東京創元社4月の新刊、砂村かいり著『黒蝶貝のピアス』から約170ページを3日連続で一挙特別公開!
【あらすじ】
前職で人間関係につまずき、25歳を目前に再び就職活動をしていた環は、小さなデザイン会社の求人に惹かれるものがあり応募する。面接当日、そこにいた社長は、子どもの頃に見た地元のアイドルユニットで輝いていた、あの人だった――。
アイドルをやめ会社を起こした菜里子と、アイドル時代の彼女に憧れて芸能界を夢見ていた環。ふたりは不器用に、けれど真摯に向き合いながら、互いの過去やそれぞれを支えてくれる人々との関係性も見つめ直してゆく。年齢、立場、生まれ育った環境――全てを越えた先の物語。
本日は第二章「諦念」を丸ごと公開いたします。
ぜひご一読ください。
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諦 念
□
夢の入口は、どうしてこんなに現実的なんだろう。冷えびえとしたタイル張りの床を、環は踏みしめる。
〝スターユニオン第一次オーディション〟という文字は、一メートルの距離まで近づかないと読みとれないほど小さかった。いかにも即席で作られたようなそっけなさ、もっといえばやる気のなさ。爪の先まで体を磨き上げ、おろしたてのコートの下にシフォンのワンピースをまとった環は、なんだか自分が場違いな気がして落ち着かない。
こんな寒々しいビルから未来のアイドルが生まれるなんて、なんだかおかしい。
入所金も活動費用も月々のレッスン料も全額無料というのが売りのアイドルタレント事務所スターユニオンは、もちろん衣装代も撮影代も事務所持ちだ。オーディション雑誌の記事にも書いてあったし、買ってもらったばかりのノートパソコンでもきっちり調べたのだから間違いない。
事前に得ていた情報と眼前の光景のイメージの差に戸惑っていると、バニラのような香りがふわりと背後からやってきて、軽やかに環を追い抜いて行った。少しだけくすんだ水色のコートを着た長身の女の子。流行りのシャーベットカラーだ。そうだった、行かなくちゃ。慌てて足を踏みだしたら、水色コートの背中を追う格好になった。
大丈夫。大丈夫。受付同様にそっけない部屋のパイプ椅子に座らされ、クリップボードに挟まれた用紙に必要事項を記入しながら、環は自分に言い聞かせた。
子どもの頃からアイドルが好きだった。何のためらいもなく憧れの対象に己を投影し、夢を養分にして環は成長した。タレント養成スクールだって、一度も休まずきっちり通った。
「ねえ」
もしこのオーディションに合格して事務所に所属できたら、スターユニオン所属アイドルになれる。契約を結び、仕事が入ってくる。今度こそ夢が夢でなくなるのだ。
「ねえ、どっか通ってた人?」
その問いかけが自分に向けられていることに気づいて、声のしたほうに首をひねった。あどけなさの残る顔立ちの少女が、斜め後ろからこちらを見つめている。シンプルな白のニットに、あっさりしたメイク、下ろしただけの髪。特に気合が入っている様子はないのに垢抜けていて、目を逸らしがたい引力があった。これがオーラというものなのかもしれない。環はぞくりとした。その少女の少し後ろの席で、水色のコートを膝に載せた先程の少女が書類に鉛筆を走らせている。
「養成所、どっか通ってた? ちなみにあたしは東京エースアカデミー」
「あ、ああ、えっと」
受験者はまだ数名しか集まってはいないものの少しだけ声を落として、環は高二のとき通っていたスクールの名前を告げた。
「ああ、あそこね。恵比寿にあるとこでしょ」
わずかに目を細めた彼女は急に大人びて見えた。もしかしたら少女という歳でもないのかもしれない。十九歳の自分よりいくつか年上かもしれないと環は見当をつける。
「もしかしてだけど、カンダの煮豆のときいなかった?」
続く問いかけに、環は思わず全身で振り返った。
「え、いました!」
「やっぱり! 見覚えあると思ったんだよ」
彼女は鈴のような笑い声を立てた。
書店の雑誌コーナーでオーディション雑誌というものを初めて手にとったのは高一のときだった。自分に必要な情報がぎっしりと詰まったその誌面を食い入るように見つめながら、視界が一気に開けた気がした。わたしも自分を試してみたい。細胞が沸きたつのを感じた。
世間ではAKB48というアイドルグループがブレイクし、昨日まで一緒に授業を受けていた同級生が劇場のスポットライトを浴びたり音楽番組で歌ったりしているという現象が日本中で巻き起こっていた。自分も芸能界に入って本格的にアイドルを目指したいと告げる環に、両親は拍子抜けするくらいあっさり賛成してくれた。父に至っては「水着審査とかもあるんだろ? うんとセクシーなやつ買ってやろうか」などと発言して母にたしなめられていた。
オーディションと呼ばれるものを受け始めた環に、現実は厳しかった。書類審査で振り落とされることがほとんどで、なかなかオーディション会場にたどり着くことができない。写真がいけないのだろうかと、衣装や髪型を何度も変えて撮り直した。
初めて審査員の前に立ったのは忘れもしない、煮豆のCMのオーディションだった。もはやアイドルでもモデルでもタレントでも、テレビに出られるならなんでもよくなっていた。味わったことのない緊張が膨らみきっていたが、食品メーカーの担当者の前に立ち「ぱっくりふっくらカンダの煮豆!」という短い台詞を全力で放った。受験者は二十名ほどいたけれど、そのグループ審査で審査員が「元気いいねえ」という言葉をかけたのは自分にだけだった。いけると思った。
手ごたえはあったのに、そこでも環はあっけなく落ちた。そこからはやけくそ気味に応募しまくった。ガールズバンドのボーカル。サーキットのイメージガール。地域の美少女コンテスト。競争率をだんだん落としていったにもかかわらず環は落ち続けた。
どんなオーディションもまずは所属事務所や養成所を訊かれることに気づいた環は、口コミを調べ、両親に頼んで東京都内のタレント養成スクールに学費を払いこんでもらった。大手プロダクションが経営している養成所は入所するにも試験があり、お金さえ払いこめば通学の許されるスクールを選んだ。
高校二年生の一年間、学校に通う傍ら、水曜の夜と土曜の昼間の週二回レッスンに通った。講師はプロの劇団員やミュージシャンだったが、いずれも名前を聞いたことのない人ばかりだった。座学、呼吸法、準備体操。ボイストレーニングが始まるまでにも長いコマ数を要した。
一年間のレッスンが終わる頃、オーディションを受ける機会がいくつも設けられたが、環はどれひとつとして合格をもらえないままだった。ともにレッスンを受けてきた仲間が百貨店の水着のCMに端役ながら出演が決まった日、祝福の言葉を述べる唇が震えた。
「三年生になっても、やる?」母親に遠慮がちに訊かれたとき、うなずくことができるほど心の強さは残っていなかった。三月に発生した東日本大震災が、夢を追う若者たちから後ろ盾を奪っていた時期でもあった。受験生としての一年はおとなしく勉強に集中して過ごした。被災地支援プロジェクトと称して小グループで被災地を回り簡素なステージでライブをするAKB48が、実際以上にまばゆい存在に思えた。
きっと、幼すぎたのだ。大学生になった環はそう思うことにしている。年齢的にも親の付き添いなしで会場に来られるようになって、審査員の求める空気も少しは読めるようになってきた気がする。あとは運次第。そうやって自分を鼓舞してきた。実際、書類審査を通過する確率は上がっていた。
けれどいざ会場に着くと、いかにも場慣れしたふるまいを見せる他の応募者たちが放つ輝きにすっかり臆してしまう自分がいる。
気づけば会場は受験者でほぼ埋まり、書類に書きこむ筆記具の音が響いている。白いニットの少女はもう、環のほうを見ていなかった。
大丈夫。大丈夫。耳たぶに揺れるピアスにそっと触れると、気持ちがすっと静まってゆく。
大丈夫。黒蝶貝のピアスが守ってくれる。
■
「いや、金取んのかよ」
恵の声が店内に響き渡ることに、菜里子はひやひやした。彼女がこれから自分を傷つけようとしていることよりも。アイスコーヒーを運んでいたウエイトレスがちらりとこちらに視線を向け、すぐに戻した。
「えーっと、それはちょっとエリにびっくりされちゃう気がするなあ。なんて説明したらいいんだろ」
恵は顔を仰向け、いかにもおかしそうに笑う。まるで自分が不当に扱われているかのように、声に憂いをにじませながら。
エリという子のことなど、まったく知らない。顔も素性も居住地も趣味も性格も、どんな相手と結婚するのかも。だから、私が無償で彼女に絵を描いてあげる義理はない。それを言えばいいだけなのに、菜里子の唇はかすかに震えただけだった。
恵の隣では明日香が何も聞こえていないかのようにカフェラテのグラスをスプーンでかき回している。菜里子の代わりに口を開いたのは隣に座る順子だった。
「ね、ちょっとさ、落ち着こうよ恵。久しぶりのバタ会なんだし、いきなりそんな話されたら菜里子だってびっくりするよ」
「いや別に100号キャンバスに描けとか言ってるわけじゃないんだよ。菜里子だったらささっと描ける程度の、このくらいの大きさでいいんだけど」
恵は自分のコーヒーが載ったトレイを滑らせて向かいの菜里子のトレイにつなげてみせた。
サディスティック・バタフライ。それが昔四人が組んでいたユニット名だった。正確には、組まされていたユニット名。プロデューサー兼マネージャーだった矢嶋という男がいわゆるビジュアル系バンドのメンバーだったことが影響し、そんな名前になったらしかった。
蝶の里・嵐山町を勝手にアピールするアイドルグループ。当時はそんな謳い文句でやっていた。ご当地アイドルという言葉すらまだなかった。ユニットという言葉さえ、使い始めたのは活動期間の途中からだった。蝶をモチーフにしたユニットで、それぞれに担当の蝶と一致させた活動名が与えられていた。明日香がモンシロチョウのマシロ。恵がオオムラサキのムラサキ。順子がルリシジミのルリ。そして菜里子が黒アゲハのアゲハ。
個人情報保護法などまだなかった時代に、本名ではなく愛称のような名前で活動できたのは、今思い返してもありがたいことだった。それでも一部のファンからの粘着質な行為がトラブルに発展することもあった。それがメンバー同士の絆を強める一助になったと言えなくもない。
夏に結成されたサディスティック・バタフライは、夏に解散した。
ユニット結成が一九九八年の八月。菜里子が脱退を宣言したのが、二〇〇〇年の七月。翌八月にミレニアムライブと称して都内の商業施設のイベントスペースで行ったのが、アゲハの卒業ライブとなった。
残る三人で活動を続けるという話だったのに、新曲も出さずライブのひとつも行わず、サディバタは事実上消滅してしまった。あれから、今年で干支がひとめぐりした。
四人で集まるオフ会のことをバタ会と呼び始めたのはいつだったか、誰だったか。できれば年に一度、最低でも四年に一度、オリンピックの開催年には集まろう。自分を恨まないどころか、定期的に会おうと呼びかけてくれる仲間たちに、菜里子は感謝した。
それにしても、四年に一度だなんて大げさな約束だと当初は思った。いくらなんでも、もっと頻繁に集まれるはずでしょう。
時の流れは四人の元アイドルから少しずつ若さを削りとっていったが、往時の記憶と最低限の絆だけは残しておいてくれた。それでも全員がきっちり集合するバタ会の頻度はみるみる低くなり、気づけばオリンピックイヤー以外はほぼメールのやりとりのみで関係をつないできた。集うたびにメンバーの誰かしらの居住地や職業、そして家族構成に変更が発生していた。結婚したのは明日香、順子、恵の順だった。明日香は双子のママに、順子は妊活中、恵はすぐに離婚してまた再婚と忙しかった。それでもバタ会の話が持ち上がれば、みんな家庭に都合をつけ、万難を排して集まった。独身のままなのは菜里子だけだった。
飲み会とカラオケのコースだったのが、夕食だけになり、昼食だけになり、そして今回、とうとうお茶だけになった。何よりも変わったのは、そのことを特段寂しいと思わない自分かもしれないと菜里子は静かに思った。
前回の開催は東日本大震災の前だった。みんな無事でよかったね。震災のときどうしてた? 紙類がなくなったり計画停電があったりしたとき、どんなだった? それが今回の話題のテーマだった。ファミリーレストランのテーブル席で顔を突き合わせ、風量MAXで熱風を吐き出すドライヤーのように勢いよく語り尽くしたあとで、恵が菜里子に向かって身を乗りだしてきたのだ。「ねえねえ、菜里子に個人的なお願いがあるんだけど」と。
恵の親友のエリという人物が結婚することになり、披露宴のウェルカムボードを描いてくれる絵の上手い人を探している。それを聞いて菜里子のことを思いだした恵は、自分のアイドル仲間が無償で描いてくれるはずだと請け負ったのだという。
経緯を聞いて、菜里子は胸の中だけで深い溜息をついた。イラストレーター・NARIの自分と、サディスティック・バタフライのアゲハだった自分を結びつける情報を、勝手に広めないでほしい。しかも自分に話をつける前に約束してしまうだなんて、社会人としてのリテラシーが低いのではないだろうか。
こちらはビジネスとしてイラストを描いている。無償で作品を提供できるほどお人好しでもばかでも暇でもない。それで恵に言ったのだ。「材料費の他に、制作費がかかっちゃうけど」と。
「いやいや、だってさ、菜里子の宣伝にもなるわけじゃない? エリのダンナさん、広告代理店の人なんだよ? 名前を売る機会にもなるって思ったんだけど」
顔を正面に戻した恵は、大きな目をさらに大きく広げて赤子に諭すかのように宣う。昔からイニシアチブを取るのはいつだって恵だった。
出た、「宣伝になるからいいじゃない」。まだ開業する前のこと、そうやって無償でイラストを描かせようとする人間に何度もエンカウントした。需要と供給が一致するでしょ、WIN-WINでしょ? と言外に匂わせて。
開業を知らせたときお祝いどころか返信さえなかったのも、血を吐くような思いで準備した個展に来てくれなかったのも、恵だけだったな。そんな思いが自分の中にわだかまっていたことに気づかされながら、テーブルの下でぎゅっと手を握り、喉に力をこめた。
「……もし、一度でも」
恵よりも明日香と順子のほうがびくりとしたのがわかった。ごめんね。心の中で、先に謝る。ごめんね。私のせいで、私がこの場を穏便に収められないせいで、サディバタが本当の意味での解散になってしまったら。
「一度でも無償で引き受けてしまうと、私は『無償で描かせるイラストレーター』になっちゃうんだ。それは困るの」
恵は虚を衝かれたような顔をした。先程のウエイトレスが空のお盆を胸に抱えて通り過ぎてゆく。自分とは異なる人生を歩む彼女を、束の間ひどくうらやましく思った。
「ウェルカムボードの相場は、プロなら材料費とは別に三万円とかそれ以上だと思う。アマチュア時代でも最低一万円はいただいてた。それを無料でやるっていうのは、この仕事を価値のないものとみなすことになってしまうの。恵の顔を立てたい気持ちはあるんだけど、ごめんね」
最後の「ごめんね」は全員に向けて言ったつもりだった。
たっぷりと沈黙があった。明日香が落ち着きなくグラスを揺らし始める。彼女は昔から争いごとが嫌いだった。
「別にいいけどさ。あたし知ってるんだよね」
恵が唇の端を引きつらせて言った。
「菜里子さ、体調のせいなんかじゃなくて、やめたくてやめたんでしょ。アイドルを」
今度こそ何も言い返せなかった。その通りだったから。
□
どうしても納得がいかなかった。
配布された『ドン・キホーテ』の一節を、環は丹田に力をこめて朗々と読み上げた。ひそかなトラップなのであろう「大音声」もちゃんと間違えずに「だいおんじょう」と読んだ。カメラテストでは研究した角度に小さく首を傾げ、顎を引いて極上の笑みを作った。面接では両脚を斜めに流して座り、如才なく受け答えをした。アイドルへの夢を語り、長年の努力を語り、両親への愛と感謝を語った。我ながら完璧だと思った。それでも、二次に進む受験者の中に環の名前はなかったのだ。
信じられない。信じられない。歌唱審査もしてもらえないだなんて聞いてない。たしかにデモテープは事前送付してるけど、オーディション概要には課題曲も提示されていたはずだ。だから、あんなに練習してきたのに。
「お疲れ様でした。残念ながら一次までとなった方はここで終了となります。お忘れ物のないようにお荷物をまとめて後方のドアから出てお帰りいただきます。二次へ進まれる方はお昼を挟んでからになりますので、ご着席になったままこの後の説明をお聞きください」
黒髪の後れ毛をピンでぴっちりと留めたパンツスーツの女性が言い渡した。どこか生徒に説き聞かせる教師のようなそのトーンには、反発を許さない雰囲気があった。
立ち上がることは不合格を意味した。屈辱だった。パイプ椅子がぎしぎしいう音がそこここに響く。目に見えない重苦しい落胆と一部の安堵の吐息が混ざり合い、無機質な部屋に満ちてゆく。
ドアのほうへ向かいながら、恨めしい気持ちで部屋を振り返る。白いニットの少女は頰杖をつき、窓の外を見つめていた。水色コートと目が合った。エナメルのバッグを抱えて姿勢よく座った彼女は、ぶつかった視線をゆっくりと前方に戻した。その顔に表情らしいものがいっさい浮かんでいなかったことが、さらに環を傷つけた。
暖かな控え室から廊下に出ると、寒暖差にくしゃみが出た。
午前の部で落とされた受験者たちは、意志のない人形のように一様におとなしくエレベーターに向かって行進してゆく。皆、落ちるのに慣れていて、既に別のオーディションのことで頭をいっぱいにしているのかもしれない。けれど環は違った。何度落とされても、痛みに慣れるということがない。いつでも新鮮に傷つけられる。丹精した花壇の上を踏み歩かれたような──いや、視線さえ向けてもらえなかった気分になる。
自分の爪先から視線を上げたとき、エレベーターではなく階段へ向かってゆくスーツの後ろ姿が目に入り、環ははっとした。審査員を務めた男たちのうちのふたりに違いなかった。スターユニオンの――役職名は聞き取れなかったけれど偉い人たち。肩を揺らして談笑しながら歩み去ってゆく。環はとっさにその背中を追った。
だんだんだん、革靴の足音を響かせて彼らは幅の狭い階段を下ってゆく。話し声は階段ホールに反響し、断片すらもうまく聞き取れない。
やや年配で体格がいいほうの男は、煙草と思われる小箱を手の中でもてあそんでいる。ファッションスーツを着こんだもうひとりは若いのに頭髪の生え際がやや後退していて、そこから目を逸らさせるためかのように色つき眼鏡をかけていた。
数十名の若い女の子たちをジャッジし、その運命を決定した男たちは、まるで何も見なかったかのように世間話をしながら歩いている。焼けつくような胸を押さえて追いかける自分との温度差を思い、環は唇を嚙んだ。
正面玄関から外へ出た彼らはビルの壁沿いに進んでゆく。隣のビルの敷地との境を示すようにささやかな生垣があり、その内側の一角が喫煙所になっていた。彼らは吸いこまれるようにそちらへ向かってゆく。既にひとりいた先客に軽く会釈をして、男たちは煙草をくわえ、ライターで火をつけた。紫煙が立ちのぼる。
「――あのっ」
言葉をまとめてすらいないのに、環は声をかけた。ふたりが同時に振り返る。色つき眼鏡のほうが、あ、と口を開け、もうひとりはわずかに眉を上げて「お疲れさま」と言った。最初に対面したときとは別の種類の緊張が爪先まで走る。
「あの、えっと、すみません、あの」
すっかり息が切れていることに気づき、呼吸を整えながら環は言葉を探した。はからずも敗者の哀れさが演出されたような気がして落ち着かない。風車に突撃するドン・キホーテさながら勇気をかき集める。
「わたしの、どこが、及ばなかったでしょうか。今後のために、教えていただけませんか」
ふたりは顔を見合わせた。状況を察したのだろう、先客の男が遠慮がちに顔を逸らすのが視界に映った。
「うーん」
この非常識なふるまいをまずはたしなめられるのだろう。そう覚悟したものの、男たちの顔に浮かんだのは非難でも面倒くささでもなく、かすかな憐みの表情だった。年配の男が深々と煙を吐き出しながら言った。
「だってきみ、太ってるじゃん」
■
「それで、反射的に私も言い返しちゃったんですよね」
「なんて?」
隣に座った男からは、かすかにコーヒーの香りがした。カフェの店主なのだから当然かもしれなかった。それでも、この瀟洒なビルの地下にあるバーにまでその香りを持ちこむほどというのは小さな驚きだった。大宮駅前にこんな落ち着くバーが存在したことも。
「『恵が矢嶋さんと関係してたことも知ってるよ』って」
ぶはっ。手にしたジャックダニエルのグラスを口から離して男は笑う。ほしかった反応が得られて、菜里子はわずかに胸がすくのを感じた。自分のモヒートを口に含む。ミントがすっと鼻に抜けた。
「会心の一撃だね。それはまじなの?」
「まじですよ」
ああ。なんでこの人にこんな話を聞かせているのだろう。
船橋巧は、個人経営のカフェのオーナーだ。今年の春、菜里子は初めての個展のために彼のカフェ「湖」を会場として使わせてもらった。
「湖」はひとり暮らしの自宅から駅方面へ自転車で向かう途中にある。受注したイラストを無事に納品できた日、アイリッシュ・コーヒーを飲むために利用する習慣がいつからかできていた。二階が住居スペースになった小さな建物は、不動産経営をしている親戚から安い家賃で丸ごと借りているのだと、ある日なんとなくカウンター席に座ってみた菜里子に船橋は語った。じゃあ、この上であなたは寝起きしているのね。そう思って天井を見上げたことは、なぜか菜里子の記憶に長く残った。
個展を開いたのは彼の発案によるものだった。初めて来店した日に壁一面に展示されていたモノクロ写真の数々が印象的でイメージを持ちやすかったこともあり、菜里子はエネルギッシュに準備をした。見込んだほどには集客はなく、売上もさんざんだったけれど、それをきっかけに縁のできた顧客とはぽつぽつと取引が発生している。
後味の悪いバタ会のあと、菜里子の足はまっすぐ「湖」に向かった。カウンター席に座ろうとすると、船橋に思いがけず誘われた。今夜はもう閉めるので、よかったら外で吞みませんか? と。
それにしたって、私はどうしてこの人に対してはノーガードなのだろう。アイドル時代のことを自ら他人に打ち明けるだけでもびっくりなのに。普段はほとんど吞まない酒のせいだろうか。何にせよ、菜里子は今夜の自分のテンションを自分でおもしろがり始めていた。彼が往時の自分たちを知らなかったことにも安心できた。
サディスティック・バタフライはセンターという概念を持たないユニットだった。曲のパートもほぼ等分になるよう割り振られていた。それでも撮影やライブのMCのときの立ち位置は決まっていた。左からルリ、マシロ、ムラサキ、アゲハ。挟まれたふたりが挟んだふたりよりいくぶん格上として扱われていることは明白だった。そのことに不満を覚えたことはない。オーディションで品定めされ続けるぬるい地獄のような日々から掬いあげてくれた矢嶋には感謝しかなかった。
そもそもオオムラサキは国蝶であり、嵐山町の蝶の里公園の隣にはオオムラサキの森と呼ばれるエリアがある。サディバタの中心的存在がムラサキであることも、それを彫りの深い顔立ちの美人である恵が務めることにも、誰も異存はなかった。
恵は思ったことをすぐ口に出すタイプだった。いつもエネルギッシュで、ユニットのテンションを高い位置にキープしようと腐心していた。それは時にはユニットの士気を上げ、時には気まずさや不穏な空気を生んだ。ほわほわとしたお嬢様タイプのマシロこと明日香に、温和で調整型の性格であるルリこと順子。バランスのいいユニットだと菜里子は思っていた。自分という無個性な要素を除いては。
「え、だってさあ、活動してたのって高校生のときなんでしょ」
「そうですよ。あ、恵と順子は一歳上だったので、彼女たちにとっては大学一年のとき解散という形ですが」
「犯罪じゃないの。矢嶋さんって当時いくつだったの?」
「正確には私たちも知らされてなくて。でも……経歴からすると三十代半ばかなって」
「じゃあ最低でもひと回りは違うわけだよね。うわあ、ロリコン」
嫌悪感を軽やかに言葉に乗せるこの男が自分よりふたつ下だというのは、さっき会話の流れで初めて知った。先に敬語を解除されても不思議と不快ではなかった。
元ビジュアル系バンドのメンバーだったという矢嶋の、もっさりとした髪の毛を思いだす。金髪というより藁のような色で、前髪はほとんど目にかぶっていた。ぼそぼそと低い声で話し、猫背で、覇気もない男だった。ときどき右手の人差し指だけを激しくぱたぱた上下させる癖があった。まるでエネルギーを節約するかのように、表情はほとんど動かさなかった。それでも、まだSNSも普及していなかった時代に菜里子たちをそれなりの知名度にまで押し上げた。
彼のその尽力がメンバーとの恋愛を目的としたものではないことを、ともに活動した二年間で菜里子は理解しているつもりだった。恵とのことはだから、きっと不可抗力だった――もしかしたら、自分がそう思いこみたいだけなのかもしれないけれど。
「ロッキー山脈でね、迷子になったことがあるんだ」
組み合わせた両手の上に顎を乗せて、船橋は脈絡もなく語り始めた。氷河に侵食された険しい山々のイメージが、一瞬菜里子をどこにいるのかわからなくさせた。
「え……遭難、ですか?」
「いや、パーティーとはぐれただけだからあくまで迷子」
夢でも見ているような口調で船橋は言葉を紡ぐ。
大学の留学生だったショーンというアメリカ人と仲良くなり、卒業後もともに旅行をする仲が続いた。数年前、初めて彼の帰省に付き合い、彼の地元の仲間たちとともにロッキー山脈登山に挑戦した。総勢二十名ほどのパーティーだったという。
「足腰には自信あったんだけどさ、俺。大学のとき山岳部だったし。でも気づいたら、ショーンたちの背中がずいぶん遠くなってて。焦って足を動かすんだけど、逆に自分がどこにいるのかわからなくなっちゃってさ。全身嫌な汗まみれになって、体が冷えて悪寒がして」
どこか酷薄そうな唇がぴらぴらとよく動くのを、菜里子はじっと見つめた。
「そのうちに日が暮れて、真っ暗な空から雹が降ってきたんだ。こんな、ゴルフボールくらいある雹」
船橋は指で輪っかを作ってみせた。
「……痛そうですね」
「痛いのなんの」
彼は必死で足を進めたが、とうとう完全にひとりになった。がむしゃらに上を目指していると、ようやく少し拓けた場所でテントを張っている仲間たちを見つけ、胸を撫で下ろした。ただ、ショーンが見つからない。彼はショーンの担いでいるテントで一緒に寝ることになっていた。
「仕方ないから、寝させてもらえるならどのテントでもいいやと思ってノックするじゃない。けどね、"May I come in?"って訊くと"No"って返ってくるんだ。耳を疑うよね。数時間前まで仲良く冗談とか言いながら一緒にわいわい登っていたんだよ。他のテントでもみんな"No"。そうこうしている間にも、雹はどんどん降ってくるんだ」
菜里子は胸を突かれた。自分がひどく小さな、取るに足らない存在に思えた。それこそが、彼が今この話題をセレクトした狙いなのだろうけれど。
「なんのことはない、みんなアジア人差別を隠しもしないわけさ。夜って人の本性が出るよね。昼間はどんなに友好的でもさ」
「――あなたが無事で、よかったです」
自分の声が湿り気を帯びてきたことに菜里子は気づく。声は空気を伝って男の手にしたグラスの中のジャックダニエルに溶けてゆく。男がその琥珀色の酒を喉に流しこんだとき、芽生え始めた好意が彼に受け取られたような気がして、耳たぶが熱くなるのを感じた。
菜里子がその男と恋人同士になったのは、翌年のことだった。
【4月14日(金)17:00公開の第三章「屈託」へ続く】
第一章「邂逅」はこちら。
■砂村かいり(すなむら・かいり)
2020年『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』で第5回カクヨムWeb小説コンテスト恋愛部門〈特別賞〉を二作同時受賞しデビュー。