『子供が王様』デルフィーヌ・ド・ヴィガン/河村真紀子訳
(海外文学セレクション/単行本)
生まれたときからSNSが盛んで、親たちがすでにその申し子である、という子供たちが生きる現在、デジタルネイティヴという言葉がよく聞かれるが、《SNSネイティヴ》の子供たちが続々と育っている。
若い頃、リアリティ番組に夢中だったメラニー(実は一度だけ自分も出たことがあったのだが、見事に惨敗、スターになる夢がはかなく散った経験がある)は、母親になった今、「我が家では、子供が王様なんです」と言いながら、サミーとキミーという兄妹をSNSで公開し、大変な数の登録者を獲得している。何社ものスポンサーもついて、商品宣伝の役割まで担うようになって……現代の日本同様、みんなの憧れの的であるユーチューバーになったというわけだ。
ある日はキミーのスニーカー選びを視聴者の投票にまかせたり、ある日はファストフードの店で全部注文する、というゲームを公開したり。
YouTube 、インスタグラム……。子供たちは常にカメラのある生活を送っている。
たくさんのお友達に見られている。イベント(!)をすれば、たくさんのファンが集まり、一緒に写真を撮りたがる。オリジナルブランドのノートや衣類を作って売れば、たくさんの子供たちがそれを持ちたがる……。でもたくさんのファンは、遠くで見ているだけの存在で本当にはお友達にはなっていない、みんなどこかで見ているだけなのだ。
知らないみんなにいつも見られている子供はどんなふうに育っていくのだろう?
もちろん、つねに公開されている子供の生活には具体的な危険がいっぱい。住所など簡単に割り出されてしまう。たまたま部屋の隅にある段ボール箱に貼られた宛名シールの文字が読めてしまってとか……窓外の風景から位置を割り出されてしまうとか……。
実際に被写体の眼球に映った風景から場所を特定するということなど、日本でも時々耳にする。
そして作品中のキミーも誘拐されてしまう。兄と近所の子供たちとかくれんぼをしている最中に消えて、脅迫のメールが届く。
いったい誰が? 身代金目的? 嫉妬? ペドフィル? パリ司法警察局が捜査を開始。YouTubeのライバルに始まり、様々な人物が捜査線上に上るが、はたして真相は?
そういう具体的な危険も恐ろしいことですが、つねに人目を意識して生活する子供はどんなふうに育つのだろう? つねに撮る大人を意識して、知らぬ間に演出されて過ごす子供たちの将来をまだ私たちの誰も見届けてはいない。
訳者あとがきで河村真紀子さんが書いていらっしゃように、フランスでは二〇二〇年十月に、YouTubeなどで活躍するキッズインフルエンサーの活動を、キッズモデルや子役俳優同様に労働法の保護規制によって守る法律、子供の画像の商業的利用を規制する法律が議会で採択された。これは世界で初めてのことだった。
本書でも、二〇三一年の部分で、これによってあることが起こるのだ。
司法警察の人間として登場するクララが不思議な魅力を放っていることも書いておきたい。知的で進歩的な両親のもとに生まれた彼女は、ベビーバスケットで運ばれる時代から、両親の仲間の会合など連れていかれたり、デモに参加する親とはぐれる幼児期を過ごしたりして育った女性だ。思春期の頃やっと両親がテレビを買ったが、見るのは討論とドキュメンタリー番組だけと決められてたほどの。
優秀でソルボンヌ大学を卒業したらどうするのか、と思っていた両親(警察嫌い)を驚かせたのは、警察官になるという選択をしたことだった。
小柄で、子供と見間違われたりするほどの彼女は、文法や言葉に厳しく、捜査記録官という役職についている。その、言葉に対する厳しさは、同僚たちから「アカデミー会員(アカデミシエンヌ)」と呼ばれるほどだ。アカデミーつまり、アカデミー・フランセーズだ。
彼女のメラニーや子供たちとの接し方、懊悩、反省……はきわめてまっとうで、好感を持たれる方も多いのではないでしょうか。
優秀でソルボンヌ大学を卒業したらどうするのか、と思っていた両親(警察嫌い)を驚かせたのは、警察官になるという選択をしたことだった。
小柄で、子供と見間違われたりするほどの彼女は、文法や言葉に厳しく、捜査記録官という役職についている。その、言葉に対する厳しさは、同僚たちから「アカデミー会員(アカデミシエンヌ)」と呼ばれるほどだ。アカデミーつまり、アカデミー・フランセーズだ。
彼女のメラニーや子供たちとの接し方、懊悩、反省……はきわめてまっとうで、好感を持たれる方も多いのではないでしょうか。
かつて、初期のリアリティ番組(行く先の決まったバスに何人かの若い男女が乗り、旅をし、その道中でカップルが出来ていくという番組。お互いに告白し合って、まとまるカップルもあれば、成立しないカップルもあり……)を見た私は、そこに登場する若い男女が皆、ドラマの主人公になったかのように演じている姿に驚かされた。人に見られていることを明らかに意識して、見られている自分に酔って、期待される役を演じている姿……。それはまあ、ある意味、恋愛は酔うものではありますが(?!)、これはいったいなんだ?!と、なにやら薄気味悪い思いをしたものだ。いまや、そんなことは誰も問題にもしないという状況。見せたい、見られたい……が現代のようだ。この、見られているという状態がなくなって、いざ現実の二人にもどったとき、二人の関係はどう変わっていくのだろう? そんなことはよけいなお世話というものですね(文字どおりの老婆心というやつです)。
そんなことを思っていた私にとって、この作品はきわめてインパクトがあった。
演技することを運命づけられた子供たち……。子供たちは本当に王様でいられるのだろうか?
デルフィーヌ・ド・ヴィガンは、フランスの現代社会における問題を主題に置いた作品をいくつも書いている作家だが、本書もまたそういった作品のひとつとなり、話題を呼び、昨年の3月刊行以来、1年半足らずで27万部を売り上げている。
子供は親の所有物ではない、という当然のようなことがあらためて意識される作品だ。
本書に出てくるリアリティ番組、『ロフトストーリー』は、YouTube で現在も見ることができる。
メラニーやその家族が夢中になったロアナという女性が、自らの人生を語るYouTubeも見ることができる。
その他にもいくつかタイトルが上がっているものも、すぐに映像を見つけることができる。"L'ils de la Tentation" や "L'amour est aveugle" 等々。
YouTube もインスタグラムもしない私は、本書を読むまで『トイレットペーパー巻き取りゲーム』や『マクドナルドの商品すべて注文する』や『~で24時間過ごす』というような遊びを映像で流す人たちがいる現実をまったく知らなかった。
こんな遊びが世界中に広まっている事実にも、寒けを覚えずにはいられない。あらゆることを遊びにしてしまう精神は大好きだが、それとは別次元の話ですよ、これは。
ある意味、世の中の変わりようにぞっとする。やっぱりこれは年寄りの繰り言?
みなさんはどうお思いですか?
著者自ら本書の26ページから32ページ、86ページから95ページあたりを抜粋して朗読し、そのあと作品について語っている動画もあります。ご覧になってみてください。
*素敵な装画は金子幸代さん、装丁は中村聡さんです。