【はじめに】
 創元SF文庫は来年2023年、創刊60周年を迎えます。

 1963年9月に創元推理文庫SF部門として誕生し、フレドリック・ブラウン『未来世界から来た男』に始まり、1991年に現行の名称への改称を挟んで、これまでに700冊を超える作品を世に送り出してまいりました。エドガー・ライス・バローズの《火星シリーズ》やE・E・スミスの《レンズマン》シリーズをはじめ、ジョン・ウィンダム、エドモンド・ハミルトン、アイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインライン、レイ・ブラッドベリ、J・G・バラード、アン・マキャフリー、バリントン・J・ベイリー、ジェイムズ・P・ホーガン、ロイス・マクマスター・ビジョルド、そして近年にはアン・レッキーやN・K・ジェミシン、マーサ・ウェルズら新鋭のSFを刊行しています。また、2007年からは日本作家の刊行も開始し、2009年には《創元SF短編賞》を創設して新たな才能が輩出しています。

 このたび60周年を迎えるにあたり、当〈Web東京創元社マガジン〉にて全6回の隔月連載企画『創元SF文庫総解説』として、創元SF文庫の刊行物についてその内容や読みどころ、SF的意義を作家や評論家の方々にレビューしていただきます。連載終了後には書き下ろし記事を加えて書籍化いたしますので、そちらも楽しみにお待ちくださいませ。
 
 なお編集にあたっては、書影画像データにつきまして渡辺英樹氏に多大なご協力をいただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。


【掲載方式について】
  • 刊行年月の順に掲載します(シリーズものなどをまとめて扱う場合は一冊目の刊行年月でまとめます)。のちに新版、新訳にした作品も、掲載順と見出しタイトルは初刊時にあわせ、改題した場合は( )で追記します。
    例:『子供の消えた惑星』(グレイベアド 子供のいない惑星)
    また訳者が変わったものも追記します。
  • 掲載する書影および書誌データは原則として初刊時のもののみとし、上下巻は上巻のみ、シリーズもの・短編集をまとめたものは最初の一冊のみとします。
  • シリーズものはシリーズタイトルの原題(シリーズタイトルがない場合は、第一作の原題)を付しました。
  • 初刊時にSF分類だった作品で、現在までにFに移したものは外しています。書籍化する際に、別途ページをもうけて説明します。
    例:『クルンバーの謎』、『吸血鬼ドラキュラ』、《ルーンの杖秘録》など
  • 初刊時にF分類だったもので現在SFに入っている作品(ヴェルヌ『海底二万里』ほか全点、『メトロポリス』)は、Fでの初刊年月で掲載しています。


800冊に及ぶ創元SF文庫全作品のレビューを掲載した『創元SF文庫総解説』が、2023年12月22日に刊行!
対談やエッセイも収録した盛りだくさんの内容です。ぜひお読みくださいませ。
(刊行に伴い、本連載の2回目以降は公開を終了いたします。)




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1963年9月~
フレドリック・ブラウン『未来世界から来た男 SFと悪夢の短編集』『天使と宇宙船』『スポンサーから一言』『宇宙をぼくの手の上に』『73光年の妖怪』『宇宙の一匹狼』Nightmares and Geezenstacks, 1961, and others
小西宏、ほか訳 解説:厚木淳、ほか
カバー装画:松田正久

 ブラウンは、書いた本の冊数で言えばミステリ作家だが(長編だけで二十冊以上)、ジャンルに残した足跡ではSF作家としてのほうがはるかに重要度が高い。とりわけ短編に関しては、星新一や筒井康隆など、草創期の日本SFに多大な影響を与えた。気のきいたアイデア。巧みな語り口。独特のひねり。ジャンルを自在に書き分けるテクニック……。一九六〇年代、ブラウンはブラッドベリやシェクリイと並んで、SFのF派(非ハードSF派)を代表する作家だった。そのSF短編群の大半を収めるのが、五一年から六一年にかけて出版された四冊の短編集。日本では六三年から六九年にかけて、創元推理文庫から(原書とはほぼ逆順で)翻訳刊行された。
 最初に出た『未来世界から来た男』は四十三編(原書から四編を割愛)を収める掌編集(短編の長さの作品も数編ある)。旧版の「SFと悪夢の短編集」の副題どおり、ホラーやミステリ(「いとしのラム」など)も含まれる。邦訳は全体を「第一部 SFの巻」と「第二部 悪夢の巻」に二分し、SF系を前半に配置している。表題作はマック・レナルズとの共作。四千年未来から来た男が現代アメリカの田舎町で幸せに暮らし始めるが……。意外なかたちで人種差別を描く社会派の衝撃作。
 次の『天使と宇宙船』は全十六編収録の第二短編集。私見ではこれがブラウン短編集のベスト。中でも最大の衝撃作は「ミミズ天使」。主人公チャーリーはある日、奇妙な出来事に遭遇する。釣り餌のミミズ(angle worm)がとつぜん頭に金の輪っかを戴く天使に変わり、そのまま昇天してしまったのだ。それから数日ごとに説明不能の現象が連続して発生する。いったい何が起きているのか? チャーリーは奇現象を研究し、ある法則性を発見する……。話のつくりはミステリだし、設定はファンタジーだが、世界の秘密を論理的に解明する手続きとそこから生まれるセンス・オブ・ワンダーはSFならではのものだろう。世界が言葉でつくられているという発想は、言語SFの走り。プログラムされた現実を描く点では、仮想空間ものや映画「マトリックス」の源流とも言える。P・K・ディックが絶賛した「ウァヴェリ地球を征服す」は、実体を持たない電波生物が地球を包囲し、テレビやラジオを含め、あらゆる無線通信が不可能になる話。その他、SFとファンタジーの狭間に狙いを定めた「ユーディの原理」(科学的な新発明の成果か、〝そこにはいない小人〟の仕業か、どちらとも決定できない)、〝悪魔〟ものの秀作「悪魔と坊や」、AIのシンギュラリティ到達を予見的に描いたようなショートショート「回答」、狂ったユーモアが冴える「気違い星プラセット」など、印象的な作品多数。
 続く『スポンサーから一言』は全二十一編収録の第三短編集。原書の「地獄の蜜月旅行」にかわって邦訳の表題作に選ばれた「スポンサーから一言」はとくに日本で人気が高く、〇六年のSFオールタイムベスト投票海外短編部門で39位に入った。ある日、各地のラジオから「スポンサーから一言」という前置きとともに同じひとつの短い言葉が流れ、それによって世界が変わっていく。冷戦時代を象徴するSF短編のひとつ。対する「闘技場」は、英語圏での一番人気。二〇一二年にローカス誌が実施した二〇世紀ベストSF投票ではノヴェレット部門の20位にランクインした。TV版「スタートレック」第十八話「怪獣ゴーンとの対決」の原案に採用されたことで有名。主人公が人類を代表して異星人と戦うことを強いられる話で、藤子・F・不二雄「ひとりぼっちの宇宙戦争」の元ネタとも言われる。ほかに、「至福千年期(ミレニアム)」「最後の火星人」「鼠」「翼のざわめき」 など。
『宇宙をぼくの手の上に』は、五一年に出た全九編の第一短編集。巻頭の「緑の地球」は、異星に不時着した男が、ドロシーと名づけた原住生物だけを話し相手にジャングルを放浪する話。ショッキングな結末がよく知られている。「狂った星座」では、ある晩とつぜん夜空の星々が高速で移動しはじめる。「星ねずみ」は、中村融・山岸真編のアンソロジー『20世紀SF1 1940年代』の表題作にも選ばれた作品。町の科学者が自宅で捕まえたネズミを月ロケットに乗せて打ち上げたところ、異星種属に捕獲され……という牧歌的なユーモアSF。巻末の「さあ、気ちがいに」は、早川書房《異色作家短篇集》のブラウンの巻『さあ、気ちがいになりなさい』(星新一訳)の表題作。自分の正気を疑う新聞記者が取材のために精神病院に潜入することになるが……。ほかに、「ノック」「すべて善きベムたち」「シリウス・ゼロは真面目にあらず」など。
 以上四冊の収録作は、邦訳から割愛された作品や短編集未収録だった作品も含め、発表年代順に再配列されて『フレドリック・ブラウンSF短編全集』全四巻にまとめられ、安原和見の新訳で東京創元社から刊行されている。いまブラウン短編を読むなら、この短編全集をお薦めしたい。
 ブラウンのSF長編は五冊あり、最初の三冊『発狂した宇宙』『天の光はすべて星』『火星人ゴーホーム』は早川書房から邦訳。創元からは比較的マイナーな(言及されることの少ない)二長編が出ている。『73光年の妖怪』は、太陽系から七十三光年の彼方にある母星から追放された異星人(作中では〝知性体〟)がウィスコンシン州の田舎町に飛来し、地球人に憑依するという、クレメント『20億の針』タイプのSFサスペンス。ただし、こちらの知性体は小さな亀みたいな生物が本体。彼らは他種属の精神を乗っ取って知識を吸収し、宿主の体を支配することで発展してきた。新たな生物に憑依するには、宿主を死なせる必要があるため、知性体の活動により、ネズミや猫の不可解な死や人間の自殺が連続する。たまたま町に滞在していた物理学者がこの怪現象を解き明かす仮説を立て、やがて知性体と対決する……。スケールは小さいものの、「ヒドゥン」型のサスペンスとしては上々の出来で、ラストのアクションも面白い。
 もう一冊の『宇宙の一匹狼』は、別々の雑誌に発表された中編二編を合体させたSFサスペンス。こちらは岩石型の知性体が登場するが、本筋にはあまり関係ない。主人公は無実の罪で捕まった凄腕の犯罪者。判事から、解放+高額謝礼と引き換えにあるミッション(秘密兵器の奪取)を与えられる。後半の山場は百人以上の警官が守るビルから仲間を救い出すミッション。岩石知性は新たな惑星をつくり、主人公カップルにエデンの園を提供する。ブラウンのSF長編ではいちばん出来が悪く、訳文が(『73光年…』と比べても)かなり古びていることもあって、ブラウン全作品読破を試みる人以外には推奨できない。(大森望)


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1963年12月
アーサー・コナン・ドイル『マラコット深海』The Maracot Deep, 1929
大西尹明訳 解説:厚木淳
カバー装画:S.D.G.藤沢友一

 老学者マラコット博士は、大西洋の深海調査のため若き動物学者ヘッドリー、職工スキャンランとともに新発明の潜降函に乗り込むが、事故で海淵に落下。絶望する三人を助けたのは、海底を歩く海底人たち。建物の中に空気がある海底都市へ向かうが、ここは海に沈んだアトランティスの名残りだった……。
 シャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルは、歴史小説・怪奇小説・医学小説など、広い範囲で活躍した。SFでの代表作が『失われた世界』であることは間違いないが、それに次ぐのが『毒ガス帯』、そして『マラコット深海』であろう。
 海底都市で海中を移動する際、「泳ぐ」のではなく常に「歩く」感覚は、ちょっと面白い。ここも『失われた世界』の隔絶した台地と同様、あくまで「秘境」なのだ。実際、〈ストランド〉誌掲載時はThe Maracot Deepという題名の後ろにThe Lost World under the Seaと副題が付されていた。
 終盤、敵である「悪」との戦いなど、SFというよりもややオカルティックな側面もあり、心霊学に傾倒した作者らしさが表れている。コナン・ドイル〝最後の長編〟でもある本作、邦訳で文庫になっているのは現時点に至るまで創元のみである。(北原尚彦)


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1963年12月
ジョン・ウィンダム『トリフィド時代 食人植物の恐怖』The Day of the Triffids, 1951
井上勇訳 解説:訳者
カバー:日下弘・日下光子
【新訳】2018年刊、中村融訳

 世紀の天体ショーと謳われた大流星群を見物した全ての人間が盲目となり、一夜にして文明が崩壊。ごく少数の目の見える人間によって再建が始められるが、植物油採取のために栽培されていた三本足の動く植物トリフィドが人間を襲い始める、というポスト・アポカリプスSFの古典。この一作で作者はH・G・ウェルズと並ぶ代表的な英国SF作家と見做されるようになった。
 主人公の生物学者が後世のために書いた、いわゆる「偽回想記(フェイク・メモワール)」の形式になっており、知的で冷静な筆致により大惨事を記述していくリアルさと、文明再建のための方策を検討する人間の本性や文明に対する思弁が読みどころだ。主人公は基本的に受動的な人物で、いろいろな計画についてあれこれコメントはするものの、惨禍の最中に出会った女性を追いかけるロマンスが物語の主筋となり、なかなか楽しそうなのが面白い。
 作品が発表された一九五一年は米ソ冷戦の真っ只中であり、核戦争による世界滅亡の予感が背景にあるのは明らかだが、現在の目で読むと、やはりSFを代表するクリーチャーである食人植物トリフィドのインパクトが抜群だ。(渡邊利道)


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1964年2月
A・E・ヴァン・ヴォークト『宇宙船ビーグル号の冒険』The Voyage of the Space Beagle, 1950
沼沢洽治訳 解説:厚木淳
カバー装画:石垣栄蔵
【新版】2017年刊

一千人の乗員と各分野のエキスパートを乗せて大宇宙の深淵を探索する宇宙船ビーグル号。遭遇するのは超絶した能力と知性を合わせ持つ数々の宇宙生物だった。高圧電流も吸収し、厚い合金の壁も粉砕する猫様巨獣ケアル、テレパシー文明を持つ鳥人類リーム人、故郷の星の大爆発にはじきとばされ、極寒真空の宇宙空間で何千年と生き続けてきた不死身の怪物イクストル、銀河系のすべてを貪りつくす無形生命体アナビス。宇宙生物側からの視点を加えることで死闘の臨場感は類を見ないものとなる。そんななかで、専門分化して視野の狭まった各種科学者間のあつれきや弊害を取り除くことを目的に創設された新しい科学〈総合科学〉の唯一の参加者エリオット・グローヴナーは頭角を現し、成果を重ね、科学者たちを率いる存在になる。
「本文庫のSFマークは、まず、最もSF臭の少ないSF作家、F・ブラウンの作品からスタートしたが、六冊目の本書で、いよいよ最もSFらしいSFをお届けすることになる」(厚木淳解説)と当時の編集部が満腔の自信を持って送り出した名品である。
 著者のデビュー作であり本書の第一話の原型となる「黒い破壊者」が表題の「宇宙生命SF傑作選」が当文庫で刊行されている。(水鏡子)


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1964年2月
H・G・ウェルズ『透明人間』The Invisible Man, 1897
宇野利泰訳 解説:訳者
カバー:S.D.G.太田英男

 ウェルズ長編四作目。世界中の神話や民話にも見られる〈透明化〉を現代社会に現代科学を用いて――まさにSF的に――描いたのはウェルズが嚆矢にちがいない。透明人間が全身の包帯をほどいていく鮮烈なシーンも本作にある。なお本作には複数の版があり、初版にはない「副題」a grotesque romanceが付された版や本文を改稿した版もある。本文庫は扉に初版の年号1897が記されており、初版を訳したものだと思われる。
 本作主人公グリフィンはアルビノであり差別された経験をもつ。グリフィンの透明化は、まずは〈他者の視線〉を避けるためのものなのだ。物語後半グリフィンは――のちに描かれる透明人間たち同様――透明性を利用して他者に犯罪的にかかわるのだけれど、〈透明人間による恐怖社会〉という世界構想まで示唆しており、のちの透明人間たちとは一線を画している。
 今や透明化は、現実と虚構から、〈XR/拡張現実〉までをも支配しようとしている。複数の世界を自由に生成消滅させるメタバースにおいて、透明化は本質的だ。新たな透明化〈メタ透明化〉を描くのは現代SFの使命になる。
 百年以上前に透明化の重要性を見抜く本作は優れてSF的と言ってよい、今こそ必読の古典。(高島雄哉)


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1964年8月
ジェームズ・E・ガン『不老不死の血』The Immortals, 1962
井上勇訳
カバー装画:S.D.G.伊達勝枝

 本書は別々の雑誌に掲載された四作の連作中短編を、物語の年代順にまとめ直し長編化したもの。現代(執筆当時の一九五〇年代)と、その五十年後、百年後の未来社会を描いている。不老不死というテーマだが、今日的に見ればアンチエイジングになるのだろう。不老不死の一族と、医療が特権階級に独占されたディストピア社会が絡み合う。近未来医学サスペンスとして評価されるべきものだ。
 ジェームズ・E・ガン(一九二三~二〇二〇)は、黎明期のSFマガジンでよく短編が載ったものの、知名度はさほど高まらなかった。SETIを予見したとカール・セーガンに賞賛された代表作『宇宙生命接近計画』(一九七二)も、日本では残念な抄訳が出たにとどまる。
 しかし、ガンはSFをアカデミズムに採り入れた、最初期の功労者なのだ。カンザス大学で創作講座を受け持ち、SF研究センターの所長を務め、キャンベル記念賞やスタージョン記念賞を選出するグループのメンバーでもあった。これらの功績により、同大学のSFとファンタジーの殿堂入りを果たし、SFWAのグランドマスター賞などを授与されている。(岡本俊弥)


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1964年8月
R・A・ハインライン『太陽系帝国の危機』(ダブル・スター)Double Star, 1956
井上勇訳 解説:厚木淳
カバー装画:司修
【新訳改題】1994年刊、森下弓子訳

 一九五六年に出た、ハインライン初のヒューゴー賞受賞作である。意外に遅いと思うかも知れないが、ヒューゴー賞の授与が毎年行われるようになったのは五五年以降のことだ。
 太陽系は、大英帝国風の立憲君主制で治められている。非人類の火星人や金星人まで登場するという、ちょっとアナクロな設定なのだ。そこで仕事にあぶれた俳優が、あるきっかけから、著名政治家の身代わりを務めることになる。
 凡人が意図せず身代わりにされ、政治のトップに立たされるお話は、古典『ゼンダ城の虜』をはじめヴァリエーションが豊富にある。俳優出身の大統領が国難に直面するという、信じられない現実もあるくらいだ。本書では、ノンポリを決め込む主人公が、演じていくうちに政治の本質に魅せられていく。ハインラインは政治家を志したこともあるくらいなので、駆け引きの描写などは結構リアルだ。
『ダブル・スター』は電子版もなく、旧訳・新訳ともに入手困難だが、ハミルトンの『スター・キング』と並ぶ、(ある種の)異世界転生ものといえる。負け組がヒーローに転じる経緯に思わず引き込まれる。新訳版ならば、いまでも面白く読めるだろう。(岡本俊弥)


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1964年9月
レイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』Something Wicked This Way Comes, 1962
大久保康雄訳 解説:厚木淳
カバー装画:司修

 グリーン・タウン。新興住宅地や大型商業施設でよく使われる名前だ。明るさや健全さが宿る「みどり町」。しかし、ブラッドベリ・ファンの印象はそうではない。幻想と怪奇とSFを能(よ)くするアメリカ人作家の手からこの地名が紡ぎ出されるとき、そこは、霧や怪物や秋や夜がよく似合う、恐ろしくも甘美な暗さを纏うのだから。
 レイ・ダグラス・ブラッドベリは、一九二〇年、アメリカ合衆国イリノイ州で生まれた。第一次世界大戦直後、日本では大正浪漫が花開いていた。十二歳の時、彼はミスター・エレクトリコというカーニバルの魔術師に出会い、作家を目指すことになる。列車や自動車といった技術が、降霊術や見世物小屋といった理解しきれないものをまだ駆逐しきれず、科学と魔法が混沌とするなかで、彼はグリーン・タウンを舞台とする数多くの短編を詩的な文章で書いた。
《グリーン・タウン》三部作に属する『何かが道をやってくる(原題 Something Wicked This Way Comes)』は、初期に分類される長編。カーニバル、木馬、うごめく刺青、骨男、などなど、ブラッドベリらしいモチーフにあふれている。特に冒頭に出てくる「避雷針売りの男」は、この語感だけでも素晴らしい。けっして取り返すことのできないローティーン時代のわくわくとどきどきに、わずかな胸の痛みをまぶして、詩情たっぷりに語り上げた必読の書だ。(菅浩江)


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1964年10月
アーサー・C・クラーク『銀河帝国の崩壊』Against the Fall of Night, 1953
井上勇訳 解説:厚木淳
カバー装画:金子三蔵

 地球が砂漠化した遥かな未来、不老長寿を成し遂げた人類は、天壌無窮にして地球最後の都市であるダイアスパーで優雅を満喫していた。けれども住民最年少のアルビンは砂漠の彼方に思いを馳せ、外部への視線をかたくなに忌避する人々に不満を募らせ、外への出口を探し求めていた。そんな彼の思いはトンネルの発見につながり、定命の人々が暮らすリス、シャルミレンの遺跡、七つの太陽、バナモンドと、何万年にも及ぶ人類の停滞した歴史に激震をもたらすことになる。
 本書はクラークがSF作家になるはるか以前、二十歳にも満たない時に想を得て、何度も編集者の没を繰り返し、推敲に推敲を重ねて十二年かけて雑誌掲載にこぎつけた心の原点である。
 およそ一世紀近くも前、SF作家ですらなかった青年が、勃興期のSFというジャンルに視たもの、そこに向けた憧れと思いのたけを、極めて短い分量に、これでもかとばかりぎゅう詰めにした真摯で初々しさ溢れる作品である。その後『都市と星』の題名で大幅に書き改められ、円熟味と完成度を増し、巨匠の代表作に数えられるが、共感度から個人的にはこちらを推す。本編にベンフォードによる続編を加えた『悠久の銀河帝国』が刊行されている。(水鏡子)

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1964年10月
ジュール・ヴェルヌ『月世界へ行く』Autour de la Lune, 1870
江口清訳 解説:訳者
カバー装画:金子三蔵
【新版】2005年刊

 天空の月面に浮かび上がる人間の顔、その右目に突き刺さる砲弾型宇宙船……。この、あまりにも有名なアイコンが登場するのはサイレント映画「月世界旅行」(一九〇二)だが、原作とされるヴェルヌの本作品が巨大な大砲で月に向かう着想をジョルジュ・メリエス監督に与えたことは間違いなくとも、その展開は大きく異なる。というのも、宇宙の予期せぬ驚異に振り回され、ヴェルヌの宇宙船は月面に着陸できないのだから!
 さまざまな異郷への科学冒険を描いたSFの祖が、宇宙に挑んだ先駆的古典SF。いわゆる『月世界旅行』の題で児童向け叢書などで読まれた方も多いだろう。実は二部作からなり、前編『地球から月へ』(一八六五)は「大砲クラブ」のメンバーによる計画発案から打ち上げまでの準備段階が描かれ、宇宙へ飛び立つのは後編である本書『月世界へ行く』(一八七〇)という次第。本文庫には前編の梗概が序章として収録されており、単独でもこの《驚異の旅》を愉しめるようになっている。
 そして一九九一年、ヴェルヌを主軸に創元文庫初の復刊フェアが実施された。その好評で三十年以上続く名物企画が誕生したのだから、読者の期待へ突き刺さることには、見事成功していたのだった。(代島正樹)


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1964年10月
R・A・ハインライン『月を売った男』The Man Who Sold the Moon, 1953
井上一夫訳 解説:厚木淳
カバー装画:金子三蔵

 一九五〇年に出た本書は、三九年のアスタウンディング誌に載ったデビュー作「生命線」(インフラのことではなく文字どおり命の線)を含む、ハインラインの初作品集である。
 表題作は月旅行を実現するために、贈賄や買収すら躊躇(ためら)わず(当時は合法的だった?)、手管を駆使する大富豪の物語だ。法的な権利や、起こりうるリスクのマネジメントを、事業家の観点から描いたところがポイントだろう。執筆順では、続編とされる「鎮魂歌」がまず先に書かれ、(その好評価をうけて)次に主人公の老人が若かったころの物語として、この長い正編が書かれている。
 中編の標題作と続編を除けば、三〇年代末に書かれた最初期の四作品には特徴がある。《未来史》というアイデアが提示されていて、一連のシリーズ作品になっているのだ。当時の読者(アメリカ、日本を含めて)には、未来までを確定させた年表は新鮮だった。ハインラインは、《未来史》は予言のためのものではなく、仮説に基づいた想像力の産物だとする。そういう現実的な考え方を見ると、本書の画期的発明+事業化SFは、元祖SFプロトタイピングといえるのかも知れない。(岡本俊弥)


60503
1964年11月
フレドリック・ブラウン&マック・レナルズ編『SFカーニバル』Science-Fiction Carnival, 1953
小西宏訳 解説:厚木淳
カバー装画:司修

 本扉の惹句の通り、何でもありのユーモアSFアンソロジー。異世界転移だって俺TUEEだってある。まずはロバート・アーサー「タイム・マシン」のドタバタ劇から味わって欲しい。流石はフレドリック・ブラウン、というか、SF作家・SF編集者のやらかすアンソロジーが面白いのは七十年前からちっとも変わらない。同人誌からの収録であるクライブ・ジャクスン「ヴァーニスの剣士」は当時よほど衝撃的だったらしく、その後いくつものアンソロジーに再録されたし、検索エンジンにまつわるトラブルを予見したマレー・ラインスター「ジョーという名のロジック」は、現代の我々にとっても衝撃的だ。
 お気に入りは共同編集者でもあるマック・レナルズ「火星人来襲」。悪い宇宙人による地球侵略の顛末がスタイリッシュに描かれる。レナルズはブラウンとの共作も多く、最近刊行された東京創元社『フレドリック・ブラウンSF短編全集4』収録の「ハッピーエンド」はレナルズが主筆である。邦訳のある「時は金」など、センスはブラウンに引けをとらず、本国では夥しい著作を遺しながら、日本では単著が一冊もないのは不公平というものだろう。そうそう、未訳の"The Common Man"にはフレドリック・ブラウンだって登場する。(理山貞二)


60404
1964年11月
アイザック・アシモフ『暗黒星雲のかなたに』The Stars, Like Dust, 1951
沼沢洽治訳 解説:サム・モスコウィッツ
カバー装画:司修

「このタイトルは抵抗不可能の訴求力を持つ。訳文も絶妙だし、エンターテインメントには味のある敵役が不可欠ということも教えられた」(田中芳樹「文庫創刊40周年記念コメント」)
 核戦争で汚染された地球。留学中の星雲諸国領主の息子バイロン。そして圧政で勢力を拡げるティラン帝国。謀略渦巻く銀河を舞台に、失われた謎の古文書や反乱軍の惑星の所在の秘密を巡る、帝国との追跡戦は思いもよらぬ結末を……。アシモフ未来史の銀河帝国勃興期に位置し、『宇宙の小石』『宇宙気流』と初期三長編をなす巨匠随一の波瀾万丈な冒険活劇。児童向けや角川文庫版(川口正吉訳)もあるが、なぜか早川書房から出版されておらず、ほぼ一択でこの創元版が読み継がれている。
 二〇一六年復刊フェアから、従来のサム・モスコウィッツ解説と二本立てで新解説(牧眞司)を増補。アシモフSF全体を俯瞰した上で本作にフォーカスした内容で、二十一世紀でも読み継がれる本として、読者を的確に案内してくれる名解説だ。
 なお、冒頭のコメントの依頼で初めて接点を持った田中芳樹と東京創元社。これを端緒に《銀河英雄伝説》獲得にまでつながるのだから、本書が開いたSF文庫の歴史は一ページどころではないだろう。(代島正樹)


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1965年2月~
ハル・クレメント『20億の針』『一千億の針』Needle
井上勇、ほか訳 解説:厚木淳、ほか
カバー装画:金子三蔵
【20億の針・新訳】2016年刊、鍛治靖子訳 【一千億の針・新版】2016年刊

 宇宙からやってきた寄生型異星人が、宿主とした地球人と共生関係を結び、力を合わせて悪い異星人と戦うというパターンのSF作品の嚆矢として、特撮ドラマ『ウルトラマン』を筆頭に、近年では宮澤伊織の『神々の歩法』など後の日本SFに多大な影響を与えた長編二部作。
 第一作『20億の針』は、異星人の「捕り手(ハンター)」が犯罪者(ホシ)を宇宙船で追跡中に揃って地球の南太平洋に墜落。四ポンドのゼリー状の身体を持つ「捕り手」は、まずサメの、ついで海水浴に来ていた十五歳の少年の体内に寄生し、彼に事情を説明し同じように誰かの身体に潜んでいると思しきホシを探す、という物語。原題のNeedle(針)は、「干し草の中から一本の針を探す」という意味で、訳題の20億の中というのは当時の世界人口。
 作者は天文学と化学の学位を取得、高校教師をしながら兼業作家として活躍した人で、異星人が地球環境と生命の特徴を理解し適応し、人体の代謝機能を利用して宿主の身体状況を化学的にコントロールする様子を、生化学の知識を縦横に駆使する緻密な記述はハードSFのお手本のようだ。どんな状況でも理性を保って紳士的に振る舞う異星人の思考の論理性は、犯人探しというミステリ的な物語にもぴったりで、あれこれ推理しながら読む楽しみがある(悪い異星人であるホシも、その行動はすべて合理的で、意味もなく残虐になったり逆上したりしない)。また、教師としての体験が反映されているのかもしれない十五歳の少年のリアルな描写も気持ちいいもので、後年ワールドコンでヤングアダルト向けSFを対象とするハル・クレメント賞が設立された。
 続編『一千億の針』は、正編から七年が経過し、共生関係を結んだ少年の体調が悪化。「捕り手」は彼の故郷の科学者たちに対処法を教わるため、速やかにかつて南太平洋に墜落したままになっている宇宙船を探し出さなくてはならない、という物語。原題はThrough the Eye of a Needle(針の眼を通して)だが、翻訳では正編と揃えて、一千億の星の中から異星人の星を探し出すという意味を持たせている。今回は宿主となった少年が体調を崩してうまく動けないので、信頼できる周囲の人々に事情を打ち明けて協力を仰ぐのだが、そこで登場する二人の若い女性の活躍が物語の推進力となる。異星人の立場で、地球人の性差による偏見をナンセンスで、環境的・文化的要因を除いて男女に大した違いはないと断言する場面など、いかにも理知的な作家らしい。また、丁寧な心理描写によってリアルで奥行きのある人間関係を描いても、恋愛のような物語に余計な要素は挿入されないので、非常にすっきりした読後感が得られるのも現代的な作品である。(渡邊利道)


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1965年2月
ロバート・シェクリー『ロボット文明』The Status Civilization, 1960
宇野利泰訳 カバー装画:司修

 シェクリーの他の長編『明日を越える旅』(一九六二)と『奇蹟の次元』(一九六八)に比べると完成度は落ちるが、それでも奇抜なネタ満載の第二長編。犯罪者の流刑地〈惑星オメガ〉は、人間不平等主義のもと、悪徳が奨励され、殺人を犯すことで身分が上がる異常な階級文明だった。殺人罪で地球から来たウィル・バレントは下層の奴隷民(ビーオン)に属し、マンハンターたちの襲撃やスタジアムでの格闘に巻き込まれながら、自らが犯した過去の殺人の真相に至る。あらゆる殺し技を操る無敵ロボットや、様々な毒殺術を推薦する〈毒物協会〉など、B級なアイテムが次々に登場し、とても楽しい。その一方で、ジョゼフ・コンラッドの長編『ロード・ジム』に関する芸術論が交わされたり、すべての価値観が逆転した世界に棲む聖職者との「善と悪」をめぐる深遠な問答があったりと、知的興奮を誘う要素も多い。特筆すべきはラストで、ヴォルテールの古典『カンディード』さながらの遍歴の末に主人公が行き着く殺人の真相は、TVドラマシリーズ「プリズナーNo.6」を彷彿とさせる不条理の極みだ。人間存在の謎を問うような結末といい、ミステリアスな隠喩(メタファー)と風刺の連打といい、シェクリーらしい奇想文学である。(小山正)


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1965年5月
アルフレッド・ベスター『分解された男』The Demolished Man, 1953
沼沢洽治訳 解説:厚木淳
カバー装画:司修

 英米のSF界でもっとも権威のある賞といえば、年にいちどファンが投票で選ぶヒューゴー賞だろう。クラークの『地球幼年期の終わり』やスタージョンの『人間以上』といった難敵を押しのけて、その第一回受賞作に輝いたのが本書である。
 時は二十四世紀。人の心を自在に読めるエスパーが生まれており、犯罪を未然に防いで、人類は未曾有の繁栄と平和を享受している。だが、ここに殺人を成しとげた男が現れた。巨大産業グループのトップに君臨するベン・ライクだ。テレパシーで彼を犯人と見抜いたエスパー刑事部長リンカン・パウエルは、ライクを極刑〈分解〉に追いこむべく捜査を開始する。
 華麗で退廃的な未来を舞台にしたSFミステリの古典。大胆なタイポグラフィの実験をまじえて、エスパーの心理を描ききった傑作であり、六〇年代のニューウェーヴから八〇年代のサイバーパンクにいたるまで、後世にあたえた影響は絶大といえる。
 作者は一九三九年のデビューだが、四〇年代なかばからコミックスや放送業界に活躍の場を移していた。だが、五〇年代にはいるとSF界にカムバックし、長編第一作である本書と次作『虎よ、虎よ!』(一九五六)の成功で巨匠の地位を確立した。(中村融)


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1965年5月
マレー・ラインスター『第五惑星から来た4人』Four from Planet 5, 1959
小西宏訳 解説:厚木淳
カバー装画:金子三蔵

 米ソ冷戦の真っ只中、南極上空に強烈な衝撃波とともに宇宙船が現れた。乗っていたのは、四人の少年少女。彼らは、少なくとも数百万年前、火星と木星の間に〝第五惑星〟が存在していた時代からやって来た時間旅行者らしいのだが……。
 多彩なアイデアでジャンルSF草創期から活躍し、邦訳作品も多い作者によるファーストコンタクト+タイムトラベルもの。冷戦のさなかに出現した超テクノロジーをめぐる東西両陣営の駆け引き、少年少女が帯びている使命の謎など、読みどころはいくつかあるが、中でもタイムトラベルの機序をめぐるアイデアが魅力的だ。時間遡行の不可能性を論じる際に、おなじみのタイムパラドックスだけでなくエネルギー保存則にも言及。「未来に存在するはずの質量やエネルギーが過去に流れ込むと、系内の総量が変化してしまう」という問題を指摘する。もちろん時間ものなので解決策も示されるが、それがまた意表を突く、しかも絵になる方法なのも良い。時代を超えて残る名作とまでは言えないが、アイデアの扱い方という点に絞れば今でも一読の価値がある。当叢書の初期において、SFという新しいジャンルの魅力を伝えるのに一役買った一冊なのは間違いないだろう。(香月祥宏)


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1965年5月~
シオドア・スタージョン、ポール・W・フェアマン『原子力潜水艦シービュー号』『シービュー号と海底都市』Voyage to the Bottom of the Sea
井上勇、ほか訳 解説:厚木淳、ほか
カバー装画:金子三蔵

 ヴェルヌの〈ノーチラス〉号の末裔である原潜〈シービュー〉号は天才科学者ネルソン提督が建造した海洋調査潜水艦だ。地球観測に必要なあらゆる科学設備はもちろん、海魔(クラーケン)を撃退する電圧シールド、飛行潜水艇まで装備しているが、核ミサイルをちゃっかり搭載しているのがご愛敬だ。……叛逆者の汚名を着せられながらも、ヴァンアレン帯の異常降下から地球を救う〈シービュー〉号の航海を描いたアーウィン・アレン監督の映画「地球の危機」(一九六一)を小説化した『原子力潜水艦シービュー号』は、日本のより多数の読者が遭遇したスタージョンの最初の小説だといえる。彼が『夢見る宝石』(一九五〇)、『人間以上』(一九五三)といった幻想SFの巨匠と認知されるのは少し後のことだ。続いて製作されたテレビシリーズも好調で、アレンが一九六〇年代のSFドラマ(「宇宙家族ロビンソン」「タイムトンネル」「巨人の惑星」)を製作する大きなきっかけとなり、日本SFに与えた影響は少なくない。海洋侵略を企む異星人に挑む〈シービュー〉号クルーの活躍を描いたフェアマンの『シービュー号と海底都市』はオリジナル小説だが、翻訳者が海洋小説の第一人者で知られる高橋泰邦だったことは注目されていい。(礒部剛喜)


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1965年7月
ハル・クレメント『重力への挑戦』Mission of Gravity, 1954
井上勇訳
カバー装画:金子三蔵
【新版】2019年刊

 現実とは異なる事柄を設定し、その影響を論理的に突き詰めていく。たったひとつの小さなイフによって、世界がどれほど大きく変わってしまうかを想像して描き出す。そのようにして創造された世界を闊歩することが、SFを読むことによって得られる喜びのひとつであることは間違いないだろう。
 あなたがそうした経験を求め、そして未だ本書を読んでいないのなら——おめでとう、ここにはその始まりと極北がある。
 実際の白鳥座六一番星の観測結果を元にクレメントが構築した惑星メスクリンは、一日が僅か十七・七五分、パンケーキかどら焼きのような形状でその重力は赤道では3Gだが極地ではなんと700G。鉱物である水の代わりにメタンの海が広がり、〝投げる〟という概念が存在し得ない(手から離れた瞬間に地面にめり込むため)世界に存在する知的生物が、極地にはどうやっても到達できない人間に代わって墜落したロケットの回収を試みる――。彼らの目を通して体験する、科学的知見に基づいて構築された異世界の驚異が本書の最大の魅力であることは間違いない。だが同時に本書は、姿形はもとより生まれ育った環境も常識も全く異なる存在同士の交流と、その先の希望の物語でもある。(門田充宏)


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1965年8月
ハインリヒ・ハウザー『巨人頭脳』Gigant Hirn, 1958
松谷健二訳 解説:訳者
カバー装画:司修

 著者は両大戦間から戦後にかけて活動したドイツの作家。作風は新即物主義に属しナチス政権時代は一時アメリカに移住していた。本書は著者にとって唯一のSFである。
 舞台はアメリカの砂漠地帯。その地下には第三次世界大戦に備えて人間の二万五千倍もの能力を持つコンピュータが設置されており、それは多数の電子部品を人間の脳そっくりに配線した文字通りの巨人頭脳だった。どういう原理で作動しているのかいまいち謎であるものの、脳硬膜や松果腺といった脳の部位がアナロジーではなくまさに即物的に出てくる点がユニークである。巨人頭脳の運用には多くの科学者が動員され、シロアリの研究者だった主人公も詳しい事情を知らされぬまま呼び寄せられる。
 物語は巨人頭脳が愚かな人間に代わって世界の支配を目論むという古典的なものだが、注目すべきは巨人頭脳と主人公が交わす神学/進化論に関する対話だろう。英米のパルプSFならおそらく顧みないような箇所を書き込むことで、他の類似作にはない味を出している。フレドリック・ブラウンが似た話をショートショートに仕立てたのと好一対である。ちなみに主人公の専門が一見場違いな昆虫学である理由は、クライマックスまで読むと判明する。(鈴木力)



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1965年9月
ネビル・シュート『渚にて 人類最後の日』On the Beach, 1957
井上勇訳 解説:訳者
カバー装画:司修
【新訳】2009年刊、佐藤龍雄訳

 四千七百個にもおよぶ核爆弾が用いられ、第三次世界大戦は短期間に終結した。北半球は放射能に汚染され、死の世界と化してしまう。南半球は無事だったが、それも時間の問題である。メルボルンに待避したアメリカの潜水艦スコーピオン号は、この場所を新しい拠点として、迫りくる放射能の影響を調査していた。艦長のタワーズ中佐は、オーストラリア海軍の友人を訪ねたおり、牧畜業者の娘モイラに出会う。ふたりは互いに好意を持つようになるが、中佐はとうに死んでいるはずの家族をまだ生きているかのように語り、モイラも彼の話に調子をあわせるばかりだ。やがて、アフリカや南アメリカの各都市からの無線も途絶えはじめ、シドニーでも放射能症の患者が発生する。しかし、メルボルンの人々は、ただモーターレースに興じ、静かに酒を飲み、友人とたわいないお喋りをつづける。ほかになにができるというのか。そしてタワーズが艦長としての最後の役目をはたす日がやってくる。
 第二次大戦での広島、長崎への核爆弾投下、そして戦後の冷戦構造を背景とした米ソの核兵器開発競争……一九五〇~六〇年代において核戦争の可能性はきわめて現実的な不安であり、これを題材にした小説もいくつも書かれた。代表的なタイトルをあげると、ピーター・ブライアント『破滅への二時間』(一九五八)、モルデカイ・ロシュワルト『レベル・セブン』(一九五九)、ユージン・バーディック&ハーヴィー・ウィーラー『未確認原爆投下指令――フェイル・セイフ』(一九六二)などである。本書もそのうちのひとつだが、核戦争そのものではなく、戦争が終わったのち、生存者にじわじわと忍びよる緩慢な破滅を描いたところに特色がある。一九五七年の発売と同時にベストセラーとなり、五九年にはスタンリー・クレイマー監督、グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーの主演で映画化された。
 邦訳は、まず原書刊行からまもなく〈文藝春秋〉に「人類の歴史を閉じる日」としてシノプシスが掲載され(一九五七年十二月号)、翌五八年六月に文藝春秋から単行本が刊行された(訳者名義は木下秀夫だが翻訳のほとんどは井上勇が手がけている)。これは抄訳であり、全訳は六五年九月の創元推理文庫版まで待たなければならなかった(井上勇名義)。それから四十四年を経た二〇〇九年四月、東京創元社の文庫創刊五十周年を記念して、佐藤龍雄訳による新訳が刊行された。これが現行版である。そのほか、山路勝之訳『渚にて』が一九七六年に篠崎書林から刊行されている。
 シュートはイギリス出身。航空技師を経て、オーストラリア(本書の舞台)に移り住み、フルタイムの小説家となった。ほかのSF作品にIn the Wet(未訳、一九五三)がある。(牧眞司)


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1965年10月
E・R・バローズ《火星シリーズ》Barsoom
小西宏訳 解説:厚木淳
カバー装画:武部本一郎
【新版】1979年~刊、厚木淳訳
【合本版】1999年~刊
【『火星のプリンセス』新版】2012年刊

 まだSFという言葉がなかった一九一二年、アメリカの大衆娯楽小説誌〈オール・ストーリー〉に無名の新人の第一作が連載された。題名は「火星の月のもとで」。作者名はノーマン・ビーンとなっていたが、これは編集部の手ちがいで、本来はノーマル・ビーン(正気の人)であったという。つまり、「こんな荒唐無稽な話を書く作者は頭がおかしいにちがいない」といわれるのを見越したうえでのペンネームだったわけだ。
 では、どんな話だったかというと――
 南軍の騎兵大尉だったジョン・カーターは、南北戦争の終結で職を失い、友人とともにアリゾナ山中で金鉱探しに従事する。ある日アパッチ族の襲撃を受け、友人は死亡。カーターも洞窟に追いつめられる。まさに絶体絶命だったが、その夜、不思議な睡魔に襲われ、気がつくと見知らぬ草地に横たわっていた。カーターには、なぜかそこが火星だとわかった。肉体を離脱し、膨大な距離を一瞬にして飛び越えてきたのだ、と。
 早速カーターの前に異様な種族があらわれる。身長四メートルで、腕が四本あり、牙の生えた緑色の戦士たちだ。カーターは、地球の三分の一しかない重力を利して途方もない跳躍を見せ、彼らの尊敬を勝ちとり、その保護下に置かれることになる。
 火星――現地の呼び方ではバルスーム――は戦乱の世界だった。放浪生活を営む彼ら緑色人のほかに、地球人そっくりで都市生活を営む赤色人がおり、それぞれが無数の国家や部族に分かれて戦いに明け暮れていたのだ。しかし、文明は衰退期にあり、高度な科学の所産はすべて古代の遺物。惑星そのものも乾燥化と寒冷化が進み、海は干上がって不毛の地が広がっていた。
 カーターは緑色人のもとで火星の言語や習慣を身につけるいっぽう、数々の戦闘で武勲を立て、副首領タルス・タルカスと友情を結ぶ。そんなある日、彼は美しい赤色人の捕虜を見そめる。その名はデジャー・ソリス、ヘリウム帝国の王女である。カーターは彼女に恋心をいだき、故郷へ送り届けることを決意する。そして波瀾万丈の冒険の末、ついにふたりは結ばれる。だが、平穏なときはいつまでもつづかなかった。希薄な大気に空気を補給する大気製造工場に事故が発生したのだ。惑星の存亡を賭けてカーターは死地に赴くが……。
 絵に描いたような恋と冒険のロマンスだが、中世ヨーロッパではなく異星を舞台にした点が斬新だった。その背景には、このころ流布していた天文学者パーシヴァル・ローウェル流の火星像と、神智学者マダム・ブラバツキー流の汎心論的輪廻説があり、科学と神秘主義の奇妙な混淆は、なんとも魅力的な世界を作りだしたのだった。
 ちなみに作者は当時三十六歳。職業を転々としたがすべて失敗。妊娠中の妻とふたりの子供をかかえ、赤貧に苦しむなか、窮余の一策として小説に手を染めたのだという。たしかに、この小説は現実逃避で願望充足かもしれない。だが、やむにやまれぬ衝動から生まれたものであり、その夢想の力は群をぬいていた。
 さいわい同作は好評を博し、すぐに次作を依頼される。最初に提出した歴史冒険小説は没になったが、つぎの作品は採用され、長編一挙掲載という破格のあつかいで誌面を飾った。アフリカで消息を絶ったイギリス貴族の落としだねが、類人猿に育てられ、ジャングルの王者になるという物語だ。いわずと知れた『ターザン』である。この直前に作者の本名も明かされ、こうしてエドガー・ライス・バローズは世に出たのだった。
 したがって、バローズといえば「ターザンの生みの親」というのが世間一般の評価だが、本人にとってはジョン・カーターこそ、みずからの(理想の)分身であったようだ。その証拠に、バローズが生みだした数多のヒーローのなかで、作者との血縁関係が明示されるのはジョン・カーターただひとりである。
 『ターザン』で大成功をおさめたあと、バローズはデビュー作(一九一七年の単行本化に際して『火星のプリンセス』に改題)の続編『火星の女神イサス』と『火星の大元帥カーター』を矢継ぎ早に発表し、ジョン・カーターとデジャー・ソリスの恋愛劇を完結させた。この三部作に関しては、シリーズ最高傑作という評価が定着している。
 作者はその後三十二年の長きにわたってバルスームの物語を書きつづけ、ついには十一巻から成る長大なシリーズに発展させた。のちの巻ではカーターの息子や娘が活躍したり、地球から来たほかの人物が主役を務めたりするが、いずれも誘拐と救出のプロットを縦糸に、超科学の驚異を横糸にして織りなされた冒険ロマンスになっている。SF的な見地からは、火星のマッド・サイエンティスト、ラス・サヴァスが陰の主役として暗躍する第六巻『火星の交換頭脳』と第九巻『火星の合成人間』がとりわけ興味深い。ちなみにバローズの遺作は、未完に終わった《火星》シリーズ第十一巻の冒頭を成す「木星の骸骨人間」だった。
 このシリーズが後世にあたえた影響は絶大であり、乾燥して荒れ野が広がり、運河や廃墟が点在する火星の風景は、SFの原風景のひとつになっている。《火星》シリーズがなかったら、ブラッドベリの『火星年代記』が生まれなかったのはたしかだ。
 そして「異星を舞台に、未来と中世の入り混じった文明や、奇怪な動植物が跋扈する生態系をまるごと創りだす」という作風は、無数の模倣者を生んで、ひとつのサブジャンルを成立させた。宇宙空間を舞台とするスペース・オペラと区別して、プラネタリー・ロマンスと呼ばれる作品群である。
 二〇一二年に第一作がディズニー製作の映画となり、原作をみごとにスクリーンに移し替えたが、舞台は太陽系第四惑星ではなく、神秘の惑星バルスームに変わっていた。
 わが国では一九六五年に第一巻が刊行された。そのときの惹句を引けば「雄大な構想で展開する波瀾万丈のスペース・オペラ。ひと口にいって風太郎忍法帖シリーズの興味と007号シリーズの痛快を、そのままSFの世界に移植したのが『火星シリーズ』」となる。カラー口絵と挿絵がつくのは本文庫初の試みであり、武部本一郎の描くデジャー・ソリスの魅力もあいまって同書はベストセラーを記録し、本邦におけるスペース・オペラ隆盛の礎を築いた。
 一九九九年から二〇〇二年にかけて全巻が《合本版・火星シリーズ》全四巻、二〇一二年に第一巻が『[新版]火星のプリンセス』として生まれ変わったことを付記しておく。(中村融)


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1965年12月~
H・G・ウェルズ『ウェルズSF傑作集〈1〉タイム・マシン』『ウェルズSF傑作集〈2〉世界最終戦争の夢』日本オリジナル編集
阿部知二訳 解説:訳者
カバー装画:真鍋博

 ウェルズの短編集は、戦前から一般書・児童書など数限りなく出版されている。阿部知二訳による二巻本である本書は、今日まで現役で読まれ続けており、きわめて息の長いロングセラーと言っていいだろう。一巻には代表作「タイム・マシン」のほか「奇跡をおこせる男」「水晶の卵」など、知名度の高い作品がずらりと並ぶ。だがこれから手に取るなら、知名度の低い作品を意識的に揃えたと思われる二巻の方が魅力的だ。ここでしか読めないものも多い。
今ならB級SF映画のネタにしかならない素材を、気品のある文体で描き切った短編群には、埋もれさせておくには惜しい独特の味がある。「海からの襲撃者」では、主人公の怪物には、ハプロテウシス・フェロクスなるもったいぶった名前が付けられているが、なんのことはないタコである。ところがこれを緊迫感あふれるタッチで描いてみせるのが、ウェルズのすごさだ。
「アリの帝国」は、実際にB級アメリカ映画「巨大蟻の帝国」(一九七七)になった。映画では、普通に女王アリを倒しておしまい。だがウェルズの原作は、人類敗北の暗い予兆に満ちており、荒涼とした世界が広がる。
「世界最終戦争(ハルマゲドン)の夢」は、やや古めかしいロマンスめいた内容ではあるが、第一次世界大戦よりも早い一九〇一年という時期に書かれたのは驚きである。「未来の夢」という形を取りつつも、疫病でも災害でもなく、戦争による人類滅亡を描いた。夢オチというよりは、目覚めることのできぬ悪夢、というところだろうか。ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにして、ウェルズが描き続けた、人類の文明と未来への不安は、残念ながら現代でもなお克服できない悪夢のままであることが示されてしまった。
 一方、同様の題材を、よりアイロニカルな寓話として描いた「『最後のらっぱ』の物語」では、世界最後の日が来たとしても日常を手放さない人々の精神の強靭さが描かれている。ウェルズの語りにはやや皮肉も感じられるが、ここにはむしろ、私たちが正気に戻るためのヒントのようなものが感じられる。
 ウェルズ作品の映画化は数限りなく、本書に収録されているものだけでも膨大。SFイメージの源泉として常に現役であり続けてきた。たとえば「タイム・マシン」は、ジョージ・パル監督の一九六〇年版が有名だが、サイモン・ウェルズ監督の二〇〇二年版もある。ニコラス・メイヤー監督による「タイム・アフター・タイム」(一九七九)は、ウェルズ自身を主人公にしたスピンオフ作品。「奇蹟人間」(一九三六)は、ウェルズ自身が脚本を手掛けた。「塀についたドア」は、一九五六年に、スティーブン・マレー主演で短編映画化されている。(高槻真樹)


61202
1965年12月~
レイ・ブラッドベリ『10月はたそがれの国』『ウは宇宙船のウ』『スは宇宙のス』『万華鏡』The October Country, 1955, and others
宇野利泰、ほか訳 解説:訳者
装画、挿絵:ジョー・マグナイニ
【『ウは宇宙のウ』新版】2006年刊

 創元SF文庫から刊行のブラッドベリ短編集は、四冊とも再編集版である。『10月はたそがれの国』は第一短編集『黒いカーニバル』をベースに収録作品を増やしたもの。『ウは宇宙船のウ』『スは宇宙のス』は、青年向けに企画され既刊短編集から作品を選んでいる。『万華鏡』はブラッドベリ自選のベスト短編集である。邦訳書誌について言えば、『10月はたそがれの国』『ウは宇宙船のウ』『スは宇宙のス』の三冊が一九六五~七一年に創元推理文庫SFマーク(当時)で刊行され、これをきっかけにブラッドベリに入門したSFファンは多い。とりわけ『10月はたそがれの国』は、ジョゼフ・ムニャイニ(創元版の表記はジョー・マグナイニ)の表紙絵・挿絵が印象的で、書店でも目を惹く。漫画家・萩尾望都(後述)も『10月はたそがれの国』からブラッドベリの魅力に取りつかれたと語っている。『万華鏡』はサンリオSF文庫が初刊(川本三郎訳/一九七八)で、創元SF文庫版は中村融による約四十年ぶりの新訳(二〇一六)である。
 ブラッドベリは一九二〇年生まれ、SFファンから作家デビューした最初の世代のひとりである。やがて「宇宙時代の吟遊詩人」と讃えられ、SF界にとどまらぬ広範な支持を得た。たとえば、『火星年代記』はアメリカ文学の名作に挙げられることが多く、『華氏451度』はディストピア小説の古典として読みつがれている。もっとも、そうした実績とは別に、ブラッドベリは生涯にわたって少年の幻想と詩情を持ちつづけた人物だった。『ウは宇宙船のウ』の「はしがき」で、彼はこう述べている。「これはイリノイ州の小さい町で生まれ育って、ついには、かねがねそう望み、夢見ていたとおりに、宇宙時代が到来するのを目撃するにいたった男の子の手になる本である」。
 同書に収録された作品のなかからいくつか紹介しよう。
 宇宙飛行士に選抜されるときを待ち望む少年の日々。選ばれれば親友に内緒で街を離れ、両親とも長いあいだ会えなくなる。それでも彼は宇宙を夢見るのだ。(「『ウ』は宇宙船の略号さ」)
 二十マイルもの深海にひっそり棲む最後の恐竜。新しくできた灯台の霧笛がその眠りをさます。霧笛の音は、懐かしい仲間の呼び声。怪物はゆっくり水圧の変化に身体を慣らしながら浮上してゆく。灯台の光がその目を照らしだす。(「霧笛」)
 火星に移住し地道に十年間働いて貯めた金を、あるものを買うためにそっくりはたいてしまう夫。妻はがっかりし、彼自身もしだいに後悔の念にかられる。しかし、品物が地球から届いたとき、ふたりの胸には新しい希望がともる。それは、懐かしい地球の玄関ポーチ、揺り椅子、風鈴、いちご色の窓……。(「いちご色の窓」)
 いっぽう、『スは宇宙のス』の「まえがき」では、「ぼくは紙製の帽子から、おじけた鬼を取りだす少年魔術師、髭のない少年魔術師だった。ぼくはいま髭のある魔術師になって、タイプライターから、そして目と頭の届くかぎり広がる星の大世界から、いくつものロケットを取りだす」と語る。
 同書収録作のなかから何編か。
 子供たちがゲームをしている。これまでにないほど熱中して。しかし、その内容は大人にはわからない。ただ「侵略」とだけ呼ばれていること、四つの次元や子供ならでは感受性がかかわっていることが、断片的に伝えられる。侵略のゼロ時間は五時だそうだ。町には沈黙がおおいかぶさり、時はゆっくりとその時刻へ向かっていく。(「ゼロ・アワー」)
 少年ウイリーは家族に別れを告げる。もうこの家で三年も暮らしてきた。三年前も十二歳、いまも十二歳。このままいれば、近所の人たちが噂をしはじめる。これまで五つの町で五つの家族と暮らしてきたが、また旅立ちのときなのだ。クリスマスには手紙を送ります、と告げて。(「別れも愉し」)
 トムが雑誌の広告で知った自家栽培式の大型きのこ。通信販売で取り寄せ、家の地下室で育てる。父や母は息子が少し気がかりだが、トムはきのこに夢中だ。同時期、町に不穏な空気が漂いはじめる。行方不明者が出たのだ。(「ぼくの地下室においで」)
『10月はたそがれの国』は、実質的に第一短編集『黒いカーニバル』の増補版なので、初期作品(一九四〇年代)が中心だ。
 ぼくはまだ十二歳だったが、タリーへの恋を知っていた。おさげの金髪。彼女の笑い声。なぎさで一緒に遊んだ想い出。彼女はみずうみから帰らなかった。大人になったぼくは、そのみずうみを再訪する。(「みずうみ」)
 わたし、アリス・ライバーは殺されかかっている。お医者さんも看護師たちも、夫さえの信じてくれない。わたしを殺そうとしているのは、わたしが生んだばかりの赤ちゃんなのだ。無力なはずのベビー。しかし、わたしを殺す機会をうかがっている。(「小さな殺人者」)
 交通事故が起こるとどこからともなく集まってくる群集がいる。主人公は、群衆のなかにいつも同じ顔が混じっていることに気づく。いったい彼らの動機は何か? (「群集」)
『万華鏡』はベスト短編集なので、これまで紹介した三冊のと重複もある。中村融「訳者あとがき」には、収録全作品について簡にして行き届いた解説がある。もちろん、訳文は既存訳を踏まえてブラッシュアップされている。これからブラッドベリを読むかたにも、昔からのファンで作品再読しようというかたにも、強くお薦めできる一冊だ。
 映像化情報をごく簡単に記しておく。「霧笛」(『ウは宇宙船のウ』と『万華鏡』に収録)は、一九五三年にユージン・ルーリー監督で「原子怪獣現わる」として映画化。「雷のとどろくような声」(『ウは宇宙船のウ』に収録)は、二〇〇五年にピーター・ハイアムズ監督で「サウンド・オブ・サンダー」として映画化された。また、TVシリーズ「レイ・ブラッドベリSF怪奇劇場」(一九八五~九二)で、多くの作品がドラマ化されている。「イカルス・モンゴルフィエ・ライト」(『スは宇宙のス』)は、一九六二年、オスモンド・エバンス監督で短編アニメ化された(ムニャイニの絵を動かしている!)。
 コミック化された作品は枚挙に暇がないが(いわゆるアメリカン・コミックスに多くある)、特筆すべきは萩尾望都『ウは宇宙船のウ』だ。『10月はたそがれの国』『ウは宇宙船のウ』『スは宇宙のス』から、萩尾が八作品を選んだものである。(牧眞司)


62801
1965年12月
ウィルスン・タッカー『明日プラスX』Tomorrow Plus X (Time Bomb), 1955
中村保男訳 解説:厚木淳
カバー装画:司修

 時は二十世紀末。全米でポピュリスト政党〈アメリカの子孫〉が台頭していた。そんな中、同党の関係者を狙った連続爆破事件が発生して……。本書のキモになるSF設定は大きくふたつ。最大で数十分間を遡って撮影できるタイム・カメラの実用化と、テレパシー所有者の警察への捜査協力だ。タイムマシンはまだ実現しておらず、もし時間旅行者が現れてもテレパスの能力で察知できるはず。しかし不可解な爆破事件の裏には、タイムトラベルの気配が漂う。テレパスの監視網をかいくぐって、どう時間犯罪を成立させるかを探るSFミステリだ。
 当時(原書一九五五)としては捻った設定だが、タイムスリップやテレパシーは最近の特殊設定ミステリでもおなじみ。時間を超える爆弾のアイデアはおもしろいが、現代の作品と比べると荒削りだ。むしろ、ナショナリズムを押し出すポピュリストに対する危機感という(おそらくマッカーシズムを背景とした)時代を感じさせる部分が現代でも通用してしまうのが皮肉で興味深いところだろう。
 独立した話としても読めるが、『時の支配者』(ハヤカワ・SF・シリーズ)の後日譚でもあり、同書の主人公が重要な役どころで再登場する。(香月祥宏)


63101
1965年12月
E・F・ラッセル『金星の尖兵』Three to Conquer, 1955
井上一夫訳 解説:厚木淳
カバー装画:金子三蔵

 E・F・ラッセル(一九〇五~一九七八)は、〈アスタウンディングSF〉誌一九三七年二月号掲載の短編でデビューし、新編集長ジョン・W・キャンベルのもとで健筆をふるい、同誌デビューの常連英国作家第一号となり、パルプ雑誌時代の〝SF黄金期〟を築く一翼を担った。同誌には、一九五〇年代末までに長編二、長中編五、中編十三、短編二十九、超短編一の計五十作を発表。そのうちの一編、官僚制度を諷刺したユーモア短編「ちんぷんかんぷん」(一九五五年五月号)は、ヒューゴー賞で創設されたばかりの短編部門の受賞第一号となる。また、〈アスタウンディング〉の姉妹誌、同じキャンベル編集のファンタジー専門誌〈アンノウン〉創刊号(一九三九年三月号)に、〝人類家畜〟テーマの長編『超生命ヴァイトン』が一挙掲載と、要注目作家であった。
 そのおかげか、長編・短編集の邦訳に恵まれたのに、いまや品切れ・絶版作家。物事を相対化させる上品なユーモアが身上の作風だが、かえってアクの弱さが災いしたかもしれない。
『金星の尖兵』は、人間に寄生して地球征服を企むパラサイト金星人三人組に、テレパスの主人公が戦いを挑むサスペンス・アクションで、スパイの諜報戦や忍法帖の醍醐味があり、愉快痛快活劇。(高橋良平)

62601
1965年12月
リチャード・ウィルスン『第五惑星の娘たち』The Girls from Planet 5, 1955
吉田誠一訳 解説:厚木淳
カバー装画:司修

 一九九八年、アメリカは女性の天下となっていた。女性大統領を始め、閣僚、議員などほぼすべての政治家は女性で占められている。ただし、テキサス州だけは「男の国」を標榜し、男性中心主義を頑なに守っていた。そんな中、突如宇宙船が飛来し、中から若く美しい女性たちが現れる。第七太陽系の第五惑星から来た彼女たち〈リルー〉の目的は果たして何なのか。
 本書は短編の名手として知られたウィルスンが一九五五年に発表した処女長編であり、ロイター通信記者であった経歴を生かして、異星人の訪問という事件を主人公の記者が追う形でユーモラスにまとめている。ただし、魅力的な出だしに比べると展開が弱く、女性中心社会とそのメリットを描く先進性を示しながら、最終的には保守的な男性中心主義へと話が落ち着いてしまっているのが惜しまれる。テキサス州に集まったカウボーイスタイルの男たちは、男性中心主義を戯画化し皮肉ったものととれないことはないが、リルーがそれに惹かれてしまうようでは効果半減であろう。作者には、火星人との恋愛を描いた「愛」、タブーに挑戦したネビュラ賞受賞作「世界の母」などの傑作短編が多数ある。真価はむしろ短編にあることは強調しておきたい。(渡辺英樹)


60301
1966年5月~
E・E・スミス《レンズマン》Lensman
小西宏訳 解説:厚木淳
カバー装画:真鍋博
【新訳】2002年~刊、小隅黎訳

 エドワード・エルマー・スミスによる元祖スペースオペラ《レンズマン》が専門誌アスタウンディングに連載されたのが一九三七年(当時、SFが単行本で出る例は少なく、多くは読み捨てだった)なので、なんと八十五年も前のことだ。しかし、本シリーズには、今日のスペースオペラで書かれるべき要素が全て凝集されている。宇宙戦艦、ビーム兵器、防御スクリーン、超光速飛行、思考制御、銀河を統べる警察機構、もう一つの文明=超銀河的敵、人類を見守る精神生命、生体と一体化した正義のエンブレム=レンズなどなど。
 と同時に、正義と敵との間には妥協はなく、敵の完全な抹殺(皆殺し)しか解決法はないとする、殺伐とした生存競争も明確に示されている。敵側の論理が「結果主義」、「自己責任に基づく競争社会」、「トップダウン」という、現在の新自由主義(ネオリベ)と酷似している点が皮肉で面白い。
 一巻あたり四百ページほどしかないのに、複数の惑星やさまざまな異星人が登場し、エピソードも過剰なほどある。第二銀河への遠征を描く『グレー・レンズマン』、超空間チューブによる攻撃『第二段階レンズマン』、第三段階ともいえる子供たちが活躍する『レンズの子供たち』、銀河パトロール創設期の『ファースト・レンズマン』、さらにレンズ以前の時代『三惑星連合』、シリーズ外伝『渦動破壊者』と続く。お話の一つ一つはあらすじの域を出ず、小説という観点からは極めて不完全なものだ。けれど、多くの欠点を抱えていても、荒削りなSFの魅力を今なお感じさせるのは、それがDNAのつながった祖形であるが故だろう。
《レンズマン》が英米のオールタイムベスト上位にあったのは、SFがコアなファンだけで支えられてきた昔の話で、タイムやガーディアンが発表する洗練されたSFベストの五〇~一〇〇位以内に、名前を見かけることはまずなくなった。
 一方、日本では野田昌宏の熱狂的なスペースオペラ紹介があり、アメリカのパルプマガジンに対する悪印象(粗雑な読み捨て本のイメージ)があまりない。真鍋博による(当時の)未来的なイラストで飾られた旧版翻訳は、俗悪さを全く感じさせなかった。長く人気が続き、アブリッジされた児童ものが多く出たのもそのためだ。
 劇場アニメ「SF新世紀レンズマン」(一九八四)、辻真先らが脚本を書いたTVアニメ「GALACTIC PATROLレンズマン」(一九八四~八五)などは、日本オリジナル版といえるものである。極めつけは古橋秀之の『サムライ・レンズマン』(二〇〇一)だ。ヒーローはサムライこと、デフォルメされた武士道を身上とするニヒルな独立レンズマン、「ニンジャバットマン」とアメコミの関係のように、オリジナルを尊重しながらも、一線を画する内容である。(岡本俊弥)


62701
1966年7月
K・H・シェール『地底のエリート』Die Grossen in der Tiefe, 1962
松谷健二訳 解説:訳者
カバー装画:金子三蔵

 核戦略基地の司令官が、一枚のバナナの皮に滑って頭を打ったという喜劇ともいえそうな出来事から物語が始まる。このバナナの皮を起点に、ミサイル発射実験のトラブルと防衛担当者相互の信頼感の欠如、核のボタンを押す人物の一瞬の躊躇などの連鎖で勃発した核戦争が、ほぼすべての人類を死滅させた。だが政府関係者などのエリートは、すでに用意されていた地底世界で核戦争以降も生き続ける。そして百七十四年後、そこはナチスもかくやというほどの民主主義や自由が失われた世界になっていた。登場人物たちはその体制に抵抗し、まだ見ぬ地上の世界への脱出を試みる。その途上、彼らは放射能で巨大化した動物に襲われ、荒野に変貌したかつての都会を進み、やがて核戦争が生み出したもう一つ別の人間社会を目撃することになる。この情景こそ作者が提示したかった核の世界が辿り着く結末なのだろう。小説が執筆されたのは、全面核戦争への危機感が世界中に広まっていた時代だが、その危機感が必要なのはむしろ現代なのかもしれない。この作品の数年後、作者はドイツのSF作家によって書き継がれる《宇宙英雄ローダン》シリーズの構想を築き、またその多くの物語を紡いだ作家としてSF史に名を残すことになる。(忍澤勉)


60902
1966年7月~
A・E・ヴァン・ヴォークト『イシャーの武器店』『武器製造業者』Weapon Shops of Isher
沼沢洽治訳 解説:訳者
カバー:司修
【新版】2016年刊

 二十世紀から七千年先の未来。地球を支配するイシャー帝国とそれに抗する地下組織「武器店」が綾なす対決と均衡の物語を、武器店殲滅を命ずる若き女帝イネルダと、地球で唯一の「不死人」で両者の安定的な関係を維持するため暗躍するヘドロックのロマンスを軸に描く二部作。〈ワイドスクリーンバロック〉とも称される壮大で華麗な作品だ。
 邦訳は物語内の年代順に刊行されたが、原著は『武器製造業者』が一九四七年に、『イシャーの武器店(以下、武器店)』が五一年に刊行されていて、そのため『武器店』から読み始めると説明抜きでいろいろな設定が登場してやや混乱するので注意が必要、というか、いっそ物語内の年代にこだわらず『武器製造業者』から読むのがよいかもしれない。
 帝国の支配に抗する武器店の方法は二つ。まず「武器を買う権利は自由になる権利である」と宣言し、暴力を独占する帝国の禁を破って、「自衛のみに限定された宇宙最高の武器」を個人に提供すること。そして帝国の裁判所の決定に不服を申し立てる私設の司法制度である。
 新版の解説者、高橋良平によると、本作はしばしば「リバタリアンSF」の系譜に数えられるのだという。リバタリアニズムというのは、個人の自由を絶対的に重視する政治思想で、「権力は腐敗する」という信念のもとに、国家の最小化、もしくは消滅を理想とする。本作で描かれる「武器店」のモットーは確かに全米ライフル協会を連想させるし、本作でも「権力は腐敗する」と主張されている。しかし、それゆえに武器店は常に最大勢力を持つ「野党」として帝国に拮抗していなければならない、といういわば力の均衡論が核となっている点が異なる。ヘドロックは決して帝国権力を否定しはしないのだ。
 もちろん、そうした政治思想的な側面だけでなく、もっとストレートにSFとしての読みどころも多い。サブジャンル的には『武器店』には時間SFの、『武器製造業者』は宇宙SFの側面がある。前者は七千年の時を超えたために地球を消滅させるほどの「時間エネルギー」を新聞記者が抱え込む場面から始まり、もともと雑誌掲載された三つの短編を組み合わせたものという制作経緯もあって、複数の視点がどんどん移動しながら矢継ぎ早に事件が巻き起こり、破滅の回避のため宇宙創生にまで時間を遡っていく。後者では「蜘蛛族」という宇宙を支配する超生物が登場し、その非人間的な「論理性」の描写は、人間の理解を絶する知的生命体のものとしてかなり初期のものに属するだろう。巨大ロボットなどの超兵器や、わずかなデータで未来を予測する「能力人」など、魅力的なアイディアやガジェットが惜しげもなく盛り込まれており、驕慢な女帝イネルダの可愛らしさなど登場人物の魅力も抜群だ。(渡邊利道)


61002
1966年11月
ジョン・ウィンダム『時間の種』The Seeds of Time, 1956
大西尹明訳 解説:訳者
カバー:金子三蔵

『トリフィド時代』や『さなぎ』などの破滅SFのイメージでこの短編集を読み始めると驚くのではないだろうか。
 本書はウィンダムの第二短編集の全訳で、一九四〇年代から五〇年代に書かれた十編を収めたもの。作者自身、「サイエンス・フィクションのモチーフを、さまざまな型の小説に当てはめてみたもの」と書いているとおり、アイディアの独創性よりも、SF的な状況に置かれた人間の心理に焦点を当てた作品が多く収録されている。
「強いものだけ生き残る」は、漂流する宇宙船に乗り合わせたただひとりの女性客の運命を描いた、SF短編史上屈指のイヤな後味を誇る作品(「生存者」の別訳題でも知られている)。そのほか、軽妙なタイムトラベル・ラブコメディ「クロノクラズム」や、ドタバタ時間SF「ポーリーののぞき穴」、ロボット工学を題材にしたホラー「同情回路」、テクノロジーと自然を対比させた詩情あふれる掌編「野の花」など、ウィンダムの多彩な作風が堪能できる。
 女性の描写など、さすがに現代の観点からすると古びているところもあるものの、アイディアに頼らない作風なので、今読んでも十分に楽しめるだろう。(風野春樹)


60904
1966年12月~
A・E・ヴァン・ヴォークト『非(ナル)Aの世界』『非Aの傀儡』Null-A
中村保男、ほか訳 解説:訳者
カバー装画:金子三蔵
【新版】2016年刊

 非アリストテレス哲学は人類文化に新局面をもたらした。精神能力の可能性を十全に発揮させるための画期的な思考法であり、政府の要職を志すものは、非Aの習熟度を判定する試験に合格しなければならない。〈非(ナル)A人〉であるギルバート・ゴッセンは、三十日にもおよぶその試験を受けるために〈ゲーム機械〉の都市にやってきた。しかし、彼はそこで、自分が贋の記憶を植えつけられていることを知らされ、ホテルを追いだされてしまう。よるべないままに夜の町をさまようゴッセンは、ひとりの女性と出会う。彼女はパトリシア・ハーディー、地球大統領の娘だった。なんということ、ゴッセンに植えつけられていた贋の記憶では、パトリシア・ハーディーは彼の妻なのだ。ゴッセンをあやしんだ大統領は、彼を捕らえて尋問をするが、具体的なことはなにもわからない。パトリシアの手引きでゴッセンは脱走するが、追っ手によって撃ち殺されてしまう。
 ゴッセンが意識を取りもどすと、そこは金星だった。どうやら彼は複数の肉体をもっているらしい。第二の肉体を得たゴッセンは、非Aの〈ゲーム機械〉からのメッセージを受けとり、自分が銀河帝国独裁者エンローの太陽系侵攻を阻止する役目を担っていることを知る。ゴッセンの心の潜在能力にまつわる謎こそが、巨大な戦争組織を足踏みさせているのだ。ゴッセンは〈ゲーム機械〉の指示に従い、エルドレッド・クラングという男にわざと捕らえられる。クラングは銀河系から送りこまれた諜報部員だが、非Aに改宗した人物、そしてパトリシアの恋人であり、敵か味方か判然としない。謎の人物はクラングばかりではない。ハーディ大統領の側近とおぼしき、大怪我の痕がある男〈X〉。ゴッセンの味方を装いながら不審な行動を見せるジョン・プレスコット。だれがスパイで、だれが裏切り者なのか。そこに陰謀のかけひきがからまり、物語は二転三転する。
 ゴッセンにとって確実な味方といえる〈ゲーム機械〉も、金星から撃ちこまれた原子魚雷によってダメージを受け、ゴッセン本人も巧妙な催眠術によって自殺衝動に駆られる。しかも彼の第三の肉体は、敵に発見され破壊されてしまったのだ。ゴッセンが生き延び、侵略を防ぐには、彼にそなわっっている特殊な器官「予備脳」を駆使するしか手だてがない。
 雑誌連載(一九四五)当時から絶大な人気を誇った、異様な迫力の傑作。歪んだ遠近法と真空管と真鍮の質感、おびただしい謎がばらまかれた破綻すれすれのめまぐるしいストーリー展開がすさまじい。続編『非Aの傀儡』(一九五六)は、さらにスケールが大きくなり、全宇宙規模の抗争がいよいよ前面にあらわれる。そこでは予備脳による超能力を発揮するゴッセンですら、見えざる棋士があやつるひとつの駒でしかないのだ。第三作Null-A Three(一九八五) は未訳。(牧眞司)


61701
1967年3月~
ハリー・ハリスン『死の世界』1~3 Deathworld
中村保男訳 解説:厚木淳、ほか
カバー装画:金子三蔵

 カジノでの、大量の武器兵器の購入資金の調達を依頼され成功した賭博師ジェイソンは、その足で武器供給先の惑星ピラスに赴く。そこは惑星すべての生物が、変異を繰り返し、より凶悪化しながら、人類と敵対し、互いの殲滅を目論む地獄のような戦場だった。だが、なぜ生物たちは、特定種として人類だけに有害な凶悪変異を繰り返すのか。ジェイソンは住民たちの怒りを買いながら、〈よそもの〉ならではの目線で生態学的ミステリーを解き明かし、戦争終結の一助を成す。
 息継ぐ間もない冒険活劇に知的なアイデアと社会構築・社会分析を交えた本書は才人ハリー・ハリスンの記念すべき処女長編であり、ヒューゴー賞候補作品となった。
 第二部は、狂信的倫理主義者に拉致された主人公が、抵抗の末不時着した分業奴隷制度の惑星で、知識を武器に九死に一生を得ながら成り上がっていく物語。第三部は惑星ピラスの平和に順応できない人々を引き連れ、新天地、超戦闘的遊牧種族が覇を唱える惑星に乗り込んでいく。
 三部作のいずれにも、既存の制度や概念を盲信する人々の愚かしさへの作者の憤りが満ち溢れ、主人公の行動でそうした制度の枠組が崩されていくカタルシスがある。(水鏡子)


60308
1967年3月~
E・E・スミス《スカイラーク》Skylark of Space
中村能三訳 解説:厚木淳、ほか
カバー装画、口絵、挿絵:金森達

 SFの初期衝動とは何か。良くも悪くも無視できない一つの回答が、「アメージング・ストーリーズ」一九二八年八月号にある。『宇宙のスカイラーク』が表紙を飾った掲載号だ。アイザック・アシモフはアンソロジー『黄金時代の前に(Before the Golden Age)』(一九七四)の解説で、同作を「最初のアメリカSFの偉大な〝古典(クラシック)〟、アメリカ本来の雑誌SFの先駆け、この分野における世界の文学潮流を支配している」と述べ、ある種のライバル視をしていたと告白している。著者の名はE・E・スミス。ワシントン大学で化学工学の博士号を取得したため、親しみを込めて〝ドク〟スミスと呼ばれ、ドーナツの素の研究・開発の傍ら執筆を手掛けた。
『宇宙のスカイラーク』は画期的だった。せいぜい太陽系内に収まっていた宇宙での冒険譚を、銀河の規模にまで押し広げ、E・R・バローズの模倣に終わらないスペース・オペラという枠組みをこしらえたのだ。執筆開始時が一九一五年、完成が二〇年頃ということに鑑みれば、技術をめぐる関心を物語化する先駆性は驚異的。もっとも、執筆当初は友人の妻リー・ホーキンズ・ガービイとの共著で、恋愛・人物描写を任せたらしいが、五八年の改訂時に彼女の担当箇所は完全に削られた(二〇〇七年以降は復活)。
 謎のX金属、直径一千kmの宇宙船ヴァレロンのスカイラーク、四次元空間での冒険など、センス・オヴ・ワンダーを感じさせるガジェットには事欠かず、どんどんスケールは拡大していく。まさしく驚天動地の連続(アメージング・ストーリーズ)で、岡田正哉のように用語索引をファン出版したくなる気持ちもよくわかる。フォレスト・J・アッカーマンは、活字SFを擁護しつつ「スター・ウォーズ」は《スカイラーク》等に並ぶと述べたものだ(柴野拓美によるインタビュー)。
 主人公リチャード・シートンとライバルの悪役マーク・デュケーヌをめぐる〝警察と泥棒〟式のフレームも明快で、なし崩しに呉越同舟となる展開や、対決の模様は熱い。とりわけ、シリーズ第三巻から原著が三十年経て発表され、円熟味すら感じさせる完結編『スカイラーク対デュケーヌ』にそれは顕著だ。
 ただ、本シリーズの致命的な欠陥は、アメリカSFならではの覇権主義、パルプ雑誌的ステレオタイプ、加えて優生思想やレイシズムが随所で露骨に顔を出すこと。「善」の側が振りかざす論理はファシズムさながら。「悪」の側には共産主義のイメージが仮託されている。ユダヤ人アシモフが〝 〟付きで評価をしたのもわかるし、作中における日本人シローの扱いも酷い。完訳版が絶版になって久しい反面、冒険の部分のみを抽出した岩崎書店等でのジュヴナイル版『宇宙のスカイラーク』が読み継がれてきたのはこの露骨さがないためだろうし、今後ノーカットの新訳を出すのなら、詳細な注釈と解説が不可欠と考える。(岡和田晃)


60112
1967年6月~
E・R・バローズ《金星シリーズ》Venus
厚木淳訳 解説:訳者
カバー装画:武部本一郎

《ターザン》、《火星》、《ぺルシダー》、そして《金星》というバローズの四大シリーズの中で、もっとも開始が遅いのがこの《金星》シリーズ。連載が始まったのは一九三二年、バローズ五十七歳の年で、すでに当時のバローズは大人気の流行作家だった。
 冒険好きの青年カースン・ネーピアは、ロケットで火星に向かおうとしていたところ、月の引力を計算に入れ忘れていたせいで金星に不時着してしまう。アムターと呼ばれている金星は厚い雲に覆われており、猛獣が跋扈する異世界だった。
 宮殿へと連行されたカースンは、たまたま宮殿の庭で見かけた王女ドゥーアーレーに一目ぼれ。猛アタックを繰り広げるのだが、二十歳まで恋愛禁止の掟のある王女からはすげなくあしらわれてしまう。そんなときに王女が何者かにさらわれ、王女救出のためカースンは冒険を繰り広げる。
 シリーズの大きな特徴は、政治的、社会的問題を正面きって取り扱っていることで、第一巻『金星の海賊』では共産主義者、第二巻『金星の死者の国』では優生学を信奉する国家、第三巻『金星の独裁者』ではヒトラー的な独裁者が登場してカースンと対立する(ただし優生学についてはバローズは必ずしも否定的に描いてはいない)。
 第四巻『金星の火の女神』は、一転してエキゾチックな生物や種族が次々に登場する連作娯楽中編集。最終巻『金星の魔法使』は生前未発表だった短編一作にシリーズ外の作品三編を併載したもの。この最終話では、カースンは子供のころにインドの神秘主義者からテレパシーを学んだ(その能力で、地球のバローズに冒険譚を伝えているのだ)という、一巻目以来忘れ去られていた設定が突如として復活。カースンはテレパシー能力を縦横に活用して魔法使と対決する。続きが書かれていればテレパシー能力を使った新展開があったのかもしれない。
 ちなみになぜシリーズが途絶したかというと、当時ホノルルにいたバローズは真珠湾攻撃を目撃。六十代にして従軍記者として太平洋戦線に参加したことにより、執筆活動をやめてしまったのである。
 そして、このシリーズ最大の特徴は、王女ドゥーアーレーの変貌ぶりだろう。一巻では高飛車な箱入り娘なのだが、三巻で相思相愛になってからは主人公にベタぼれと、見事なツンデレぶりを見せつけてくれる。最初の頃こそ、さらわれてはカースンに助けられるだけの役回りだったのだが、禁を破ってカースンに恋をしたかどで父王から死刑を宣告される経験を経て、飛行艇を自在に操り、ピンチに陥ったカースンを射撃で助ける、よき相棒として成長をとげるのである。火星のデジャー・ソリスや、ペルシダーのダイアンとは、また違ったタイプのヒロイン像といえるだろう。(風野春樹)


62201
1967年7月
ジェイムズ・ブリッシュ『悪魔の星』A Case of Conscience, 1958
井上一夫訳 解説:訳者
カバー装画:金子三蔵

 SFの特質である思考実験は、宗教や信仰といった心の問題も俎上に載せる。その好例が、「地球的な信仰は宇宙へ出ても通用するのか」という命題を追求した本書である。
 惑星リチア。地球から五十光年の距離にあるこの星は、エデンの園そのままの世界だった。温暖な気候に恵まれ、爬虫類から進化した住民が、平和な社会を築きあげていたのだ。しかし、科学調査団のひとり、生物学者でイエズス会士のルイスサンチェスは、ある疑惑にとらわれる。リチア人は高度に理性的であり、道徳的にも優れているが、反面、神を知らず、原罪という概念とも無縁である。とすれば、この星は人間を惑わすために悪魔が仕掛けた罠ではないのか……。
 本書については「神学SFの傑作」という評価が定着している。じっさい、スリリングな神学的議論が読みどころだが、生物学をベースにしたSF的アイデアの面白さも見逃せない。両者がみごとに融合した本書は、作者に唯一のヒューゴー賞をもたらした。
 ブリッシュは一九五〇年代を代表するハードSF作家。ウィリアム・アセリング・ジュニア名義で評論家としても健筆をふるい、晩年は《宇宙大作戦》のノヴェライズで人気を博した。(中村融)


62401
1967年9月
エドガー・パングボーン『オブザーバーの鏡』A Mirror for Observers, 1954
中村保男訳 解説:訳者
カバー装画:金子三蔵

 パングボーン(一九〇九~一九七六)は、アメリカSF界の第一世代に属する作家だが、著作は十冊余りほどしかない。その中で、本書は一九五五年の国際幻想文学賞(英国のSF賞)を受賞した作品だ。
 オブザーバーとは観察者のこと。三万年も昔から地球に移り住んでいる火星人が、人間社会の観察を密かに続けている。彼らは地球人の十倍ほども長命で、文明の進化を善導しようとしているのだ。しかし、その方針を是としないものたちとのせめぎ合いもある。火星人である主人公は、将来地球の指導者になるであろう少年少女たちとの交歓を試みる。
 パングボーンの既訳作品には、他に『デイヴィー』(一九六四)という作品がある。限定核戦争と、その後の生物兵器戦により、世界は分断され壊滅する。三百余年後、中世まで復興したアメリカを舞台に、主人公が生まれ成長し、さまざまな大人たちや恋人たちと交歓する物語だ。本書の直接の続編ではないが、テーマを象徴する「生きることの哀切さ」を感じさせる点では共通するだろう。紙版は両者とも絶版、電子版もなく入手困難だが、どちらもお薦めだ。復刊が望まれる。(岡本俊弥)


61301
1967年12月~
ジュディス・メリル『年刊SF傑作選』1~7 The Year's Best S-F
中村保男、ほか訳 解説:伊藤典夫
カバー装画:日下弘/赤松美弥子(5以降は日下弘のみ)

 メリルの《年刊SF傑作選》はSFの教科書だった。SFを読むのに必要なことはだいたいメリルに学んだと言ってもいい。僕にとって、SFアンソロジストと言えば、ナイトでもエリスンでもドゾアでもストラーンでもなくメリルであり、SFアンソロジー不動のベストは《年刊傑作選》なのである。
 一年間に発表されたSF短編の中から編者がベストと思う作品を選び、一冊にまとめて刊行する――イヤーズ・ベストとか年次傑作選とか年間ベスト集とか呼ばれるこの種のSFアンソロジーの草分けは、一九四九年に始まったブライラー&ディクティのThe Best Science Fiction Storiesだが、一九五六年にメリルの《年刊傑作選》がスタートすると、たちまちトップの座を獲得。以後、版元とタイトルを変えながら全十二巻が刊行された。
 そのうちの第六巻、一九六〇年のベスト作品を集めるThe 6th Annual of the Year's Best SFを『1』として六七年に翻訳刊行されはじめたのが、創元の《年刊SF傑作選》全七巻。ただし全訳ではなく、権利関係からか、翻訳上の問題か、訳されていない作品が多い。『1』など、全三十五編のうち十九編が割愛されているし、他の巻でもだいたい十編以上が省かれているので注意(詳細は、「ameqlist 翻訳作品集成」https://ameqlist.com/ 参照)。
 当時、メリル自身が編んだ『宇宙の妖怪たち』をはじめ、海外のSFアンソロジーはすでに何冊も訳されていたものの、年次傑作選の邦訳はこれが初めて。今から見ると、顔ぶれ的には原書五巻目か七巻目からスタートしたほうがよかった気がするが、やはり六〇年代を最初からカバーしたいという意図があったのだろうか。ともあれ、『1』から『4』までは、六七年十二月から翌年二月にかけて立て続けに刊行。この四冊の原書版元はサイモン&シュスターで、(メリルによれば)彼女の推薦作をもとに版元編集者が最終的な収録作を決めていたという。
 だったら一般性を考慮した商業的なラインナップになっているかというと全然そんなことはない。このシリーズの特徴は、SF雑誌に限らず、ジャンル的にも形態的にも思いきり幅を広げて作品を選んでいること。実際、『1』には、アシモフの異常論文「チオチモリンと宇宙時代」やクラークの回想録「思いおこすバビロン」(ともに邦訳版からは割愛)と一緒に、ウォールト・ケリーの漫画やヒルバート・シェンク二世の詩、地球外知性とのコミュニケーションについて考察したブラッドベリのエッセイが収録されている(私事ながら、創元SF文庫の《年刊日本SF傑作選》に純文学系の作品や短歌や漫画が収録されているのはメリルがお手本です)。《年刊傑作選》のもうひとつの特徴は、どこが面白いのかわからなかったり、それ以前に何が書かれているかもよくわからない作品がいくつも入っていること。それまでの邦訳SFアンソロジーに比べて明らかに理解のハードルが高く、だからこそマニア心をくすぐるというか、チャレンジ精神をかきたてられた。
 邦訳版のめぼしい収録作を挙げると、『1』では、何でも複製できる魔術をマスターした男が災厄をもたらすホリー・カンティーン「あとは野となれ……?」、それに続くバーナード・ウルフ「なくならない銅貨」も楽しいが、ベストは異星人と結婚した女性の人生を細やかに描くウォード・ムーア「マクシルの娘と結婚した男」か。
『2』は、SFとは言いがたいジョージ・P・エリオットの名作「ダング族とともに」のほか、ロバート・F・ヤング「たんぽぽ娘」、コードウェイナー・スミス「シェイヨルという星」。『3』はR・A・ラファティ「恐怖の七日間」、ポール・アンダースンの「生贄の王」、ジェイムズ・ホワイト「クリスマスの反乱」、ゼナ・ヘンダースン「分科委員会」。『4』は、 フリッツ・ライバー「二百三十七個の肖像」、チャールズ・ボーモント「とむらいの唄」、バーナード・マラムッド「ユダヤ鳥」、スミス「酔いどれ船」など。ラファティやスミスはこのころまだ翻訳が少なく、当時の日本のSF読者にとってはバリバリの新人のピカピカの新作だった。
 と、ここまでの四冊が創元版《年刊傑作選》の前半。後半は五年半のブランクをはさんで、『5』が七三年九月に刊行。以後、『6』が七五年三月、『7』が七六年四月に出ている。当時中学生の大森は、『5』からリアルタイムで読みはじめ、「世界最先端のSFがここにある!」と興奮していたが、考えてみればほぼ十年遅れで翻訳されていたことになる。
『5』からは原書版元がデラコート・プレスに移り、収録作すべてを自分で選べるようになったためか、作品の間にはさまるメリルのエッセイも大幅増量。扉裏にははとても収まらなくなった結果、創元版では作品扉が消えて、メリルの文章が終わるとページの途中からでも次の作品が始まる。DJのしゃべりの合間に曲がかかるような感じだろうか。
 メリルの真価が味わえるのはこの後半三冊。ことに『5』と『7』は大谷圭二(浅倉久志)訳ということもあり、半世紀近くを経たいま読んでもあまり違和感がない。
『5』は、キッド・リード「オートマチックの虎」、クラーク「きらめく生きもの」、ヨゼフ・ネスワドバ「第三帝国最後の秘密兵器」、トマス・M・ディッシュ「降りる」、ロジャー・ゼラズニイ「伝道の書に薔薇を」、ノーマン・ケーガン「数理飛行士」。『6』はバラード「火山の舞踏」、ラファティ「火曜日の夜」、トム・ハーゾグ「陰謀」、ホルヘ・ルイス・ボルヘス「円環の廃墟」。
 メリルらしさが最高に高まり、ほとんど世界文学傑作選的な様相を呈するのがラストの『7』。六六年のベスト集だが、翌年中には出せず、六八年になって出版された。原題は、年刊傑作選の言葉がとれて、 SF12。これに続く SF13 は、予告されながら刊行されず、メリル自身も、六八年の England Swings SF を最後にアンソロジー編纂を辞めてしまう。そのメリルの最後の輝きを封じ込めた『7』は、《年刊SF傑作選》の中でも文句なしにベストに選びたい。収録作は、バラードの名作「コーラルDの雲の彫刻師」をはじめ、ボブ・ショウ「去りにし日々の光」、ラファティ「カミロイ人の初等教育」「せまい谷」、 サミュエル・R・ディレイニー「スター・ピット」、ライバー「冬の蠅」……と傑作が目白押し。《年刊SF傑作選》を一冊だけ読むならこの巻をお薦めする。(大森望)


63301
1968年2月
カレル・チャペック『山椒魚戦争』Válka s mloky, 1936
松谷健二訳 解説:訳者
カバー:金子三蔵 挿絵:桜井誠

 言葉を解し二本足で歩く山椒魚がインドネシアの小島で発見され、低コストの労働力として売買され世界中へ広まっていく。人間の数を凌駕するほどに増えた山椒魚は、陸地を浅い海域に改変しようと洪水を起こして人類を衰退させるが、やがて内部抗争によって滅ぶ。それらの歴史が、実録、インタビュー、記事、論文などの複数視点で描かれる。もし他の生物が知性を持ったなら、という発想を『R.U.R.』におけるロボットの問題に絡めて発展させ、台頭するナチスへの批判を込めた作品といえる。一九三五年にチェコスロバキアの新聞で連載が始まり、翌年には刊行されて反響を呼び、様々な言語に翻訳された。日本では一九五三年刊行の、樹下節によるロシア語版からの重訳が最初である。一九六八年刊行の本書は、幾つかの章が削除されたドイツ語版からの重訳だった。一九七〇年には、栗栖継によるチェコ語からの完訳が『世界SF全集9』に収録される。本邦の作家に与えた影響は大きく、手塚治虫はエッセイで〝SFマンガの指針をあたえてくれた〟と語り、小松左京は本書をモデルに『日本アパッチ族』を書いたという。古典SFとも呼ばれるが、今もなお先見的で警世の意義は失われていない。(酉島伝法)


62901
1968年2月~
J・G・バラード『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』The Drowned World, 1962, and others
峰岸久、ほか訳
解説:伊藤典夫、ほか
カバー装画:金子三蔵、ほか
※『燃える世界』は2021年、新訂版の『旱魃世界』(山田和子訳)が新訳された。

 一九五〇年代半ばにデビューしたバラードは、この《破滅三部作》でその作家活動における第一のピークを迎える。彼自身が提唱する「内宇宙への道」を明確に体現した作品群だ。
『沈んだ世界』(一九六二)は、両極の氷が溶けて世界の都市が水没した光景が描かれる。調査部隊に参加した研究員ケランズ、気まぐれな富豪の娘ビアトリス、廃墟をサルベージしている海賊のストラングマン。熱帯化した状況のもとで繰りひろげられる三人のもつれた関係には、始原的なエロス/タナトスの衝動が垣間見られる。水中で朽ちていく人類文明の残渣は、そのまま非人称的な無意識の領域だ。
『燃える世界』はまず一九六四年にアメリカ版として出版され、翌六五年にバラード自身によって細かく改稿が施されたイギリス版が『旱魃世界』として刊行された。以降、英米では『旱魃世界』が決定版として扱われている。創元SF文庫では長らく中村保男訳『燃える世界』が版を重ねてきたが、二〇二一年に山田和子訳『旱魃世界』が刊行された。雨が降らなくなった世界で、多くの人間は水を求めて海へ向かう。しかし、浜辺では水資源をめぐる暴力的支配と呪術的思考がはびこっていた。主人公の医師ランサムは内陸へと引き返すが、そこでよりいっそうグロテスクな抗争に巻きこまれてしまう。
『結晶世界』は一九六六年刊。主人公サンダーズ医師がアフリカの河口の町に到着したところから物語がはじまる。港の薄暗さ、付近にただよう異様な雰囲気、なにやら尋常でない事件がおこっているらしい。その予感どおり、春分の日に、川で死体が見つかる。しかも、何日間も水につかっていたにもかかわらずまだ体温が残っており、右腕がまるで水晶のような輝きを放っているのだ。サンダーズは街で知りあった女性ジャーナリストのルイーズとともに、奥地の状況を探るため川を遡っていく。彼らの前にあらわれたのは、樹木がそのままのかたちで結晶化した、美しい森の景観だった。森のなかで出会った調査団のラデック大尉によれば、同様の結晶化現象はここだけではなく、地球上のほかの地域でも起きているという。植物も動物も建築物も、なにもかもが、結晶へと変化していく。その範囲は徐々に広がり、やがては地球を覆いつくすだろう。サンダーズは、この異常な事態を、自然のなりゆき、宇宙の内的な秩序の一部として認めている自分に気づく。
《破滅三部作》は表面的には災害小説あるいは破滅SFに分類される作品だが、バラードが描こうとしたのはあくまで人間が求める「精神的ゴール」だ。それは『結晶世界』で、必死に森を脱出したサンダーズが、友人への手紙を残してふたたび結晶化した領域への帰還していくクライマックスに、はっきりとあらわれている。(牧眞司)


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1968年3月
K・H・シェール『地球人捕虜収容所』Korps der Verzweifelten, 1964
松谷健二訳 解説:訳者
カバー装画:司修

 ドイツがまだ東西に分かれていたころ、西側のSF界を牽引した三羽烏がいた。クラーク・ダールトン、ヘルベルト・W・フランケ、そして本書の作者だ。
 シェールは《宇宙英雄ローダン》シリーズの主要作家として名を馳せたが、六〇年代にはほぼ年一作のペースで本格SFを世に問うていた。近未来ものと遠未来ものを交互に出しており、本書は後者に当たる。
 二四三一年。銀河系に進出した人類は、グリーンズと呼ばれる異星人との星間戦争の渦中にあった。戦況は一進一退だが、いま新たな事態が出来した。どこかの星に地球人の捕虜収容施設が存在すると判明したのだ。しかし、この情報漏洩は敵の罠の可能性が高い。かくして、敏腕の諜報員がわざと捕虜になって、敵情を探ることになる。白羽の矢を立てられたのは、瀕死の戦傷を負ってサイボーグとなったブーン大尉。いっぽう捕虜収容所は深刻な医薬品不足におちいっていた……。
 軍事技術に関するSFを得意としたシェールらしい作品。ドイツ語で書かれたものだが、出てくる名前はアングロ・サクソン系が多く、英米SFとあまり変わりなく読めるところが持ち味といえる。(中村融)


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1968年3月~
アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡1~3 Foundation
厚木淳訳 解説:石川喬司、ほか
カバー、口絵、挿絵:林巳沙夫
【新訳】2021年~刊、鍛治靖子訳

 遠未来、人類は銀河帝国を数万年にわたって維持発展させ、今や銀河中の二千五百万もの惑星で繁栄していた。しかしその繁栄の裏で、帝国は避けられない衰滅に近付きつつあった。この人類の危機を科学的に予想した科学者ハリ・セルダンは、帝国滅亡後の数万年にも及ぶ暗黒期を数世紀に短縮すべく、ファウンデーションを設立する。本書は、続く数世紀にファウンデーションを襲った危機と、それに対する人類の奮闘を描く。
 作品が書かれたのは一九四〇年代から五〇年代で、当時はカオス理論もバーチャル世界もネットワークもソフトウェアも概念自体が知られていない。倫理の面でも、たとえばジェンダー平等は未成熟であった。従って『銀河帝国の興亡』ではこれらの要素はないか、あったとしても希薄であり、今の読者の目から見れば、作品内社会は遠未来の割に地味で古典的だ。ただしその分、シンプルでわかりやすい。加えて、アシモフの冷静で理知的な文章が、古典的な歴史書のような読み口をもたらしている。要は非常に読みやすいのである。
 加えて、SFとしての設定、より直截に言えば法螺の吹き方が上手い。セルダンが創始した心理歴史学という学問が、本書の設定上の要である。この架空の学問は、歴史を人類の集団的な心理行動の結果とみなし、個別具体的な出来事はともかく、歴史の大まかな流れは予見可能とする。計算方法を含め具体的な内容は作中ではほとんど登場しないが、この概要自体は現実味がないとは言い切れまい。嘘のバランスが絶妙なのだ。しかもこの心理歴史学が、常に正しいとは限らない。中盤で登場するミュータント、ミュールは、心理歴史学では予測不可能なイレギュラーと位置付けられており、人類はセルダンの計画の範囲外で対処せざるを得なくなる。また、このミュールへの対処が、終盤の展開に大きな変化をもたらす。架空の学問・心理歴史により歴史の道標を示しつつ、実際には物語をじわじわとそこから離れさせて緊張感を煽っているわけである。
 推理小説めいたロジックの醍醐味を導入している点も見逃せない。これはミュールの正体や第二ファウンデーションの場所の探索時に顕著である。物語で示された事項を手がかりとして、蓋然性が高い結論を論理的に導き出す。しかも意外性にすら配慮しており、《黒後家蜘蛛の会》などミステリの名品も複数ものしたアシモフらしさが溢れている。推理合戦の様相を呈する局面すらあって、娯楽小説を愛する多くの読者に刺さるはずだ。
 この後、本シリーズはアシモフのもう一つのライフワークである《ロボット》シリーズと合流し、スケールの大きさと細部の鋭さに一層の磨きをかけてくる。そちらもSFファンであれば必見だが、まずはこの初期三部作で、アシモフの才能をたっぷりと味わって、シリーズのファンになっていただきたい。(酒井貞道)


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1968年6月
E・F・ラッセル『宇宙のウィリーズ』The Space Willies / Six Worlds Yonder, 1958
永井淳訳 解説:訳者
カバー装画:金子三蔵

 一九五六年のアスタウンディング誌に掲載された短編を書き伸ばした表題作に、やはり同時期の同誌に掲載された六編を加えて一冊にまとめたエースダブルの翻訳である。宇宙に進出した地球人が異星人とコンタクトを果たす際のすれ違いやトラブルを論理的かつユーモラスに描いた作品が多く、ラッセルの持ち味が色濃く出た良質の作品集となっている。
 論理の面白さという点では、本書はラッセルの諸作の中でも随一を誇るだろう。たとえば、表題作では、異星人に囚われた地球人が、自分にはユースタスという目に見えない分身がいると嘘をついて、脱出を計る。そんな分身がいるわけはないのだが、巧みな弁舌により相手は信じ込んでしまう。「ディアボロジック」でも、異星人に囚われた地球人がゼノンやクレタ島のパラドックスを持ち出して相手をけむに巻く。他にも、信号を伝えていくうちに戦闘命令が変な連絡に変わっていく「極秘指令」、犬が人に支配されているふりをして実は人を支配していたという秘密が暴かれる「完全犯罪」など、宇宙冒険ものという衣をまとってはいるが、言葉の洒落や論理を駆使した言語学的な面白さを備えた作品が多い。パズラー・ファンにもお勧めである。(渡辺英樹)


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1968年7月
ピエール・ブール『猿の惑星』La planète des singes, 1963
大久保輝臣訳 解説:訳者
カバー:20世紀フォックス映画「猿の惑星」より


『猿の惑星』は、映画の原作として特異な存在といえる。最初の映画化作品が好評でシリーズ化され、テレビドラマにもなり、今世紀にもさらに作品が三本も作られている。一編の小説がこれほど長きに渡り映像化の原本となるのはかなり珍しい。さてその小説では未知の惑星ではなく、宇宙船は計画通りベテルギウスの惑星に到着したが、そこは猿人が支配する星で、逆に人間の風貌を持つ動物は地球の猿に極めて近く、全裸で暮らしていたのだった。猿人に捕らえられた主人公は、必死に自分は文明人だと訴え、一部の猿人に理解される。その間、彼の自己認識がこの星の人間と猿の間で曖昧になっていく。作者はこの猿の社会を通して現代を戯画的に批判し、さらに西洋文明の永続性を危惧していたのだろう。特に説明はないが、この星の人間は西洋人の風体をしているようだ。やがて主人公は猿人の協力で、理性の兆候が窺える人間の女性とともにこの惑星からの脱出を試みるが、その最後に仕掛けられた二段階のどんでん返しには唸らされる。作者はデイヴィッド・リーン監督の「戦場にかける橋」の原作者として有名だが、フランスでは『カナシマ博士の月の庭園』や『E=mc²』など、独特のテイストを持つSF作家として高い人気を持つ。(忍澤勉)


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1968年11月
ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』Voyage au centre de la terre, 1864
窪田般彌訳 解説:訳者
カバー、挿絵:南村喬之

 ジュール・ヴェルヌの《驚異の旅》第三作で、鉱物学者リデンブロック教授が、十六世紀の錬金術師アルネ・サクヌッセンムが遺したルーン文字の暗号文を解き明かしたことから、その甥である「わたし」ことアクセル青年は、〝地球の中心への旅〟(原題)に同行することになります。その入り口となるアイスランドの噴火口への旅路や地質学上の蘊蓄は精細をきわめますが、その先に現われるのは途方もない幻想の産物なのです。
 ヴェルヌはSFの祖と呼ばれつつも、いわゆるSF的な架空の理論やガジェットを用いることなく、あくまで当時の科学知識や博物学的事実にもとづいてのみ空想をめぐらす作家ということになっていますが、この初期作は早くもそんなレッテルを疑わせるに十分です。というのも、「わたし」一行がたどり着いた地底世界は、不思議な電気現象の光に照らされた大洋が広がり、巨大なキノコが生え、太古の生物が跋扈する世界だったのですから――しかも、魚竜対蛇頸竜というおなじみのバトルまで展開されるときては! ラストの爆発オチ(?)もふくめ、何とも大らかな空想科学冒険譚で、原書の雰囲気を再現した南村喬之画伯の挿絵も楽しい一冊です。(芦辺拓)


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1969年1月
アレクサンドル・ベリャーエフ『ドウエル教授の首』Голова профессора Доуэля, 1926
原卓也訳 解説:訳者
カバー装画:金子三蔵
【新版】2016年刊

 アレクサンドル・ベリャーエフは一八八四年ロシア生まれ。幼稚園の教師、民警の監督官、写真家、図書館の副館長などを経て作家に転じた。一九二五年に短編版、同年から翌年にかけて長編版が書かれた『ドウエル教授の首』は、脊椎カリエスで全身不随になった経験を持つ著者が〝身体のない首の感覚〟をモチーフにしたデビュー作だ。
 ケルン教授の助手として雇われたパリの女医マリイ・ローランは、実験室でドウエル教授の〝生きている生首〟を目撃した。マリイはドウエルの話を聞き、ケルンがドウエルを殺して実験材料にしたことに憤る。いっぽうケルンは男女の死体を入手し、生首を他人の身体に繋ぐ計画を進めていた。
 喋る生首や合成人間といった奇想を掲げ、悪党との対決をスリリングに描く娯楽性は、たとえば海野十三の探偵小説にも通じるものだ。鮮烈なガジェットとサスペンスを備えた(古き良き)空想科学小説の逸品である。映像化作品には日本のテレビドラマ「江利教授の怪奇な情熱」(一九七九)、ソ連映画「ドウエル教授の首」(一九八四)、中国映画「凶宅美人头」(一九八九)などがあるが、いずれも原作とは内容が大きく異なっている。(福井健太)


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1969年2月
R・A・ハインライン『異星の客』Stranger in a Strange Land, 1961
井上一夫訳 解説:訳者
カバー:司修

“Once upon a time there was a Martian named Valentine Michael Smith.”という冒頭の一文からも、邦訳で八百頁近いこの大長編(当時最長SF)が、寓話であることは明らか。
 火星で発見された第一次探検隊の遺児、遺伝子的には地球人ながら火星人に育てられ、異星の言語と思考の持ち主であるヴァレンタイン・マイケル・スミスが、保護されて地球に送られる。世界連邦法により火星の唯一の所有者とされ、巨万の富をもつことになった〝火星から来た男〟をめぐり、地球人の政治・経済・宗教面の陰謀が渦まくばかりか、世俗に無垢だったこの〝超人〟が〝救世主〟への道を歩みだすと、性や倫理のタブーばかりか、地球文明を根底から覆すビジョンが……。
 いかにも著者らしいユーモアと諷刺が炸裂し、ヒューゴー賞受賞の大著は、十年前の『レッド・プラネット』執筆時、火星の〝モウグリ〟(キプリング)の着想をえて以来、難産だった経緯あり。NYタイムズで書評され、ベストセラーからロングセラーになり、六〇年代末には大学のキャンパスやヒッピーの間で『指輪物語』と共に〝聖典〟扱いされ売れまくったあげく、チャールズ・マンソンとの関係を報じるフェイクすら出た!(高橋良平)


61102
1969年4月
アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』Childhood's End, 1953
沼沢洽治訳 解説:訳者
カバー装画:真鍋博
【新版】2017年刊

 世界の恒久的平和と安定は、おもわぬかたちで実現した。宇宙船団が飛来したのである。この〈上主〉と呼ばれる高度文明の異星人に対しては、いかなる攻撃も無力だった。彼らは人類を征服するようすもなく、空にとどまって人種差別の撤廃と無益な殺生の中止をうながしていく。そして五十年後、ついに〈上主〉の代表カレレンが地上に降りたち、その姿に人類は震撼する。いっぽう、異星人の目的が判然としないなか、〈上主〉の故郷へ密航した者がいる。ジャン・ロドリックス、ケープタウン大学の学生だ。もくろみは成功するが、ジャンが地球に帰還したとき、人類は大きな変貌をとげていた。
 SFのベスト選びでかならず上位にランクされる人類進化テーマの傑作。クラークが示したヴィジョンは先輩作家オラフ・ステープルドンを継ぐものだが、いっそう鮮烈で、その影響はジャンルSFだけにとどまらない。たとえば、レッド・ツェッペリンのアルバム『聖なる館』のジャケットは、本作品にインスパイアされたものだという。
 別の邦訳として、福島正実訳『幼年期の終り』(ハヤカワ文庫SF)、池田真紀子訳『幼年期の終わり』(光文社古典新訳文庫)がある。(牧眞司)




【お詫び】1966年12月刊行のA・E・ヴァン・ヴォークト『原子の帝国』は、編集部の手違いにより11月掲載とさせていただきます。