《守り人》シリーズの外伝『風と行く者』や『鹿の王 水底の橋』があったとはいうものの、新しい物語という意味では『鹿の王』から七年余、上橋菜穂子(うえはし・なほこ)待望の新作長編『香君(こうくん)』(文藝春秋 各1700円+税)が上下巻で刊行された。
遙か昔。冷害と旱魃(かんばつ)によって人々が死に絶えようとしたとき、神郷より降臨した初代〈香君〉がもたらした〈オアレ稲〉。瘦せた寒冷地であろうとすくすくと育ち、年に数回収穫ができる稲によってウマールの人々は飢餓から解放され、奇跡の稲は周辺国へと広まっていった。そしてウマールはオアレ稲の種籾(たねもみ)を管理下におくことで一大帝国へと発展した。匂いから森羅万象(しんらばんしょう)を知る香君は、生まれ変わりを繰り返し、国を導く存在として崇められつづけた。しかし長い時を経て、いつしか香君は特別な嗅覚を持たない名ばかりの継承者となっていた。ところがそんなある年、当代の香君オリエは、オアレ稲についた害虫の卵を発見する。やがてそれは帝国の根幹を揺るがす蝗害(こうがい)へと発展していく。
物語の主人公はウマール帝国の属国の藩王家の娘アイシャ。祖父の失脚によって国を追われるも、生まれながらに特別な嗅覚を持ち、昆虫や植物が匂いを使って伝える声を聴きとることができる彼女は、帝国の視察官マシュウの計らいで香君宮に出仕し、オアレ稲の研究に従事する。植物や昆虫が発する匂いのコミュニケーションは生物学に基づいており、多様性を欠いた農作や帝国の施策が招いた弊害といった社会的諸問題はシビアで生々しい。自然から乖離(かいり)する人という存在への疑問や、唯一無二の力を持つ者が抱く無力感などテーマ的には『獣の奏者』と通底する部分も多いが、人間同士の軋轢(あつれき)や暴力が描かれていないために読み心地は軽やかで、上下巻合計で九〇〇頁の大部ながら一気読みは必至。植物の香りを聴く賑やかで色鮮やかな描写が、目には見えない豊かな世界の存在を教えてくれる。
大河ドラマはどれだけ登場人物が多かろうが、既知の歴史と登場人物だから視聴者もついていけるが、馴染みのない国の歴史小説や架空歴史ものは、多数の勢力が入り乱れる複雑な情勢や設定を読者にどう超えさせるかが難しい。
森山光太郎(もりやま・こうたろう)の架空歴史ファンタジー『隷王(れいおう)戦記』(ハヤカワ文庫JA 880円、920円、1240円+税)が、全三巻にて堂々たる完結を迎えた。
大河ドラマはどれだけ登場人物が多かろうが、既知の歴史と登場人物だから視聴者もついていけるが、馴染みのない国の歴史小説や架空歴史ものは、多数の勢力が入り乱れる複雑な情勢や設定を読者にどう超えさせるかが難しい。
森山光太郎(もりやま・こうたろう)の架空歴史ファンタジー『隷王(れいおう)戦記』(ハヤカワ文庫JA 880円、920円、1240円+税)が、全三巻にて堂々たる完結を迎えた。
神の力を宿す〈守護者〉牙の民の覇王エルジャムカは、極東の覇権争いを僅か一〇日で制して西への進軍を開始。草の民の長に、服従と神の力を宿す族長の娘フランの身柄を要求する。フランを愛する剣士カイエンは三万の兵を率い、彼女を攫(さら)って逃げようと画策するも、覇王軍の前に脆(もろ)くも全滅。フランの嘆願によってひとり生かされたカイエンは、復讐と奪還を胸に大陸中央の砂漠地帯の都市国家バアルベクで軍人奴隷から身を起こし、やがては隷王と呼ばれる地位にまで昇り詰め、エルジャムカとの決戦の準備を整えていく。
歴史的なモデルはモンゴル帝国の拡大やバイバルスの逸話だが、そこに神の力を宿す英雄の時代から只人(ただびと)の時代へと移行というファンタジーならではの視点を交え、時代の転換期を生きた人々を活写している。田中芳樹(たなか・よしき)やトールキンから強く影響を受けたと語る内容、なおかつ国や地域、登場人物が多い世界史の難所中の難所を三巻に圧縮。怒濤(どとう)の展開すぎて対立関係が判り難い部分もあるが、そこを補っても余りある面白さ。歴史好きは必読。
歴史的なモデルはモンゴル帝国の拡大やバイバルスの逸話だが、そこに神の力を宿す英雄の時代から只人(ただびと)の時代へと移行というファンタジーならではの視点を交え、時代の転換期を生きた人々を活写している。田中芳樹(たなか・よしき)やトールキンから強く影響を受けたと語る内容、なおかつ国や地域、登場人物が多い世界史の難所中の難所を三巻に圧縮。怒濤(どとう)の展開すぎて対立関係が判り難い部分もあるが、そこを補っても余りある面白さ。歴史好きは必読。
■三村美衣(みむら・みい)
書評家。1962年生まれ。文庫解説や書評を多数執筆。共著書に『ライトノベル☆めった斬り!』が、共編著に『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』がある。