『遭難信号』が英国推理作家協会賞新人賞の最終候補となったキャサリン・ライアン・ハワードの『56日間』(髙山祥子訳 新潮文庫 九五〇円+税)は、新型コロナウィルスが世の中に猛威(もうい)を振るい始めた頃の物語だ。舞台はダブリン。ロックダウンが宣言される少し前の三月、二十五歳のキアラは、彼女より少し年上らしき男性に声を掛けられた。スーパーマーケットのレジで順番を譲り合った後、キアラのバッグに描かれたスペースシャトルに男性が目をとめ、会話が始まる。お互いにこの町にとっては新参者であることを知り、二人は親密度を増し、ロックダウンによる行動制限を契機に、キアラはその男性、オリヴァーの部屋で暮らし始める……。

 という恋模様を本書は描いているのだが、それだけではない。二人の出会いから今日までの五十六日間を語る過去パートと並行して、今日の出来事が、アイルランド警察のリー警部が進行役となる現在パートとして描かれているのだ。彼女が、ある集合住宅で腐乱死体が発見された事件で初動捜査を進める様が、キアラとオリヴァーの物語に編み込まれるかたちで、丹念に語られる。そしてそれらがミステリを形づくっているのだ……と書くと、ベテランの読者のなかには、過去パートと現在パートがどう合流するかで驚かせるミステリだと思われる方もいらっしゃるだろう。たしかにその要素もあるのだが、想定以上の刺激を作者は用意している。過去パートの記述方法にひねりがあり(このビックリはかなり早い段階で訪れる)、そのひねりの後にはサスペンスの味わいがさらに複雑に、贅沢(ぜいたく)になる。そのうえで〝そうくるか!〞という驚きも仕込まれているのだ。現在パートを含め、〝真相の情報を開示する手順〞が、実に周到に設計されているのである。それに加えて、真相に至る物語そのものもミステリとして作り込まれていて意外性に富み、なおかつ人間ドラマとして胸に刺さる。パンデミックという背景がしっかりと活かされていることも付記しておこう。二重三重に、かつ隙なく計算された良質のミステリとして推(お)す。

 良質といえば、もちろんこの一冊もそうだ。アンソニー・ホロヴィッツの『殺しへのライン』(山田蘭訳 創元推理文庫 一一〇〇円+税)である。かつてはロンドン警視庁刑事部の刑事だった探偵ダニエル・ホーソーンと、作家のアンソニー・ホロヴィッツのコンビの活躍を描くシリーズの第三弾である。第一弾『メインテーマは殺人』と第二弾『その裁きは死』が、いずれも各種ミステリランキングで四冠に輝いたという怪物シリーズなのだが、作中人物として登場する作家ホロヴィッツと著者であるホロヴィッツが、単に同名同業であるという以上に経歴や著作において重なっている点がユニークなシリーズでもある。本書においても、そんなシリーズの第三弾に相応(ふさわ)しい設定が行われている。作中人物であるホロヴィッツが、近々刊行される『メインテーマは殺人』のプロモーションのために、チャンネル諸島のオルダニー島で開催される文芸フェスに参加し、そこで事件に遭遇するのだ。同書で探偵役を務めるホーソーンも一緒だ。著者ホロヴィッツは、作中の二人を通じて文芸フェスの参加者や関係者を読者に一通り紹介し、彼等の曲者(くせもの)ぶりや不快さや胡散臭(うさんくさ)さを示したうえで、事件を起こす。フェス関係者の一人が、両足と左手を拘束され、喉にナイフを突き立てられて殺されたのだ……。

 前二作、あるいは、別シリーズである『カササギ殺人事件』『ヨルガオ殺人事件』などを通じて、著者の犯人当てミステリがエレガントであり、かつ精緻(せいち)な凄味(すごみ)を備えていることは体感していたのだが、この第三弾でも、それを改めて思い知らされた。事件発生まで、本書の約三分の一を費(ついや)して描かれた人間模様に織(お)り込まれた情報や、事件発生後に得られた情報、あるいは謎めいた死体そのものが示す情報などを、こんなかたちで結び合わせて意外な犯人に導くとは。真相にも驚くし、人々の言動を通じて見せたいものと隠したいものを絶妙に制御する著者の手腕にも驚く。島の文芸フェスという限定的な空間で生じた、ある種刹那的(せつなてき)な人間関係を背景とするが故(ゆえ)にいっそう、著者の技の冴えが感じられるのだ。相変わらず異次元のクオリティである。ちなみに本書では、ホーソーンが警察を免職されるに至った出来事も言及されている。シリーズの読者は、その観点でも要注目。


■村上貴史(むらかみ・たかし)
書評家。1964年東京都生まれ。慶應義塾大学卒。文庫解説ほか、雑誌インタビューや書評などを担当。〈ミステリマガジン〉に作家インタヴュー「迷宮解体新書」を連載中。著書に『ミステリアス・ジャム・セッション 人気作家30人インタヴュー』、共著に『ミステリ・ベスト201』『日本ミステリー辞典』他。編著に『名探偵ベスト101』『刑事という生き方 警察小説アンソロジー』『葛藤する刑事たち 警察小説アンソロジー』がある。

紙魚の手帖Vol.08
ほか
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2022-12-12