以前から、SFのアンソロジイを一冊つくってみたいと思っていた。
もしあなたが熱心なSFの読者なら、そんな考えを一度はお持ちになったことがあるにちがいない。なぜなら、小説ジャンルとしては決して大きいほうではないのに、SFほど人によって捉え方の異なる小説もちょっと珍しいからだ。SFの定義が、SFファンを自称する人びとの数だけあるという話は、すこしも大げさではない。そのひとりひとりが、いろんなSF作品を読みながら、感心したりがっかりしたりをくりかえし、もちろん、がっかりするほうが多くて、やがてある日あるとき、こんなことを考えはじめる。――どうして、おもしろいSFばかりを集めた本がすくないのだろう?というわけで、この本はぼくの長年の願いが結実したものである。しかしもちろん、内容はごらんのとおりで、これがおれの考えるSFだ、とか、優れたSFはこうあらねばならない、などというかたくるしい本ではない。アンソロジイとは、英和辞典によれば、「同一文学形式による、または同一主題に関する諸作家の選集」だそうだけれども、ここではむしろ、この語のもとになったギリシャ語の意味「花々を集めたもの」のほうがふさわしいだろう。SFを中心とするファンタジイの花畑で、この十年あまりのあいだに見つけ、『Men's Club』をはじめ『SFマガジン』『ミステリ・マガジン』『NOW』などの雑誌のページにはさんでおいた小さな花々を、ひとつにまとめたものである。立ちどまるほどではないが、歩く途中ひょっと目にとまり、見とれる花、つまり、理屈ぬきで楽しんでいただけるような小品を選ぶよう心懸けた。
この本に収録された作家は、全部で十九人。そのうち十六人は、アメリカの作家である。ブラッドベリ、マシスン、ベスター、テン、ライバー、セント・クレア、ナース、R・F・ヤングの八人は、ご存じの方も多いだろう。いずれもSF界のベテランで、だいたいこの順に紹介も進み、わが国での知名度も高い。ほかも、あまり紹介はされていないが、大部分はSF界の人びとで、特にケラーはアメリカSFの草分けのひとりである。サーバーは、アメリカ・ユーモア文学の大御所。残り三人のうち、コリアとW・ヤングはイギリス人――前者は、「一ドル九十八セント」のなかにも名前が出てくるように、ロード・ダンセイニとならぶファンタジイの大家。クロード・F・シェニスは、フランス人。本職は医師で、余技にSFとミステリを書いている。
「ジュリエット」は一九五九年に発表されたシェニスの処女作だが、おもしろいことに、これとほとんど同じ発想にもとづいた小説が、一九六四年、わが国で書かれている。筒井康隆氏の「お紺昇天」で、短篇小説ではこうした偶然がときとしてあるようだ。といっても、ぼくが「ジュリエット」を英訳で読み、『Men's Club』に訳したのは七〇年の末なので、誤解なきよう。ひとつの題材が、作家の資質と国民性のちがいによってそれぞれどう料理されるか、読みくらべてみるのも一興だろう。
一九七五年三月
*
本書は、およそ半世紀前、ぼくが三十二歳のときに初めて一人で編んだ同名のアンソロジイを増補して文庫化したものである。
単行本時の出版社は文化出版局。有名な女性誌『装苑』の会社としていまも知られるが、一九七〇年代半ばに四六判ソフトカバーでSF叢書を刊行していた時期があり、もとの単行本版もその一冊だった(全部で九冊出たが、そのうち翻訳作品は、本書の原形版と、浅倉久志編訳の『救命艇の叛乱』の二冊のアンソロジイのみ)。
翻訳の仕事をはじめた六〇年代初頭から、ぼくは雑誌やアンソロジイで短い作品をさがしては気に入ったものを訳すという作業を、本書の単行本版が出たあとも八〇年ごろまでつづけていた。
今回、初めて文庫化するにあたって、当時の収録作全作に加えて、『SFマガジン』と『奇想天外』(第二期)に訳出していたショートショートから九編を選んで収録した。よりSF味の強い作品を加えられたことで、幅がひろがったのではないかと思う。
ぼく自身、この頃までのSFとファンタジイにもっとも愛着がある。再読してみて、いまもあまり好みに変わりがないことを、あらためて認識した次第だった。
このおもしろさが、半世紀を経て、新しい読者に共有してもらえることを願っている。
二〇二二年十二月
■伊藤典夫(いとう・のりお)
英米文学翻訳家。主な訳書にクラーク『2001年宇宙の旅』、オールディス『地球の長い午後』、ブラッドベリ『華氏451度』、カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』、ディレイニー『ノヴァ』ほか多数。