第5回創元ファンタジイ新人賞佳作作品『ヴェネツィアの陰の末裔』は、十六世紀のヴェネツィアを舞台に、異端と迫害されながらも列強の権謀術数のただ中に身を置く魔術師たちの姿を描いています。神聖ローマ帝国皇帝カール五世、フランス国王フランソワ一世、メディチ家出身の教皇クレメンス七世と、いかにも一筋縄ではいかない君主たちを相手に渡りあう黒衣の魔術師。華やかな歴史の陰を描いた歴史ファンタジイです。
著者自身による、この作品ができるまでをご紹介します。本編とあわせてお楽しみください。
『ヴェネツィアの陰の末裔』ここだけのあとがき
上田朔也
本好きの方には、誰にも人生を変えた一冊があると思いますが、わたしのそれは『ドラゴンランス戦記』と『ドラゴンランス伝説』というファンタジイ小説のシリーズでした。
さまざまな種族の冒険者たちが世界の運命に立ち向かい、葛藤の中から道を切り開いていく壮大な物語です。シリーズ全巻を読破するために、少年だったわたしはお小遣いを握りしめ、駅前のデパートに入っていた大きな書店へと胸を躍らせながら次の巻、また次の巻を、と買いに走ったことを今でもよく憶えています。
大人になってからも、読み返すたびに新たな発見があり、子供のころには気づかなかった魅力に気づかされる、そんな作品です。ですから、わたしもいつかそうしたファンタジイの書き手になることができればと憧れを抱いていました。
そんなとき、人生を変えるもう一冊の本に出合います。それが、塩野七生先生の『ローマ人の物語』でした。
当時、わたしは仕事で単身赴任を命ぜられ、それまで家族と過ごしていた時間にぽっかりと大きな穴が空いていました。この空白の時間をどうしようか、と考えたとき、以前から書店で気になっていた『ローマ人の物語』を手に取ったのです。
読み始めてすぐに夢中になりました。そして、塩野先生の著作を読みあさります。そうしてたどり着いたのが、ヴェネツィア共和国の一千年を描いた『海の都の物語』でした。
わたしは驚嘆しました。こんなすごい国があったのかと。ヴェネツィアと言えば壮麗な街並みやゴンドラ乗りの歌、カーニヴァルといったイメージしかありませんでしたが、その栄華を支えていたものが、きわめて合理的な政治、社会のシステムであったことを初めて知りました。権力は絶対的に腐敗する、という冷徹な現実感覚から、一人に権力が集中することのない政治体制を徹底してつくり上げ、社会全体にそれを浸透させました。欧州に吹き荒れた魔女狩りの嵐とも無縁でした。
こうした国ならば、もし魔術師というものが存在したとしても、火炙りにはせず、国益のためにしたたかに利用したのではないか。そう考えたとき、『ヴェネツィアの陰の末裔』の構想が浮かんだのです。
十六世紀前半という、舞台となる時代はすぐに決まりました。イタリア半島を戦乱の雲が覆い、フランスやスペイン、ドイツといった大国の草刈り場となっていた時代です。東方からはオスマントルコも迫ります。ヴァチカンは策を巡らせてヴェネツィアやミラノ、フィレンツェなどの国々を巻き込んで合従連衡に奔走していました。
宗教改革が勃発し、新航路の発見によりヴェネツィアがほぼ独占してきた地中海貿易の地位が脅かされ始めている。一方で、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロといったルネサンスの精華が綺羅星のように現れていた、そんな時代です。
『ヴェネツィアの陰の末裔』では、歴史の記録には残らず、表舞台にも出てこないけれども、その陰であったかも知れない魔術師たちの戦いをファンタジイとして描きました。わたしたちが教科書などで知る史実はほぼそのままで、基本的に改変は加えていません。歴史の隙間を縫うように物語を組み立てていくのは、まるで巨大で精密なパズルのようで、一つでもピースの置き場所を間違えると矛盾が生じて全体が崩壊してしまうような試みでしたが、同時に、歴史の裏側に想像力を巡らせる楽しい作業でもありました。
この本を読み終えてくださった方が「もしかして、史実として現在にまで伝わっていないだけで、十六世紀のヴェネツィアには本当に魔術師がいたのではないか?」と感じていただければ、作者として望外の喜びです。
最後になりますが、第五回創元ファンタジイ新人賞で拙作を佳作にお選びくださった選考委員の先生方、美麗なカバーイラストをお描きくださいました斎賀時人先生、デザインを担当してくださいましたnext door designの長﨑綾先生、歴史の考証で数々の誤りを正していただいた校閲の皆様、そして改稿から刊行まで多大なご尽力をいただきました東京創元社の小林甘奈様および皆様に感謝いたします。
■上田朔也(うえだ・さくや)
大阪府出身。京都大学文学部卒業。2020年『ヴェネツィアの陰の末裔』が第5回創元ファンタジイ新人賞佳作に選出される。