東京創元社4月の新刊、砂村かいり著『黒蝶貝のピアス』から約170ページを3日連続で一挙特別公開!

【あらすじ】
前職で人間関係につまずき、25歳を目前に再び就職活動をしていた環は、小さなデザイン会社の求人に惹かれるものがあり応募する。面接当日、そこにいた社長は、子どもの頃に見た地元のアイドルユニットで輝いていた、あの人だった――。
アイドルをやめ会社を起こした菜里子と、アイドル時代の彼女に憧れて芸能界を夢見ていた環。ふたりは不器用に、けれど真摯に向き合いながら、互いの過去やそれぞれを支えてくれる人々との関係性も見つめ直してゆく。年齢、立場、生まれ育った環境――全てを越えた先の物語。

本日は第一章「邂逅」を丸ごと公開いたします。
ぜひご一読ください。



  邂 逅(かいこう)


     □

 汗のしずくが顎の下で数秒留まり、ぽたりと落ちた。
 暑さの質には種類がある。顎の先に流れ落ちて溜まった汗を折り畳んだハンカチで拭きとりながら、環は思う。
 煮えるような暑さ。溶けるような暑さ。焼け焦げるような暑さ。今日はじっくりと蒸されるような暑さだ。せいろに入れられた中華まんになった気分を味わいながら、環は首すじの汗を拭う。拭きとるそばから新しい汗の粒が吹きだしてくる。ハンカチにはもう、乾いた部分の面積はほとんど残されていない。
 斜めに流してヘアスプレーで固めた前髪は既に崩れ、ハンカチの届かない脇や胸の谷間にも次々に汗の粒が生まれては流れてゆく。背骨に沿って滝のようにだくだくと流れ落ち、ワイシャツの背中を湿らせる。
 まだ梅雨時なのに、埼玉はなんて容赦なく暑いのだろう。少し前まで住んでいた東京とは質そのものが違う暑さだ。
 クローゼットの奥から取り出して数年ぶりに袖を通そうとしたリクルートスーツには黴が生えていて、環は就職活動用にスーツを新調した。無難にチャコールグレーを選んだけれど、似合っているのかどうか自分ではわからない。「環はなんでも似合う」という母の言葉は本心ではあるのかもしれないが、客観性に欠け参考にならない。母は昔からいつだって手放しで環を褒めるのだ。
 平日昼間のJR埼京線には就職活動中と思われる大学生がちらほら乗っていて、彼らこそ「本物の就活生」だと環には思えた。二十五歳になろうとしている自分が大学生に擬態しているかのような居心地の悪さが、胸の中をもぞもぞと這いまわった。
 しかし、そんな思いをするのも今日で終わる。終わらせたい。
 商業施設を見渡せる大宮駅のペデストリアンデッキで、環は深呼吸した。逆立ちしたおたまじゃくしのようなモニュメントの脇にある石のベンチに、鳥の糞を気にしながら腰かける。黒い合皮の鞄から天然水のペットボトルを取り出すと、その表面にはびっしりと水滴が浮かんでいた。口紅が落ちないよう飲み口に唇をごく軽く触れさせて、まだ冷たさを保っている水を呷った。喉を鳴らして飲みたい勢いだけれど、面接中に尿意が兆したら面倒なのでひと口に留めた。
 目的地をいま一度確認すべく、夏の陽射しにうなじと耳たぶを焼かれながらスマートフォンを取り出す。亨輔から「面接がんばれ!」というLINEが届いている。親指を突きたてたウサギのキャラクターのスタンプを選んで送信する。自信もないくせにとっさにポジティブなスタンプを選んでしまったことへの言いわけのように「当たって砕けてきまーす」と付け足し、既読の文字が現れるのを待たずに側面のモニター電源をぷちりとOFFにする。
 JR大宮駅西口から徒歩九分。百貨店の裏側に回りこんだあたりに立ち並ぶ数軒の雑居ビルのひとつが、今日の目的地だ。環の自宅の最寄駅である武蔵浦和からは五駅しか離れておらず、快速なら七~八分、各駅停車でも十二分程度で着いてしまう。
 皮算用をするのは愚かかもしれないけれど――目的を持って歩く人たちを見つめながら環は思考をめぐらせる。大宮で働けることになったら、自宅から下り列車で通えるので、通勤ラッシュとは無縁の生活が待っている。職場のスタッフは女性だけというから、セクハラの類はまず起こりえない。あんな思いは、もうしなくていい。あくまで受かったらの話だけれど。
 それに、大宮駅前のエリアは自分にとってもことさら思い入れの強い場所なのだ。立ち並ぶ商業施設を、環はペデストリアンデッキから見下ろす。レコード販売店の入ったビルの一階入口前に簡易ステージを設置し、音響機材を運びこんでいる黒い作業着のスタッフが数人見える。そのスペースは子どもの頃の記憶よりひとまわり小さく見えた。かつてここで自分の感性を揺さぶったあの時間を思うと、感傷が爪先から這い上ってくる。
 あの口コミが、もし本当ならば。あまりメジャーでない口コミサイトに書かれていた情報を、環は胸の中で反芻する。
『サディスティック・バタフライのアゲハは現在、イラストレーターのNARIとして活動中。大宮でイラストの会社を起こしている』
 もしそれが彼女ならば、今からわたしは再会を果たすことになる――
「すみませえん」
 思考を分断したのは見知らぬ男の声だった。ひと回りほど年上らしいその男が首から下げている一眼レフカメラに、環は暑さも忘れてしゃきんと背筋を伸ばした。
 しかし、彼の視線は環を素通りして歩行中の別の女性に向けられている。デニム素材のホットパンツから伸びるすらりとした両脚がまぶしい、自分と同じ年頃の女性。
「すみませえん、美少女クロックっていうんですけどお」
 環は小さく息を吞んだ。
 声をかけられた女性は初めて男を一瞥する。大げさな身振りで何やら説明をする男を見つめたあと、ペデストリアンデッキをともに歩いてゆくのを環は黙って見ていた。数分後、「22:53」と書かれたパネルを持ってまんざらでもなさそうにポージングする女性は男のカメラのフラッシュを浴びていた。
 口の中に苦いものが広がってゆくのを感じながら、環はのろのろと立ち上がる。
 そう、面接。人生を変えるかもしれない面接を受けるために今、ここにいる。わかっているのに、一度ブレた思考はぐるぐると回りだす。
 美少女クロックなら知っている。主に男性ユーザーをターゲットにしたスマートフォン用のアプリだ。一分ごとに待ち受け画面が切り替わり、きれいな女性の写真が時刻を知らせてくれる。
 プロの芸能人やモデルではなく、一般人を使っているのがウケていると聞いているけれど、こんなふうに街角で被写体をキャッチしている現場は初めて見た。
 あの男は、環を値踏みすらしなかった。

     ■

「なんか今日、アンニュイな顔してる」
 船橋に言われて、菜里子は意味なく顔の輪郭を撫でた。
「そうかな」
「うん。なんか物憂げでそそられる。面接にイケメンでも来た?」
 軽口を瞬きで受け流して、恋人のマグカップにコーヒーを注ぎ足す。長年の付き合いなので、おかわりをほしがっているかどうかは確認せずとも空気でわかる。
 この男が先に出勤したら、手早く食器を片づけて、ぱぱっと化粧して。頭の中でこのあとの順序を追いながら、自分も二杯目のコーヒーを口にする。淹れたてよりもやや酸味を増した液体が喉を通過したとき、これから一緒に働くことになる若い女性の、面接にやってきたときの様子が思いだされた。
 町川環といった。経営学部出身、前職はメーカーの事務。見るからに健やかな長い手足が印象的だった。両親の愛情をたっぷり受けて育ったのであろう、栄養の行き渡った肌や髪がきらめいていた。猛暑の中やってきて、汗ばんだ前髪をしきりに撫でつけながら、なぜ「アトリエNARI」で働きたいか熱弁していた。
 ――蝶をモチーフにした御社のロゴに、昔大好きだったアイドルユニットを思いだしまして。そこから既存の作品を拝見したらもう、全部全部好きで。
 あれを聞いたとき一瞬ぎくりとしたことは、気づかれてはいないはずだ。いや、気づかれたところで別段どうということもない。話せばいいだけだ、あの日々のことを。
「ううん、女の子。なんか熱量がすごくてね」
「ふーん。いくつの子?」
「二十四。来月で二十五だって」
「若いねえ。滴るような若さだね」
「本人はそうは思ってないみたい。新卒の人たちに負けないくらい頑張りますから! ってアピールしてた」
「そういうところが若いんだよねえ」
 ぱりり。船橋がバゲットに歯を立てる音が響く。パンの表面にこってりと塗りつけられたマーガリンは、油彩画のマチエールを思わせた。バターナイフとペインティングナイフを入れ替えることは、菜里子がたびたび耽る想像のひとつだ。
 お互い働いているのに、なんならそれぞれ経営者の立場にあるのに、平日の夜も当然のように泊まってゆく男。癖のある前髪がひとすじ垂れ、柔らかな陰影を作りだしている。
 平日の昼は時間の節約のためにデスクでパンを齧って済ませることが多いから、朝はできるだけご飯にしたいのにな。リズムが狂っちゃうんだよな。心の中だけで文句を言う。
 子どものように乳製品を好むこの男が頻繁に出入りするせいで、菜里子の冷蔵庫にはバターやマーガリン、チーズやヨーグルトが常備されるようになった。そのせいか前よりも少し体重が増え、そのぶん肌の調子はよくなったように感じている。
「――その子、いつから来るの?」
「今日から」
 正直、若い人たちのことはよくわからない。そもそも他人と深く関わることが菜里子はあまり得意ではない。それでも、よくわからない人ほど新たな色彩をもたらしてくれるような予感がする。会社にも、自分にも。
 発散するエネルギーはすごいのに、どこか自信のなさそうだった町川環をもう一度瞼の裏に浮かべる。あの、他人の衣装を着て演じている役者のような彼女の素顔を見てみたいと菜里子は思ったのだ。
「えーところで、また近々うちで個展やりませんか?」
 カフェのオーナーのくせにプライベートではコーヒーを淹れてくれない船橋が、急にビジネス口調になった。近隣に競合店ができたせいか客足が落ちたため、新規顧客の呼び水にしたいという。
「うーん、お金にならないからなあ個展は。やっぱりアナログってコスパ悪いし」
 あまり得意ではないアクリル画を十数点展示し、時間も経費もかかった挙句に大赤字で終わった前回の個展を思いだして、菜里子の胸に苦いものが広がる。
「なんでもコスパで考えちゃうのって現代人の悪い癖だよ。そんなんだから文化が衰退するんだよ」
「そうかなあ」
 ふたつ年下のこの男は、たびたび会話が説教口調になる。
 面倒くさくもあり、愛おしくもあり。のらくらと言葉を交わしているこの関係が嫌いじゃないと、菜里子は自分に確認するように思う。
 考えとく、と小さく言って菜里子はテーブルの向かい側に腕を伸ばし、恋人の柔らかな癖毛にそっと触れた。
 レースカーテンを閉めたままの窓ガラスに、夏の光がめいっぱい押し寄せている。

 金属の蝶のモチーフを指でなぞると、硬質な感触が伝わってくる。
 出社して扉を開ける前、〝アトリエNARI〟のロゴが刻まれたプレートをそっとひと撫でするのがささやかな習慣だった。今日もいい仕事ができますように。いいアイディアが湧きますように。抱えている案件が進捗しますように。そんな小さな願いを指先にこめて。
 宅配ボックスから取り出した荷物を抱えて室内に一歩入ると、ブラインド越しに注ぎこんだ朝の光が机や床の上に縞模様を作っている。窓の大きな物件を借りてよかった。太陽から清潔な生命力を受け取った気がして、ごく自然に力が漲ってくる。創作意欲と労働意欲の違いは、年々曖昧になってゆくばかりだ。
 戸塚菜里子がフリーのイラストレーター・NARIとして出発してから、去年の春できっかり十年が経った。
 開業して個人事業主となってからしばらくの間は、ひたすら手探りの日々が続いた。何のコネクションもないフリーランスには、副業をいくつも抱えながら自分ひとりの生活を回すのがやっとだった。あの頃の息苦しさや心細さを、菜里子はいつだって昨日のことのように思いだすことができる。
 がむしゃらに手を動かしているうちに転機は訪れた。受注が増え始め、専業になれた喜びを嚙みしめるゆとりもないまま、仕事のボリュームや雑務の煩雑さに吞みこまれ溺れそうになった。付随するデザインの仕事も増えて、とうとう人を雇う決心をしたとき、「それだったら、いっそ法人化したほうが早いかもよ? 節税にもなるし」と有益なアドバイスをくれたのは船橋だった。自分の起業の際に世話になったというベンチャーサポート企業を紹介してくれ、その担当者と一緒に菜里子の細々とした不安をひとつずつ取り除いてくれた。
 開業から十年となる去年四月に、満を持して会社を立ち上げた。フリーランスのイラストレーター・NARIから、アトリエNARIの代表取締役になった。あのときの足元がふわふわする感覚は忘れられないな。朝の光の中でパソコンを起動させ、デスク周りの掃除をしながら菜里子はひとり感傷に浸る。
「あーっ、今日も菜里子さんに先越されちゃったあ」
 背後で扉が開き、亜衣の明るい声が壁に小さく反響する。グレーのシャツに黒のタイトスカート。モノクロのコーディネートに赤いフレームの眼鏡がよく映えている。
 会社設立にあたり、思いがけず亜衣という優秀なスタッフを獲得できたことは、菜里子の人生における大きな幸運のひとつだった。
 転職サイトを利用し、「デザインの基礎知識がある方」と「経理及び庶務総務をお願いできる方」を別個の案件として募集をかけたのだが、面接に現れたのは印刷会社にデザイナーとして在籍していたという亜衣だった。webデザインからDTPデザインまで幅広いスキルと実務経験を持ち、その前の職場では経理部として決算も経験しているという。窺い知れる人間性も申し分なかった。役職を付けようとしたら固辞されたため、予定していた額を大幅に超える給与を支給することで自分を納得させることにした。
 彼女は文字通り菜里子の右腕となった。おかげで受注できる仕事の幅がぐんと広がり、苦手な数字と向き合う時間も減って快適になったものの、制作に集中するにはもうひとり、細かい雑務をこなしてくれる人間が必要だと最近気がついたのだった。なので、今日から新しいスタッフがやってくる。
「楽しみですね、新しい人」
 菜里子の手から掃除道具を奪って他のデスクを拭きながら、亜衣が朗らかに言う。初めての後輩ができることが嬉しいのだろう。その気持ちは自分にも覚えがある。
 そうだね、楽しみだね。答えようとしたとき、遠慮がちなノックの音が響いた。
「はあい」
 亜衣の声と重なった。扉がキィ、と開かれた。
「おは、おはようございますっ」
 面接のときと同じスーツをぴしりと着こんだ新人は、扉を後ろ手に閉めて深すぎるほどのお辞儀をした。
「今日からお世話になりますあの、町川と申します」
 カジュアルな服装でいいって言ったのに。微笑みながら、新しい風が吹きこんでくるのを菜里子は感じていた。

     □

 本当に小さな会社だった。
 雑居ビルの四階に入っているアトリエNARIは、エレベーターが開くと現れる白い扉の奥にある。事務所のメインスペース、環が面接を受けた接客スペース、作業場と備品置き場を兼ねたバックヤードとふたりが呼ぶスペース、あとはささやかな給湯コーナーとトイレという間取り。入口からは見えないバックヤードはさすがに広めにスペースが取られており、社長はアナログで制作するときここにこもるのだという。キャンバスを載せたイーゼルがいくつか置かれていて、遠い昔美術室で嗅いだオイルのにおいがした。
 転職前に環が勤めていた電子機器メーカーは、ワンフロアに百以上もの座席があり、設計者たちや管理職のパソコンがずらりと並ぶ圧倒的な光景だった。それに比べたらここは一般家庭のような規模だと環は思う。
「事務所」より「オフィス」と呼ぶのがふさわしい洗練されたその空間は大きな窓に囲まれており、一歩入ると、大宮の街に浮かんでいるような浮遊感を覚えた。いちばん奥に社長でありイラストレーター・NARIである戸塚菜里子の大きなデスクがある。その上にはモニターがふたつ設置され、袖机の上には――おそらくは中にも――資料らしき大量の本や書類が重ね置かれている。
 デザイン会社だけあって、管理者のセンスが妥協なく行き渡り、手狭ながらもクリエイターらしいこだわりが随所に感じられた。ぱっきりとしたカラーの書棚に、数字が直接壁に打ちこまれた壁時計。デスクの上のペン立てに至るまでが厳しく選び抜かれたものとひと目でわかった。
 毛利亜衣と環のデスクは、サイドを社長側にくっつける形で向かい合わせに配置されていた。今までは自分がいなかったわけだから、急遽レイアウト変更をしたのかもしれないと環は想像する。環のデスクも椅子もぴかぴかだったが、パソコンは最新型ではないようだった。中古品かもしれないと当たりをつける。
「とりあえず電話業務から引き継いでいくね」
 こめかみに指をあて鬼のような表情でモニターをにらんでいる菜里子をよそに、亜衣が環の席に自分の椅子を運んできて指導してくれる。彼女のつけているフローラル系の香水が鼻をくすぐる。それだけで、ああ大人っぽい、と環は思った。自分の香りというものを、環はまだ見つけていなかった。
 背筋をぴんと伸ばした環に、楽にしてね、と亜衣は薄く微笑んで言う。
「かかってきたら、まずはここ押して『お電話ありがとうございます。アトリエNARIでございます』」
「はいっ」
「社長いますか~とか、戸塚さんいますか~とか、いきなり名指ししてくる人多いんだけど、菜里子さんが席にいるからってそのまま取り次がないでね。まずは必ず先方のお名前と会社名を聞き取って、いるともいないとも明言せずに『確認いたします、少々お待ちください』って言って保留にして」
「はいっ」
 メモするまでもないだろうかと考えつつ、環はポーズとして持参した手帳の余白のメモ欄に書きつけた。
「常連さんっていうか、よくかかってくるのはこれ」
 デスクマットに挟んである取引先リストを亜衣は指し示す。その指先はムラなく深紅に塗られており、偏光パールが繊細な光を放った。環は一瞬見惚れてしまう。こういうのがOKな会社って、いいな。
「特にマーカーしてあるところからはほんとにしょっちゅうかかってくるから」
 言っているそばから着信があり、思わずびくりと肩が動く。亜衣がメモパッドとペンを引き寄せながら受話器をとり、「外線」ボタンを押す。菜里子はぴくりとも表情を動かさずにマウスを操作している。
「お電話ありがとうございます。アトリエNARIでご……はい、お世話になっております。ええ、ええ」
 受け答えしながら、亜衣はペンを持った右手の人差し指を伸ばして先程のリストの中の一行をとんとん叩いてみせた。アルファベット三文字のそれは会社名のようだ。ピンクの蛍光マーカーが引いてある。受話器からはかすかに男性の声が漏れ聞こえる。
 亜衣が保留ボタンを押した。
「菜里子さん、TIAの橋口さんより打ち合わせの日程調整のお電話です」
「もう、メールしてくれたら済むのにね」
 いくらか毒を含んだ口調に環は驚き、その驚きを悟られまいと思った。亜衣がすぐさま上司に同調する。
「橋口さん電話好きですよね」
「せっかちなのよあの人」
 保留したままとは言え、きわどいやりとりに環はひやひやした。ポッと保留が解除される音がして、菜里子が受話器をとる。ぱりっとした声に切り替え、卓上カレンダーを指先でつまむように持ち上げて、菜里子はにこやかに話している。
 器用な人たち。環は胸の中で小さく息を吐いた。
「今のはエージェントさんね」
 亜衣がトーンを落として環に囁く。
「エージェントさん?」
「イラストエージェント。制作会社とイラストレーターを仲介してくれる業者さん。その先には制作会社さん、その先には広告代理店、その先にクライアントの企業がいるから」
「……え、え、ええっと、すみませんもう一回いいですか」
 手帳に忙しくペンを走らせていると、あーいいよいいよメモんなくて、と亜衣が手を振りながら笑った。
「おいおいわかってくるから。案件ごとに全然違うし。ね、菜里子さん」
 ちょうど通話を終えた菜里子に亜衣が話しかける。一年と数か月かけてできあがったふたりの呼吸に、早く自分も合わせられるようになりたい。さっきの共犯めいたやりとりを少しうらやましく思っている自分に環は気づく。
 そうね、と答えながら、菜里子が今日初めて環と視線を合わせた。どきりとする。
 本当は、面接のとき向かい合ってすぐに思ったのだ。絶対に似ている。昔大好きだったアゲハに。いや、でも。
「町川さん、今日お昼って持ってきた?」
「あ、はい、お弁当持ってきました」
「そう、だったらそこの打ち合わせコーナー使ってね。給湯室のお茶とかてきとうに飲んでくれていいから。亜衣さんは外だよね?」
「はい」
「それだったら、それぞれ十二時から昼休憩入ってくれていいからね。私はどうしよっかなあ」
 首をこきこき鳴らしながら菜里子は作業に戻る。またパンだけで済ませちゃだめですよ、しっかり食べてくださいね、体が資本なんですから。亜衣が母親のような声がけをしている。
 もしかして、昔アイドルやってましたか? いくら小規模な会社とは言え、入社したばかりの人間が社長にそんな質問をぶつけられるはずもなく、環はその問いを飲みこんだ。
 電話応対のほかに掃除のしかたや給湯コーナーの使いかたを教わり、スタッフ用のメールアドレスを開設してテストメールを交わしたところでお昼になった。
「打ち合わせコーナー」と呼ばれている接客スペースは、オフィスと仕切られてはいるものの、天井との間には隙間があり声や音はほぼ筒抜けだった。誰もいないのに「失礼します」と言いながら入ると、菜里子がくすりと笑うのがかすかに聞こえた。
 初出勤だからと母が作ってくれた弁当を、環は完全にはリラックスできないまま口に運んだ。時折電話がかかってきて、菜里子が自分で応対する声が聞こえてくる。しっとり甘い声。ねえ、その声で歌っていたんじゃない? 大小さまざまなステージで。
 スペースの端には雑誌用のラックがあり、語学のテキストや医療施設のリーフレット、あまり本を読まない環でもぎりぎり名前を聞いたことのある作家の単行本などが表紙を向けて並べられている。何の関連もなさそうなそれらの共通点は、菜里子がイラストを手掛けていることだ。入社前にネットで調べたとき目にした作品の数々の現物たち。
「すてき」
 ほうれん草入りの卵焼きを奥歯で嚙みしめながら、環は小さくつぶやいた。
 どの作品も使われている色自体はややくすんでいるのに不思議な透明感があり、光と影のバランスが美しい。ドイツ語のテキストに描かれた青い古城のイラストが、とりわけ環の胸を打った。なんという画法なのか正式にはわからないが、水彩画のようだ。美術に造詣があるわけではない者にもしっかりと訴求する力が、菜里子のイラストにはあった。
 この人の力になりたい。運命論者ではないけれど、何か大きな力に導かれてここへやってきたような気がしていた。
 水筒の蓋をひねってダイエットティーを注いでいると、テーブルの上でスマートフォンが短く振動した。
『お疲れ~。転職祝いと誕生祝い兼ねちゃうことになって悪いんだけど、ここなんてどうかな? たまちゃん窯焼きピザ好きだよね』
 亨輔からのLINEだった。
 床の上に落ちたパンを「三秒ルール」と言って食べてしまったり、映画に誘ってきたくせに突然行き先を「東京二級河川めぐり」に変更したりするようないいかげんな奴だけれど、誕生日をけっして忘れないことは大きな美点であると環は評価している。
 メッセージに貼られているリンクをタップすると、レストランのホームページに飛んだ。川越のイタリアンレストラン。カジュアルな店構えや手ごろな料金は、社会人のデートより大学生の合コンに向いていそうだ。
 窯焼きピザならなんでもいいわけじゃないんだけど。せっかく川越まで行くならもっとそれらしいお店があるんじゃないの。そんな不満の種を飲みこんで、環はLINEに「ありがとう! 嬉しい! ぜひそこで♥」と打ちこむ。
 思い描いていた未来とはずいぶん違う、そう思う一方で環は充足も覚える。誕生日を忘れずにいてくれる人がいるありがたさ。
 谷亨輔は、大学時代に親しくしていた友人の志保の恋人の友人だった。志保はとにかくおせっかいな子で、若者とはすべからく恋人を持つべきものと思っているタイプだった。
 ある日騙し討ちのような形で環は亨輔とカフェでふたりきりにさせられた。志保の顔を立てるためになんとなく付き合い始めてみたところ、思いがけず波長が合い、いつのまにか二年が経とうとしている。志保と当時の恋人は既に破局して久しいというのに。
 パンプスに押しこめた爪先がむくんでいるのを感じ、両足首を床から浮かせてぐるぐると回した。明日から室内履きを持ってこようと心の隅にメモをする。今日の帰り、駅ビルで調達しよう。亜衣の履いていた白いナースサンダルがすてきだったなと思う。
 ああ、すてきなものがいっぱいだ。願わくは自分もすてきと賞賛される側の人間になれたらと思っていたのが、白亜紀くらい遠い過去に思える。他人の生みだす「すてき」のために奉仕するのがわたしの人生、それでいい。美少女クロックのスカウトマンの目になど留まらないのが、わたしなのだ。
 冷たいダイエットティーが胃壁を心地よく滑り落ちてゆく。スマートフォンがまた短く振動し、タップすると親指を立てた熊のスタンプが表示された。

 ビニールの継ぎ目に爪を立て、その破れ目からめりめりと引き裂く。剝き出しになった薄いボール紙をそっと取り外すと、小さなキャンバスが現れた。
「これ……」
 何号サイズというのだろう。横長に描かれたのは緑の草原に座りこんだ小さな女性の後ろ姿だ。白いバケツ帽からこぼれた赤茶色の髪の毛先が肩に散らばっている。年齢も国籍も推測できないが、どことなく漂うよるべない印象に気持ちが引き寄せられる。
「いちいち見入ってたらきりがないよ。でも見ちゃうよね」
 横から亜衣に声をかけられ、自分の手が止まっていたことに気づく。
「すみません、きれいな絵だから……」
「書籍のカバーに使われたイラストの原画だよ。環さんって小説とか読む?」
「……いえ、あんまり」
「あたしもあんまり」
 亜衣はいたずらっぽく笑った。正直に答えてよかったと環は小さく安堵する。教えられた作家の名前は、案の定まったく耳にしたことがなかった。
「今はデジタル作画も多いけど、NARIさんと言えばやっぱり油絵の人だからね」
「そうなんですね」
 配達物の梱包を解いて仕分けする作業は、ほぼ毎日発生するらしい。
 イラスト・デザイン会社であるアトリエNARIには、日々様々な荷物が届く。ブックデザインを手掛けているため出版社からの色校や見本誌がとりわけ多く、納品済み作品の原画の返却もある。梱包を解くたびに、封筒、ビニール、ボール紙、ガムテープなどのごみが大量に出る。それらを分別して廃棄し、適宜シュレッダーにかけ、中身を然るべき場所に収めるという一連の作業はなかなかボリュームのある仕事だった。今までこれをデザイナーで経理担当でもある亜衣がこなしてきたというのはもったいないような話だ。
「この絵はどこに……」
「うーん、これは小さいからバックヤードでいいかな。菜里子さあん、これ奥でいいですか?」
 亜衣が声を張り上げて呼びかけると、パソコンに向かっていた菜里子が顔を上げた。集中していた菜里子がふっと顔から緊張を解く瞬間を目にすると、なんだかちょっといいものを見たような気分になる。
「あ、それもう返ってきたんだ」
「ええ。そろそろ原画展が開けちゃいますね」
「えー、お客さん来ないよー」
「なに仰るんですか、来ますって」
「来ないよー、大赤字だよー」
 すぐに軽口の叩き合いになるふたりの関係をうらやましく思いながら、環は小さな絵をもう一度見つめた。草原を飛び回る蝶が何羽も描きこまれている。黒い羽を美しく伸ばしたアゲハ蝶が。
 午後になると編集者が訪ねてきた。読書家ではない環でも知っている大手出版社の初老の男性だった。予定表には名前しか書かれていなかったので内心慌てている環に、「あれ、新人さんですか?」と笑いかけながら手土産の菓子を渡してくれた。
 NARIというクリエイター名義で様々なイラストを描いてきた菜里子だが、会社を起こしてからはどうやらブックデザインの仕事が多くなっているらしいということを環は理解し始めていた。NARI個人としてイラストだけを担当することもあれば、亜衣と一緒にデザインまで含めて担当することもあるらしい。今回は後者の案件らしく、三人は談笑しながら打ち合わせコーナーへ入ってゆく。冬に出版される実用書のカバーを担当するようだ。
「ごめん、コーヒーお願いしていいかな」
 菜里子に囁かれる。言われなくてもそうするつもりだった。はいっと返事をして環は給湯コーナーへ向かう。
 コーヒー豆を電動ミルにざらざらと移していると、ひときわ大きな笑い声が聞こえてきた。ふいに疎外感に襲われる。
 わたしも「そっち」側になれたらいいのに。一瞬芽生えた思いをすぐに打ち消しながら、抽出されたコーヒーを、来客用のコーヒーカップに注ぐ。
 自分に期待するのは、とっくにやめたのだ。

     ■

 迷った末に、簡単な歓迎会を開くことにした。
 船橋のカフェの半分のスペースを貸し切りにしてもらい――そうするまでもなく普段から来客数はたかが知れたものだったが――、環、亜衣、自分、そこにカフェオーナーの船橋もなんとなく加わるかたちで小さなパーティーを開いた。従業員の就業後の時間を奪うのはどことなく気が引けて、環の初出勤の数日後、午後を臨時休業にして割り当てた。店でいちばん大きな杉無垢材のテーブルは、菜里子のお気に入りだった。
「もうほんと嬉しいです、もうほんとに」
 環は船橋の淹れるコーヒーをおいしいおいしいと絶賛し、スイーツに歓声を上げ、よく喋った。喋るだけ喋ってすぐ伏し目がちになるが、またすぐにぱっと顔を上げて喋り始める。元から明るいというより、努力してそうしているとわかるような明るさだった。
 本当にコーヒーのおいしさがわかるのかしら。かすかにいじわるな感情が湧くのを菜里子は感じた。上辺だけの言葉を聞くのは好きではない。アプリで美容室を予約するときも毎回「なるべく静かに過ごしたい」にチェックを入れているくらいだ。
「にわかファンですけど、社長のイラストがほんとに好きになっちゃって。イラスト集もLINEスタンプも買いました。雑用でもお手伝いできるなら幸せです、ほんとに」
 環は「ほんとに」を連発する。汚れた皿を片づける船橋と目が合った。やっぱり若いな、と表情だけで伝えてくる。
「『戸塚さん』でいいよ」
「え?」
「『社長』じゃなくて、名前で呼んで。去年の春に会社になったばかりで、そんなたいそうな身分じゃないの。待遇だってそんなによくないんだし申し訳ない気分になっちゃう」
「あたしは『菜里子さん』って呼んでますよ」
 ブルーベリーのタルトを口に運びながら、亜衣が環に微笑みかけた。赤いフレームの眼鏡が、いつもシンプルな彼女の服装によく映えている。
「そうなんですか? じゃあわたしもそう呼んじゃおうかなあ」
 カジュアルな口調になってきた環が、おもねるような視線をよこす。好きに呼んでいいよと笑いながら、突然垣間見せたその意外なずうずうしささえ計算なのかもしれないと菜里子は考えてしまう。若い子のことは、やっぱりよくわからない。
「でも、こういう会っていいですね。あたしのときは何もなかったですけど」
 肩の上できれいに内巻きにされた黒い髪を揺らして、亜衣がいたずらっぽい笑みを向ける。だからごめんって、と菜里子は苦笑いした。だってあの頃私まだ、従業員との距離感をつかみそこねていたのだもの。今だってそうだけど。
 ああ、それにしても、部下がふたりになった。その事実はささやかな自尊心を満たし、経営者としての己を奮い立たせてくれる。人を雇うということは、他人の人生を巻きこむということだ。これまで以上にしっかりやらなくては。チーズタルトの鋭角にフォークを突き立てる指に、思わず力がこもる。
 高校時代、母親によって創作とはまったく異なる方向に目を向けさせられていた菜里子は、イラストレーターとしてはスロースターターだった。学費を払えば誰でも入れる専門学校に二年間通っただけだ。そんな自分が専業でやってゆけるほど甘い世界ではないと覚悟して飛びこみ、やっとここまで来た。大海原を泳いで泳いで、ようやくたどり着いた島に立っている。
 菜里子は数字や機械に強いほうではない。制作のみならず経理も総務も営業も自分ひとりでこなさなければ回らない個人事業主にとって、それは大きなハンデだった。イラストに集中したいのに帳簿のつけかたに頭を悩ませる時間をとられるのが苦痛で仕方なかった。納期と会計作業との板挟みになり、確定申告のたびに胃をきりきりさせた。IllustratorやPhotoshopを人並みに使いこなすのがやっとで、簡単なホームページを自作することもままならず、外部委託にリソースを割くゆとりもなかった。
 そもそも、作者が思いのままに描く一般的な絵画とは異なり、イラストとはビジネス目的で描くものである。わかっていたはずなのに、クライアントありきの制作ばかりの日々は想像以上に苦しかった。心動かされるままに描くという本来の楽しさを見失いつつもあった。
 めげそうになっていた開業三年目、女性ファッション誌で連載された恋愛小説の扉絵を描く仕事を受けたのを機に潮目が変わった。連載時から好評だった絵は小説家本人にもいたく気に入られ、書籍化した際には装画を担当した。その書籍が電車の吊り広告やSNSで多くの人の目をとらえ、大きな案件が舞いこんでくるようになり、戸塚菜里子は新進気鋭のイラストレーターとして少しずつ注目されるようになった。
 書籍と縁ができたことを機にブックデザインを学び、本文組みと呼ばれる書籍の文字組みまでできるようになると、出版社の雑誌編集者たちにも重宝されておもしろいほど仕事の話が舞いこむようになった。
 宣伝と受注と納品をひたすら繰り返す日々が始まった。時代に取り残されないよう、デジタル作画のスキルを磨き、DTPと呼ばれる版下データ作りもなんとか覚えこんだ頃には、宣伝している時間さえもとれなくなってきた。継続して発注してくれるクライアントが増え、しかも大口顧客が多かったため収益は大きく跳ね上がった。
 デザイン関係の仕事が増え、本業のイラストに集中できないばかりか身の回りのことにすら手が回らなくなり、菜里子は人を雇う決心をした。フリーのデザイナーに手伝ってもらえばずっとうまく回るようになるのではないかと思い至るとそこから気持ちが動かなくなり、転職サイトに求人広告を出した。そこに現れたのが毛利亜衣だった。
 専門学校でデザインを学んでから就職したという亜衣は、会社組織のしがらみが嫌になったと語っていたが、知識も技術も経験も豊富でDTPソフトウエアから会計ソフトまで使いこなす優秀ぶりだった。自分より六つ年下の三十歳だが、感性は充分に若く、彼女の意見やアイディアはイラスト制作の大きなヒントになる。そのセンスと仕事ぶりに、菜里子は全幅の信頼を置いていた。もし彼女がいなければ、法人化にはもっと困難が伴ったことだろう。
「亜衣さんってお酒は好きですか? わたしはカクテルとかワインとか好きです」
 環は亜衣に対してもさっそく下の名前で呼び始めた。
「そうなんだ。あたしはビール、ただただビールひとすじなの。甘いお酒はだめで」
「えー、ビールもおいしいですよね!」
 環と亜衣のはしゃいだ声が店内に響き合う。こんな瞬間を自分が作りだしたのだと思うと、胸がくすぐったいような気分になった。
 比較的歳の近いふたりが仲良くやってくれたら、会社にとっても喜ばしいことだ。スタッフとべたべたした関係を築く気はないけれど、息のつまるような職場にはしたくないという思いがある。
 環がトイレに立ったとき、亜衣が顔を寄せてきた。
「ええと、あのことは伏せておくってことでよかったんですよね?」
「まあそうだね……とりあえずはそれで」
 冷めたカプチーノの泡を飲みこんで、菜里子は歯切れの悪い返事をする。それについてはまだ、自分のスタンスを決めかねているところがあった。
 デザイン会社の社長であるイラストレーターが元ローカルアイドルだからといって、特に何か仕事に影響することもないだろう。新人に知られたからって、別にどうということもない。
 けれど、できることなら今はまだ伏せておきたかった。弾けるように若い環を見ていると、好ましく思う一方で古傷が痛む。それに、あれほど密度の高い日々のことを共有する相手は、この世にほんのちょっぴりでいい。
 胸の奥に鍵のかかった卵形のカプセルがあり、その中に昔の自分が眠っている。それは、今でも母親に無遠慮に観察されている気がする。
 笑顔を貼りつけた環がこちらに戻ってくるのを視界にとらえ、菜里子は口の端をゆったりと引き上げた。

 環はよく仕事をした。
 新人らしい熱心さ、新人らしい気遣い、新人らしい勘違いや空回り。そうしたすべてを菜里子は新鮮に感じた。亜衣の入社のときは拍子抜けするくらいクールでスマートだったから。
 前職は大きな電子機器メーカーで事務全般をしていたと環は言っていた。配属の関係で二年間東京に住んでいたものの、今年退職して実家のあるさいたま市に戻ってきたという。会社と同じJR埼京線沿いから通えるという点は、交通費を全額支給する経営者としても正直ありがたい。
 面接時、履歴書を見ながら遠慮がちに退職理由をたずねると、環は瞳を曇らせた。「ちょっとひとことでは難しいんですけど……社員の男性と折り合いをつけることができませんでした」という答えに、だいぶデリケートな話かもしれないと察し、菜里子はそれ以上踏みこむことをしなかった。
 そもそも、退職理由を訊くというのは面接官としてあまり好ましくなかったかもしれない。近年では、応募者への質問として愛読書をたずねるということも行うべきではないとされているようだ。思想や信条に軽率に触れる質問であるかららしい。
 納期の迫っている案件のせいもあって、環の入社初日からしばらくの間は亜衣に教育を任せたが、その後は菜里子も自ら頼みたいことを伝え、覚えこんでもらうようにしていた。飲みこみは早いし熱意は伝わるのだが、「はい」「わかりました」を言うタイミングが早すぎるように思えて気になった。
「郵送してほしい書類はこのトレイにまとめてあるから」
「はいっ」
「切手はここね。このスケールで重さはかっ」
「はいっ」
「……ってね」
「わかりましたっ」
 ずいぶん前のめりだ。やる気のある有能な新人と印象づけたいのだろうか、予想の斜め上からの質問も多い。
「あの、画材屋さんでもし、値引きになってる画材とかがあったら、お電話入れてお知らせしたらいいですか?」
「えっ? あ……ああ、うーん、めったに値引きとかってないし、とりあえずお願いしたものだけおつかいしてくれたらいいから」
「はいっ、『とりあえずお願いされたものだけ』ですねっ」
 そこまではきはき復唱されると少々やりにくい。もっとリラックスしてくれたらいいのに。呼びかたも結局「社長」「戸塚さん」「菜里子さん」と行き来して定まらない。自分はそんなに緊張感を与える存在だろうか。せっかく開いた歓迎会で、もっと腹を割った話でもすればよかっただろうか。
 それでも、環のおかげでだいぶ制作に集中できるようになった。
 ここ数年、思いがけず取引先が増え、打ち合わせと制作と納期までのやりとりだけで手一杯になった。苦手だった経理処理は確定申告も含めてすべて亜衣に丸投げし、作品のデジタル加工や業者とのやりとりも一部任せるようになって、いったんは噓のように楽になった。
 けれど亜衣があまりに有能すぎて、ちょっとした雑用を頼むのが心苦しくなっていた。webデザインやweb言語に精通し、ホームページまで作ってくれる亜衣に「ちょっと絵筆洗っておいてくれるかな」などとは頼みづらい。とりわけ納期直前は神経質になることを自覚している菜里子にとって、本当に身の回りの雑務を担ってくれるスタッフが必要だったのだ。
 油彩画や水彩画を描くとき、専用のアトリエを持たない菜里子はバックヤードにこもって作業することになる。一度集中すると、動くことがひどく億劫になる。デジタル制作がメインになってきているためうっかり画材を切らしそうになることも多く、絵具一本からおつかいに行ってくれる環の存在はありがたかった。
 銀行から戻ってきた亜衣に環を任せて、菜里子はバックヤードに移動した。ロッカーから取り出した白衣に袖を通すと、さっとクリエイターモードに切り替わる。作業台に画材を並べながら心を整えてゆく。今週中に仕上げたい油彩画があった。
 キャンバスに最初の色を置く瞬間は、いつだって贅沢な気分を味わう。
 けれど、その気分に浸っていられる時間は日ごとに短くなってゆく。納期がいつも頭にちらついている。依頼者の指示内容も盛りこんで描かなければならない。画材も浪費することはできない。
 アナログ作品の依頼は久しぶりだった。小さなアトリエとしてのバックヤードに、オイルのにおいと菜里子の静かな興奮が満ちてゆく。
 ハロウィンイベントのポスター用の油彩画を描いてほしいと依頼してきたのは、全国展開している英会話教室を運営するアングリカという企業だった。話を持ってきたのはまだ付き合いの浅い広告代理店の営業担当だったけれど、クライアントに知名度があり要望も具体的だったため、商談はスムーズに進んだ。
 使用時期の限定された商品は、季節を先取りして早々と依頼が来る。おかげでしばしば南半球にいるような気分を味わう。ハロウィン関連の受注が落ち着くのを待たずに、クリスマス向けのイラストの依頼が入ってくるだろう。
 たまご色の下地を塗りこんだキャンバス。油彩画だけれど、下地はアクリル絵具で作りこんである。油絵具で下地を作ると乾燥に時間がかかる上、コストもかさむ。アクリル絵具は水性なので、厚塗りしてもドライヤーで乾燥を早めることができる。乾燥後は耐水性になるため、上から油絵具を重ねても下地と混ざり合わず、絵具が濁らないという利点もある。いいことづくめだ。
 これは中学時代に目をかけてくれた美術部の先輩が教えてくれた方法なのだが、美術界隈で普通に共有されている知識であることを最近知って複雑な気分になった。
 下地の乾き具合を確認し、菜里子はとろけるチョコレートのような焦げ茶色の絵具を塗りつけてゆく。イエローオーカーとバーントアンバーを混ぜ合わせ、テレピン油で溶いて、キャンバスに広げる。使いこんだドイツ製のペインティングナイフが、うっとりするほど絶妙にしなる。筆跡が均一にならないよう、わざとムラを作りながら、ランダムに絵具を載せてゆく。そう、塗るというよりは載せてゆく感覚だ。
 指にしっくりとなじむ豚毛の平筆に持ち替えて、菜里子はなおも画面を焦げ茶で埋めてゆく。下地をあえて隠しきらず、絵具をわざと掠れさせ、画面に凹凸を作る。独特のマチエールができあがってゆく。
 手を動かせば動かすほど、世界の雑音は遠のいてゆく。気づけば呼吸を忘れている。頭が空っぽになるこの感じが、菜里子は好きだった。自分は孤独になるために絵を描いているのかと思うほどだ。
 土台が完成したキャンバスを、菜里子は惚れ惚れと見つめた。モチーフはシンプルにジャックオランタンだけを描くことになっている。ポスターの場合、文字がたくさん重ねられることになるため、情報の読みとりをイラストが邪魔しないようにと、言わずもがなのことをクライアントからも念押しされている。
 乾燥を待ちながらリフレッシュしようと、絵具だらけの白衣を脱いで椅子の背にかけた。疲れた脳が、猛烈にコーヒーを欲していた。
 油彩絵具で汚れた筆や絵皿をいったん放置することに後ろめたさを覚えながら、手だけ洗ってバックヤードを出る。アトリエNARIが入る前、ここは設計事務所だったのだが、その前は小さなエステサロンだったらしい。その頃から水道が複数箇所に引いてあり、給湯コーナーとは別に作業スペースにも流しがあることが、この物件を借りる大きな決め手となった。
 事務所に入るなり、亜衣の香水の香りが鼻に飛びこんできた。亜衣について唯一気になることと言えば、ときどき香水がきつすぎることかもしれない。しかし、オイルや絵具の独特のにおいを放つ自分にそれを指摘する権利はないと思っている。
「あ、お疲れさまでーす」
「お疲れさまです」
 シンクロするふたりの声に、お疲れさま、と菜里子も返す。
「ちょうどコーヒー淹れようと思ってたんです。菜里子さんも飲みますよね?」
「あ、うん。お願いしたいかな」
 亜衣に答えながら、自分の席にどさりと座る。デスクの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンの画面には、「ルリ」の名前とメッセージの通知が並んでいる。急ぎではないとわかっている連絡なので触れずにおいた。
「あ、わたし淹れますよ」
 環が立ち上がって給湯コーナーへ向かう。その背中をなんとなく見送りながら、自分の制作中に対応した案件について亜衣から引継ぎを受ける。電動ミルが作動するごごごごという音とともに、香ばしい香りが漂ってきた。
 トレイに三人分のカップとソーサーを載せて、環が歩いてくる。ふと気づいた。環の歩きかたがとてもきれいであることに。まるで訓練されたような、いわゆるモデル歩きに近い足取り。
「えっと、こちらから失礼いたします」
 環は菜里子の席を回りこみ、デスクの右側に湯気の立ちのぼるコーヒーを置いた。その新人ウエイトレスのようなぎこちない様子に、少し笑いそうになる。
「ありがとう」
 メーラーを立ち上げると、業務メールがびっしりと溜まっていた。件名を見ているだけでわずかに胃もたれがしてくる。ありがたいことに、しばらく暇になりそうにない。もちろん、そうでなければ困るのだけれど。
 使いこんだマグカップから、コーヒーを啜り飲む。ああ、と思わず声が出そうになる。他人に淹れてもらったコーヒーは、なぜこんなにおいしいのだろう。

     □

 髪をひとつにまとめておけばよかった。小さく悔やみながら毛束を耳にかけると、爪の先がピアスに触れてかちんと鳴った。
 ハート形のピアスは、去年のクリスマスに亨輔がくれたものだった。今時中学生でも買うことのできそうなカジュアルブランドのものだけれど、初めてのクリスマスにもらったサハラ砂漠の砂や二十四歳の誕生日にもらった謎の健康器具に比べたら進歩したと言える。今年の誕生日には何を贈ってくれるんだろう。
「まず、これで拭います。こんな感じで」
 かぼちゃ色の絵具にまみれた絵筆の先を、菜里子が白い布で包む。そのままごしごしとしごくようにして絵具を拭う。汚れを拭きとるために使うこの布をウエスと呼ぶことを、環はさっき初めて知った。
 菜里子の画材に触るのは初めてだった。油彩画の制作の後の、絵筆の洗浄を教わるのだ。オイルのにおいが漂うバックヤードでの距離感はオフィスのそれとは異なり、環は幾重にも緊張していた。
「器具やオイルをなるべく汚さないように、まずはウエスで極力汚れを拭きとります。筆を傷めないようにやさしくね。でもそれなりに力をこめないと汚れは落ちないから」
 淡々と喋る様子からは、機嫌の悪さは読みとれない。それでも、自分との間に透明のアクリル板のようなものを置き、その向こうから語りかけられているような気がする。
「はいわか、わかりました」
「やってみて。どれでもいいから」
「え、あ、はい」
 作業台の上の汚れた絵筆の中から少し迷って大きめのものを手にとり、その毛先をウエスでそっと包んだ。
「それは豚ね」
「え」
「豚毛。今はそんな色だけど、元は白い毛なの。よーく洗うとわかるよ」
「そうなんですね」
「ちなみにこれは狸」
 菜里子は自分の拭っている絵筆を示して言った。
「狸ですか」
 思わず復唱する。絵筆の材質についてなど考えたこともなかった。
「うん。テンとかイタチのもあるよ。このへんはナイロンだけど」
「はあ……」
「ある程度汚れが落ちたら、これ」
 菜里子がステンレスの容器の蓋を開く。母がキッチンで使うオイルポットのようだと環は思った。中には濁った油がなみなみと入っている。筆洗器だと菜里子が説明した。筆洗器に、筆洗油。聞き慣れない言葉の響きに、メモを取りたい衝動に駆られる。
 汚れを拭きとった筆を、菜里子が油の中にとぷんと沈めた。容器の内部には半円形の網が張られており、そこに筆を擦りつけるようにして洗う。
「毛先を傷めないように、やっぱり力加減にはコツが必要です。柔らかく丁寧にね」
「柔らかく、丁寧に……」
 促されて、環も豚毛の筆を油に沈める。教わった通りに、柔らかい手つきで筆を扱う。
 筆の油をウエスで丹念に拭い、今度は石鹼で洗う。けっして大きくはない流しの前にふたり並んで立つと、わずかながら環のほうが背が高いことがわかった。
 固形石鹼によく擦りつけた筆先を手のひらに押しつけ、くるくると回す。泡と一緒に、落としきれていなかった絵具がじわじわとにじみ出てくる。よく泡立てたあと、念入りに水洗い。それを何度か繰り返すうちに、絵筆の毛先はたしかに本来の白さを現し始めた。
「根元の部分はカスが溜まりやすいから、爪でしごいて丁寧に洗います」
 菜里子の爪にマニキュアが塗られていない理由を、環は唐突に理解した。
 ああ、なんだか無心になっていく。菜里子もこのスペースでいつも、こんな気分を味わっていたのだろうか。中学校の美術室を思いださせる画材のにおいは、不思議と心を落ち着かせた。
「このへんでいいかな。染みついた汚れはもう仕方ないから」
 再びウエスを使い、筆の水分を入念に拭きとる。美容院でシャンプーマッサージやトリートメントを施してもらった後のさっぱりした自分の頭を、思わずイメージした。
 手先に集中しすぎて疲れた首を動かすと、おばけかぼちゃと目が合った。ええと、そう、ジャックオランタン。ハロウィンのために顔のくり抜かれたかぼちゃだ。
 とてもシンプルな絵なのに、そのタッチは印象的だ。菜里子の内なる炎に触れたような気持ちになる。美術作品を評する言葉を持ち合わせていないことを環は悔しく思った。
「なり……戸塚さんって、高校時代は美術部だったんですか?」
 愚問かと思いつつ、何か言わないではいられない気分になって問いかけた。共同作業を成し遂げた後の不思議な開放感が、気を大きくさせていた。
 え、と菜里子は気の抜けた声を出した。視線は合っているのに、その目は環をとらえていないように見えた。
「え、あ、いや……やっぱり昔から、油絵とか描かれていたのかなって」
「中学のときは美術部だったよ」
「あ、やっぱりそうなんですね」
「うん。すごくよくしてくれる先輩がいて、美術部展とかもやって、楽しかったな。高校のときは……」
 菜里子はゆっくりと瞬き、言い淀んだ。
「……忙しくて、部活どころじゃなかったから……」
 あっ。環は心の中で息を吞む。菜里子の高校時代の活動に触れる問いかけをしてしまったことに、遅れて気がついた。
「あの、ごめんなさい」
 思わず謝罪が口をついて出た。
「どうして謝るの?」
 菜里子の顔に浮かんだ不快感は、一瞬で消えた。それでも、その表情は油絵具のように環に染みついた。

 極太のストローの中を、黒い球体がゆっくりと上昇してゆく。
 暴力的な暑さが続いていた。熊谷では先日、四十一・一度を記録したらしい。それに比べたらこの辺はまだましなのかもしれない。それでも自分の体温ほどはありそうな気温に、汗が次から次へと湧いてくる。アイスミルクティーの冷たさが食道をなぞるように胃に落ちてゆく。弾力のある食感と喉を通り抜ける甘みが環に小さな幸福をもたらす。
 突然ブームがやってきたタピオカミルクティーは、環の生活を少しだけ変えた。仕事帰りに大宮の商業ビルでテイクアウトし、武蔵浦和駅に着いてから駅のホームのベンチに座って飲む習慣ができた。カロリーを考えて、夕食の白飯をかなり控えめにすることで調整する。
 駅のホームから西の方角に見える小さな富士山を環は気に入っていた。万年雪と言って夏でも消えない雪が富士山にはあるのだと、子どもの頃図鑑で読んで知った。その頂に思いを馳せると、体感温度がわずかながら下がる気がする。電車がまた一本入線し、大量の人間を吐き出しては走り去ってゆく。ホームのエスカレーターに殺到する人たちをぼんやり眺めているうちに、溜めこんでいた疲れが少しずつ癒されてゆく。
 昨夜は亨輔と中山道まつりに行ってきた。氷川神社の例大祭に合わせて行われる大きな祭である。神輿、山車、民謡輪踊り、阿波踊り、和太鼓。大宮駅東口周辺を中心に行われるオープニングパレードは圧巻だ。
 屋台のたこ焼きを分け合い、ひょろ長く成形されたチーズ味のポテトフライを齧り、ラムネを飲んだ。仕事帰りだったため浴衣を着てこられなかったことを環は悔しく思っていたけれど、浴衣姿の女性客たちより、山車の上で白い狐の面を被り白い長髪を振り乱して踊る山伏の男に亨輔は夢中だった。笛の音色や太鼓の響きが、まだ耳の内側にやさしく貼りついているような気がする。
 環よりふたつ年上の亨輔は、国内外の雑貨を扱うチェーン店「さばく堂」の雇われ店長をしている。
 セレクトショップと言うと聞こえはいいが、アジアの独特なお香のにおいが立ちこめた店内にところ狭しとひしめく雑貨や用途のわからない布や安価な衣類たちに、環は何度訪れても馴染むことができずにいる。しかし店のファンは多く、SNSでもしばしば話題になる。店舗業務は常に忙しく、土日も営業しているため休みは不規則だ。しかも気のいい店長である亨輔はスタッフに請われるままにシフトを調整し、土日は自ら積極的にシフトに入るため、暦通りに働く環とはなかなかゆっくり会うことができない。今回の祭のような平日夜のイベントはデートのチャンスでもあった。
 ひとりの男性と対等に付き合えていることが、どれだけ自分の心に平穏をもたらしているかわからない。たとえ、たまにしか会えなくても。明日の花火大会も一緒に行けたらもっとよかったのだけど。
『町川環様をスカウト 企業からスペシャルオファーが届』
 スマートフォンがメールを受信したので片手で操作して確認すると、そんな件名が表示されていた。続きはほぼ間違いなく「届いています」か「届きました」だろう。
「スカウト」に、「オファー」。それらの言葉が放つ甘い響きにときめいたときもあったけれど、実態はただ登録してある条件が求人側の条件とマッチする大量の利用者に一斉送信されているだけであることを、環はもう知っている。
 転職サイトに登録したときのメール配信設定をOFFにし忘れていて、就職した今となってはどうでもいいメールがこうして時折届いてしまう。今すぐ解除すればいいのに、そのためにはいったんサイトにログインしなければならないのがひどく億劫だった。パスワードすら思いだせない。いっそブロックしたほうが早いだろうか。通知をタップすらしないまま画面をぼんやり見つめたのち、結局また鞄に放りこんだ。
 転職か。もう自分の人生には縁がないものになったと入社当時は思っていたけれど、本当にそうだろうか。
 ――どうして謝るの?
 あの困惑の眼差しが忘れられない。たとえ一瞬でも菜里子にあんな顔をさせてしまったことを思い返すたび、小さく呻いてしまう。彼女の過去についての話題に触れた瞬間に謝ってしまったのは、どう考えても不自然なふるまいだった。
 あれ以降は普通のトーンに戻って接してくれているけれど、努力してそうしているように見えるのは気のせいだろうか。この先ずっと、自分はあの場所でうまくやってゆけるのだろうか。
 ずずっ。気づけば氷だけになっていた容器の底が、ストローで吸われて大きな音をたてる。いつのまにかホームはほとんど無人になっている。
 プラスチックのカップをつかんで環は立ち上がった。タピオカミルクティーはおいしいけれど、最後に必ず残る氷の処分が少し面倒だ。氷を流すためだけに駅のトイレに立ち寄るたび、味の余韻が消えてしまう。
 そうだ。
 目の前を走る線路に近づいた。上りからも下りからも電車が来ないことを確かめ、カップの中の氷を線路に撒いた。ごくわずかなミルクティーの残りとともに氷は宙を舞い、線路の上にばらばらと落ちた。硬質なもの同士がぶつかり合う音に混じって、熱い鉄の上で氷が瞬時に水に変わるじゅっ、という音がかすかに聞こえた気がした。
 入線を告げるアナウンスが流れる。環は線路から下がってエスカレーターを目指した。
 自分のばら撒いた氷の上に、電車が滑りこんでくる。なんだかとびきり悪いことをしたような気がした。それなのに胸の中がすうすうと軽くて、ああ、こんな自分もいるんだと環は思った。

     ■

 つなぐ手が汗でぬるぬるしていた。きっと自分の手汗だ。さりげなく離そうとしたら、より強く握られた。その思いがけない力に、菜里子は戸惑う。
 ひゅるるるるるるる。白い光が蛇行しながら夜空を上る。まるで空の高みで待つ誰かのもとへ向かうような切実さを感じる動きだ。
 どん。破裂音とともに、夜空に大輪の花が咲いた。なんて大きいんだろう。柳の枝のようにだらんと垂れながら消える光の花びら。火薬のにおい。一発ごとに歓声を上げる人々。川面を渡るぬるい夜風。自分は今、夏の真ん中にいるんだという気がしてくる。
「やっぱり三尺玉はいいよなあ。あれって直径六百メートルもあるんだよな」
 菜里子の右手をしっかりと握り、顔を上向けたまま船橋が言う。その語尾を搔き消して、また花火が打ち上げられる。一発の破裂により大量の小さな花が飛び散るように開き、まるでたくさんの銀河が生まれたように見えた。ばちばちばちっ。夜空を焼き焦がす音が連続して響き、光の尾がきらめいて散る。歓声がひときわ大きくなる。川の対岸でも三尺玉が続けて打ち上げられ、もはや視線を定めることができない。
 荒川の河川敷は花火の見物客でびっしりと埋め尽くされていた。毎年同時開催される、戸田橋花火大会といたばし花火大会。どんなに忙しくともこれだけは一緒に来よう。初めて一緒に見にきた四年前、船橋に耳元で甘く囁かれた。そうだ、あのときは気合を入れて浴衣を着ていた。白地に琉金が泳ぐデザインの浴衣は三十代には少し若すぎたと感じて、クローゼットの奥にしまったきりだ。
 道路の渋滞を恐れて車ではなくJR埼京線に乗り、戸田公園駅から歩いた。途中ファミリーレストランに寄り、早めの夕食を胃に落とした。考えることは皆同じのようで、まだ十七時過ぎなのに店内は夕食をとる客で満席だった。コンビニでビールと炭酸飲料を買い、さらに歩いた。戸田橋競艇場方面の一般観覧席が、大会本部席付近の河川敷より空いていることを学んでいた。それでも充分混み合っているが、花火が始まってしまえば気にならなくなるのも例年通りだ。
「あっちはいいにおいするんだろうなあ」
「だろうねえ」
 対岸の板橋側ではフードコートの出店するプレミアムゾーンがあるらしく、来るたびに船橋はうらやましがる。それでも「今年は板橋側で見ようか」となったことは一度もない。有料席を確保したこともない。ナイアガラの滝が角度的によく見えなくても平気のようだ。
 実際のところどのくらい花火が好きなのだろう、この人は。なんだかよくわからない。頭の中でカラーサークルをぐるぐる回して夜空の色味のHEX値を考えている自分も大概だけれど。
 どん。どん。どどどどどどどど。スターマインが打ち上がる。聞いたことのあるようなないような音楽が破裂音とともに耳朶を打つ。歓声が大きくなるたび、河川敷の客に一体感が生まれる。そのどよめきが、ステージの上に立っていた頃の記憶を菜里子に運んできた。
 うごめく無数の頭。向けられる熱視線。バックステージの蒸れた汗のにおい。冬のスタジオの床の冷たさ。ちくちくする衣装の肌ざわり。ときどきハウリングするマイク。自分のパートを歌うために吸いこんだ空気の温度。
 あのときめきや高揚感を忘れたらおしまいだと思っていた。でも、私は忘れた。手放した。――戸塚さんって、高校時代は美術部だったんですか?
 環の何気ない問いかけに、菜里子の意識は強く引っぱられた。高校時代と聞いただけで湧きあがる、炭酸飲料の泡のように膨大な記憶。そのひとつひとつが菜里子の目の奥で弾ける。
 高校時代の部活の話題を自分でふっておきながら、「ごめんなさい」と環は言った。なんなのよ、ごめんなさいって。思い返すと胸の中がもじゃもじゃしてくる。
 ビールの缶を持っていないほうの左手で、船橋は菜里子の右手をしっかりと握る。サンダルを履いた素足を蚊に刺された気がするが、片手を拘束されていて確かめることができない。もはやどちらの手汗かわからないほど手のひらはぬめり、どっちでもいいやと菜里子は思う。
 これが終わったらぎゅうぎゅう詰めの電車で大宮に帰って、どちらかの自宅へ行ってセックスするのだろう。きっとうちになるだろう。花火に心奪われた顔をしながら、思考はこの後の動きをなぞる。酔うとシャワーも浴びさせてくれずに押し倒す人だから、気をつけないと。さすがにこんな汗だらけの体で抱き合いたくないし。きっと泊まっていくんだろうな。チーズやヨーグルト、残ってたっけ。まあ、なければ買えばいいか。どうせスーパーに寄ってパンを買うことになるんだろうし。
 音楽が切り替わる。今度ははっきりと、よく知っている曲が流れてくる。CMでも使われている陽気なサンバだ。主張が強すぎて花火の風情を打ち消しているようにも感じるが、そんなことを気にしている人間はきっとこの河川敷にはいない。空に向かってスマートフォンを突き出すたくさんの腕のシルエットが、闇の中にいくつも浮かび上がる。それぞれの画面の中に夜空を複製した小さな花火が映っている。
「ねえ」
「ん?」
「飲みづらいから離すよ」
 草の上でしっかりとつながれた手を軽く揺すり、ようやく解放された手でペットボトルの蓋を開けた。ぷしゅっと音をたててガスが抜け、炭酸飲料が飛び散って菜里子の指先を汚した。慌ててショルダーバッグを探り、ハンカチで拭う。べたつきが肌に残り、わずかに憂鬱になる。
 蓋を閉めたペットボトルを草の上に置き、再び夜空を見上げた菜里子に船橋が顔を近づけてきた。ビールのにおいの息が耳に吹きかかり、次の瞬間には唇が重ねられた。
「ちょっと」
 なに若者みたいなことしてるのよ。抗議の声を上げつつも、悪い気分ではなかった。恋人はもう手を握ろうとはせず、視線を夜空に戻して子どものように歓声を上げている。
 周囲の視線が気になってしばらく顔が上げられず、川面に映っているほうの揺らめく花火を見つめた。くるぶしのあたりにちくりと痛みが走り、今度こそ蚊に刺されたことがわかった。

     □

 亜衣が珍しく体調を崩して有休をとっていた。これは社長と距離を縮めるチャンスのような気がする。
 業務については、既に充分に引継ぎしてもらっていた。癖のあるクライアントからの電話にも対応できるようになってきた。基本的な業務で困ることはほぼなくなりつつあった。
 それどころか企画会議に参加させてもらったり、納品前のイラストデータについて感想を求められたりすることもある。アトリエNARIの一員と認めてもらえているらしいことが、ただただ嬉しかった。
 しかし今日の菜里子はあまり調子が良くなさそうだ。モニターを見つめたまま肘をつき、こめかみに拳をあてて険しい顔をしている。コンペでも入っていただろうか。Googleカレンダーで予定を確認するが、何が菜里子を憂鬱にさせているのか環にはわかりようもなかった。
 誰かがぴんと張った膜のようなものの中に閉じこもっているときは、よけいなことをしないのがいちばんなのだろう。本能的に察していながら、しかし環は今日、無性に彼女に話しかけたい気分だった。
 新人だから仕方ないのかもしれないが、菜里子と亜衣がじゃれ合うように喋っているとき、疎外感を覚えることが増えていた。職場において多忙よりも怖いのは、自分の存在価値の希薄さだ。
 菜里子があのアゲハであることを確かめたい思いも、再び膨れ上がっていた。
 手がかりは、インターネットをさまよえばいくらでも見つかった。おそらくは違法アップロードであろう、小さなイベントのライブ動画。口コミサイトに書きこまれた情報。思わず書店で取り寄せてもらってしまった、往年のアイドルについてまとめられた雑誌の特集号。そして、菜里子の左目の下のほくろ。何もかもが、菜里子が元サディスティック・バタフライのアゲハであることを示していた。
 だからもう、きっかけさえあればよかった。菜里子自身の口からその話が聞ければ、ようやくこの運命のめぐり合わせを心から驚き、喜ぶことができる。焦がれるほど憧れた過去が報われる。社長が元アイドルだからと言って態度を変えたり詮索したりする気などないこともきちんと示して、安心させたい。
 彼女のためなら自分の情けない過去を開陳してもいい。あのピアスを着けるためにピアスホールを開けましたと打ち明けたい。あの業界の雰囲気って独特ですよねと笑い合いたい。それはきっと、社長との距離をぐっと縮めてくれることにもなるだろう。
 けれどそんなきっかけが訪れることなどないまま、時間が過ぎてゆく。
 女同士はやはり難しい。そんなありふれた言説に落ち着こうとするたび、環は電子機器メーカーでの日々を思いだす。
 アイドルを目指していた日々を黒歴史として胸の奥深くにしまいこみ、環は生活のために働いていた。工場を備えた大規模の建物で、設計者を中心に約二千人もの従業員がいた。派遣社員を含めて五人の庶務総務アシスタントが配置されていて、ひとりあたり四百人程度の設計者たちの勤怠や工数の管理を任されていた。他にも出張の手配や旅費・経費精算、備品の発注や慶弔の電報、来客対応など、業務はまさしく無限にあった。
 設計者の中で、苦手な相手がいた。櫛木という三十代半ばの男で、資格を持った技師でもあり、周囲から一目置かれていた。
 スキルは高いのかもしれないが、どこかアシスタントを軽んじている節があった。個人ごとに行う勤怠システムの月締め処理はいつもグループで最後だった。
 勤怠報告は、締めの時刻を一分でも遅れると、経理部から各アシスタントにあてて「来月の給与が支払えなくなりますが構いませんか?」と脅しのような連絡が来る。櫛木に催促メールを送っても開封されている気配がないため仕方なく彼の席へ行くと、「ねえねえ、自分のことかわいいと思う?」「若手の中だったら誰が好み?」などと業務に関係のない問いを投げかけて困惑させるのだった。
 ある夜、就寝しようとしていた環のスマートフォンに着信があった。櫛木だった。寝ぼけていた環の指がうっかり通話ボタンを押してしまった。
『今さあ、町川さんちの近くで吞んでたんだけど、終電がなくなっちゃってさあ。悪いけど泊めてくんない? あ、もちろん何もしないからさあ』
 本気を冗談でくるんだような口調に環は戦慄した。出張のサポート業務の関係で電話番号を教えたことはあったけれど、なぜ自宅を知られているのかさっぱり心当たりがなかった。指先に嫌な汗をかくのを感じた。
「それはちょっと……急すぎて……」
『え、もしかして俺があんたのこと襲うとか思ってる? やだなあ自意識過剰だよ。部屋の隅にちょっと転がしといてくれるだけでいいんだってば、まじで』
 櫛木はまったく引かなかった。漫画喫茶やビジネスホテルを利用してくれればいいのに。彼らがどれだけ稼いでいるか、環は年末調整の業務を通じてよく知っていた。
「……今日はこれから、彼氏が来ることになっていて」
 必死の思いでついた噓だった。見破られてさらに強引に押し切られるかと怯えたが、大きな舌打ちとともに電話は切れた。
 翌日から、櫛木は環を徹底的に無視した。何も悪いことなどしていないのに、環はびくびくと身を縮め、神経を擦り減らしながら仕事をした。
 自意識過剰という言葉が棘のように胸に突き刺さって抜けない。上司にもアシスタント仲間にも誰にも相談できなかった。
 知ってるよ。わたしはけっしてスリムじゃないし、美人でもない。才能もオーラもない。アイドルを目指していたことなんて、口が裂けても言えない黒歴史だ。
 だとしても、恋人でも友達でもない男性を無防備に部屋に泊められるものだろうか。いや、もしかして本当にわたしはまだ自意識過剰を引きずっているのだろうか。思考が旋回して眠れない夜が続き、環はやつれていった。
 そのうち、比較的良好な関係を築いていた設計者たちまでもが妙によそよそしくなった。「町川環は自分を高く売りつける女」という噂が流れていることをアシスタント仲間から遠慮がちに聞かされたとき、そこまでの驚きはなかった。発信源は確かめるまでもなかった。
 ――もう、あんな思いをすることはない。女だけの世界、最高じゃないか。
 急に呼吸が楽になるのを感じた。今を、今置かれているこの環境を、大切にしよう。卓上カレンダーに書きこみをしている菜里子を視界の端にとらえつつ、環は気持ちを新たにする。
 菜里子がどちらかと言うとアナログ人間であることは、環にもだんだんわかってきていた。ところどころに絵具の付着した白衣を着てバックヤードにこもっているときのほうが、パソコンをにらみながら作業しているときよりいきいきして見える。Googleカレンダーで社内の予定を可視化するようになったのはつい最近のことで、それも亜衣の提案によるものだったらしい。
 菜里子の卓上カレンダーには彼女自身にしか読みとれない流れるような文字で短く予定が転記され、かろうじて意味がわかるのは「ラフ〆」「納」「打」くらいだった。
「菜里子さんって珍しいお名前ですよね。すてきです」
 菜里子がコーヒーを飲み始めたタイミングで、環は思いきって声をかけた。先日のちょっとした過ちを挽回したい気持ちがあった。菜里子は物憂げに顔を上げた。
「母が万里子で、その妹が絵里子なの。単にパターンを踏襲しただけだよ」
 他人を褒めれば必ず喜ばれるというのは幻想だ。わかっているのに、どこか突き放したような口調に環は怯んだ。思考が空転する感覚を覚える。
「……でもかわいらしいと思います。『成田』さんと結婚しちゃうとちょっと面倒だけど」
「結婚したら女が改姓しなきゃだめなの?」
 絡むような言いかたに、内臓が縮こまった。あれ? ちょっとした軽口のつもりだったのだけど、だめだっただろうか。わたしはまた間違えてしまったのだろうか。オフィスの中はこんなにエアコンが効いているのに、頰がじわじわと熱くなってゆく。菜里子の声がまた響いた。
「そもそも結婚するかどうかもわからないんだもの、あんまりそういうこと言わないほうがいいかもよ」

     ■

 あーあ。
 心の中だけでひとつ溜息をつき、気持ちを立て直して、印刷所から上がってきた書籍カバーの色校を確認する。思っていたよりわずかに明るめに出たが問題なさそうだ。
 視界の隅でちらりと確認すると、環はわかりやすく萎縮したままパソコンに向かっていた。
 自分の発した言葉の嫌な余韻が、筆先の絵具のように胸に居座っていた。どうしてあんなふうに言ってしまったのか。結婚というセンシティブな話題が突然飛びだしたことに苛立ったのだろうか。
 いや違う。気圧のせいだ。フィリピンの海上で台風が発生したと、昨夜の天気予報で言っていた。
 昔から、菜里子は気圧の変化に弱かった。気力を根こそぎ奪う頭痛が襲い、体中に倦怠感が行き渡って動きが鈍くなる。
 頭がきりきりと締めつけられるように痛むたび、『西遊記』の孫悟空のイメージが浮かぶ。菜里子には書けない難しい漢字の名前がついた金の輪っかは、呪文を唱えることで収縮して額を締めつける。自分の額にはあれと同じ見えない輪っかがはまっているのではないかと、症状が酷いときには半ば本気で考えてしまう。
 昔は原因も知らずに苦しんでいた。布団から出られずにいると、母親から「怠け病」と揶揄された。気象病という病名が存在することを知ったときは、自分を責めなくてよかったのだとわかって心から安堵するとともに、母に対する反発が強まった。
「十六~二十二歳までの健康な女性」。サディスティック・バタフライの募集要項にはそう書いてあった。そもそも自分は条件を満たしていなかったんだな。自嘲気味に笑いながら、頭痛薬をコーヒーで流しこむ。
 最近、事あるごとに昔の記憶が深い場所から浮かび上がってくる。環が入社した頃からだ。
 ばれているならそれでも構わない。必要以上に踏みこんでこないでくれるならば。
 ただ、顔色を窺うような真似だけはやめてほしかった。気づけば必要以上に冷たい声が放たれていた。環にリラックスしてほしいとあんなに願っていたのに。
 さて、今抱えている別件のラフにそろそろ取りかからなければならない。担当者にメールを打ち始めると、また頭がきりきりと痛みだした。
 受注する案件の中で最も多いのが、書籍の装画や雑誌の挿絵だ。編集者を通じて作品の概要や先方の希望をヒアリングし、ゲラを読んで、湧きあがったイメージを元にラフを作る。ラフといってもほとんど完成形に近い形で提出するので、ここでかなりの集中力とエネルギーを投入する。直しの必要があればそれを反映し、着色まで施した本データを作ってゆく。イラストレーター・NARI個人として受注した場合はここでいったん手を離れるが、アトリエNARIとしてDTP込みで請け負った場合は、亜衣の力を借りて入稿データの制作まで行う。
 法人化してからずっと二人三脚で走ってきた亜衣が休みだから、今日は調子が悪いのかもしれない。うん、やっぱりそれもある。自分ひとりで回していた時代のことが、最近ではうまく思いだせないくらいだった。
 思えば亜衣にだって最初からすんなり心を開けたわけではなかった。いつもスマートに仕事をこなし、ファッションも物腰も洗練されており、プライベートを想像しづらい部下だった。心の深い場所で何を考えているのかわからないところは不安ではあったけれど、謙遜も不遜もなく言われたことを淡々とこなすところをすぐに気に入った。何がきっかけだったか、気づけば自らアイドル時代の話を打ち明けていた。
 うん、今日の私はよけいなことを考えすぎる。
 自分自身に興味を持ちすぎると息が詰まる。やめよう。せっかく久しぶりに順子との飲み会の予定が入ったのだから。
 自分の機嫌を取るために、菜里子はホームページを立ち上げた。菜里子の作品を素材にして亜衣が作ってくれたホームページは、トップページにアクセスするたびに無数の蝶がきらきらと舞う仕様になっている。何度見ても美しく、気分が上がる。アイコンはすべてアゲハ蝶だ。このくらいの遊び心はいいだろうと、菜里子は誰かにいいわけするように思っている。
 応援メッセージが寄せられる掲示板に、新規の書きこみが増えている。
『高校生です。バイトしてイラスト集を手に入れました。NARIさんの世界が、もう大好きで……。枕元に置いて寝ています』
『LINEスタンプ買いました! まさにああいうタッチのスタンプがほしかったので超お気に入りです! みんなに真似してほしいようなしてほしくないような……(笑)』
『こんにちは。個展とかはもうやらないのですか? 自分はやっぱりNARIさんの油彩画が好きです。大きなキャンバスで観てみたいです』
 SNSの全盛期に個別のホームページを訪れてくれる人はけっして多くはないが、それでもアクセスするたびに書きこみが増えていて、菜里子の胸に火が灯る。しばし頭痛を忘れて読みこんだ。
 イラスト集は、フリーランスとしての最後の時期に作ったものだ。ブレイクするきっかけになった扉絵の仕事を依頼してくれてからずっと交流の続いていた編集者が、アートジャンルの書籍を主力商品とする別の出版社に転職し、ぜひNARIとしてイラスト集を出さないかと持ちかけてくれた。ソフトカバーで気軽に持ち歩ける判型にしたことが功を奏したか、若い世代を中心に人気が出た。
 自分のセンスも情熱もぎゅっと凝縮されたその一冊は、新たな依頼の呼び水になり、会社を立ち上げようという思いつきを後押ししてくれた。今も継続的に売れ続けていて、業績を下支えしてくれている。
 蝶をモチーフにしたLINEスタンプは、アトリエNARIの宣伝を兼ねて今年の頭にリリースした。仕事の合間にちょこちょこと描き溜めたイラストを、亜衣がサイズ調整から背景透過、申請までほとんど引き受けてこなしてくれた。こちらの売れ行きもそこそこ好調なので、年内にでも第二弾をリリースしたいと考えている。
 ああ、よかった。私のイラスト、ちゃんと届いているんだ。この世界で、ちゃんと誰かの役に立っているんだ。ちゃんと誰かの生活に、文字通り彩りを添えることができているんだ――
 電話が鳴り、意識がwebから引き戻された。ポッ、と環が通話ボタンを押して受話器を持ち上げる。
「お電話ありがとうございます。アトリエNARIでございます」
 環はとてもいい声をしている。水を含んだような、潤ったハリのある声。私なんかよりよっぽどアイドルに向いている気がする。
 ええ、ええ、とメモを取りながら、環は耳に髪の毛をかけた。ふっくらとした耳たぶにぶらさがったピアスが、窓からの光を反射した。
 ――え?
 菜里子は無言のまま激しく混乱した。
 とろんとしたしずく形のピアス。偶然だろうか。
 そんなことって、あるのだろうか。

     □

 表面のほんのり焦げたチーズがどこまでも伸びる。伸びる。
「ちょ、ちょっ、やばい、助けて」
「もうかぶりつけ、かぶりつけ」
 亨輔と声を上げて笑った。歯を立てて齧りついた窯焼きピザの薄い生地はほどよくもっちりしていて、フルーティーなワインとよく合った。
 カランコロンとドアベルが鳴り、新しい客が入店する。その都度スタッフが「ボナセーラ! いらっしゃいませ!」と劇団員のように唱和する。それが聞こえたときだけ、環は皮膚がむずむずした。不自然な明るさは、人を落ち着かなくさせるものなのかもしれない。
 デートらしいデートは久しぶりだった。月初の中山道まつり以来だ。
 今回、環の誕生日が平日だったことで、亨輔が比較的スムーズに休みを取得し、環の仕事帰りに川越で落ち合うことができた。
 二十五歳。亨輔と付き合い始めたのが二十三歳になる直前だったから、もう丸二年だ。一般的な恋人たちなら、そろそろ結婚の話題が出てもおかしくない頃かもしれない。亨輔にはしかし、そういうことを考えている気配がまるでなかった。
 ――そもそも結婚するかどうかもわからないんだもの、あんまりそういうこと言わないほうがいいかもよ。
 思考の隅に追いやっていた言葉がぽろりと目の前に落ちてきて、口の中のピザが急に味をなくす。
 どうしてわたしはまたよけいなことを口走ってしまったのだろう。どうしていつもうまくいかないのだろう。せっかく転職できたのに。誕生日だからと意気込んで、久しぶりに取り出した黒蝶貝のピアスを御守りのように着けていたのに。
「なになに、どしたん? 顔が暗いよ」
 イタリアンサラダを旺盛に食べながら亨輔が顔を覗きこんでくる。しゃくしゃくと健康的な咀嚼音がする。その大きな唇がドレッシングでてらてらと光っている。
「いや、なんか……つぶしの効かない歳になってきたなあと思って」
 無難な返事をしたつもりだけれど、結婚というデリケートな話題につながりかねないと思い至り、環はひとり気まずくなった。しかし亨輔はそんな繊細なニュアンスに気づく様子もなく、新しいピザのピースに手を伸ばしている。
「そんなことないっしょ。二十五なんてまだまだ可能性に満ちてるじゃないですか」
「でも、もう四捨五入すれば三十だし……」
「前から思ってたけど、年齢の四捨五入って何の意味があるの? たまちゃんが若くて元気でかわいいのは揺るぎない事実じゃん。俺はむしろ早く歳とりたいって思うよ。知識や経験を積んでハクがついたイケオジになって、不思議な威厳を備えて商品を売りまくりたいね」
 なんて楽観的なのだろう。それが亨輔のいいところでもあり、少し不安なところでもあった。女性と男性とでは見えている世界も年齢の持つ意味も異なる。でも恋人の誕生日くらいは、二十五歳という数字の重みにもう少し寄り添ってくれてもいい気がした。
 とはいえ、恋人にかわいいと言われるとやはり胸の奥がくすぐったくなる。亨輔はいつも真顔でさらりと「かわいい」を口にする。その言葉が意味するところは容姿が整っているということに限定されず、笑顔が癒されるとか雰囲気が好ましいとか化粧や服が似合っているとか、複合的な要素をざっくりと包括していることを環はもう知っていた。だからこそ卑屈にならずにその賞賛を受けとめることができる。亨輔が本当に感じたことしか言わない人間であることを、二年の付き合いで環は熟知していた。
 どわっ。隣のテーブルから騒がしい声が上がった。
 環よりわずかに若く見える男女混合の顔ぶれで賑やかに飲食しているグループ。どこかの大学のサークルだろうか、新社会人の合コンだろうか。男性側の気の抜けたような服装から、前者ではないかと環は見当をつける。女の子たちは皆隙のない化粧を施し、ファッション雑誌から抜けだしてきたようなコーディネートだ。無造作にワイングラスをつかむ指先はマニキュアで彩られ、手首には細いブレスレットがきらめいている。この暑いのに、どの子の脚もぴしりとストッキングで包まれていた。どの子も、オーディションを受けていた頃の環よりよっぽど洗練されている。
「それ、いいね」
 亨輔に言われて視線を正面に戻した。恋人は環の顔をまっすぐに見ている。
「それって?」
「そのピアス」
「……ああ」
 視線を受けとめ、耳たぶに手をやった。久しぶりに吞んだワインのせいで熱を持っている。そこにぶらさがる小さな貝のピアスをそっと指先で弾いた。
「黒蝶貝っていうんだ」
 隣席の騒がしさに負けないよう声を張った。
「なになに?」
「黒蝶貝」
「くろちょうがい? あ、貝?」
「そう。ブラックパールがとれるやつ」
 黒の、蝶の、貝。アゲハのために存在するかのようだ。思うたびに甘い溜息が出る。
 ステージに向かって幼い腕を伸ばしたときのことは、いつでもくっきりと鮮明に脳裏に再現できる。首を傾げながら、自分の耳たぶからピアスを抜き取るアゲハ。ステージに膝をつき、目線を合わせて渡してくれたこと。生の声とマイクで増幅された声が重なって聞こえたこと。後ろからずっと自分の肩をつかんでいた父の手の温度。
 まさかあのときのアイドルが自分の上司になるなんて、いったいどれほどの確率だろうか。宝くじが当たるよりも驚くべき偶然ではないだろうか。
「へええ……よくある天然石とかシルバー系とまた違って、光りかたが独特ですごくいいよ。色もシックだからどんな服にも合いそうだし、たまちゃんにすごく似合ってる」
 例によって真顔で亨輔は褒めた。仕事でアクセサリーも扱う彼は、さすがに目ざとい。
「ありがとう」
 かつてアイドルを目指していたことは、付き合い始めて早い段階で話してあった。でも、そのきっかけになったアイドルについて触れたことはない。昔ひっそり活動して消えた埼玉のご当地アイドルユニットのことを、北海道生まれ東京在住の亨輔に話して興味を持ってもらえるか、自信を持てずにいた。このピアスも特別な日にしか着用してこなかったから、彼の目に触れるのは初めてだったのだ。
「どこで買ったの?」
「――これね、もらったんだ」
 誰から? とたずねられ、環はためらいながら唇を開く。
 かしゃん。グラスの倒れる音がした。また隣の席だ。うわあなにやってんだよ、最悪、だっせえ、店員さんすみませーんおしぼり。騒々しさに拍車がかかり、店員がばたばた走ってくる。
 あーあ。だからもうちょっと落ち着く店がよかったのに。少しだけ亨輔を恨めしく思い、次の瞬間には気分を立て直す。なんたって誕生日なのだから。
「長くなるから、亨輔のうちで話すよ」
 彼の耳に顔を寄せ、口に手を添えて囁く。その顔がわずかに赤くなるのがわかった。
 デートが久しぶりなら、恋人らしい時間を過ごすのももちろん久しぶりだった。

     ■

『ご活躍ですね! NARIさんのLINEスタンプ、周りで使ってる人多いですよ! オレ投稿仲間だったんだぜ~って自慢してますw イラスト集も図書館に置いてあるの見ました。有名人! 僕もくすぶってないで投稿頑張らないとなーと思う日々であります。猛暑が続いてますのでご自愛くださいね。先日親父が熱中症で倒れました。救急搬送されて大変でした。最近は若い人もくも膜下出血で突然死したりしますから、お互い油断できませんな。 猿丸』
 掲示板に書きこまれた応援メッセージは、管理者である自分たちが承認するまでは非公開になっている。「承認」をクリックしたあと、菜里子はコーヒーを飲みながらあらためて読み返し、返信を打ちこむ。
『いつも応援ありがとうございます。LINEスタンプもイラスト集も魂こめて作ったので嬉しいです。お父様大変でしたね。健康にはくれぐれも気をつけたいものです。 NARI』
 打ちこみながら、少し他人行儀だろうかと思う。いや、そんなことないか。この人はよくメッセージをくれるけど、実際には会ったこともないのだし。よけいなことを考える前に、えいっとENTERキーを押してしまう。
『イラスト現代』という雑誌を、かつて菜里子は愛読していた。画法を洗練させるための特集や注目アーティストのピックアップ、美術展のお知らせや画材の広告などで構成されている、イラストレーター志望のための隔月誌だ。
 最も熱いのは、巻末の投稿コーナーだった。誰もがイラスト作品を投稿でき、毎回入賞作品が選出される。上位の賞には副賞として賞金や画材などが与えられた。年末の特大号では年間賞が決定され、そこからプロとして羽ばたいてゆく者もいた。油彩や水彩はもちろん、パステル、色鉛筆、カラーペン、木炭など、画材は問わない。現在はデータ投稿も可能になっているはずだ。
 プロとして独立し忙しくなるにつれて、じっくり本や雑誌を開く余裕はどんどんなくなっていった。それでも近年のトレンドや注目のイラストレーターを知るために、会社の経費で定期購読を続けている。あとでゆっくり読もう、必ず。そう思いながら本棚に差しこむたび、罪悪感が顔を出しては消える。
 学生時代、菜里子はその投稿コーナーの常連入賞者だった。一度だけ年間賞の次席になったことがあり、それをきっかけに仕事の依頼が来たことがNARIの原点でもある。
 猿丸と名乗るこの人物は、菜里子と同時期に投稿していたらしい。掲示板への最初の書きこみは「僕のこと覚えてますか?」だった。同じ号で佳作に選ばれていたことがあるというのだが、菜里子は記憶にない。そもそも他の投稿者の名前までいちいち覚えているタイプではなかったので、最初は困惑しかなかった。
 けれど、ファンサービスもクリエイターの大切な仕事である。書きこみがあればそのボリュームに応じて返信し、彼が自分に抱いているらしい親近感に付き合うようにしていた。誹謗中傷でも冷やかしでもないのだし、ページが賑わうのはよいことだ。ホームページの掲示板というのはもっと荒らされるものという印象があったけれど、イラストのファンは常識をわきまえた人が多いのか、菜里子が不快になる書きこみはほとんど目にしたことがなかった。
 さてと。首をこきりと鳴らすと、向かって右手の席に座っている環がわずかに肩をびくりとさせるのがわかった。
 先日、理由もなく突き放すような受け答えをしてしまったことは、菜里子の胸にも苦く燻っている。あれから環は業務上最低限の範囲でしか話しかけてこない。そんなふうにびくびくされると自分もそれなりに気難しい上司を演じなければならないような気がしてきて、人間の心理とはつくづく不思議なものだなと他人事のように感じている。
 午後は都内で大切な打ち合わせがある。順子との飲み会に着ていくために服も新調したい気分だし、久しぶりに大きな画材屋も覗きたい。ああ、小さなことを気にしている暇なんて一秒もないはずなのに。
「戻りましたー」
「やっほー」
 銀行へ記帳に行っていた亜衣とともによく見知った顔が受付に現れて、思考がぱちんと断ち切られた。条件反射で腰を上げた環が、あ、とつぶやく。
「ランチのお誘いに参りました、菜里子様」
 勝手知ったる他人の会社といったふるまいで、船橋は大股に歩いてみせる。青海波のプリントされたシャツは、いつかの誕生日に菜里子が贈ったものだ。
 法人化を提案し、物件探しまで付き合ってくれた船橋にとって、たしかにアトリエNARIは彼の庭のようなものだった。たまにこうしてカフェのコーヒーやスイーツの余りを持って営業中にふらっと入ってきては、無駄話をして帰ってゆく。ふたりの関係を知る亜衣もすっかり彼に心を許している様子だった。
「さっきそこで会っちゃって。ねっ」
「ねっ」
 船橋と亜衣が笑顔を交わす。一瞬、ふたりが歳の離れたきょうだいに見えた。
「『湖』は? いいの?」
「今日はバイトがフルメンバーだから平気。店長帰っていいですよとか生意気言うからほんとに出てきちゃった。メシまだなら一緒に行かない?」
「え、でも今日、代々木で打ち合わせなんだけど」
 恋人同士特有の甘やかさを最大限に排除した声で応じる。いくら距離の近い人間とはいえ、部下の前で緩みきった態度を見せたくはない。
「何時から?」
「三時から……」
「ならそのまま車で送ってくよ。亜衣ちゃん、環ちゃん、社長借りてくね」
 こちらの都合も確認せずに、船橋はひとりでさくさく決めてしまう。菜里子は慌てて資料をかき集め、ノートパソコンの充電ケーブルを引き抜く。
「ごめんね、そしたら早めに出るから。ふたりでお昼てきとうに回してね。終わる時間によっては直帰するかもしれないから戸締まりよろしくね」
「はいっ」
「はあい、お任せくださーい」
 環の力んだ返事と、亜衣のゆったりした返事が重なる。
 ばたばたと準備を整え、予定していた時間よりずいぶん早く、船橋とともに会社を出る。九月に入っても容赦なく強い陽射しがかっと肌に降り注ぐ。船橋が利用している月極駐車場は「湖」のすぐ裏手にある。照り返しの強い舗道を、ふたりは駅方面に向かって歩く。
「ん」
 半歩先を歩く船橋が振り返って腕を差しだしてきた。
「え」
「持つよ」
 菜里子の返事も聞かずに、船橋は菜里子のノートパソコンの入った大きなトートバッグを奪いとった。駐車場はすぐそこなのに。
 自分のように世界との距離感がつかめない人間には、こういう男が必要なのだ。菜里子はあらためてそんなことを思う。
 彼の青いシャツが陽射しを反射して輝き、海をまとっているように見えた。

     □

 菜里子がほとんど船橋にさらわれるようにして事務所を出て行ってしまうと、空気がゆるりとほどけ、亜衣がリラックスモードになった。銀行で記帳してきた通帳をものすごい速さで会計ソフトに打ちこみ、「しゅーりょー」と両腕を振り上げて微笑む。環も無意識に肩に力が入っていたことに気づき、ふう、と息を吐いた。
 亜衣がいつも着用している赤いフレームの眼鏡は、自分には到底似合わなそうだな、と考える。個性的なファッションが悪目立ちしない彼女をうらやましく思った。
「前はこういう時間ひとりだったから、環さんがいてくれるようになって嬉しいな」
 そう言われて、環はわずかに頰を熱くする。社長にはどうやら好かれていないようだけれど、このすてきな先輩はとてもフレンドリーに接してくれる。入社当時は優秀でおしゃれな印象ばかりが強かったが、ふたりのときの亜衣はよく喋る気さくな先輩だった。
「ね、お昼ふたりだから、ここでピザでも取っちゃおうか」
「えっ」
 弁当持参生活はなかなか続かず、ここのところ昼は外へ食べに行くことのほうが多かった。外へ出たほうが気分転換になるし、どこのランチが安くておいしいか、という情報を亜衣と交換するのも楽しみのひとつになっていた。
 会社でのデリバリーはまだ経験がない。環の胸は小さく躍った。
「……いいんですか?」
「もちろん。ピザ好き?」
「はい、大好物です。あっでも」
「でも?」
「先週の誕生日に食べてきたばかりで……」
 気分を害してしまわないかちらりと不安になったものの、亜衣はむしろ目を輝かせた。
「え、え、お誕生日だったの? 言ってくれればいいのに! 何かプレゼントしたかったよー」
「そんなそんな」
「え、先週のいつ?」
「二十九日です」
「八月の二十九ね、カレンダーに入れちゃお。ちなみにあたしはクリスマスイブなの。超覚えやすいでしょ」
 学生のようにきゃっきゃと雑談に花を咲かせる。こんな時間には電話が鳴らないでほしいと、従業員にあるまじきことをこっそり思った。Googleカレンダーで、来客予定の確認までした。
 亜衣が前から目をつけていたというスペインバルから、パエリアをデリバリーしてもらうことになった。ランチ営業もしているスペイン居酒屋だ。
「魚介のパエージャ」「海老づくしパエージャ」「夏野菜のパエージャ」「ステーキパエージャ」と様々に用意されたメニューに目を奪われ、環は早くもごくんと喉を鳴らした。さんざん悩み倒して結局オーソドックスな「魚介のパエージャ」に決まり、せっかくだからと、少しだけ予算オーバーしてサラダも付けた。この暑い中外へ出ることなくスペイン料理が食べられるなら、高いとは思わない。
 ホームページからオーダーを進めてゆくと、「40分後にお届け予定です」と赤字で表示された。支払いは亜衣の登録したクレジットカードで決済され、環が自分のぶんを現金で払おうとすると「誕生日祝いにさせて」と頑なに拒否され、結局奢られてしまった。
「ご馳走になります……すみません」
「パエリアって二人前からしかオーダーできないから、こういうときこそだよね。ああ楽しみ」
 亜衣がうきうきと言うのを聞きながら、環は不思議な感慨にとらわれていた。
 女同士でこんなふうにわいわいするの、いったいいつ以来だろう。
 高校時代はオーディションやらタレント養成スクール通いやらで忙しく、友達とプライベートで楽しく過ごした記憶はほとんどない。大学時代はそれなりに青春を満喫したけれど、初めてできた恋人に夢中になり、卒業後にふられるまで、ほとんどの休日を彼に費やしていた。志保以外の友達とはSNSでゆるくつながっているだけで、特に連絡を取り合っていない。というか、志保とさえもしばらく会っていないような……あれ?
「あっそうだ、菜里子さんいないうちにあれやっちゃお」
 ぼんやり考える環をよそに亜衣は仕事モードに戻り、マウスをかちりとクリックしてウィンドウを折り畳んだ。
 そうだ、業務中だった。一緒に見ていた亜衣のモニターの前を離れ、反対側の自分の席へ戻る。
「わあ、すごいタイミング。菜里子さんが行った直後にこれかい。セーフ」
 珍しく亜衣がぶつぶつとひとりごとを発している。何か反応すべきかと思い、椅子の背を引いて座ろうとした体を止めた。
「どうしたんですか?」
「ホームページの掲示板。たまにだけど、悪意のある書きこみが来るからね。ちょくちょくチェックして、菜里子さんが目にする前にあたしが削除してるんだ」
「えっ」
 胸をひやりとしたものが流れた。
 亜衣に手招きされ、環は再び亜衣の席に回りこんだ。菜里子のイラスト素材と亜衣の技術で作られたという、隅々まで美意識の行き渡ったホームページ。その掲示板の最上部、「承認待ち」となっている文章を見て、環は戦慄した。
『誰でも描ける絵ばっか。イラスト集もクソ。美大に行ってないのバレバレのお粗末なレベル』
 ぬらぬらとした悪意、いや敵意か。泥水のようなどす黒い感情が美しいホームページを汚している。菜里子の涼しい目元を思いだして胸が痛み、環は具合が悪くなりそうだった。
「別にイラストレーターは美大行ってる必要ないのにね、画家じゃないんだし。この人なんもわかってない。『バレバレ』とか意味わかんないし」
 えいっ。小さく言いながら、亜衣は書きこみの右下にある「削除」ボタンをぽちりと押した。書きこみは消え、環は思わず胸に手をあててほっと息を吐いた。
「どうせ管理者が承認するまでは非公開なんだけどさ。そんなのにわざわざ手間かけて書きこもうってのが悪意を感じるよね」
 亜衣が頭を揺らすと、初対面のときよりわずかに伸びた彼女の黒髪が顎の下で揺れた。サマーニットから伸びる白い首筋に目を奪われる。
「めったにないけど、念のためSNSも見回ってるんだ。風評対策って業者使ったら結構するからね、料金」
「……すごいです亜衣さん、さすがっていうか」
 自分の語彙の少なさをはがゆく思いつつ、心から敬意をこめて環は言った。
「菜里子さんにはこんなつまらないものでモチベーション落とさずに思いきり仕事しててほしいからね」
「ほんとそうですね。……あの、その作業ってわたしにもできますか?」
「もちろんだよ。管理者ログインすれば誰でも。ああ、でも菜里子さんは、環さんにはこういうの見られたくないんじゃないかな」
 亜衣の機転や細やかな配慮に、環は自分の未熟さを思った。わたしはきっと、そこまで繊細に他人を思いやれない。
 結局、オーダーしてからいくらも仕事らしい仕事をしないうちにパエリアが到着した。スパイスの香りがこぼれる大きな箱を、打ち合わせコーナーのテーブルに運ぶ。
 ひととき仕事を忘れ、ふたりで旺盛に食べた。付属のプラスチックのスプーンは、銀皿にこびりついたサフランライスを剝がすには少し強度が心許なく、来客用のティースプーンを出してきて使った。残り少なくなってくると、皿に取り分けずに直接口に運び、いたずらをした子どものようにくすくすと笑い合った。
 誕生日のことに再び話題が及んだ流れで、亨輔について初めて亜衣に話した。亜衣にも年上の恋人がいるという。クリスマスイブの彼女の誕生日には絶対に何か贈ろうと、心の隅にメモをした。
 会社の先輩に友情を感じるのは、おかしいだろうか。それとも、こういう感情には既に何か名前が付いているのだろうか。
 事務所にスパイスや魚介の香りが広がり、海老の殻やムール貝を触った指先は汚れ、それらにさえ非日常的な楽しさを感じて、環はいっそう声を立てて笑った。

     ■

 改札を抜けると夕闇が迫っていた。九月に入り、日が沈むのがずいぶん早くなった気がする。日中はまだ真夏と変わらず暑いというのに。
 大宮まで出向くよと順子は言ってくれたけれど、結婚して都心に住む彼女に足を運んでもらうのは気が引けた。そこで、ほぼ中間地点をとって板橋駅で会うことにした。
 小さな時計塔をぐるりと囲む銀色のパイプに腰かけて順子は待っていた。その体が前回会ったときよりひと回り小さくなった気がして、はっとする。白っぽいサマーニットから肉づきの薄い肩が露出している。こちらに気づき、「よ」と肘を直角に曲げながら立ち上がる。動揺を気取られないよう笑顔を作って、菜里子も「よ」と手を挙げた。
 順子の予約してくれた旧中山道沿いにある創作和食ダイニングに入ると、天井からぶら下がるガラスのランプシェードが、かつてのユニットメンバーの顔を残酷なまでに明るく照らしだす。目じりの皺もほうれい線も深くなり、頰は健康な豊かさを失っていた。生活疲れという言葉が脳裏をよぎった。
「梅酒にする? それか、ここオリジナルカクテルもいろいろあるらしいよ」
 菜里子がビールや日本酒をあまり吞まないことを知っている順子がドリンクメニューをこちらに向けて差しだしてくれる。自分にはそういう心配りがあまりできないな。目の醒めるように青いカクテル、ブルー・ラグーンを指差しながら思った。
 酒豪の順子は黒ビールを選んでいる。あの頃のお互いのメンバーカラーを選び合っているかのようで、少しおかしくなった。ルリシジミ担当のルリとして活動した順子は、今でも水色や青っぽい色のイメージを菜里子に与える。
 形ばかりグラスを合わせ、いそいそとカクテルのストローに口をつけようとすると、
「ちょっと待って、撮らせて」
 順子がスマートフォンのカメラでふたりぶんのグラスを撮影し始める。カシャカシャとシャッターの疑似音が鳴る。絵の資料になるかもしれないと、菜里子も自分のスマートフォンを引っぱり出した。
「はい、いいよー。ごめんね、吞もう吞もう」
「吞もう吞もう。今日はお義母さん、大丈夫だった?」
「平気。菜里子が社長だからじゃないかな、なんか社会的信用度の高い人と会うときは快諾してくれるんだよね。権威に弱いっていうか」
「そんな……そうなんだ」
 ビールを呷る順子の白い喉が健康的に動くのを見て、菜里子も少しほっとしてカクテルを口にした。
 最後にメンバー全員で会った日から、もう六年も経つ。
 解散しても四年に一度のオリンピックイヤーには全員で集まろうと誓い合った。途中までは守られていたその約束が消滅したのは、やっぱり自分のせいなのだろうか。
 とうとう誰も動かずにリオオリンピックの年が終わったとき、菜里子は四人の絆が崩れ去ったことを悟った。
 かといって、寂しさの募ることはなかった。当時既に仕事が軌道に乗って受注がパンク気味だった。それに、その頃には順子とふたりで会う習慣が既にできていた。現役の頃から、メンバーでいちばん波長が合うと感じていたのは順子だった。
 順子以外のふたりとは、あれきり連絡をとっていない。
 メンバーの中で最初に結婚し、菜里子と会うたび妊活というものについて赤裸々に語っていた順子は今、五歳の男の子の母だ。今夜は近所にある義実家に預けて時間を作ってくれている。
 念願の母親という生き物になれて幸せであるべき彼女は、会うたびにやつれてゆく気がする。その理由に深く踏みこむのがどことなく怖くて、菜里子はついつい自分の話ばかりした。新しく雇った若いスタッフのこと。仕事ぶりはよいが前のめりすぎてたまに疲れること。その子がどう見てもあのときの黒蝶貝のピアスと同型のものを着けていたこと。
「何それ、すごい」
 順子は目を輝かせた。
「もちろん私のあげたものとはかぎらないんだけどね」
「うーん、まったく同じものも流通してるだろうけど、だとしてもすごいよ。本人に訊いてみたら? あっでも、そうするとサディバタのこと話さなくちゃだめか」
「そうなんだよねえ……」
 息を吐きながら、いつのまにか雑然としているテーブルを見つめる。大根とじゃこのはりはりサラダ。燻製ハムのポテトサラダ。鮮魚のカルパッチョサラダ。気づけばサラダだけで三種類も注文していた。白いごはんが大好きだった順子なのに、ごはんものがひとつもない。それを言うため口を開きかけたとき、
「菜里子はすごいよ」
 黒ビールから芋焼酎に切り替えた順子が、とろんとした目つきでつぶやいた。
「ひとり暮らししながら自分の会社起こして、経営も創作も両立して、ふたりも部下を雇って、本当にすごい。眩しすぎて直視できないよ」
「なに言ってるの」
 照れ隠しにカルパッチョを無造作に口に入れ、咀嚼しながら厚焼き卵を箸で割った。
「謙遜でもなんでもなく、順子のほうがすごいよ。人間を一から生み育ててるんだもん。未来の社会の構成者をだよ。私なんて自分自身の世話で手一杯だよ」
 心からの本音だった。でも順子は静かに首を振る。言いたいことが他にあるようだった。沈黙がまたふたりの間に横たわり、低い音量でかかっているジャズが急に意味を持ったものに感じられた。
「追っかけのほうはどうなの、最近」
 話題を変えてみた。出会った頃から順子は筋金入りの男性アイドルファンで、サディバタに加入したのも芸能界へのコネクションとなり得る細い糸を手繰る気持ちだったと語っていた。結婚相手は自分の追っかけ活動に寛容な人に限る! と高らかに宣言し、実際に条件に適う男性をつかまえたはずだった。
「んー、あんまり。ってか、全然」
 長い指先をそろえて額にあてた。そんな仕草をすると、ますます疲れが強調されて見えた。
「あたし、最近男性アイドル……ってか、男性芸能人を見る目が変わってきたんだ」
 意外な展開に意表を突かれながら、菜里子は顎を引いて続きを促した。
「自分が他人の妻になって、人の親になって、世界の見えかたがどんどん変わってきたんだ。家でも会社でも、お金にも名誉にもならない面倒な雑務は全部女が引き受けてる。母親にパンツ洗わせたり、妻や彼女にごはん作らせたりしないで活動している男性って、どのくらいいるのかな。なんかそう考えたら、大好きだったイチヤくんも急にださく思えてきたんだ。いつまでも実家暮らしだし、『そろそろ嫁がほしいっすね』とか平気で言っちゃうし」
 内容の湿っぽさとは裏腹に、さらさらと淀みなく順子は語り続ける。
「……旦那さんと何かあった?」
 近年たびたび話題になる「他人の夫をどう呼ぶか問題」を解決できないまま、結局そうたずねてみる。
「何もないよ。何もないのが問題なんだよ。会話もない、労りもない、セックスもない。そもそもお互い関心がない。あるのは不満だけ」
 きわどいワードが出てきてぎょっとする。この店は隣席との境をパーテーションで区切っているが、それでも他の客の耳が気になって、菜里子は小さく黒目を揺らした。
「あたし来世はぜったい男に生まれてくるんだ。どう考えたって不平等じゃない。股を切り裂かれる激痛に耐えながら命がけで肉の塊を生み落とすのに、その後も延々子どもと夫のお世話の人生が待ってるんだよ。検診とか予防接種とか、イレギュラーな予定を全部クリアしながら夫が文句つけないメニューを用意して待たなきゃいけないんだよ。ベビーカーなんて、バスとか電車に乗るときどうやって畳むと思う? 地面に落ちたらグシャッといっちゃう豆腐みたいな頭の赤子を小脇に挟んで、片手でこうやって」
 順子はグラスを持っていない左手でレバーを引くような仕草をした。
「なんとか畳んで乗りこんでも、舌打ちされたり邪魔だって蹴られたりするんだよ。どうして移動中のいっときくらい我慢してくれないの? みんなそんなに快か不快かだけで動けるご身分で本当にいいよね。こっちはさ」
 語る声に涙がにじむ。菜里子の胸に痛みが走った。
「こっちはさ、二十四時間命を守り続けて体も神経もへとへとなのに、どうして」
 とうとう両手で顔を覆ってしまう。その十本の指の間から、ふ――っと長い溜息が漏れた。
 ――孤独を抱きしめる青い夜 苦しみはいつまでも続かないさ
 ――思いだして仲間の笑顔 冷たい手をつなげばほら羽ばたけるから
 少しずつ大きくなってゆくステージの上で自分たちが歌い続けてきた持ち歌の歌詞が、ふと蘇る。なんて具体性のない、いっそ残酷な歌詞を歌わされていたのだろう。菜里子は戦慄した。羽ばたけなくなった蝶はどうしたらよいのだろう。
 ブルー・ラグーンは溶け残った氷で薄まり、淡い水色の中にさくらんぼの種が沈んでいる。
 誰よりも稽古に励み、毎回パフォーマンスのクオリティを上げるべく努力していたルリとしての順子の姿が、あどけない笑顔が、瞼の裏を鮮やかに駆け抜けていった。

     □

 コーヒーメーカーの手入れは、なかなか骨が折れる。
 フィルターに溜まった豆殻(と呼ぶのだろうか)は毎日捨ててゆすいでいるけれど、毎月一度はクエン酸水をドリップさせて水垢や渋を取らなければならない。
 給水タンクを満たした水にクエン酸を五グラム溶かし、ドリップのスイッチをONにする。クエン酸ドリップを三回繰り返したら、最後は水だけで行う。フィルターカバーにこびりついた黒ずみは、重曹ペーストを作って歯ブラシにつけて擦る……。
「それ、ひとりでやらなくていいよ」
 突然背後から声をかけられて、環はびくりとした。菜里子が不思議な笑顔で立っていた。てろんとした素材のグレーのワンピースを自分の皮膚のように着こなしている。おしゃれな人は何をどう着てもおしゃれなんだろうな。環は一瞬見惚れ、それから言われた意味を理解した。
「……えっ、でも、わたしの仕事ですから」
「いや、いくら新人だからって雑用やらせすぎちゃってるから」
 言いながら、菜里子は環の横に立ち、優しい手つきで歯ブラシを奪った。
 え、でもわたし、そのために雇われたんですよね? 亜衣さんみたいにDTPの制作ができるわけでもないし、経理システムも触らせてもらってない。できることは限られているので、むしろやらせてください――
 言葉は喉の中で渦巻き、うまく出てこない。しゃかしゃかとフィルターカバーを擦る音が、小さな給湯コーナーに響く。
「あの、でも、社長は制作が、制作を……」
 濡れた手を持てあましながら、菜里子の顔を窺う。
「平気。さっきひとつ納品したばっかりだから。ね、コーヒーメーカーの掃除って今どんな頻度でやってるっけ」
「えっと、クエン酸洗浄は毎月一回です。最終営業日に……」
「じゃあそれさ、持ち回りにしよう。今日はほとんど町川さんがやってくれたから、来月は私、その次は毛利さんで」
「あの、いいんですけどあの、それだとわたしの存在意義が」
「存在意義!」
 初めて聞いた単語のように菜里子は復唱し、顎を反らしておかしそうに笑った。嫌な気分にはならなかった。その目元に慈愛のようなものがにじんでいたから。
「町川さんにはちゃんと助けられてるよ。それに若い人のキャリア形成っていうものをちゃんと考えることにしたの。これからはもうちょっといろんな業務を覚えてもらうつもりだから」
 なんだかいつもの社長らしくない。そう思いながらも、冷えた胸が温まってゆくのがわかった。先月の誕生日に生じた見えない膜は、今日はどこにも感じられなかった。
「はい、あの、ぜひ」
 胸を熱くして答えると、菜里子は口角をきゅっと持ち上げて微笑んだ。幸福感が環を包む。
 よかった。やっぱりわたしここへ来てよかった、本当によかった。
 一緒に二回目のクエン酸洗浄をセットして、自席に戻る。九月も半ばだというのに、窓の外にはまだまだ夏の濃厚な気配が居座っている。
「ファイリングとか、たまには私がやるよ」
 菜里子は今度は納品書の整理をしている亜衣の背中に呼びかけている。いえいえこれは自分の仕事なので、菜里子さんは制作を。亜衣も環と同じ返事をしている。
 いったいどんな心境の変化なのかわからない。それでも、そのままでいてくれたらいい。環の隣をふわりと離れた菜里子の温かい気配がまだ残っているのを感じながら、自分の席の椅子を引いた。腰かけようとしたとき、電話のベルが鳴った。
 電話を真っ先にとるのは完全に環の役割になっている。受話器を顎の下に挟みこみながら電話メモを引き寄せ、ペン立てからジェルインクのボールペンを抜きだした。
「お電話ありがとうございます。アトリエNARIでござ……」
『NARIちゃんいる?』
 環が言い終わる前に相手がかぶせてきた。
 そのきんきんした声とせっかちさで、もうわかる。TIAというイラストエージェントの橋口という男だ。イラストのみを菜里子に外注し、自社デザイナーがそれをデザインして広告代理店に渡すというのがいつもの流れらしい。メールで済む内容でも毎回電話してくる上に雑談も長いので、菜里子も亜衣も彼の名前を口にするたびに苦笑している、そんな存在だった。
 イラストの仕事はイラストエージェントと呼ばれる業者を通して依頼されることが多いが、橋口はいつからかエージェントを通さず直接依頼してくるようになっていると亜衣から聞かされていた。それでも彼が広告会社からもぎとってくる案件はひとつひとつがかなり大口であるらしく、大切な取引相手であることは間違いないようだ。環は直接会ったことはないが、菜里子によれば「気のいいじいさん」であるらしい。
「恐れ入りますが、お名前をいただけますでしょうか」
 相手がわかりきっていても、とにかく名乗ってもらってから取り次ぐのがビジネスルールだ。ここで教わらずとも社会常識だと認識している。だから環はそう言った。
『NARIちゃんいるかって訊いてんの』
 橋口の声に苛立ちが含まれた。心臓がぴりっとなる。でも、今更「失礼しました、橋口様ですよね」とは言えない。
「あの、恐れ入りますが、お名前を――」
『あんたさあ』
 橋口が色をなしたのがわかった。
『わかるでしょ、橋口でしょうが! あんた入社してどんくらい経つの、え? 俺のことまだ覚えてないっていうの!?』
 思わず受話器から耳を離す。前回もその前も同じように対応したはずだけど、そうか今回は怒るのか。戸惑いながら、びりびりする鼓膜に思わず指を突っこむ。
『機械みたいにマニュアル繰り返しちゃってさあ、これだから若い者はって言われても仕方ないんじゃないの!? それともほんとに俺のことまだ覚えてないの!? どんだけ仕事できないのよ、え!?』
 感情に火がつくより先に、耳たぶが熱くなる。こちらの様子に気づいた菜里子と亜衣が顔を上げるのがわかった。
「――失礼いたしました。少々お待ちくださいませ」
 なんとか言葉をねじこみ、罵声をシャットアウトするように保留ボタンを押した。自分の指先が細かく震えていることに気がつく。
「社長、TIAの……」
「橋口さんでしょ? 替わる替わる」
 菜里子はすたすたと自分の席に移動し、腰かけながら受話器をとった。新人が失礼しました、と笑顔で応対している。その様子に物足りなさを覚えた。
「あの、すみませんでした」
 通話が終わるなり菜里子の席へ回って謝った。
「大丈夫だった? あの人たまに意味不明にキレるから気をつけてね」
「はい……でも、あの」
「ん?」
「先方に名乗ってもらってから取り次ぐっていうルールは間違ってないですよね?」
 震える声を絞りだす。それだけはどうしても確認したかった。わたしは間違っていない。あんなふうに恫喝される謂れはないはずだ。
「ああ、もう、いいよ。あの人、業界の常識とか超越しちゃってることで有名だから。『橋口様ですね』ってすぐに言っちゃっていいよ。臨機応変にね」
 いかにも軽い調子で言われて、環は釈然としなかった。
 だからって、特別扱いするんですか? 労りの言葉はもうないんですか? 臨機応変とは、なんて都合のいい言葉なんだろう。
 のろのろと自分の席に戻る。さっきまでの幸福感はすっかり霧散していた。
「もうちょっとフォローほしかったよね」
 菜里子がトイレに立った隙に、亜衣が向かいのデスクから声を落として話しかけてきた。
「え」
「こっちは怒鳴られるようなことしてないわけじゃん? いくら取引先相手でも、そこはもうちょいびしっと言ってやってほしかったよね。ただでさえ女ばっかの会社だから舐められやすいのにさ」
 亜衣が菜里子に対して批判的なニュアンスで話すのは珍しく、ようやくいくらか溜飲が下がる思いがした。

 家に帰れば母の作った夕食が食べられるのに、どうしても直帰したくない気分だった。チューニングを間違えたまま演奏しているギタリストのような居心地の悪さや不如意感を肌から引き剝がすことができない。
 菜里子とはなんだか嚙み合わないし、亨輔からはデートの予定をキャンセルされた。珍しく土曜日に有休がとれたから少し遠出しようと誘ってきたのは彼のほうだったのに、バイトの子が試験対策が間に合わないと泣きついてきたので代わってあげることにしたという。お人好しにもほどがある気がして、環は憤慨をこらえるのに必死だった。誕生日以来会えていないというのに、彼は平気なのだろうか。
 夕方から夜へと切り替わる薄闇の中を、環はぐずぐずと歩みをめぐらせた。いつものようにまっすぐ駅前を目指す気にはなれない。商業施設に立ち寄れば、ついつい散財してしまう。それに、今は街の華やぎとは遠い場所に腰を落ち着けたい気分だった。
 路地に入り、一軒の店の前で足を止めた。ターコイズブルーの庇に、白抜きで「café 湖」と書かれている。自分が無意識にここを目指していたような気がした。
 来店するのは歓迎会のとき以来だった。木製のドアをそっと押すと、しゃららんと澄んだ音でドアベルが鳴り響き、環は一瞬身を硬くした。コーヒーの香りを含んだ冷気がふわりと体を包み、肌が汗ばんでいたことに気づく。
「いらっしゃいませえおひとりさまですか」
 やる気があるのかないのか測りかねる声で、若い女性店員がひと息に言いながら迎えた。アッシュグレーというのだろうか、飲食店の店員にはあまり見ない髪の色をしている。うなずきながら、つい探すような視線を店内にさまよわせた。
「おお、珍しいお客様」
 キッチンにいた船橋がひょいと顔を出し、環はようやくほっとした。髪のあちこちに寝ぐせがついているのがなんだか彼らしい気がした。この人はいつも、肩の力がほどよく抜けている。
 席を自由に選んでよい店では窓側に座りがちだが、今日はキッチンに最も近い位置に配された二人席を選んだ。テーブルの中央には麻紐を巻きつけた小ぶりのワインボトルが置かれ、オレンジ色のガーベラが活けてある。
 先程のスタッフが水とおしぼりを運んできて、お決まりになりましたらお知らせくださいと平坦な声で告げる。
 メニューを手にとると、胃に差しこむような空腹を感じた。ホットサンドや海老ピラフ、カレーライスといった食事メニューが並ぶページを見つめる。実家に戻ってからの日々で、会社帰りに外食をしたことは一度もなかった。
「仕事終わりでしょ? お疲れさん」
 キッチンで作業しながら船橋が声をかけてくる。
「あ、はい、そうなんです」
「よかったら食事メニューもあるからね。簡単なものだけど」
「あ、はい、今見てます」
 自分の受け答えはどうしていつもおもしろくないのだろう。気のきいた返しというものができない。菜里子との会話でもいつも感じることを思いながら、環はオムライスとアイスカフェラテを注文した。「ほーい」と船橋が応じて奥へ引っこむ。
 外食して帰る旨を伝えるべく母にLINEを打ち、あらためて店内を見回す。
 歓迎会のとき貸し切りにした奥のスペースで、社会人女性のグループが笑いさざめいている。ノマドワーカー風の男性に、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる白髪の老人。見たところ店員は船橋と先程の女性しか見当たらないが、オペレーションは大丈夫なのだろうか。学生時代にファミリーレストランでアルバイトした経験を持つ環は、飲食店に入るとついそんなよけいなことを考えてしまう。
 船橋が自らオムライスを運んできた。わあ、と思わず声が出る。
 トルネードオムライスというやつなのだろう。卵はとろとろの部分を外側にし、中央でひねってプリーツを作るかたちに盛りつけられていた。カーブの深い木製のスプーンでつつくと、つやつや光るケチャップライスが顔を出した。
 どこか懐かしい味のするオムライスを、環は夢中で腹におさめた。卵がとろりと喉を滑り、ケチャップライスの中の玉ねぎやハムがほどよく主張する。上司の恋人が作った料理を食べるというのは妙な気分だった。
 女性グループが退店すると、店内BGMがクリアに聞こえ始めた。船橋はあまり音楽にこだわりのないタイプなのか、洋楽に詳しくない環でも知っている世界的ヒットソングが低く流れている。エスプレッソマシンの作動する音がそれにかぶさる。
 食後のアイスカフェラテを運んできた船橋は、そのまま環の向かいにすとんと腰を下ろした。通常の客と店員ならありえない行動なのに、不思議と嫌な気はしなかった。視線を感じながら、ガムシロップの蓋を剝がす。
「そういえば、環ちゃんって酒強いんだっけ」
「えっ」
 どうして知っているのだろう。ああ、歓迎会のときの会話を聞いていたのか。
「強いってほどじゃないですけど、まあそこそこ……」
「いいね。今度、吞みに行く?」
 近くにいいバーがあるんだ。なんでもないような口調で船橋はさらりと言った。ふたりでですか? と確認するのは無粋だとわかっていた。
 からん。カフェラテの氷が澄んだ音をたてた。

     ■

 順子と吞んだ夜から、自分の中に焦燥が生まれているのを感じていた。
 若い新人に身の回りの世話をやらせているなんて、結局自分も順子の軽蔑する男性芸能人と変わらないのではないか。経営者として、クリエイターとして、独り立ちしているとは言えないのではないか。そんな疑問がどうしても打ち消せない。
 初心を忘れすぎだったと深く恥じ入った。私、ちっともすごくなんてないよ、順子。心の中で語りかける。あの震える肩に。やつれた頰に。
 とりあえず誰にでもできる雑務のローテーションを組み、清掃業者に来てもらう日を増やして、スタッフの掃除の負担を減らした。クリアファイルに雑に挟んでいた書類をきちんと分類し、ファイリングした。バックヤードに溜まっている作品を整理し、環たちが収納に困らないようにした。自分で飲むコーヒーを部下に淹れさせるなんて、冷静に考えたらなんという傲慢さだろう。数か月前の自分を消したいくらい恥ずかしい。
 銀行へ記帳しに行くのも自分が外出のついでにやると亜衣に申し出たのだけれど、記帳と会計ソフトの入力は流れで行いたいからと固辞された。亜衣にはもっとデザインの勉強をする時間を与えたいのに、なかなかうまくいかない。
 何もかもうまくやろうなんて思うな。どこかの大企業の偉いおじさんによるwebコラムにそう書いてあった気がする。他人事のように感じて読み流したけれど、今からでもマネジメントの本を読んだりすべきだろうか。
 そんな思いから、久しぶりに書店に足を踏み入れた。東京から引っ越してきたばかりの頃から利用している、中規模のチェーン店。駅前まで行けばもっと大型の書店があるのはわかっているが、休日にまであまり駅前まで出たくないのが本音だった。
 文芸書コーナーで自分の手掛けた装画の書籍が積まれているのを確認してから、ビジネス書をチェックする。ずらりと並ぶ経営者向けの本のタイトルを見てもあまりぴんと来るものがなく、結局いつものようにアート本のコーナーへ移動した。構図や色遣いのヒントになりそうな写真集をぱらぱらとめくっていると、足元に何かがぶつかってきてよろけそうになった。
「うわっ」
 鮮やかなピンクが真っ先に目に飛びこんできた。
 激突してきたのは女児だった。三歳くらいか、四歳か。菜里子には子どもの年齢がよくわからない。自分からぶつかってきたのに、目に痛いほど激しいピンクのワンピースを着たその子は転んだ体勢のまま、納得のいかないような表情を浮かべて菜里子を見上げている。抱き起こすべきなのかどうか、暫時迷った。
「すみませーんっ」
 母親らしき女性が駆け寄ってきた。こちらはショッキングパープルのTシャツに白いサブリナパンツ。一瞬白髪と見分けがつかないほど明るい金髪に染めた髪を頭頂部で団子にまとめ、サングラスにチェーンをつけて首からぶら下げている。オープントウのサンダルからは、銀色に塗られた爪がのぞいている。
「駆けまわるなって言ったでしょ! ママ、あんたの絵本選んであげてたのに!」
 叱りながらしゃがみこみ、よろよろと起き上がった娘の尻をはたいている。その声と横顔に見覚えがあった。
「あれ……あの、もしかして美和?」
 ぎくしゃくと声をかけた。
「え、噓、菜里子?」
 渡邊美和は濃いアイラインに縁どられた目を見開き、こちらの全身にさっと視線を走らせたのち、やだ久しぶり、と笑った。距離感を推し量るような笑みだった。自分も今、そんな笑みを浮かべているのだろうと菜里子は思った。
「大宮に住んでるの?」
「うん。ダンナが転職して、会社がこっちのほうにあって」
「そうなんだ」
「菜里子は? 東京に行ったんじゃなかったっけ」
「あ、私も仕事の関係で」
 イラストのことも起業したことも、口にするのが憚られた。すぐそこの文芸書コーナーに自分が装画や装幀を手掛けたカバーのかかった本がいくつも並んでいることも。
 へえ、と美和が相槌を打つと、沈黙がふたりの間に横たわった。
 渡邊美和は高校二年のときの同級生だ。そういえば当時からファッションが個性的で、制服をアレンジして着ていた。指定の通学鞄にぶら下げられた海外アニメのマスコットがじゃらじゃらと揺れていたのを思いだす。
 クラスのムードメーカーだった美和と菜里子は妙に波長が合い、一時かなり親しくしていた。休み時間をともに過ごし、菜里子のライブやレッスンのない放課後、マクドナルドで喋り倒したこともあった。サディバタの知名度が上がり、菜里子を敬遠するムードがクラスに漂っても、美和とさえいれば心の安寧が保たれた。
『ごめんね。明日からお弁当はセイちゃんたちと食べることになった』
 液晶がカラーになったばかりの携帯電話で美和がメールを送ってきたとき、菜里子はさほど驚かなかった。美和のような明るく派手な子が、美人でもないのにアイドルをやっている自分なんかといつまでもつるんでくれるなどとは最初から期待していなかった。
 そうだよね、長いものに巻かれるほうが生きやすいよね。そう打ちこんでから全削除し、「了解」の二文字だけを送った。来るべき時が来たのだと静かに受け容れた。
 その翌日から、菜里子は屋上や学食でひとりで昼食をとるようになった。トイレに行くのも教室移動もひとりだった。美和はクラスを牽引する華やかなグループと行動するようになった。菜里子が誰かから露骨なからかいを受けると「やめなよ」と控えめに注意してくれはするものの、けっして以前のように寄り添ってくれることはなかった。
 菜里子はしゃがんで彼女の娘と目を合わせた。真正面から見ると、目の形も鼻梁のラインもはっとするほど美和に似ていた。
「おいくつでしゅかー?」
 小さい子への接しかたって、こういう感じでいいんだっけ。自信を持てないまま菜里子は笑顔を作り、問いかけた。娘はにこりともせず、菜里子をじっと見つめ返している。自分の奥にある美和とのわだかまりを見透かされそうな澄んだ目に、緊張を覚えた。私、やっぱり子どもは苦手だ。
「四歳でーしゅ。もうすぐ五歳でしゅよー」
 美和が娘の腕をつかみ、人形使いのようにぶんぶん振りながら代わりに返事をした。娘が平均よりも小柄なのか、自分が子どもの発達について知らなすぎるのか、菜里子には見当がつかない。
 互いの地雷を踏まないように当たり障りのない言葉を交わし、娘がぐずり始めたのを潮に、じゃあねと微笑み合って手を振る。美和はほっとしたような顔で娘の手を引き、立ち去った。ピンクとパープルが視界から消えるまで、菜里子はその場を動かずにいた。
 連絡先さえ、訊かれなかったな。
 ずっと手にしていた写真集を棚に戻しながら、安堵とも寂寥ともつかないものがじわじわと胸を満たした。
 連絡先をたずねなかったのは自分も同じだった。彼女の現在の名字も、子どもの名前すら訊かなかった。結婚おめでとうさえ言い忘れていたことに、帰り道で気づいた。

「三センチと言いますと、このくらいですね」
 美容師の指が菜里子の髪の毛をひと房指先に巻きつけ、軽く持ち上げる。
「カールさせたとき毛先が顎のラインに来るような形になりますがよろしいですか」
「はい、それでお願いします」
 菜里子よりひと回りは若いであろう女性美容師は鏡越しに真剣にうなずき、続いて前髪とサイドの仕上がりを確認する。大きなポケットがいくつも腰まわりを囲むように縫いつけられたエプロンは、とても機能的に見えた。ポケットに突っこまれた鋏やコームを、頭の中で自分の丸筆や平筆に置き換えてみる。
「カラーのお色味は今の毛先と同じでよろしいですか」
「んーそうですね、同じで……」
「今のミルクティーみたいなお色味もすてきですけど、ただいま季節的に秋色のカラーも人気でございますよ。オレンジや赤がちょっとだけ入るとまた印象が変わります」
「なるほど」
 笑顔よりも親しみを感じる真顔で美容師は薦めてくる。その力まない接客を心地よく感じ、素直にカラー見本を持ってきてもらう。髪が褪色したときの色味も勘案して、オレンジ寄りのワントーン暗めの色に決めた。
 自分も仕事柄、日々微妙な色味の調整をしているのだと、ふいに彼女に伝えたくなる。それにしても、仕事であれほど意識している季節感を自分の髪の毛に反映させようと思ったことはないと気がつき、おかしくなった。
 プラチナブロンドと言っていいほど明るく染められた美和の髪を目にしたことが、無意識のうちに自分の足を美容院へ向かわせたのだろうか。単純に気分転換をしたかったからかもしれない。ここのところ、心に負荷がかかりすぎていたような気がする。
 サロン予約アプリで見つけたこの美容院は駅からも自宅からも少し離れているが、全体的に雰囲気がいい。美容師がよけいな世間話をしないのが何よりいい。仕上がりに問題がなければリピートしよう、なんならこの人を指名しようと菜里子は早くも心の中で思い定める。
 その場限りの会話に価値を見出せず、上辺だけのコミュニケーションが苦手な菜里子にとって、美容院探しは難易度の高いタスクのひとつだった。数年前に気に入っていたサロンが都内へ移転してしまって以降あちこち利用してみたものの、どの美容院も共通して美容師が多弁すぎるのがネックだった。
 でもここなら大丈夫な気がする。定番の「今日ってお休みなんですか?」の問いも向けられていないし、過不足のないサービスのおかげでリラックスできている。それを確かめるように、パンプスに包まれた足をくるくると回した。
 肩に届くくらい伸びていた髪を三センチカットしてもらっただけで、頭がだいぶ軽くなった。自分のヘアスタイルを自分で決められることは、なんて幸せなのだろう。喜びがひたひたと全身に満ちてゆく。
 ――アイドルはストレートの黒髪と決まってるもんでしょう。
 母の言葉がうっかり再生されてしまう。あのときの声の響きまでも、そのままに。
 黒髪ストレートで過ごしていた時代、菜里子が電車の中でどれだけ痴漢に遭ったかを母は知らない。平日でも休日でも、すなわち制服でも私服でも同じだった。
 彼らは容姿の好みでターゲットを選ぶのではない。抵抗や反撃をしなそうな、おとなしそうな相手を選ぶのだ。
 そうだ、そのことをアドバイスしてくれたのは美和だった。高校卒業後、彼女の助言通り髪を明るく染めてショートボブにし、ついでに移動中だけサングラスを着用するようになってからというもの、痴漢に遭った記憶はない。再会したとき、そのことだけでも報告しておけばよかった。菜里子は小さく悔やむ。
 ツンとするにおいのカラー剤を塗布され、前髪までぺったりと撫でつけられる。こんな姿は誰にも見せられないなと思う。きれいになるための過程は往々にして滑稽だ。
 頭にラップを巻かれて放置されている間、ケープの先から指を伸ばしてスマートフォンを操作した。気圧アプリをチェックすると、グラフはやはり気圧が急激に下がっていることを示していた。どうりでさっきから頭痛がするはずだ。
 いつのまにか背後に美容師が立っていた。菜里子の頭のラップをぺりぺりと剝がして髪の毛をひと束とり、染まり具合をチェックしている。
「いいですね……はい、オッケーです。シャンプー台へご案内します」
「はーい」
「こちら段差がございますのでお足元にお気をつけください」
 美容師の小さな仕草やふるまいをありがたく感じるのは、自分の体やその一部をこんなふうに真剣かつ丁寧に扱ってもらった経験に乏しいからなのではないか。そんな思いが降ってくる。大事にされるたびにこんなことを考えなくて済む人は、なんて幸福なんだろう。
 菜里子の体重を受けとめたシャンプー台がかすかに軋む。仰向けた顔にガーゼタオルがふわりと載せられ、思考をクローズせよと言われた気がした。美容師の指に髪を梳かれ、シャンプーで泡立つ頭をマッサージされているうちに、浅い眠りが菜里子をとらえた。


【4月13日(木)17:00公開の第二章「諦念」へ続く】


黒蝶貝のピアス
砂村 かいり
東京創元社
2023-04-19



■砂村かいり(すなむら・かいり)
2020年『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』で第5回カクヨムWeb小説コンテスト恋愛部門〈特別賞〉を二作同時受賞しデビュー。