに連絡をとってみます」
 相変わらず声は震えていたが、電話の向こうで林が一瞬怯むのがわかった。
『……今一度、こちらでも連絡はとってみますので。とりあえず、では』
 通話は切られた。
 手汗で少し滑る指先で受話器を置いた。思考と感情がぐちゃぐちゃになっていた。きっと今、自分の顔は蒼白だろう。
 耐えられない、と思った。支払われない金銭のことも。小さな会社の女性経営者だからと見くびられたことも。部下たちに情けない場面を見られたことも。
「ごめんね」
 誰にともなく謝った。亜衣と環の顔が見られない。両手で顔を覆ったら、自分の指に沁みついた油彩の画材のにおいがした。
 亜衣だろう、自分に何か声をかけようと、すっと息を吸う気配がした。しかし、耳に届いたのは環の声だった。
「訴えるなら、訴えましょうよ」
 え?
 菜里子も、そして亜衣も、磁力を向けられたマグネットのように環の顔を見た。
「こちらに過失がなく、支払い能力があるのに支払わないのは、明らかに違法です。契約書がなくても、取引の内容がわかるメールが残っていればそれが証拠となるはずです。アングリカさんも林さんもまとめて訴えて、取り返すものは取り返しましょう」
 この、自信に満ちてしゃきしゃきと喋る女性は誰だろう。束の間、目の前の問題も忘れて菜里子は環を呆然と見つめた。紅潮した頰、強靭な意志を宿した瞳。
「でも……林さんがこっちを言いくるめようとした証拠があるわけじゃないし……」
「あるじゃないですか」
 え? 菜里子はまた間の抜けた声を出した。
「この電話、自動録音機能が付いてるじゃないですか」

     □

 入社して間もない頃、菜里子も亜衣も手が離せず環の研修ができない時間があった。手持ち無沙汰で、電話の説明書を読んでいた。物心ついた頃から生活の中に携帯電話があり、固定電話の扱いに自信がなかった環は、説明書を熟読した。この機種に通話を自動録音する機能が備わっていることを、そのとき知ったのだ。
「ほら、ここが点灯しているのは録音モードがONになってるっていう意味です」
 菜里子の座席に回りこんだ環は、電話機の側面を指し示した。マイクのような絵のアイコンの下に、緑に点灯したランプがある。亜衣と環の机にあるのも同じ機種だ。
「でも……容量とか……」
「録音容量がいっぱいになったら、古い音声から消去されていく設定になってるはずですよ。だから今のは録れてるはずです。聴いてみましょうか」
 環は菜里子の側に身を乗りだし、ボタンを操作する。たしか、そうだ、ここだ。物覚えだけは昔からいいのだ。液晶に「音声データ再生」の文字が現れた。矢印を一件目に合わせて実行ボタンを押すと、林の声が流れた。「すーみーまーせーんー」
 菜里子が環を見た。
「これがあれば、言った言わないの水掛け論にはならないはずです。まずは林さんの上司にこの音声データとメールの履歴を提出して、事実関係を確認してもらいましょう。埒があかなかったら、アングリカさんと直接話して、少額訴訟に持ちこむのがいいと思います」
「少額訴訟……?」
 初めて耳にした言葉のように、菜里子は復唱した。実際、耳慣れない言葉なのかもしれない。
「簡易裁判所でできる裁判です。即日判決が出るんです」
 言いながら、環は志保につくづく感謝した。
 あの日、スープカレーの店で延々続く法律談義をぼんやり聞いていた環だが、具体的な裁判の事例が挙がり始めると急に興味をそそられた。個人間の金銭の貸し借りや給与の未払い、敷金の返還請求などに、少額訴訟がよく利用されるという。敷金という単語に反応して、環は志保と寺井の話に割りこんだ。
「わたし、東京でひとり暮らししたとき、敷金返ってこなかった気がする」
 寺井は大きな顔を環に向けた。
「そういう話、よく聞くよ。本来はオーナーに預けてるだけのお金なのにさ、引越しのどたばたでうやむやにされちゃって戻ってこないってことよくあるから」
 いつの話? どこの不動産屋? 額はどのくらい? 寺井は環から細かく聞き取り、自分の名刺を取り出した。もし少額訴訟起こすなら、少しでも力になれるかもしれないから連絡して。訴状の作成くらい手伝うから。うちの先生に頼んでもいいし、だけどそれだとお金かかっちゃうから、よかったら俺に。
「そうだね。環のとこってデザイン会社でしょ? もし不払いとか発生したまま決算期をまたいだら、売掛金として計上する必要があるから代金を回収できないまま税金だけを負担しなきゃいけないってことになるでしょ、少額訴訟の知識くらいは持ってると心強いよ」
 志保も力をこめて言葉を添えた。ほとんど息継ぎもせず早口で喋る彼女が愛おしかった。
 あの日のやりとりが役立つ日が、こんなに早く来るなんて。
「戸塚さん、あの、この件って友人にシェアしちゃだめでしょうか? 法律に詳しい人たちがいるんですけど」
「そうなの……?」
 打ちひしがれている菜里子の目に小さな光が宿った気がして、環は力を得て言葉を継いだ。
「具体的な社名とかは出しませんから」
「うん……」
 菜里子に許可をとり、環は自分の通勤リュックから手帳を取り出した。あの日寺井に渡された名刺を雑に挟んだままだったはず――あった。
「今、電話しちゃっても大丈夫ですか? 司法書士の卵だから、書類の作成とかも力になってくれるはずなんです」
「……任せちゃってもいい? 町川さん」
 菜里子がこれほど弱々しく見えることはかつてなかった。電話機のボタンを押す指先にまで力がみなぎってくる。コール音が途切れ、通話に切り替わった。
「あ、すみません。先日お会いした町川です。志保の友人の」
 あー、ああ、はいはい。通話口に出た寺井は張りのある声で応答した。今通話しても大丈夫か確認をとり、通話内容の共有のため許可を得て「スピーカー」ボタンを押す。
『例の敷金の件っすか? 少額訴訟する気になりました?』
「あ、それとは別件なんです。今、会社の電話からかけてまして」
 いきさつを簡潔に説明する。ふんふん、ふんふん、なるほど。寺井の親身な相槌に、強固な安心感を覚える。
『あー、そのケースだったらたしかに少額訴訟の価値ありですね。回収すべき金額は六十万円以下なんですよね?』
 菜里子の顔を確認する。うんうんと小刻みにうなずくのを確認し、はいそうです、と答えた。
『証拠書類さえ集めてもらえれば、訴状を書くの手伝いますよ。ああ、でももし本気でやる意思があるのならば、メール一本打って揺さぶりかけとくのがいいですけど』
「メールですか?」
『うん。もし訴える気もないのに訴えるって言っちゃうとこっちが脅迫罪になっちゃうんだけど、ほんとにやるならそれを前提として、訴えますよ~って軽くジャブをかますわけですよ。たとえばこんな感じで……』
 亜衣がこちらを見てうなずいている。寺井が提示してくれた文案を環はメモパッドに乱雑に書きとったが、亜衣がそれより速いスピードでパソコンのキーボードを叩いているのがわかった。視界の隅で、菜里子はアーモンド形の美しい両目を見開いている。
 丁重に礼を言って寺井との通話を切り、亜衣とともにさっそく文章をこしらえた。
『大変お世話になっております。
 このたびは添付の見積書・発注書の通りご依頼のもとに制作いたしましたハロウィンイベント用の油彩画に対し、報酬支払いの御意思の有無を確認させていただきたくご連絡いたしました。
 本日中に書面記載の額面のご入金が確認できない場合、当社はこれを不払いとみなし、貴社に対し少額訴訟を起こすことを視野に入れ、司法書士との相談を検討しております。
 その場合は内容証明が届くかと存じますのでご了承願います。
 迅速なお振込みを心よりお待ち申し上げております』
「どうでしょう」
 亜衣の席に三人が集まる。女たちの香水のにおいが混じり合った。環にも最近、蝶の形の壜に入った香水を手首に吹きかける習慣ができていた。
「いいと思う……すごくいいんじゃないかな。ありがとう」
 信頼に満ちた顔が環に向けられる。まだ何も解決したわけではない。でも、初めてアトリエNARIの、そして戸塚菜里子の役に立てるような気がした。
 アングリカから入金した旨を知らせる返信が届くまで、それから十分とかからなかった。

     ■

 ほうっ。
 PDFを最終ページまでスクロールしきったら、風邪を引いたときのように熱くなった喉から重めの溜息が漏れた。
 書籍の装画を担当することが決まるたびに、発売前の作品をゲラで読ませてもらうことになる。イラストを描くための情報を得ることが目的の読書ではあるけれど、気づけばどっぷりと没入していることも多い。まだ書籍という形をとる前の物語が、自分を揺さぶり、問いかけてくる。一度定まりかけた色や形のイメージが二転三転し、それに振り回されることも含めて楽しさと充実を感じる。
 ちょっとした旅から帰ってきたような気分で、菜里子は深呼吸をした。こんなふうに読書に集中できるのはアングリカの不払いが未遂に終わったからこそで、平穏のありがたさを痛感していた。
 今回装画を担当するのは、子育てをテーマにした物語だった。同棲中の若い恋人たちが、わけあって血のつながりもない小さな子どもを引き取り、育てることになる。作中で五歳から六歳になる女の子だ。
「まだ若いのに」「結婚前に親になるなんて」「子育てはままごとじゃない」。世間から好奇の目を向けられ、見当違いの言葉を投げかけられながら、恋人たちは手探りで育児と向き合い、親というものを自分たちの言葉で再定義する。その気迫、その切実さに、菜里子は圧倒された。同時に、女児の発語やふるまいのリアリティーには、自分の通過してこなかった人生の貴重なエッセンスを見せつけられたような気持ちにもなった。
 思わずブラウザを立ち上げ、作者の年齢をWikipediaで調べてしまう。俗っぽい行動に我ながら嫌気がさすが、指が動いてしまうのを止められなかった。昨年大きな文学賞を受賞したという女性作家は、自分より七歳も若かった。先程とは違った種類の溜息が漏れる。
 もし自分に子どもがいたら、この世界はどんなふうに見えるんだろう。私はどんなふうに彼ら彼女らを描くのだろう。それは折に触れて菜里子の思考するテーマのひとつだった。
 東日本大震災のあった年の秋に開催されたモーリス・ドニ展を思いだす。とりわけ子どもたちを描いた作品に菜里子は心をつかまれた。すみれ色の寝室で妻が授乳するシーンを描きとったもの。大胆にピンクを取り入れ、旅先で三人の娘を描いたもの。そして、初めての子を亡くした悲しみをつめこんだ抽象画。光を反射する額やふっくらと盛り上がった頰が、いきいきとした色選びや筆づかいが、子どもたちの尊さと愛おしさをダイレクトに伝えてきた。
 七人も産んだドニの妻の身体的負担を思うと気が遠くなるけれど、私はこの先の人生も親という視点を持ち得ぬままにイラストレーターとして子どもを描いてゆくのだろうか。
 頭の中で、ドニの娘の絵と、たった今読み終えた小説の世界が混ざり合う。見知らぬようでよく知ってもいるような女児が、あどけない笑顔で自分に向かって腕を伸ばしている。
 ああ、そうだ。あんなふうにふくふくとした腕が自分に差しだされたことがある。あのときだ。父親に肩を押されてステージの前に現れた、年端もゆかぬ女の子。ピアスを受け取るために伸ばされた白い腕。風になびく漆黒の髪とのコントラストが美しいと思った。今すぐ描きとりたいと思った。背負いたくないものの象徴のようなピアスを引き取ってくれたあの子――
「コーヒー、いかがですか」
 ほわりとコーヒーの香りがして、目の前に白い腕がすっと差しだされた。人脈を駆使して菜里子を窮地から救ってくれた環の、健康そうな白い腕。
 飲み物は自分で用意するからって言ったのに。そう言いかけて、何とはなしにその耳元を見た。真っ黒な髪の隙間で、ハートの形のシルバーピアスが控えめに光っている。
「もう、あのピアス着けてきてくれないの?」
 思わず、心の声が漏れた。黒目がちな環の両目が驚きに見開かれる。
「え……っと……?」
「ああごめん、勘違いならいいの。この間着けてたピアスが、私が昔手放したやつにすごく似てたものだから」
 脈動が速まるのを感じながら慌てて言ったら、ひどく早口になった。
「菜里子さん」
 菜里子のデスクにコーヒーを置いた環は、体の前で両手を組み合わせ、すっと背筋を伸ばした。
「今、ちょっとだけ業務に関係ない話をしても大丈夫ですか」
 ――ついに来た。この瞬間が。
 菜里子は全力で身構えた。亜衣は午後半休をとって退勤済み、来客の予定もなく、深まる秋の美しさに取り囲まれた事務所に環とふたりきりだった。
「大丈夫だよ。今度装画描く小説読んでただけだから」
「ありがとうございます。……わたし、あの」
「うん」
 今、自分はさぞかし悟りを得たような表情をしているだろうと菜里子は思った。しかし環の言葉のベクトルは予想外のものだった。
「わたし、アイドルを目指していたんですよ、昔」
「……え?」
 思わずぱちぱちと瞬きをした。環のきまじめな顔がこちらを見下ろしている。流行りのフューシャピンクのカットソーが環の顔立ちによく映えている。ドニの柔らかなピンクとは違う、パープルがかったビビッドなピンク色。
「アイドルになりたくてオーディション受けまくってたことがあるんです。正確には、あっすみません」
 菜里子が手振りで着席を促すと、環は自分の席に戻り、椅子ごと菜里子のほうを向いた。
「正確には、書類審査で落ちまくってたから、会場に足を運べた回数はそこまで多くないんですけど」
「そ……」
「高校のときはタレント養成学校にも通ってました。いい経験になったとは思うんですが、まったく芽は出ませんでした」
 そうなのか。驚きつつも、どこか腑に落ちるものがあった。
「結果は出せなかったんですけど、でも長い間あんなふうに頑張れたのは、子どもの頃大宮でアゲハちゃんと出会ったことがきっかけなんです。アゲハちゃん……なんですよね?」
 時が止まった気がした。
 そうだよ。答える声は、少し震えていた。


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黒蝶貝のピアス
砂村 かいり
東京創元社
2023-04-19



■砂村かいり(すなむら・かいり)
2020年『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』で第5回カクヨムWeb小説コンテスト恋愛部門〈特別賞〉を二作同時受賞しデビュー。