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●7月某日 『推し、燃ゆ』宇佐見りん
選挙の期日前投票をした後、同業者のAさんと近所のカフェで落ち合ってお茶をした。リアルでお目にかかるのは久しぶりで、会ってすぐ「髪切った?」「なんか雰囲気変わった?」というジャブをもらう。メガネをかけなくなったせいかな?
Aさんは、私のデビュー作である『オーブランの少女』が単行本として発売された際に、東京創元社のパーティーで話しかけて下さったという縁がある。同学年なことも手伝っているのか、折に触れて色々誘って頂く。私のような、以前から同業者との付き合いが極端に少なく、小説界隈(かいわい)との繋がりが縁日のヨーヨー釣りの紙縒(こよ)り並にちぎれやすい人間には、大変得がたい知人である。ありがとうありがとう。
お茶をしながら(私はランチプレートを食べながら)、小説・創作についての話をあれこれする。ほうほうと頷(うなず)きつつ、Aさんはめちゃくちゃ分析するな~すごいな~と感心してしまう。それを指摘すると、時計をバラバラにするように小説の構造を解体してみるのだと仰る。なるほど。
この後で、SFマガジン8月号に掲載された小川哲×逢坂冬馬の対談(https://www.hayakawabooks.com/n/nd2b6523e1576)を読み、小川さんが逢坂さんに「逢坂さんもそっち寄りなのかなと。作品を分解して理解するタイプ。」と言い、逢坂さんが「たしかに理屈で分からないと不安になりますね。分解して理解することで、自分の中で読書をしたという気持ちになる。」と返したくだりがあって、ちょっとびっくりした。それが良いとか悪いとかではなく、純粋に自分は本を読むとき、作品を分解して理解するという行為をしていないことに気づいたからだ。
いや、小説の構造は一応わかるのだが、私の場合はそこに重きを置いていないというか、感覚に依(よ)ってしまっている。そんなんで読書日記なんて書いていいのか? 甚(はなは)だ疑問が残るが、まあ読み方は人それぞれではある。
とまれ、Aさんとあれこれ話して、小説を書く際にもうちょっと構造とか技術とか考えた方がいいんじゃないか……という結論に達した。最近、自分に課している課題は「人間を書く」だし、いろいろ自覚的にやっていった方がいいんじゃなかろうかと。
それで、宇佐見りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社)を読んだ。言わずと知れた、第164回芥川賞受賞作である。
主人公の推しが、ある日、ファンを殴ってしまい、炎上した。子役からアイドルになった推しは、クールな一匹狼タイプというか、芯が強い性格をしていて、炎上したことについても真摯(しんし)に受け止めている。けれど世間は彼を叩き、アンチはさらに燃料を投下し、一部のファンもアンチに変わってしまう。それでも主人公は推しを推し続ける決心をする。
この小説の主眼は、学校や社会、家族、人生そのものに対してもうまくなじめない10代の主人公が、〝推し活〟に没頭し、依存し、ぐちゃぐちゃになっていく、生きづらさの物語である。バイトはうまくいかず、勉強もままならない。ただ推しのことをブログで語る時だけはうまく羽ばたけている。炎上した推しの状況が変化するとともに主人公をめぐる状況も悪化し、まだ若い彼女はどんどん体調を崩し、どんどん惑(まど)っていく。
「四方を囲むトイレの壁が、あわただしい外の世界からあたしを切り取っている。先ほどの興奮で痙攣するように蠢いていた内臓がひとつずつ凍りついていき、背骨にまでそれが浸透してくると、やめてくれ、と思った。やめてくれ、何度も、何度も思った、何に対してかはわからない、やめてくれ、あたしから背骨を、奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。」
主人公の生きづらさ、依存が、文章からありありと伝わってくる。序盤から中盤にかけては、私の推し活もまだまだだなあなんて呑気なことを考えてしまうけれど、あまりにも主人公の痛みが重く、今すぐ駆け寄って助けたくなっても、推し以外は彼女を救えないのでどうにもならない。
何かに愛情を傾けすぎることで払う代償の大きさ、それをわかっていてなおしがみ付かずにはいられない不安定で繊細(せんさい)な心、容赦なく進む時間と先の見えない未来が、丁寧に描かれる。どうして社会と関わって生きなければならないんだろう、推しを推したいだけなのに、なぜ苦しまなければならないのだろう、どうしてこれを失わなければならないのだろう。推しを推すことにのめり込んでいく主人公を通じて、うまく生きられず、自分を認めることができない人たちの共感をかき立てる。この小説では依存先が「推し」になっているけれど、ここにはいろいろな物事が代入できるだろう。依存しなければ自分の輪郭すら見失ってしまう人たちのつらさを、これでもかと伝えてくる作品だ。
私も推しがいる身だから、依存しすぎてしまうことの怖さはわかる。人が人を信頼しすぎてしまうことで生じるやばさだ。推しがまずいことをしでかしたら「裏切られた」と絶望してしまうだろうし、この主人公のように推しを推し続けられる自信はないし、推し続けられたとしてズタボロに傷つくに違いないと思う。推される側だって迷惑だろう。勝手に想像されて、勝手に好かれて、勝手に依存された挙げ句、勝手に失望されて、勝手に批判される。ただの人間同士であるはずなのに、ここに発生する感情は何なのだ。
推しのいない人生の方が幸せなのかもしれない。だが、推しがいる瞬間に浴びられる強い光は本当に輝いていて、地獄の底にいたって照らしてもらえる。救われる。あの光に勝るほど尊いものが存在しないという思いは、確かにある。
その先に自分の力だけで立てる未来があると信じる、しかない。
いつもはマクラみたいな感じで日記を書くのだけど、今回はちょっと昔話というか自分語りというか(まあ普段からよく自分語りをしてしまうのだが)、マンガについて書こうかなあと思う。なぜかというと今月は小説ではなくマンガばかり摂取していたからだ。きっかけはとある仕事の依頼なのだけど、新しいマンガを読むのはいつだって楽しい。
子どもの頃、家にマンガ用の小さな本棚があった。両親が読んでいた古いマンガがぎっしり詰まっていたので、よくそこから取って部屋に持ち込み、読みあさっていた。石ノ森章太郎、萩尾望都、水野英子、とりわけ手塚治虫とちばてつや、そして大友克洋のマンガは読み込んだ。宮崎駿の『風の谷のナウシカ』マンガ版もそうだ。手塚治虫『ブラック・ジャック』はコマを暗記するレベルで読み返したし、ちばてつや『ユキの太陽』や『1・2・3と4・5・ロク』、『みそっかす』には本当に励まされた。特に口が悪くて元気いっぱいで乱暴者の子どもだった私は、「女児は大人しく従順であれ」と言わんばかりの当時の風潮にまったく合わず、居場所がなかったので、ちばてつやが描く少女マンガの主人公たちに共感することで自信が持てたのである(『ユキの太陽』のユキちゃんの一人称が「おれ」から「私」に変わってしまうのは惜しいけれど)。
古いマンガ以外にも好きなマンガはたくさんあった。雑誌だと、私は『なかよし』、姉が『りぼん』を買っていて、読み終わると交換してどちらも読んだ。私の世代は、小学二年生の冬に『美少女戦士セーラームーン』が連載を開始した世代である。リアルタイムでセーラームーンを愛した女児だ。途中で『なかよし』の派生雑誌『るんるん』も買うようになったが、小学校高学年頃に『なかよし』から『週刊少年ジャンプ』に変わった。姉は『LaLa』を買い、姉妹ともども読むマンガがどんどん大人向けになっていく。他には『アフタヌーン』『モーニング』『モーニング・ツー』『月刊IKKI』『ハルタ』なども読んだ。マニアと呼べるほどの数は嗜(たしな)んでいないが、まあ人並みくらいには読んだんじゃないだろうか。
振り返ってみると、たくさんのマンガが自分の人生に登場しては消えていったなと思う。わくわくするマンガ、情熱を滾らせるマンガ、笑えるマンガ、泣いてしまうマンガ。マンガ家になりたいなと考えた時期もあった。コマ割りのセンスが絶望的なまでに皆無すぎて早々に諦めたけれど。
というわけで、今月読んだマンガの話。
平方イコルスン『スペシャル』(リイド社)は、1巻を読んだ時は「ちょっと不思議系の日常ほのぼのマンガ」だと思い込んでいて、最終4巻でぶっ飛ばされた気分になった。この世には、常人の予想をすべてメキャメキャに潰して異次元に連れ込んだ上に崖から落とすタイプの作品というのがあり、『スペシャル』はまさにそれだった。
とある地方の学校に越してきたばかりの葉野さよは、常にヘルメットをかぶっている奇妙なクラスメイト、伊賀にシャープペンシルを貸す。なぜか動揺し躊躇(ためら)う伊賀に戸惑いながら次の休み時間を迎えると、粉々に砕かれて塵(ちり)と化したシャープペンシルの残骸を見せられる。伊賀は、ほんの少し触れただけで物を破壊してしまうくらいの怪力の持ち主なのだった。
さよのクラスメイトは、不思議な能力を持つ伊賀の他にも、地元の大金持ちで、学校になんでも持ち込んでくる大石や、奔放な大石をフォローし続ける谷、ガソリンの匂いフェチの藤村、豆を無心で食う会藤、会藤をつねることに執着する筑前など、癖の強い生徒が多い。彼ら・彼女らと少しずつ親しくなりながら日常を過ごしていくのだが……というあらすじだけを読むと、たとえば眞藤雅興『ルリドラゴン』とか熊倉献『ブランクスペース』などの、日常に特殊能力が混じり、何らかの大きな物語に転がっていく、わりと最近流行のスタイルなのかなと思うだろう。けれどこの平方イコルスン『スペシャル』は、ちょっと不思議な日常系マンガをいろんな意味でぶっ壊していく、日常マンガの極北な気がする。ラスト2ページのすごさに言葉をなくす。
他にもあれこれ読んだが、たらちねジョン『海が走るエンドロール』(秋田書店)も面白かった。
茅野うみ子は65歳、夫を亡くしたばかり。たまたま入った映画館で映画を観ながら、うみ子はふと客席を振り返る――若い頃から、上映中にそっと背後を窺(うかが)って、観客たちの表情を眺めてしまう癖(くせ)があるのだ。そのことを、同じ回で鑑賞した、美大で映像を専攻している青年、海(カイ)に指摘される。「うみ子さんさぁ 映画作りたい(こっち)側なんじゃないの? どんな面白い映画観てもさ 客席が気になるの 自分の創った映画がこんなふうに観られたらって考えちゃってさ ゾクゾクするからなんじゃないの?」その言葉に、うみ子の心は揺らぐ。
うみ子は一大決心をして、海のいる美大の映像科に入学することになる。そして若者たちとともに映画の撮り方を学んでいく。
大学を舞台にした青春マンガは数多くあるが、主人公が65歳というのが新しい。還暦を過ぎていようが、やりたいことをやるのに遅いなんてことはない――と、言葉にするのは易(やさ)しいが、実際にやってみたらとても大変だろう。20代ばかりの大学で60代がいると浮くし、若者もどう接して良いのかわからず、仲間になるのは難しいかもしれない。体力も衰えているし、記憶力も若い頃のようにはいかず、残されている時間も少ないだろう。そういう点も、このマンガはちゃんと掬(すく)っていて、かつ、うみ子と若者たちが段階を経て親しくなっていく様子がしっかり描かれていて、良い。それにうみ子も、昭和の価値観というか、アップデートできていない部分を若者から指摘され、考えを改めることが何回かある。自分の見ていた世界の狭さ、わかっていたようで全然わかっていなかったことなどに気づいて、はっとする。
かつては映像を学ぶ=映画一辺倒だったのが、YouTuber志望の学生がいたり、有名なインフルエンサーが登場したりと、「今」らしいところも面白い。可能性は無限だ。
子どもの頃、家にマンガ用の小さな本棚があった。両親が読んでいた古いマンガがぎっしり詰まっていたので、よくそこから取って部屋に持ち込み、読みあさっていた。石ノ森章太郎、萩尾望都、水野英子、とりわけ手塚治虫とちばてつや、そして大友克洋のマンガは読み込んだ。宮崎駿の『風の谷のナウシカ』マンガ版もそうだ。手塚治虫『ブラック・ジャック』はコマを暗記するレベルで読み返したし、ちばてつや『ユキの太陽』や『1・2・3と4・5・ロク』、『みそっかす』には本当に励まされた。特に口が悪くて元気いっぱいで乱暴者の子どもだった私は、「女児は大人しく従順であれ」と言わんばかりの当時の風潮にまったく合わず、居場所がなかったので、ちばてつやが描く少女マンガの主人公たちに共感することで自信が持てたのである(『ユキの太陽』のユキちゃんの一人称が「おれ」から「私」に変わってしまうのは惜しいけれど)。
古いマンガ以外にも好きなマンガはたくさんあった。雑誌だと、私は『なかよし』、姉が『りぼん』を買っていて、読み終わると交換してどちらも読んだ。私の世代は、小学二年生の冬に『美少女戦士セーラームーン』が連載を開始した世代である。リアルタイムでセーラームーンを愛した女児だ。途中で『なかよし』の派生雑誌『るんるん』も買うようになったが、小学校高学年頃に『なかよし』から『週刊少年ジャンプ』に変わった。姉は『LaLa』を買い、姉妹ともども読むマンガがどんどん大人向けになっていく。他には『アフタヌーン』『モーニング』『モーニング・ツー』『月刊IKKI』『ハルタ』なども読んだ。マニアと呼べるほどの数は嗜(たしな)んでいないが、まあ人並みくらいには読んだんじゃないだろうか。
振り返ってみると、たくさんのマンガが自分の人生に登場しては消えていったなと思う。わくわくするマンガ、情熱を滾らせるマンガ、笑えるマンガ、泣いてしまうマンガ。マンガ家になりたいなと考えた時期もあった。コマ割りのセンスが絶望的なまでに皆無すぎて早々に諦めたけれど。
というわけで、今月読んだマンガの話。
平方イコルスン『スペシャル』(リイド社)は、1巻を読んだ時は「ちょっと不思議系の日常ほのぼのマンガ」だと思い込んでいて、最終4巻でぶっ飛ばされた気分になった。この世には、常人の予想をすべてメキャメキャに潰して異次元に連れ込んだ上に崖から落とすタイプの作品というのがあり、『スペシャル』はまさにそれだった。
とある地方の学校に越してきたばかりの葉野さよは、常にヘルメットをかぶっている奇妙なクラスメイト、伊賀にシャープペンシルを貸す。なぜか動揺し躊躇(ためら)う伊賀に戸惑いながら次の休み時間を迎えると、粉々に砕かれて塵(ちり)と化したシャープペンシルの残骸を見せられる。伊賀は、ほんの少し触れただけで物を破壊してしまうくらいの怪力の持ち主なのだった。
さよのクラスメイトは、不思議な能力を持つ伊賀の他にも、地元の大金持ちで、学校になんでも持ち込んでくる大石や、奔放な大石をフォローし続ける谷、ガソリンの匂いフェチの藤村、豆を無心で食う会藤、会藤をつねることに執着する筑前など、癖の強い生徒が多い。彼ら・彼女らと少しずつ親しくなりながら日常を過ごしていくのだが……というあらすじだけを読むと、たとえば眞藤雅興『ルリドラゴン』とか熊倉献『ブランクスペース』などの、日常に特殊能力が混じり、何らかの大きな物語に転がっていく、わりと最近流行のスタイルなのかなと思うだろう。けれどこの平方イコルスン『スペシャル』は、ちょっと不思議な日常系マンガをいろんな意味でぶっ壊していく、日常マンガの極北な気がする。ラスト2ページのすごさに言葉をなくす。
他にもあれこれ読んだが、たらちねジョン『海が走るエンドロール』(秋田書店)も面白かった。
茅野うみ子は65歳、夫を亡くしたばかり。たまたま入った映画館で映画を観ながら、うみ子はふと客席を振り返る――若い頃から、上映中にそっと背後を窺(うかが)って、観客たちの表情を眺めてしまう癖(くせ)があるのだ。そのことを、同じ回で鑑賞した、美大で映像を専攻している青年、海(カイ)に指摘される。「うみ子さんさぁ 映画作りたい(こっち)側なんじゃないの? どんな面白い映画観てもさ 客席が気になるの 自分の創った映画がこんなふうに観られたらって考えちゃってさ ゾクゾクするからなんじゃないの?」その言葉に、うみ子の心は揺らぐ。
うみ子は一大決心をして、海のいる美大の映像科に入学することになる。そして若者たちとともに映画の撮り方を学んでいく。
大学を舞台にした青春マンガは数多くあるが、主人公が65歳というのが新しい。還暦を過ぎていようが、やりたいことをやるのに遅いなんてことはない――と、言葉にするのは易(やさ)しいが、実際にやってみたらとても大変だろう。20代ばかりの大学で60代がいると浮くし、若者もどう接して良いのかわからず、仲間になるのは難しいかもしれない。体力も衰えているし、記憶力も若い頃のようにはいかず、残されている時間も少ないだろう。そういう点も、このマンガはちゃんと掬(すく)っていて、かつ、うみ子と若者たちが段階を経て親しくなっていく様子がしっかり描かれていて、良い。それにうみ子も、昭和の価値観というか、アップデートできていない部分を若者から指摘され、考えを改めることが何回かある。自分の見ていた世界の狭さ、わかっていたようで全然わかっていなかったことなどに気づいて、はっとする。
かつては映像を学ぶ=映画一辺倒だったのが、YouTuber志望の学生がいたり、有名なインフルエンサーが登場したりと、「今」らしいところも面白い。可能性は無限だ。
以前から「マグロを釣りたい」と言っていた釣り人C氏がマジでマグロ(キハダ)を釣って、赤身とカマと尻尾を持ってきてくれた。一応この人の本職は別にあって、釣りは趣味(のはず)なのだけれど、趣味の範疇(はんちゅう)でマグロ釣るってどんだけ……いや、趣味を極めるのはすごくいいことです。そしてこれがめちゃくちゃ美味しかった。赤身は切り分けてくれていたのだが、皮付きのマグロを刺身にするのははじめてで、どうやって皮を剥(む)いたらいいんだ?と悩んだ……しかしよく解体できたな。自分では絶対無理である。せっかくなので写真をご覧下さい。クソデカマグロです。

そんな釣り人C氏と同居人K氏と、自宅で直木賞の選考会の報告を待った。結果は予想通り、まあ最下位だろうな~と思っていたので、とにかく全部終わり楽になれて嬉しかった。候補が3回目ともなるとだいぶ慣れ、プレッシャーもあまり感じなくなるのだが、それでも何かの結果を待つ状態は結構しんどい。
私はもともとコンクール的なものが苦手でできれば避けてとおりたいと思っているのだが、文学賞は自薦ではなく他薦なのでどうにもならない。候補を揃えてさあ選考会、なんてことは省いて、知らないところで選考してもらい受賞者にだけ「あなたです!」と渡してくれればいいのにな。候補にあげてもらったところでヤキモキするだけなので……そんなことを言っても詮無いのだが。
ともあれ、落選の報せを受けて私は開放感に小躍りし、廊下を走り、戻ってきてケンタッキーフライドチキンを頼んで食べた。ひとり三個分のオリジナルチキンの写真を撮ってTwitterにアップしたが、いつものように美味しくなさそうに映してしまったのが残念だ。実際はとても美味しかった。
さて、読書の代わりにテレビドラマ版『窓際のスパイ』を観た。
原作はミック・ヘロン『窓際のスパイ』(田村義進訳、ハヤカワ文庫NV)である。
イギリスのMI5(英国情報局保安部)に所属するリヴァー・カートライトは、空港での任務を失敗してしまい、スラウ・ハウスと呼ばれる落ちこぼれ職員の掃きだめに飛ばされる。この空港での任務はあくまでも訓練プログラムではあったが、カートライトに押された失敗の烙印は数ヶ月経っても消えず、本部に戻れる気配はない。
スラウ・ハウスのチームリーダーは傲慢で人使いが荒く、世も他人も見下している節のある初老の男、ラム。カートライトはラムから罵声(ばせい)を浴びせられながらも、極右記者の自宅前にあるゴミ箱の中身を漁る任務を続ける。なぜこんなことをしなければならないのか疑問を抱いていたカートライトは、あるデータを本部に持っていくように命じられ、その中身をこっそりコピーして解読し、引っかかりを覚える。この極右記者を追う任務には、何か裏があるのではないか? そう気づいたのと同時に、テレビでは大きなニュースが報じられる。何者かの手によってパキスタン系の男子学生が誘拐され、首を刎(は)ねて殺害するという予告が、SNS上にアップされたのだった。
全6話の非常に良質なサスペンス・ミステリである。いや、めちゃくちゃ面白かった。夢中で完走してしまった。
エリートのMI5たちが拉致(らち)された青年の救出を目指す中、不審な事件に巻き込まれたスラウ・ハウスの落ちこぼれスパイたちが奔走する羽目になる、というプロットなのだが、とにかく、次に何が起こるのかさっぱりわからないのだ。予測がつかず、ハラハラしっぱなしで、早く続きを!と次の話をクリックしてしまう。伏線が緻密(ちみつ)に張り巡らされ、意外な人物が意外な行動をし、思いも寄らない展開が発生する。レッドヘリングにまんまと釣られて騙(だま)されてしまう。「こうなるだろうな」と予想したとしても、それは裏切られる。うーん、何を書いてもネタバレになりそうでうまく書けない。
政治的な物語としてもリアルだし、正義の在処をどこに置くかをしっかり考えて練られた脚本だと思った。
その上、キャラクターが全員魅力的なのである。主人公のリヴァー・カートライトはいかにもエリート意識の強そうな、本来であれば敏腕スパイとなっていたであろう、ヒーローっぽい性格をしているはずなのに、冒頭の「失敗」のせいで情けない負け犬に見える。そんな彼を、映画『ダンケルク』でも魅力を放っていたジャック・ロウデンが演じているのだが、すごくハマっている。若々しく、少しドジっぽく、でも味方したくなるような、独特の魅力がある。(『ダンケルク』で「アフタヌーン!」と言った時のあの鮮烈な印象は間違っていなかった。)
スラウ・ハウスの面々もみんな好きだ。妙なかわいらしさがある。「本当にみんな落ちこぼれなんだなあ……」と納得してしまうほど、いろいろダメなんだけど、ツッコミを入れつつ愛おしく感じてしまう。このドラマの良さは、左遷先であるスラウ・ハウスがマジで吹きだまりなんだなと思わせてくれる作り込みと、人物描写の丁寧さにもある。
あとはもう、ゲイリー・オールドマン演じるラムは、そりゃ巧いのは当然なのだが、今回もめちゃくちゃ巧いし、ドがつくくらいクズで嫌な奴なのに、観ているうちに愛してしまうから厄介だ。「人たらし」なキャラが多いドラマである。MI5の副長官スタンディッシュ役のクリスティン・スコット・トーマスも、手練(てだ)れの策略家でありながら予想外の展開に動揺する微妙な表情を見事に演じている。拉致されるパキスタン系イギリス人の青年役、アントニオ・エイケルもとても魅力的だった。
そしてそして、ブライアン・ヴァーネルがめちゃくちゃ凄い。ネタバレを避けるために詳細な言及はしないが、もう、凄い。彼の演技を目撃できるというだけでも、このドラマを観る価値はあると思う。彼も『ダンケルク』で陸軍兵士として登場していて、印象に残った。
AppleTVオリジナルなので観られる環境が限られてしまうのが残念だが、機会があったらぜひ観て欲しい、一押しのドラマだ。
二作目も制作されているそうだ。原作の『死んだライオン』はCWA(英国推理作家協会)の最高賞ゴールド・ダガーを受賞していて、大変評判がいい。今からドラマを観るのが楽しみだ。

そんな釣り人C氏と同居人K氏と、自宅で直木賞の選考会の報告を待った。結果は予想通り、まあ最下位だろうな~と思っていたので、とにかく全部終わり楽になれて嬉しかった。候補が3回目ともなるとだいぶ慣れ、プレッシャーもあまり感じなくなるのだが、それでも何かの結果を待つ状態は結構しんどい。
私はもともとコンクール的なものが苦手でできれば避けてとおりたいと思っているのだが、文学賞は自薦ではなく他薦なのでどうにもならない。候補を揃えてさあ選考会、なんてことは省いて、知らないところで選考してもらい受賞者にだけ「あなたです!」と渡してくれればいいのにな。候補にあげてもらったところでヤキモキするだけなので……そんなことを言っても詮無いのだが。
ともあれ、落選の報せを受けて私は開放感に小躍りし、廊下を走り、戻ってきてケンタッキーフライドチキンを頼んで食べた。ひとり三個分のオリジナルチキンの写真を撮ってTwitterにアップしたが、いつものように美味しくなさそうに映してしまったのが残念だ。実際はとても美味しかった。
さて、読書の代わりにテレビドラマ版『窓際のスパイ』を観た。
原作はミック・ヘロン『窓際のスパイ』(田村義進訳、ハヤカワ文庫NV)である。
イギリスのMI5(英国情報局保安部)に所属するリヴァー・カートライトは、空港での任務を失敗してしまい、スラウ・ハウスと呼ばれる落ちこぼれ職員の掃きだめに飛ばされる。この空港での任務はあくまでも訓練プログラムではあったが、カートライトに押された失敗の烙印は数ヶ月経っても消えず、本部に戻れる気配はない。
スラウ・ハウスのチームリーダーは傲慢で人使いが荒く、世も他人も見下している節のある初老の男、ラム。カートライトはラムから罵声(ばせい)を浴びせられながらも、極右記者の自宅前にあるゴミ箱の中身を漁る任務を続ける。なぜこんなことをしなければならないのか疑問を抱いていたカートライトは、あるデータを本部に持っていくように命じられ、その中身をこっそりコピーして解読し、引っかかりを覚える。この極右記者を追う任務には、何か裏があるのではないか? そう気づいたのと同時に、テレビでは大きなニュースが報じられる。何者かの手によってパキスタン系の男子学生が誘拐され、首を刎(は)ねて殺害するという予告が、SNS上にアップされたのだった。
全6話の非常に良質なサスペンス・ミステリである。いや、めちゃくちゃ面白かった。夢中で完走してしまった。
エリートのMI5たちが拉致(らち)された青年の救出を目指す中、不審な事件に巻き込まれたスラウ・ハウスの落ちこぼれスパイたちが奔走する羽目になる、というプロットなのだが、とにかく、次に何が起こるのかさっぱりわからないのだ。予測がつかず、ハラハラしっぱなしで、早く続きを!と次の話をクリックしてしまう。伏線が緻密(ちみつ)に張り巡らされ、意外な人物が意外な行動をし、思いも寄らない展開が発生する。レッドヘリングにまんまと釣られて騙(だま)されてしまう。「こうなるだろうな」と予想したとしても、それは裏切られる。うーん、何を書いてもネタバレになりそうでうまく書けない。
政治的な物語としてもリアルだし、正義の在処をどこに置くかをしっかり考えて練られた脚本だと思った。
その上、キャラクターが全員魅力的なのである。主人公のリヴァー・カートライトはいかにもエリート意識の強そうな、本来であれば敏腕スパイとなっていたであろう、ヒーローっぽい性格をしているはずなのに、冒頭の「失敗」のせいで情けない負け犬に見える。そんな彼を、映画『ダンケルク』でも魅力を放っていたジャック・ロウデンが演じているのだが、すごくハマっている。若々しく、少しドジっぽく、でも味方したくなるような、独特の魅力がある。(『ダンケルク』で「アフタヌーン!」と言った時のあの鮮烈な印象は間違っていなかった。)
スラウ・ハウスの面々もみんな好きだ。妙なかわいらしさがある。「本当にみんな落ちこぼれなんだなあ……」と納得してしまうほど、いろいろダメなんだけど、ツッコミを入れつつ愛おしく感じてしまう。このドラマの良さは、左遷先であるスラウ・ハウスがマジで吹きだまりなんだなと思わせてくれる作り込みと、人物描写の丁寧さにもある。
あとはもう、ゲイリー・オールドマン演じるラムは、そりゃ巧いのは当然なのだが、今回もめちゃくちゃ巧いし、ドがつくくらいクズで嫌な奴なのに、観ているうちに愛してしまうから厄介だ。「人たらし」なキャラが多いドラマである。MI5の副長官スタンディッシュ役のクリスティン・スコット・トーマスも、手練(てだ)れの策略家でありながら予想外の展開に動揺する微妙な表情を見事に演じている。拉致されるパキスタン系イギリス人の青年役、アントニオ・エイケルもとても魅力的だった。
そしてそして、ブライアン・ヴァーネルがめちゃくちゃ凄い。ネタバレを避けるために詳細な言及はしないが、もう、凄い。彼の演技を目撃できるというだけでも、このドラマを観る価値はあると思う。彼も『ダンケルク』で陸軍兵士として登場していて、印象に残った。
AppleTVオリジナルなので観られる環境が限られてしまうのが残念だが、機会があったらぜひ観て欲しい、一押しのドラマだ。
二作目も制作されているそうだ。原作の『死んだライオン』はCWA(英国推理作家協会)の最高賞ゴールド・ダガーを受賞していて、大変評判がいい。今からドラマを観るのが楽しみだ。
【編集部からのお知らせ】
次回から「深緑野分のにちにち読書」は隔月更新となります。
第八回は10月17日(月)に掲載予定です。
第八回は10月17日(月)に掲載予定です。
■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)、『スタッフロール』(文藝春秋)などがある。
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)、『スタッフロール』(文藝春秋)などがある。