終わりといえば、「私たちは終わりのあとの世界にいます。でも終わりは起きませんでした。終わりよりも、さらに悪いものがここにあります」と書くのが〈史上最高のSF作家〉R・A・ラファティである。『とうもろこし倉の幽霊』(井上央編訳 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 1900円+税)は、幽霊譚などの「あり得ぬ物語」を、執筆年代順に並べた本邦初訳九編を収録する短編集。
スコシ・フシギというよりはスゴク・フシギという感じの奇想小説で、秩序の崩壊した世界を建て直す使命を帯びた〝奇妙な魚〟と呼ばれる亜人類の母子の運命を描く中編「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」、テーブルの下の小人たちに誘われて存在しない十三階へ向かう少年が、存在しないものは認めない組織から逸脱(いつだつ)する「王様の靴ひも」、完璧な泉を探す男が、泉の精である美しい女性とその連れ合いの内省的な男性と出会い、人工と自然あるいは混沌(こんとん)と秩序を巡っての思弁を繰り広げる「千と万の泉との情事」など、この世界のありようそのものについて驚くべき美しい真実を語るひたすら楽しい作品たちである。
もちろんその〈真実〉とはかつてSFの訳語にあった空想という言葉に限りなく近い感触のもので、ゆえにラファティの作品はアメリカ文学の「ほら話」の伝統において語られることが多い。尤(もっと)もとある神学者の言葉によれば、空想が個人に対してあるように宗教は文明に対してあるのだという。ラファティの作品の背景にキリスト教信仰が厳然と存在していることを思い合わせれば、これらの作品たちは人類文明に対するラディカルな批判で(も)あり、それこそがその作品のSF性を支える最も大きな要素であるように思える。
高山羽根子(たかやま・はねこ)・酉島伝法(とりしま・でんぽう)・倉田(くらた)タカシ『旅書簡集 ゆきあってしあさって』(東京創元社 1600円+税)は、いまや現代日本を代表するスコシ・フシギ派SF作家の三人が、デビュー間もない二〇一二年からウェブ上ではじめ、文学フリマで「実物」も展開した、おのおの別の架空の土地を旅しながら出し合った手紙やスケッチ、写真、お土産などを集成し加筆修正を施した本。
もちろんその〈真実〉とはかつてSFの訳語にあった空想という言葉に限りなく近い感触のもので、ゆえにラファティの作品はアメリカ文学の「ほら話」の伝統において語られることが多い。尤(もっと)もとある神学者の言葉によれば、空想が個人に対してあるように宗教は文明に対してあるのだという。ラファティの作品の背景にキリスト教信仰が厳然と存在していることを思い合わせれば、これらの作品たちは人類文明に対するラディカルな批判で(も)あり、それこそがその作品のSF性を支える最も大きな要素であるように思える。
高山羽根子(たかやま・はねこ)・酉島伝法(とりしま・でんぽう)・倉田(くらた)タカシ『旅書簡集 ゆきあってしあさって』(東京創元社 1600円+税)は、いまや現代日本を代表するスコシ・フシギ派SF作家の三人が、デビュー間もない二〇一二年からウェブ上ではじめ、文学フリマで「実物」も展開した、おのおの別の架空の土地を旅しながら出し合った手紙やスケッチ、写真、お土産などを集成し加筆修正を施した本。
エキゾチックな熱暑の街で美味(おい)しそうな食べ物にパクついたり(高山)、泥の町でなぜか次々に苛酷な目に遭い続けたり(酉島)、引退した数百機の飛行機が織りなす迷路のような都市を観光したり(倉田)。それぞれいかにもその人にふさわしい奇態な土地でめづらかな体験を綴(つづ)っていく手紙の数々は、同時に三つの連載小説を読んでいる趣(おもむき)があり、個性的なイラストや造形物にも魅了され、とにかく面白い本だ。巻末エッセイを書いている宮内悠介は、同じく東京創元社既刊のこれも極めて小説的な石川宗生の旅エッセイ『四分の一世界旅行記』の巻末でも著者と対談していたが、是非とも旅シリーズの次の著作を書いて欲しいもの。
忍澤勉(おしざわ・つとむ)『終わりなきタルコフスキー』(寿郎社 2600円+税)は、第七回日本SF評論賞で選考委員特別賞を受賞した著者が、十年越しでついに上梓した、受賞作を一部含む長編評論。
喩(たとえ)と象徴が交錯する詩的な映像のために、「難解」とされることが多い中編を含む八本の劇映画を、DVDなどの映像に加え多数の文献資料を詳細に検討し、家族関係に焦点を当てた作家の人生を縦糸に、画面に何度も繰り返し現れる特徴的なイメージを横糸に織りなす分析は極めて説得力がある。
「芸術家の意図が隠れていればいるほど、芸術作品にとってよいことになる」というタルコフスキーは、俗世を超越する神秘なものに生涯惹(ひ)かれ続けており、『惑星ソラリス』や『ストーカー』といったSF小説の映画化も、その超越的なものに触れる契機であったという。隠されたものを探索する、画面の要素を一つ一つ掘り下げて読解していく本書の方法論は、まさにこの映画作家にふさわしい。また作品に現れる「核」のイメージを通して近代文明批判としての「世界の終わり」を論じる部分には、スペキュレイティヴ・フィクションとの共通性も感じられる。
「芸術家の意図が隠れていればいるほど、芸術作品にとってよいことになる」というタルコフスキーは、俗世を超越する神秘なものに生涯惹(ひ)かれ続けており、『惑星ソラリス』や『ストーカー』といったSF小説の映画化も、その超越的なものに触れる契機であったという。隠されたものを探索する、画面の要素を一つ一つ掘り下げて読解していく本書の方法論は、まさにこの映画作家にふさわしい。また作品に現れる「核」のイメージを通して近代文明批判としての「世界の終わり」を論じる部分には、スペキュレイティヴ・フィクションとの共通性も感じられる。
■渡邊利道(わたなべ・としみち)
作家・評論家。1969年生まれ。文庫解説や書評を多数執筆。2011年「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」が第7回日本SF評論賞優秀賞を、12年「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。