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●4月某日 『メキシカン・ゴシック』シルヴィア・モレノ=ガルシア

 以前、某ギャグアニメ沼にハマっていると書いたけれど、今は別のギャグ漫画(およびアニメ)にどっぷり浸(つ)かっている。これはやばい。某ギャグアニメよりも今回の沼の方が深くて広い。既刊20巻(これが掲載されている頃には21巻か)を読み通してはまた読み返して、をもう10周くらいやっている。アニメ版も、好きな声優Fさんが演じておられるのでブルーレイ買いました。
 そんな感じでまったく仕事に集中できていない状態の中、新刊『スタッフロール』(文藝春秋)が発売になり、プロモーションや取材などが色々入って来た。しかしインタビューを受けたり、オンラインで全国の書店員さんとお話したりする間も、頭の半分くらいを漫画が占めてしまう。あばば、これはやばい。何を訊かれても心の声が「いやー、それより今ハマってる漫画の話がしたいんですけど……」と答えようとする。やめなさい。
 毎日のように某書店から薄い小包が届く。誰だこんなに注文したの。私だ。
 うちの同居人(というか家の所有者)は書籍蒐集家かつ書評家なので、廊下や部屋に大量の本があるし、筋金入りの読書マニアだ。小説も漫画も読むしアニメも観る。けれど私みたいなタイプのハマリ方はしない。私の両親や姉もオタクではあるけれど、たとえば同人誌を買ったりはしない。少なくともそんな場面を見たことはない。気軽にメッセージのやりとりができる身近な友人もそう。なので、私の心がウワーーーッと燃え上がっても、それをぶつける相手がいなくて寂しい。
 
 それはともあれ、新刊についてオンラインでいろいろな書店員さんとお話ができて幸甚でありました。この場を借りて御礼をば。ありがとうございます。

 というわけで読書。
 シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』(青木純子訳 早川書房)を読む。
 タイトルの通り、メキシコが舞台のゴシック・ホラー小説である。ホラーSFと言ってもいいかもしれない。
 1950年、気まぐれで自由闊達(かったつ)、奔放な若い女性ノエミ・タボアダは、父から、従姉の様子を見に行ってほしいと頼まれる。その従姉はカタリーナ、いわく、夫に毒を盛られて亡霊に苛まれているという。幼い頃から親しかった従姉のことを思い、ノエミは単身旅に出て、カタリーナの嫁ぎ先を訪れる。そこはイギリス人一族ドイル家が暮らすゴシック調の屋敷で、メキシコ廃鉱山の頂(いただき)にあった。
 ノエミを出迎えたのはカタリーナの夫ヴァージル、そのいとこにあたるフローレンスと、彼女の息子のフランシス。若いフランシスは冗談も通じるし、ノエミを尊重してくれるが、ヴァージルは不遜(ふそん)な態度を崩さず、フローレンスに至っては明らかにノエミを侮蔑している。あれやこれやと制約を課してくる上、冷たくあしらわれる。歓迎されていない雰囲気にも負けじと立ち向かうノエミは、カタリーナに再会する。体調の悪そうな従姉は、ベッドで寝かされ、結核を患っていると言う。本当に結核なのだろうか? 疑問を抱きながら屋敷で過ごすことになったノエミは、晩餐の席で、一族の老いた当主ハワードと知り合う。
 物語の雰囲気はゴシックで不穏、夢を侵食してくる怪奇現象は美しいけれど気味が悪く、一族はどこまでも不審だが、主人公ノエミの健康的な性格やはじけるようなユーモアに、明るさを感じながら読みふけった。まさに一気読み必至の小説である。
 妖艶な怪奇も味わえるし、イギリスからやって来た一族、ドイル家の謎――屋敷はなぜメキシコの廃鉱山の上にあるのか、従姉のカタリーナは結核なのかそれとも本当に超常現象に悩まされているのか、夫のヴァージルは善人なのか悪人なのか、当主ハワードの不気味さ、一族の目的は何なのか? ――などのスリリングな展開が面白い。
 帯にあるように、ダフネ・デュ・モーリアやシャーリイ・ジャクスンの愛読者にお薦めしたい。他にもかの著名な恐怖短編、シャーロット・パーキンス・ギルマン「黄色い壁紙」も彷彿(ほうふつ)とさせる。
 とにもかくにも、「家父長制ってクソだな!!!!」と改めて思わせてくれる本だ。家父長制も優生思想も侵略行為も奴隷制も性暴力も血族云々も全部クソ。女性を「産む機械」と言って憚(はばか)らない考え方もクソ。そしてそれらに対してこの本は、文章の力でもってめいっぱい殴っていく。バチボコにしてくれノエミ!! いいぞノエミ!! 
 時に吐き気がするほどグロテスクで気持ちが悪いけれど、現代的な爽やかさもあって、とても楽しめた。個人的にフランシスが好きです! 映像化したら、ぜひケイレブ・ランドリー・ジョーンズに演じてもらいたい!

メキシカン・ゴシック
シルヴィア モレノ=ガルシア
早川書房
2022-04-01




 ある日、何気なく舌先で歯の下あたりをなぞっていたら、べろんとした感触があった。右側は普通だけど、左側だけ妙にびろびろしている。なんというか肥大してる感じ。変だなーと思いつつ2週間くらいそのままにして、ふと鏡で口の中を見たら、舌の下にある唾液腺のあたりがぼこっと腫れている。なんだこれ。ちょっと赤くなっているし。ネットでざっと調べてみると腫瘍(しゅよう)やらがんやら恐ろしげな単語が並ぶ。
 さすがに不安になり近所の口腔外科のある歯科に行ったら、予約がいっぱいで断られてしまった。仕方がないのでかかりつけの歯科に電話して診てもらうと、どうも固い食べ物か何かで舌の下を傷つけてしまい、化膿(かのう)したんだろうとのことである。
 ほっとして帰宅したものの、翌日以降になるとさらに腫れが大きくなっていた。あらまあどうしようと少し狼狽(うろた)える。かかりつけの歯科では視診と触診だけで、レントゲンなどを撮ってもらったわけでもなかった。ひょっとすると、本当は悪いものなのでは? そこで最初に断られたのとは別の、ちょっと離れた場所にある口腔外科に電話をかけて事情を話してみたら、夕方に枠が残っているので本日中に診てくれるという。やったー、ありがとう! お言葉に甘えて予約を取り、30分かかる道のりをてくてくと歩いた。
 そこは開業してだいぶ経っている様子のわりに清潔な医院で、消毒液や換気、体温測定などコロナ対策もしっかりしていた。Googleのクチコミは高評価と低評価が半々くらい、低評価のコメントには「院長があんまり説明してくれない」とあった。まあそうは言っても訊けば教えてくれるだろうと思い、空いている待合室で座っていたら、5分ほどで名前を呼ばれ、診察室に入った。歯科独特の消毒液の匂いがする広々とした診察室には、例の横たわれる長い椅子が3、4台並んでいる。案内されるまま椅子に腰掛け、リステリンで30秒間うがいをし、体を背もたれに預けて医師を待つ。やがてやって来た医師は院長先生で、50代くらいの、ちょっとおどおどした感じの男の人だった。
 椅子が後ろに倒され、仰向けになって口の中を診察される。先生はなんだか声が小さいが、唾石(だせき)が詰まっているかもしれないし、なんらかの腫瘍の可能性もあるからCTを撮りたいが、レントゲンよりも診療費が高くなってしまう、でもCTの方がよく見えるからおすすめ、などと、ぼそぼそしつつも一生懸命説明してくれる。なんだ、ちゃんと説明してくれるじゃないか。ひょっとするとGoogleのクチコミを見て、こうしようああしようと見直したのかもしれないけれど。ともあれ私はCTを撮ることを選び、あの印象剤アルジネート(新刊『スタッフロール』でも登場させた)で歯型を取ってマウスピースを作り、CT用の個室へ入った。
 結果的に2回撮ったが、唾石も腫瘍も見つからず、やはり傷が付いて化膿したんだろうという診断が下された。なるほど、よかった! 最初の歯科医での診察と同じだけれど、やっぱりちゃんとCTを撮ってもらうと安心感が違う。抗生物質を処方され、4日後に再診の予約をし、帰宅した。
 それから腫れはだいぶ軽快し、3回目の再診の際にはほとんど元通りになっていた。いつものかかりつけの歯科医もいいけど、今回の医院は設備も整っているし、何かあったらここに来よう……と思った。
 ところでその医院に行くまでの道は、大通りから一本住宅地側に入った裏通りで、抜け道として使われている。道幅は狭いくせに車の量が多く、歩行者や自転車は「一歩でもはみ出したら即車道」みたいな細い路側帯を進まねばならない。向かいから歩行者が来たらどちらかが路側帯からはみ出すし、車側も対向車線に避けるので、気を抜くとすぐに事故が起きてしまいそうな場所だ。
 そんな道なのだが、3回目の通院を終えた日に、ふとあたりが静まりかえった瞬間があった。たまたま車通りが途切れ、他に歩行者もおらず、30秒か1分かもっと長い時間だったか、私ひとりしかいなかった。太陽はほとんど沈み、まだうっすらと青色を残した空に、ピンクと黄金と白を混ぜた色が伸び、輝いている。あたりの建物はちょうど背の低い家屋ばかりで、空も広かったが、向かいの通りに見事なほど大きな木が3、4本連なり、緑の梢をそよがせていた。5月の薫風(くんぷう)が吹くたび、ざわざわ、さらさら、と音がする。こんなにはっきりと木立の葉擦(はず)れを聞いたのは、いつぶりだったろう。最近は木の伐採も増えたし、こんなに大きな木を見ることも少なくなった。まるで遠い夏の日に戻ったかのようだ。
 私はしばらくその場に立ち尽くし、満足するまで、再び車や人が行き交うまで、広い空の下で揺れる木々を眺めていた。

 さて、読書。
 ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年――ルシア・ベルリン作品集』(岸本佐知子訳 講談社)を読み終わる。
 本国では短篇集A Manual for Cleaning Womanとして1冊にまとまっているものを、邦訳にあたって二分割し、まず『掃除婦のための手引き書――ルシア・ベルリン作品集』が、続いて残りの短編を集めた本作『すべての月、すべての年』が出版された。
 2019年に翻訳刊行された『掃除婦のための手引き書』は素晴らしすぎて、私は深夜に10分くらいで感想文を書き殴り、noteに上げた(現在ははてなブログに移行している)。幸いにも翻訳者の岸本さんや講談社の担当編集者さんの目に留まり、一部抜粋で帯やPOPなどに使って頂けた。その節はありがとうございました。
 この感想文を書いた当時、私は心身を患って、出口の見えない闇の中にいた。鬱病と睡眠障害で、自分で自分を傷つけるセルフDV状態にあり、心が、皮膚を失って剥(む)き出しになった肉のように痛々しく、敏感だった。そんな状態の私にルシア・ベルリンの言葉は刺さりまくった。文字を通じて時を超え、激しく共鳴していたのだ。正直、この時に書いた感想文以上のものは書けない気がする。
 現在の私はかなり元気になり、精神も安定している。この状態で読むルシア・ベルリンは私の心をどう打つのだろうという個人的な興味もあった。結果を先に書くと、やはり素晴らしかった。
 どことなく『掃除婦のための手引き書』よりも『すべての月、すべての年』の方がフィクションの色合いが濃いような印象を持ったが、勘違いかもしれない。元は同じ短篇集に収められた本なのだから実際のところそんなにばらつきはないのだろう。いずれにせよ、今回もまたルシア・ベルリンの実人生、実体験が織り込まれている。ERや学校、テキサスやメキシコ、彼女が実際に働いたり暮らしたりした場所が舞台になったり、四人の息子、がんと闘病する妹などの人物が複数回登場する。そして必ずと言って良いほど書かれるのが、アルコール依存症だ。恋愛やセックスについても語られる。
 しかし『掃除婦のための手引き書』の巻末に収録されている、リディア・デイヴィスのコラムにあるように、これらの作品群でルシア・ベルリンをわかったつもりになってはいけない。「いくつかの彼女の作品は完全なフィクションだ。彼女の小説を読んだからといって、彼女を知ったつもりになってはならないのだ」。本当にその通りである。
 ある意味、この答えになるのが『すべての月、すべての年』に収録された「視点」だろう。作家の目、物語を通じて落とし込む感覚、どのように切り取り、どのように描き出すか、その答えがここに書かれている。書きあぐねている人はこれを読むといいかもしれない。

 〝作家の目〟というものがある。非常に烏滸(おこ)がましいことを書くと、ルシア・ベルリンを読む時、その目と似たものを私も持っていると感じる。作家はみんなそうではないだろうか。衝動的に結ばれる愛、無惨なのについ笑ってしまった出来事、人の手と自分の手が擦(こす)り合って、どちらがどちらの手かわからなくなる感覚、強烈な匂い、誰かが不意に発した、一生忘れられない言葉。そういった事柄を物語に置き換え、語り直すことで何かを解消しようとする。結局解消できなくてぐるぐる堂々巡りするのが常だが、この語り直す時に必要になってくるのが、〝作家の目〟だ。いや、目でも耳でも手でも何でも良い、水の濾過(ろか)をイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。形のないものたちが、自分の感覚器官から入り込み、心身を通じて言葉になり、物語として生まれ直す。作家は大きな濾過器だ。そしてルシア・ベルリンの持つ濾過器は、とても大きく、繊細で、ユーモアに溢れていながら辛辣(しんらつ)でもあり、苦い後悔や諦念と共に、唯一無二のものを生み出す。
『すべての月、すべての年』に収録されたどの短篇も、彼女の全身を通して漉(こ)され、編み直された人生の1ショットだ。そしてどれも違う匂いがする。
 表題作「すべての月、すべての年」は海の潮の強い香りが充満し、「虎に噛まれて」「緊急救命室ノート、一九七七年」は、むっとするような血の臭いがする。「メリーナ」は瑞々(みずみず)しい草の香りと花束、そしてかすかに脇の汗の匂いがし、「カルメン」は饐(す)えた匂いとドラッグで汚れた家の悪臭がする。
 嗅覚だけではない、あらゆる五感が刺激され、作品を読んでいる間は別の世界へと心が飛んでいる。その近さは、相手の体温を感じ、体毛が触れあい、くすぐったくて声を上げるほどで、その遠さは、二度と会わないとわかっている人に手を振る時のようだ。そして物語はばさりと切り落とされ(つい吹き出してしまうものや上手いオチに微笑みたくなるもの、さっきまで美しく咲き誇っていた花束をゴミ箱に捨てるような苦いものや、すべてを繋げて見事に結ぶものもある)、読者は現実に戻ってくる。
 ルシア・ベルリンの作品は、深い海にダイブする前と後にも似ている。海を前にする時、あの暗い青の中に何が渦巻いているのかわからない。いざ飛び込んでみると世界は一変する。鮮やかな魚や珊瑚(さんご)に出会って感嘆し、時にはごつごつした岩で体を切り、血が滲(にじ)む。塩っ辛く、息も苦しいけれど、振り仰いで見える海面は、この世で一番美しい光の網目をきらめかせている。海から上がれば、もう元には戻れない。暗い青の中には素晴らしくて残酷な、温かくて冷たい世界が広がっていると知ってしまった。
 ルシア・ベルリンの新作がもう読めないことがとても哀しい。

 
●5月某日 『ダメじゃないんじゃないんじゃない』はらだ有彩

 同居人氏の誕生日に、電車に乗ってK駅まで行った。ケーキを買うためである。なかなか有名なパティシエが経営する店があって、移転前のS駅にあった頃からファンだった。
 新型コロナウイルスが流行ってからというもの、私も同居人氏も引きこもりがちで、あまり気分転換ができていない。散歩もせいぜい20分から30分歩いて、近くの大きな公園に出かけるか、品揃え豊富なコンビニやパン屋に行くくらいだ。物書き業というスーパー在宅仕事ぶりがここに極まっている。
 ともあれ、せっかく誕生日だし、たまには電車に乗って外出したいし、美味しいものも食べたい。それに目当ての店では5月いっぱいまで抹茶フェアをやっていて、抹茶好きの同居人氏にはぴったりのタイミングだった。到着し、空いている店内をぐるりとまわって、パンをいくつかと抹茶のスイーツをあれこれと買う。抹茶のロールケーキ、抹茶のシュークリーム、抹茶の和風ミニパフェ、テレビの企画で創作した抹茶の不思議なスイーツ。個数はせっかくだからと、ひとり3個食べられるようにした。
 加えてお寿司もとって、御祝いの支度を調える。ふたりとも普段はお酒を飲まないから、ひたすら食べるだけだ。プレゼントはなし。夕飯はオムライスを作った。
 こんな感じで同居人氏の誕生日を祝ったわけだが、実のところ私はこういう記念日的なものをすぐに忘れてしまう。今回の誕生日もまた直前まで忘れていたし、なんなら日付を間違えそうになった。どうしても25日だと思っちゃうんですよ。違うんですけど。理由は、同居人氏から「5」のオーラが出ているから……何を言っているんだ。いや本当に、「5」っぽい雰囲気をしているんですよ。毛穴から「5」が溢れ出ている。主張している。
 ちなみに私は「6」が出ています。誕生日が「6」日だし、一番好きな数字も「6」だから。冗談です。いや、「6」が好きなのは本当だけど。どうでもいいですね、はい。
 最近はもう言われなくなったと思うけれど(そうだよね?)、ちょっと前まで「女性は記念日を覚えていて、男性は忘れる」みたいな言説がまことしやかに流れていた。そんなもの大嘘である。現に私(女)は全然覚えられないが、同居人氏(男)はめちゃくちゃ細かいものまで覚えている。
 記念日を覚えているかどうかなんて完全に人による。あとは人付き合いの問題です。自分は記念日についてどう考えているか、相手はどうなのか、御祝いしたいのかしたくないのか、覚えていてほしいのか忘れていても構わないのか、そんなのはもう当人同士で話し合えばいい。ましてや性別によってどうこうみたいな考えは論外、そんな言説は100%似非(えせ)科学である。こういう何の根拠もない、「それっぽい」という思い込みだけで出来上がった言説は、全部ゴミ箱に捨てていきたいものだ。
 そういえば今ハマっている例の漫画は、「女の敵は女」みたいなよくある偏見や嫌な感じが一切なくて、むしろ女のキャラクター同士がごく自然に親しいのが嬉しかった。公式ファンブックでも「一緒に旅行に行ったりする」と書いてあって拝んだね。(そんなことで? って感じだけど、マジでね、女性キャラ同士がギスギスしてる作品ってめっちゃ多いのよ……んなことねえよ現実はよ……早く女性キャラ同士が仲良いのが普通な世界になってほしいわ)
 そんな話を落語の枕みたいにして、さて読書の話。

 はらだ有彩『ダメじゃないんじゃないんじゃない』(KADOKAWA)を読み終わった。
これよりも前に、はらだ有彩さんは『日本のヤバい女の子(覚醒編)』『日本のヤバい女の子(抵抗編)』を出版され、日本の〝昔話〟に登場する〝ヤバい〟女の子に貼り付けられたレッテルを、フェミニズムの観点から丁寧に剥(は)がしていく内容が大変評判になった。そんなあらゆる世代に波及する本を出された著者の最新単行本が『ダメじゃないんじゃないんじゃない』である。
 女はこうあるべきとか男はこれをしちゃいけないとかいう性別による思い込みやすり込まれた呪い、ベビーカーが迷惑がられる現状や産休・育休の取りづらさ、怒ること、悪口の内容、芸術表現、家族、どんな人生を歩むか……「ダメ」というキーワードを元に、差別や社会問題、ふとした時に表出する偏見や生きづらさについてなどなど、幅広い範囲を書いている。著者が紡(つむ)ぐ言葉はどこまでも深く考え込まれたもので、ああーめっちゃわかると共感したり、そうか!!とハッとさせられたり、とにかく脳みそを刺激された。
 特に「男の子がコスメと生きるのはダメじゃないんじゃない」における映画『エル・トポ』の下りは、すごくユーレカだった。なぜ男が口紅を塗ると「おかしい」ことになってしまうのか? それは根本にこういう考え方があるのではないか……その解きほぐし方が非常に具体的かつ細やかで、私の頭の中でぼんやりしていた感覚がはっきりとした言葉になって立ち上がってきた。なるほど、言語化って本当にすごいことだ。
 それからこれは本筋から少し外れてしまうが、お会計をどちらに置くか問題については、私もほんのり高級な懐石料理店で働いていたこともあって、色々思い出した。一時期Twitterなどで話題になった、旅館や料亭でお櫃(ひつ)のしゃもじを女性側に向ける問題もそうだけど、正直なところ、もし店側が性別や上座・下座の位置だけで判断しているとしたら、良くない。性別で役割を決めつけてしまうダメさはもちろん言うまでもなく、上座と下座を間違えて座る人も多いし、上座にいるからといって下座の人が支払うとも限らないのだ。実際、以前重版めでたい記念で同居人氏と手伝いをやってくれている釣り人C氏と私の三人で、銀座の高級店に行ったことがあるのだが、私は上座に座りつつ会計は全部私が支払った。そういう場合もある。ちなみにそのお店では、支払い用の金額を記した紙を持ってくる際にアイコンタクトをしてくれたので、張り切って私が挙手、無事に私のところに持ってきてもらえた。伝票を誰に渡すか問題における店側の正解は、とにかくお客様のことをよく観察する!に尽きる。「女だから」「男だから」みたいな思い込み、あるいはそういう偏見に基づいたマニュアルがあるとしたら、消していきましょう。
 閑話休題。
 本書は他にも、もやっとするばかりでうまく言語化できなかった事柄や、これはどれが正解なのかなあと悩んでいたポイントにうまく切り込み、明快かつ理論的な方法で解きほぐしていく。はらだ有彩のファンはもとより、どうしてこれが問題になるのか、社会問題や偏見をどう考えていけば良いのかわからない人にもお勧めである。


■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)、『スタッフロール』(文藝春秋)などがある。

オーブランの少女 (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2016-03-22


戦場のコックたち (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2019-08-09