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●8月某日 『映像研には手を出すな!』大童澄瞳

 漫画『吸血鬼すぐ死ぬ』(秋田書店)の作者、盆ノ木至先生のYouTubeラジオをきっかけに、ニンテンドーSwitchで『FALL GUYS』というゲームをやりはじめた。盆ノ木先生も仰っていたが、キュートでポップな舞台とキャラクターで『カイジ』みたいなデスゲームをやるやつである。オンラインにつないで、40~60人で一斉にスタート、クリア上限人数or制限時間内に上がらないと脱落、残ったプレイヤーは次のステージに進む、というスタイルだ。ちなみにイギリスのゲームである。
 これが面白くて、毎晩のようにやっている。ステージはランダムで、障害物競走のレース式のものとか、落ちたら即脱落のサバイバルゲームとか、表示された絵を記憶して指定の場所に行くロジックゲームとか、いろいろある。しかもシーズンが進むとステージが増える。システムがいまいちよくわからないのだけど、ステージの付帯条件をクリアするとポイントが加算されたりして、コスチュームとか柄とか色とか変えることができるのも、ハマるポイントだと思う。
 私の腕はというと、下手ではないが特段上手くもない、という感じだ。何度もクリアしているステージでも、ちょっとしたミスで脱落することはままあるし、狭いところに人が密集すると競り負ける。もうめっちゃ押し負ける。このゲーム、人を突き飛ばしたり引っ張ったりすることも可能なので(悪質なプレイヤーは通報できる)、結構大変なのである。最初のうちは「落とされてしまった……」とショボショボしているだけだったが、だんだん慣れてくると「てっめえこの野郎押しやがったなコラ」と押し返したりできるようになる。で、それがちょっとしたコミュニケーションになったりもするのだった。とはいえ、こういう絡(から)みは苦手なので基本無視、そういうやつはできるだけ避ける、が鉄則であるが……
 
 仕事の方はひたすら短篇を書いている。ここ数ヶ月取りかかっているのは一本だけだが、今年に入ってからずっと短篇ばかりやっていて、長篇に全然手をつけられていない。本来だったら1月からもう計画を進めていたはずなのに、1ミリも進まずに8月である。もうしばらく短篇の依頼は受けないぞと心に誓いながら、グヌヌグヌヌと呻(うめ)いて執筆を続ける。
 
 大童澄瞳『映像研には手を出すな!』(小学館)の7巻を読む。
 映像研はアニメで観てからファンになって、原作を読みはじめたクチだ。
 メインキャラクターは3人。アニメが好きで、小さい頃からスケッチブックに設定を描き続け、「最強の世界」を作ろうとする監督気質の浅草みどり、あらゆる動きに魅了され、それを再現することを切望し実行するアニメーターの目を持つ水崎ツバメ、アニメに興味はないが、金になりそうなものや能力があるものを支援し推進させようとするプロデューサー気質の金森さやか。
 ちょっと風変わりな高校に通うこの3人がアニメを作るために作った同好会「映像研」と、それを取り巻く人々との、ハードで自由自在でエキセントリックなクリエイターもの漫画である。
 面白いのは、よくクリエイター系作品にある人情味やわかりやすい人間ドラマ、絆や友情といったものが、映像研からは一切排除されていることだと思う。3人はお互いを「友達」とは言わない。彼女らはあくまでも「仲間」であって、馴れ合う間柄ではないのだ。それはある種のハードボイルドであり、才能に対して容赦がない。茹(ゆ)ですぎたラーメンのようなでろでろした情や伸びきった関係性は弾き飛ばされ、彼女たちはアニメを完成させ、人に見てもらうための孤高の道をひたすら突き進む。ここに、音響オタクの百目鬼が加わったり、書記の豪腕ソワンデを中心にした生徒会の介入行為(トラックならまだしも戦車でぶっ込んできたりする)が起きたりして、もうわけがわからないのだがそこが面白いのだからすごい。ちなみに映像研の舞台設定は2050年代らしい。近未来だ。
 7巻は特に、前巻から引き続き登場のサクラダが活躍する。七色の声を使い分ける声優であり、小説家志望でもあるサクラダは、映像研のアニメを観て徹底的にダメを出し、監督である浅草はまた落ち込む。人に伝えるとはどういうことか? これは創作者が最初にぶち当たる関門で、プロを志望する人はここを越えられるかどうかがとても重要になってくる。

 自分の話になってしまって恐縮だが、私はこの映像研の浅草みどりにとても似ている。笑っちゃうくらい同じことを言うし、同じことでダメージを受け、同じことをして復活する。まわりの人たちからも浅草みどりと深緑野分のシンクロ感はちょくちょく指摘されて、「出演者としてクレジットしてもらったらいいんじゃない」とか言われる始末である。
 憧れるのは水崎氏タイプなのだが(情熱があり、それに伴う技術を持ち、絶対に向上しようという前向きな推進力を持っている)、私はどんどん世界を広げて細かく作り上げていく浅草氏と同じだ。浅草氏のタイプは内向型で、人間が苦手なくせに、実際はひとりでは何もできない。いかに自分の中で世界をこねくりまわし、自分自身のプライドや価値観、思いを裏切らないままで作り上げ、見知らぬ観客にも伝えられるかが課題になる。「この設定ではわかりにくいから替えろ」と言われても、何を捨てて何を選ぶか、自分の「やりたいこと」をどこまで削れるかの葛藤がすごくて悶絶する。小心者なので、「詳しい人から怒られるかも」と言ってビビる。メンタルすぐ死ぬ。そのくせ誰よりも頑固で自分を曲げられないから、正面からぶち当たって解決策を見つける方を選んでしまう。面白いと思ったものが困難な道でつらくなるならば、更に面白いと思えるまで考え抜いて打開するしかないという、難儀な性格である。

 映像研の7巻はある意味、浅草が「人間を理解する」ことが課題として出てくる。これはちょうど私の今の気分とも重なっていて、タイムリーだなと思った。
 たぬきが人間を理解するのは難しいんだよ。
 ともあれ次巻が楽しみである。



 夏といえば怪談である。特に晩夏、8月の終わりは怪談が恋しくなる……が、私は怖い話が大の苦手だ。ホラー映画は好きだし、怪奇小説も面白く読むし、何なら怪談も興味ある。しかし滅法怖がりなので、小さじ一杯分の怖い話でも飛び上がってしまう。
 そんな夏の終わり、前回も書いた『吸血鬼すぐ死ぬ』の盆ノ木先生がYouTubeラジオで、怪談回を行った。これがもう……徐々に怖くなっていくのだけれど、最後の話とそのひとつ前の話が、奇妙に重なり、なんだか変なループに入ったような感覚にさせられて不穏極まりない。その挙げ句、最後の話が終わった直後に超怖い仕掛けが待っていたから、マジでヘッドフォンを叩きつけそうになってしまった。
 怖いわ!!!!!!!私「これ」めっちゃくちゃ苦手なんですよ!!!!気になる方はYouTubeで検索してみてください。たぶん、「これ」に恐怖心を抱いたことのない人は全然怖くないと思う。でも私「これ」にビビリ散らかす上に、悪夢にもよく出てくるんですよね……まあでも要は「これ」ってアラートのようなものだから、人間の警戒心をかき立てるのは自然といえば自然だ。
 確か盆ノ木先生は怖いものが苦手だと仰っていたのにこれだけ怖さを演出できるのだから、スピルバーグもそうであるように、怖がりはホラーを作るのが上手いのではないか。
 じゃあ私もそうかな? どうだろう。

 私の怖がりエピソードは数えたらきりがないが、幼い頃、母にやられた〝よみがえるミイラ〟についてちょっと書こう。私は当時、NHKの番組「みんなのうた」の、かの有名な「メトロポリタン美術館(ミュージアム)」が怖くて、姉が事故で頭を打ち包帯ぐるぐる巻きで帰宅した際、「お姉ちゃんがメトロポリタンになっちゃった!!(ミイラみたいと言いたかった)」と泣き叫ぶほどだった。
 そんな私が、確かテレビを観るのをやめて寝なさいと注意されたけれどきかなかった時、母はこういうことをやった――まず「もう勝手にしなさい」と宣言して寝室にこもる。当時住んでいたマンションはほとんど廊下がなく、リビングとダイニングが一緒で、両親の寝室もダイニングと直結していた。そして私がまだリビングでテレビを観ていると、おもむろに寝室ののれんがふわりと動き、両手を前に突き出した母が登場する。彼女はカッと目を見開き、徹底的に無表情で、ゆっくりゆっくりじわじわとこちらに近づいてくる。私がやめてと叫ぼうが何をしようが動きを止めない。親しい身内が変貌してしまい、言葉が通じなくなり、こちらが嫌がっても逃げ回っても、ぴくりとも表情を変えずに追いかけてくる。これが心底怖かった。そして壁際に追い詰められた私の顔を両腕で挟み、蛇のように白目の大きな目でぐっと睨(にら)まれ、私が「もうしません」と泣くと――やっと〝よみがえるミイラ〟は終わる。
 今から思うとミイラじゃなくてキョンシーかゾンビじゃないかという気がするが、まあとにかく、未だに「親しい人間が知らない何者かに変貌してしまうこと」が怖くなってしまったのはこれのせいな気がしている。

 さて読書。町村敬志『都市に聴け アーバン・スタディーズから読み解く東京』(有斐閣)を読み終わる。
 都市に興味はあるが、都市論や都市研究学の本を読んだことはなかった。著者の町村先生は現在、社会学研究科の特任教授として一橋大学の大学院におられる。
 この本で主に語られる「都市」は東京を指す。そしてその東京の成り立ちや、「だらだらと広がる」こととなった理由などからはじまり、2021年のオリンピックの問い直しや、この先の東京の姿はどうなっていくのかを、世相や政治、コロナ禍も含めて考えていく内容だ。これがとても興味深く、面白かった。
 たとえば「計算し尽くされ、すべてを余すところなく「有効」活用しようとする空間実践は、経済的には「合理的」と見なされる。だが、「遊び」のない空間は、結局消費し尽くされ飽きられていく」(p.128引用)といった言葉は、最近しょっちゅう目にする、大都市内の公園再開発や木々の伐採などを考えるにつけ、そのとおりだと思う。また経済的中間層を取り込んで商機を見つけ出すメディア側の煽(あお)りだとか、不動産の金融化、マネーゲームの一部になっていく都市の話などは、なんとなく感覚としてあったけれど、こうして具体的に論じられると、欠片がぱちぱちと繋がっていって謎が解けていく思いがした。なるほど、そうなっていたのか。
 現代の社会や都市――特に東京について疑問がある、考えていることがあるという方はぜひ本書を読んでみるといいのではないだろうか。
 ちなみに先日、著者の町村先生と、作家の小川哲さんと私の3人で、「都市」をテーマに鼎談をした。『小説すばる』2022年11月号に掲載予定で、とても面白い内容になったと自負しているのでよかったらぜひ読んでほしい。


 重陽の節句、愛猫こぐちががんで亡くなってから丸一年が経った。寂しいが、ひとりっ子になってしまったしおりを大事にしながら過ごしてきた。こぐちの思い出は尽きないけれど、クールでドライな性格をしているくせに、カアチャン(私)のストーカーで何をするにもどこへ行くにもべったりくっついてきたこぐちのことは私が一番よくわかっているし、たぶんあの子は今も私のそばにいると思うので、敢えてここでは書かない。永遠に私と一心同体であるということだけ。

 そうこうしているうちに、ゴルバチョフが亡くなり、エリザベス女王も亡くなった。20世紀が本当に終わった感じがする。近代国家と民族の時代だった20世紀、2つの世界大戦が起き、主義の違いで東西が分断した時代は、良くも悪くもドラマチックで巨大だった。彼ら権力者が行ったこと――強国による侵略や植民地支配、迫害、身勝手な領土変更など――はこれからも検証され、批判されなければと思う。
『戦場のコックたち』『ベルリンは晴れているか』を書いていた時、世界はこんなにも20世紀を引きずっているのかと思ったものだが、最近は特に、もはや別の時代になった予感がしている。もちろん、過去から学べることはたくさんあるし、人間の本質はさして変わらないのだろうが、自分自身が歴史の目撃者であり当事者になって、21世紀の価値観を得ていくにはどうしたらいいか、を考える。良い予感は微塵もしないけれど、この先何が起こるのかをもそもそと考えながら、巨大で横暴で生命力に満ちていた20世紀の影が、音を立てて靄(もや)の中に消えていくのを見送った。

 読書。シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(越前敏弥訳 東京創元社)を読んだ。
 このところ小難しい海外文学作品ばかり読んでいたせいか、ローティーンの子どもが主人公の真っ直ぐなYA(ヤングアダルト)作品、それも人間消失ミステリが絡むエンターテインメント小説をとても新鮮に感じた。ああ、帰ってきたなあというか、やっぱりこういう良質なYAが私は大好きだ。
 
 ロンドン・アイは、テムズ川のほとりにある巨大な観覧車だ。ビッグ・ベンのそばに立ってテムズ川のはす向かいを見やると、街の中に巨人サイズの白い指輪がぽんと置かれたようなロンドン・アイの姿がある。12歳の少年テッドの家に、ある日、間もなくニューヨークに越すという叔母といとこのサリムがやって来た。サリムがロンドン・アイに乗りたがるので、テッドは姉のカットと共に観覧車に向かう。しかし売り場は大混雑、待ち時間が1時間もあると知って怯(ひる)んでいると、見知らぬ男が近づいてきて、すぐに入れる時間のチケットを一枚譲ってくれる。姉弟はチケットをサリムに渡し、彼ひとりだけで乗ることになった。観覧車は一周回り、サリムが乗ったカプセルが戻ってきた。けれどもサリムは降りてこない。どこにもいない。電話をしても繋がらず、夜になっても帰ってこなかった。
 10代の少年サリムが行方不明になり、テッドの家族と叔母グロリアは恐慌状態に陥(おちい)る。主人公テッドは、「症候群」という名でぼかされているが、物事をそのまま受け取る、冗談を認識できないなど、特殊な思考の仕方をする聡明で内向的な少年で、彼なりに「サリムはなぜ、どうやって消えたのか、今どこにいるのか」を考える。その推理は時に奇抜であり得ないものも含まれるが、テッドはそれすらも真剣に検討する。そこに、活動的な姉カットが加わって、ふたりは大人たちと別のルートからいとこの行方を探りはじめる。
 人間消失ミステリやサスペンス展開の面白さもさることながら、この作品は、突如降りかかった困難を乗り越えようとする人々の物語として非常に優れている。最悪のことが起きたのではないかという恐怖に苦しみ、まるで進展しない、むしろ悪化していく状況に心が砕かれてしまう人々、家族のしんどさ、つらさ。ああ、帰ってきた! と思ったらそれは夢で、現実は何も変わっていないことを何度も認識しなければならない、あの焦燥がありありと伝わってくる。
 中でも感心したのは、とある遺体と対面したテッドの父親の反応だ。大人向けの小説でもこういった展開はお馴染みだが、本筋と関係なければジョン・ドウ、名もなき遺体としてあっさり見過ごされてしまいがちだ。けれどもテッドの父親は、この遺体を見て傷つき、後になっても引きずり続ける。亡くなっているのは身内だけではないこと、そして社会の暗部、見過ごされていることをしっかりと描く。そこが大変よかったし、正しいと思った。
 ミステリとしても上質で、二転三転する展開や、謎の最終的な解答にあっと言わされる。テッドとカットのきょうだいがどんどん近づいていくのも、テッドが心を許せる相手、「友達」が増えることも嬉しい。シビアだけれど爽やかで、読み応えがある良質な作品だ。
 大人ももちろん楽しめるし、漢字にルビがしっかり振ってあるので、小学校中高学年から中学生、高校生にもおすすめです。もしこのくらいの年の子から「何か面白い本ない?」と訊かれたら、とりあえずこれ! と渡したい本である。
 しかしこれだけ良い作品なのに、残念ながら作者のシヴォーン・ダウドはすでに亡くなっている。47歳で、乳がんだったそうだ。パトリック・ネス著で知られている『怪物はささやく』は(映画化はフアン・アントニオ・バヨナ監督による)、実はこのシヴォーン・ダウドが亡くなる前に遺した冒頭の文章と大まかな構想を、今の形に書き継がれて完成させたという。
 テッドの物語も続編があるそうだ。ロビン・スティーヴンスの手によって、ダウドの文体をしっかり受け継いで書かれていると、訳者あとがきにある。こちらも東京創元社から刊行されるとのことなので、楽しみに待ちたい。

ロンドン・アイの謎
シヴォーン・ダウド
東京創元社
2022-07-12




 新型コロナの流行第七波は本当に大変で、毎日はらはらしながら感染者数のうなぎのぼりっぷりを見ていたけれど、それもようやく下り坂になり、落ち着いてきた。
 この読書日記に毎回のように登場している釣り人C氏は、スケジュール管理だけでなく私のアイデア出しの壁打ちにも付き合ってくれるのだが、この日も電話でやりとりした後、第七波も落ち着いてきたし、明日にでも同居人K氏も含めて三人で飯に行きましょうかという話になった。
 我が家は池袋駅に近いので、食事というとだいたい場所は池袋になる。久々だし、どこか新規開拓しようかと計画したものの、私の口内炎がひどく、予定していた四川料理は難しくなってしまった。結局お馴染みの店、中国東北料理で有名な永利で食べることになり、せっかくなのでこれまで一度も食べていないメニュー縛りで頼んでいこう、と決めた。いつもは豆苗(とうみょう)炒めと茄子(なす)の山椒揚げ、スペアリブと発酵白菜の鍋や干し豆腐の和え物などを頼むが、この日はまず牡蠣(かき)のフライ(パン粉ではなくフリットのようなもの)からはじめる。
 これがめっちゃ美味しかった! ふんわりした優しい甘さのある衣の中に、大きな牡蠣がいて、ふちゅっと噛むと磯の香りが広がる。うま!!!!!!!!!これから永利に来たらこれを頼むことにしよう、と心に誓う。
 他にも中国東北の郷土料理らしい茄子とピーマンとじゃがいもの炒め物(優しい味で美味しい)や、冬瓜(とうがん)とスペアリブの鍋、また牡蠣の、今度はにんにくのホイル焼きなども頼む。
 お酒のグラスをつたう水滴がテーブルに溜まって、小さな湖になっていく。賑やかできらめくような夜が過ぎていく。人と直接会って会話していると、脳のニューロンやシナプスがバチバチと音を立てて繋がるのを感じる。何かの新しい感覚を得る。私はひとりでいるのが好きだけど、人と会わないと鈍(にぶ)る部分も多くて、なまくらになってしまう。なまくらを打ち直して、冷水にじゅっと浸けて、研ぎ直す。人と話すとそんな感じを得られる。
 久しぶりの外食は楽しくて、もっと外に出たいなあと思う。それでもやっぱりちょっと警戒してしまうから、早く全部よくなって、前みたいに気兼ねなく出かけられるようになりたい。

 さて、読書。イーライ・ブラウン『シナモンとガンパウダー』(三角和代訳 創元推理文庫)を読む。
 最初に書いてしまうけど、私はこの本がめちゃくちゃ好きである。東京創元社のメールマガジンで紹介されているのを読んだ時から気になっていたのだ、海賊船に囚われたコックが、船長のために極上の料理を作らなきゃならなくなるなんて、絶対面白いと思うでしょ? 実際めちゃくちゃ面白いんですよ。
 こんなことを言うと私の本のファンでいてくれる方に怒られるかもしれないが、『戦場のコックたち』に期待していたものがここにあります。いや、正直、『戦場のコックたち』でもこういうことをやりたかったんだけど、途中で色々考えが変わって……ううん、これについてはやめておこう。ともあれ、「19世紀はじめ、海を走る海賊船で、限りある食材の中から、どうやって超豪華な貴族向けの料理を作り出すか?」に惹かれたら読んでほしい。あとエンターテインメント小説としてすごく血湧き肉躍る。

 まあまずあらすじだ。1819年、料理人のウェッジウッドは類(たぐ)い希(まれ)な料理の腕を活かし、イギリスの貴族に仕え、美食を作り出す日々を送っていた。しかし運命の日、海辺の別荘に呼ばれた主人、ラムジー卿についていくと、海賊に襲われてしまう。巨漢の男と中国人の双子の武道家を伴ったその海賊船船長は、ハンナ・マボットという有名な赤髪の女だった。そのマボットにラムジー卿は殺され、ウェッジウッドは捕虜として囚われてしまう。そしてマボットから、「命が惜しければ最高の料理を作れ!」と命じられてしまうのだった。
 海賊たちが普段食べているものは、すさまじく不味(まず)い粥(かゆ)と酒で消毒した水。厨房は汚くろくでもなく、石鹸も真水すらもない。バターも香辛料もない、パンを作るための発酵種もない。そんなないない尽くしの乱雑極まりない海賊船で、ウェッジウッドはマボットのメガネに敵うような料理を作れるのだろうか?
 これが緯糸(よこいと)の話。経糸(たていと)の話は、海賊船は何を求めているのか、誰を襲おうとしていて、誰から襲われているのか……つまり船長マボットの目的の物語となる。マボットはなぜラムジー卿を殺したのか? 彼女が探しているブラス・フォックスとは何者なのか? 読むうちに、読者もクルーたちと同じくマボットに魅了され、彼女に夢中になってしまうだろう。ウェッジウッドが愚痴を吐いたり脱走を企て続けたりするたびに、鬱陶(うっとう)しくなってくるほどに、マボットは魅力的だ。さっさと元の暮らしへの幻想を抱くのをやめて海賊になっちゃえばいいんだよ! と叫びたくなること請け合いである。けれど、このウェッジウッドの頑なさやめげなさが丁寧に描かれるからこそ、ふたりの歩み寄りが温かく、実感の伴うものになっているのもうまいなと思う。
 作者のイーライ・ブラウンはYAのファンタジー小説も書いているとのことで、すごく腑(ふ)に落ちた。なんとなく、「児童書やYAが書ける」作家の文体だなと思っていたのだ。描写が緻密で、脇道にどんどん逸れる。本筋ではないひとつひとつの出来事や五感で味わうもの、それらが豊かで、どこまでも想像が広がる。料理の香り、耽美的な表現で綴(つづ)られる味わいの豊かさ、波の音、軋(きし)む板の音、クルーたちの汗のにおい、彼女の赤髪に混じる白髪。
 この物語は飛距離がとても長い。私は飛距離の長い物語が大好きなのだ。
 豊穣(ほうじょう)でありつつ、迫力があって、敵がとある秘密兵器を使った戦闘シーンを読んだ時はとても興奮した。小説は何でもできる。エンターテインメントの力強さ、確かさを改めて実感して、私もやっぱりエンターテインメントでがんばりたいな、などと思った。

シナモンとガンパウダー (創元推理文庫)
イーライ・ブラウン
東京創元社
2022-08-31




「先生は運転免許を取った方がいい。絶対向いてるし、何かと使えるから取った方がいいって」としつこく釣り人C氏が言うので、自動車運転免許の教習所にまた通うことになった(〝先生〟はあだ名であって敬称ではないです)。去年、一度通ったのだけれど、主に精神方面の体調が思わしくなくてうまくいかず、途中でやめてしまった。これが二度目の正直というわけである。同居人K氏も私も、免許は向いてないと思うけどなあ……という考えだが、まあ自動車を運転できるとかっこいいし、心もだいぶ元気になってきたので、いっちょがんばってみようと勇んでみた。
 とはいえ、長くだらだら続けてしまうと同じ轍(てつ)を踏みそうだから、お金をちょっと上乗せして短期集中コースを選んだ。技能教習の予約も教習所が組んでくれるし、スケジュールを自分で組み立てるのが苦手な私はこっちの方が性に合っている。

 前回教習所に行った際は、学科は5コマくらい、技能はクランクとS字クランク(数メートル単位で直角とS字のカーブがあるところ)を習ったくらいまで。一年以上ブランクがあるので運転の仕方を完全に忘れている。
 座席位置どうやって調整するっけ? エンジンが先? チェンジレバーってどうするんだっけ? ハンドブレーキはいつ上げていつ下げる? フットブレーキは? エンジンスイッチを押しても反応しなくて焦る。「ブレーキ踏んでくださいね~」と指導教官に言われて、あっっとなる。フットブレーキから足を離すと、オートマ車はアクセルを踏んでいなくてもゆるゆる進む。もうこの時点で怖い。直線距離で時速35キロ出せ? 無理だわ!
 ……などなど、ハチャメチャに緊張してビビリ散らかす私をスルーして、指導教官ズは淡々と&時に厳しく&時に優しく色々言ってくる。
「はいキープ・レフトね。左側寄って」「近くを見すぎ、遠くを見て。自分がどこにいるか感覚を摑んで」「方向指示器もうここから出して」「確認、合図、確認、寄せて。メリハリ!」「交差点よく見て!停止ちゃんとする」「S字クランク失敗した時の戻り方は? ハンドルどっちに切ってバックするんだっけ?」「バックする時確認!!」
 などなどなどなど、もうやることが多すぎて、すぐ集中力が切れて気が散りやすい私は終始汗をかきまくっている。なにしろ、基本的に茹ですぎたラーメンみたいな、気合いの入ってないメリハリ足らずのだるだる人間なので、遠慮はするけどテキパキ、キリリができない。運転がバリバリできてしっかり者のかっこいい人間になりたい。だがかっこいい人はそもそもそんなこと言わないのだ。残念である。
 とはいえ、3時間4時間乗っているうちにだいぶ慣れてきて、そんなにあれこれ言われずともスムーズに運転できるようになってきた。少なくとも、前回の教習所では何度か時間の追加があったけれど、今回は追加なしでいけている。
 でもやっぱり失敗はするもので、ちょいちょい教官から注意される。うう、運転は難しいよ……次回の読書日記では、「深緑、普通自動車運転免許取れました!」とご報告できるようになりたいが、果たして、果たして。

 さて、映画を観に行ってきた。私のTwitterのタイムラインで大変評判のいい『NOPE/ノープ』である。
 IMAX大好きという共通点のある友人のM氏は、「『NOPE/ノープ』はIMAXがやばいからできたらそっちで」と言ってくれたけれど、残念ながら終了してしまっていたので、近所の映画館のレイトショーに行った(私はこの映画館に愛着を持っているため、映画はできればここで観たい)。
 監督のジョーダン・ピールと主演のダニエル・カルーヤは『ゲット・アウト』のコンビだが、実は私はまだ『ゲット・アウト』を観ていない。というかジョーダン・ピール作品自体初体験だ。いやはや、現代を代表する監督のひとりなのに未履修とは、映画好きを名乗っておきながら大変お恥ずかしい。

『NOPE/ノープ』は、あまり事前情報を入れずに観た方が面白いと思うのだが、一応あらすじを書いておく。オープニング、旧約聖書「ナホム書」からの引用「私はあなたの上に汚物を投げつけ、あなたを軽蔑し、見世物にする」が出てきた後、どこかの列車のコンパートメントの中、シットコム(観覧式のコメディドラマ)のやりとりが音声だけ聞こえてくる。わはは、わははという笑い声、「ノープ(あり得ない!)」という台詞。続いて、血の付いた、バレエシューズ型のスニーカーが映る。女性らしき人物が倒れていて、血まみれのチンパンジーが暴れ回っている。どうやらここはシットコムのスタジオらしい。それから奇妙な、狭い通路のような場面に切り替わり、青みがかった布やセロファンを思わせる壁の道を進むと、その先で連続写真「動く馬」が上映されている。
 また場面は切り替わり、丘陵に囲われた荒野で、老いた父とその息子が牧場で馬の世話をしているところが映る。しかしその時、不穏な音が聞こえてきて、何か小さなものが上から落ちてくる。息子のOJが気づいた時には遅く、父親はその落下物に当たって重傷を負ってしまう。結局その傷によって父は亡くなったが、死因となった落下物は小さなコイン。空を通過した航空機から落下したのだろうと警察は言うけれど、OJは判然としない。
 OJの家は、映画の撮影などで使う馬を調教することで生計を立てていたが、人付き合いが苦手で寡黙なOJは遠ざけられやすく、妹のエメラルド(エム)は陽気すぎて敬遠される。仕事がうまくいかないふたりの兄妹は、大事な馬を近所のテーマパーク、ジュピターズ・パークに売ろうとするが……

 ざっと書いたつもりだがやたらと微に入り細を穿(うが)ったあらすじになってしまった。ここまでで、冒頭15分あるかないかくらいだと思う。物語をジャンル分けするなら、ホラーエンターテインメントだ。SFでもある。重要なのは空。夜空が恐ろしいくらい美しく撮れているが、それは空が大きな舞台装置になっているからだ。
 OJと妹のエムは、オープニングで登場した連続写真「動く馬」の、黒人の騎手の子孫だという。撮影した人間は注目されるのに、彼のことは誰も知らない。自分たちは彼の末裔(まつえい)で、ハリウッドではじめて、黒人が経営する馬の調教師になった。そのことをエムは映画の撮影現場でも熱弁する。
 示唆的で、観客が色々なサインを読み取るタイプの作品だが、難解ではない。暴走してしまったチンパンジー、目の前にものが現れて驚き、後ろにいる人間を危うく蹴るところだった馬、そして本作のメインキャストのひとり?である「Gジャン」。これらに共通することを考えながら観ていくと、観る者と観られる者、調教する者とされる者、差別と被差別などの、監督のはっきりした意図が読み取れるようになっている。考察する面白さに満ちている作品とも言える。

 そして、とにかく怖い。まず音が怖い。映画館で観ながら、音の聞こえ方に体が震えてしまうほどだった。まあ私自身が相当な怖がりというのももちろんあるのだが、心の中でずっと叫んでいないと耐えられないレベルで怖い。よくこんな怖いものが撮れるなあと感心してしまう。
 キャラクターも魅力的で、私は主人公のOJが大好きなのだが(寡黙だけど責任感が強く、肝が据わっていてかっこいいのだ)、陽気でパフォーマーな妹のエムも、途中から参加する電器店のマッチョでナードな青年エンジェルも、とても良い性格をしている。エムの高い行動力は危なっかしいけど、兄にはない部分をうまく補ってくれるし、UFOを信じているエンジェルは本当にいいやつというか、彼が生きるか死ぬかすごくハラハラして観てしまう。ジュピターズ・パークのオーナー、ジュープもすごくいい味を出している。

 いやあ……面白かったし、SF界の押しも押されぬアイドルと、生き物系ホラーのあるあると、観る者・観られる者、調教・被調教、フィルムで撮ること、映画、といった普通であれば結びつけようと思わない要素を結びつけ、鮮やかに展開させてみせた傑作だと思う。
 正直、物語作者として「やられた」と感嘆のため息をついてしまった。物語の種ってもうすでにほとんど出尽くしているから、何もないところから新規性のあるお話を作るのは、不可能に近い。ではどうするかというと、水と油に思われた要素と要素、古いものと新しいもの、丸いものと尖ったものをうまく混ぜ合わせ、切り口を変えるのだ。これで新しい物語が作れる。ジョーダン・ピール監督はこの才能に秀でていると思った。
 どこまでもシビアな物語だけれど、めっちゃおすすめである。
 とにかく今すぐ『ゲット・アウト』を観なければ。




■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)、『スタッフロール』(文藝春秋)などがある。

オーブランの少女 (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2016-03-22


戦場のコックたち (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2019-08-09