完璧な計画と戦う自由への意志の悲劇性
渡邊利道 Toshimichi WATANABE
本書は、アメリカの作家アイザック・アシモフの《銀河帝国の興亡》初期三部作の完結編Second Foundation(1953)の新訳である。第一部「ミュールによる探索」は、雑誌〈アスタウンディング・サイエンス・フィクション〉一九四八年一月号に、"Now You See It..."(今度はわかったな――)のタイトルで、第二部「ファウンデーションによる探索」は、同誌四九年十一月、十二月号、一九五〇年一月号に "...And Now You Don't"(――しかもわかっていなくもある)のタイトルで掲載されたもの。単行本にまとめられた経緯は第一巻『風雲編』の牧眞司による解説に詳しい。
一九四〇年代のアメリカSFは「黄金時代」と言われていて(雑誌掲載のそれらの作品の多くは五〇年代に単行本化された)、《銀河帝国の興亡》初期三部作もその時代を代表する作品の一つ。アシモフはこのシリーズで、R・A・ハインライン、アーサー・C・クラークと並んでビッグ・スリーと呼ばれる有名作家となった。近年も人気は衰えず、配信サービスAppleTV+でドラマ化されたりしている(詳しくは第二巻『怒濤編』の堺三保による解説を参照のこと)。
今回解説を書くにあたって厚木淳訳の旧版から読み直してみたのだが、なるほど古典的名作と呼ぶに相応しく、物語の中で描かれる野蛮な帝国幻想や偏った功利主義や権威主義で科学技術が簡単に失われてしまうことは現在の政治状況を彷彿させるし、また統計力学的な方法で未来を予測する心理歴史学が、近年の計算機科学の応用技術の発展やその心理学との強い結びつきを連想させる。もちろん、いかにも一九四〇年代のアメリカという時代性を感じさせられる部分も多々あるのだが、いまでもじゅうぶんアクチュアルな作品である。
心理歴史学者ハリ・セルダンが銀河帝国の崩壊を予見し、暗黒時代を少しでも短くするために二つのファウンデーションを設立。忘れられた科学技術で野蛮化した帝国を圧倒した第一ファウンデーションは、セルダン計画では予定されていなかった、他者の精神を操ることができる突然変異体ミュールによって撃破される。しかし、謎に包まれた第二ファウンデーションの存在に脅威を感じたミュールは、銀河全域の制圧を前にしてまず第二ファウンデーションの打倒を誓う、というのが前巻までの物語。
アシモフは本作を構想するにあたって十八世紀の歴史家エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参考にしたという。ギボンがローマ帝国が衰退した主要な原因として挙げていたのは、ゴートなどの野蛮な異民族の侵入と、ヘブライから現れて帝国を席捲し遂に国教となるキリスト教の影響だったが、アシモフは帝国の外部を設定していない。単に長く続いて空疎な権威主義と政治腐敗が横行、技術革新などの進取の気質が失われて野蛮化するとし、宗教については第一巻で原子力技術を祭儀化して宗教権力で野蛮な辺境国家を制圧する道具に使っただけで、視野の外かと思えば、後述するように帝国を再興させるほうの第二ファウンデーションにむしろ宗教的な佇まいがある。
アシモフが、銀河帝国を異星人のいない地球出自の人類だけの世界にしたのは人種問題を小説に組み込まないためだったらしいが、おそらくその方針のために使われる言語がどの地域でも一緒というちょっと異様な世界になっている。
一般に「帝国」という政体には、古代や中世の世界帝国と近代以降の帝国主義国家の二つがあるが、アシモフの銀河帝国がどういうものであるのかは率直に言ってよくわからない。というか、あきらかに古代や中世を想起させる貴族制だったり執筆当時のアメリカと同じような市民社会だったり地域によってバラバラで、ほぼ雰囲気だけの「帝国」に見えるのも、このような外部のない世界観のためだろう。
また、栄華を誇った帝国が衰退し長い暗黒期が訪れ、復興して第二銀河帝国ができる、という設定には、古代ギリシャ・ローマの栄光が失われた後、長い中世の暗黒期を経て、ルネサンス(再生)から革命の世紀へ、という近代的な歴史観が反映していると思われる。
近年では、中世はべつに平坦な暗黒期などではなく、そこには独自の文化的価値があるという見方が有力だが、第二次世界大戦を経て覇権国家としてまさに帝国化していく一九四〇年代のアメリカでは、まだ歴史はずっと単純に理解されていたのがわかる。
宗教に関していえば、ロシア生まれのユダヤ人という出自にもかかわらず、アメリカで物心つき、ユダヤ教の信仰をはじめとする伝統にほとんど無縁で成長したというアシモフ自身の経歴が、いくらかは反映されているのかもしれない。
訳題は「興亡」となっているが、シリーズ全体を見渡しても、基本的に銀河帝国は衰亡していくだけで、第二銀河帝国はその片鱗も現れてこない(ファウンデーションがそのまま第二銀河帝国になるという道筋も考えられなくはないが、年代順でシリーズ最後のパートである『ファウンデーションの彼方へ』『ファウンデーションと地球』の二部作になるとその見通しはかなり怪しくなってしまう)。
実際のところアシモフはあまり物語の先を考えないで書いていたらしく、たとえばセルダン計画を止めるミュールも担当編集者の発案で登場させたらしい。詳しくは後述するが、おそらくそのために年代記風の叙述はミュールが登場したことでほぼ途切れてしまい、この三巻『回天編』では、物語は第二ファウンデーションを探すミュール及び第一ファウンデーションと、その裏をかく第二ファウンデーションの謀略の鬩(せめ)ぎ合いという広義のミステリ的な展開に終始する。どちらも結末はかなり無理があるどんでん返しなのだが、丁寧なロジックの積み重ねで読者を丸め込んでしまうストーリーテリングの妙は見事なものだ。
SF的なアイディアとしては、ミュールや第二ファウンデーションが有する、他人の感情を探知・支配できる能力を、本作第二部の登場人物ダレル博士とその仲間たちが脳波を分析して察知しようとする部分が面白い。
ダレル博士たちは、第一ファウンデーションが物理科学中心の世界観に囚われていて、心理学や社会学などの精神科学を軽んじているために、心理歴史学者たちで構成されるはずの第二ファウンデーションに勝てないと分析し、脳波を機械で測定して精神感応能力を理解しようとする。
アシモフは、当時の本格的とされるSFが自然科学と工学技術を偏重しすぎていて、これからのSFは心理学や社会学などの社会科学をもっと追求しなくてはならないという作家としての問題意識を持っていたのだろうが、いうまでもなくそれは、心理や社会を自然科学的な対象としてみるということであり、物理主義の拡張に他ならない。
ダレル博士の研究は、機械によって人間の感情をコントロールできるまであと一歩のところまで来ているのだが、この『回天編』ではその可能性については追及されず、アシモフは八〇年代以降に再開した後期シリーズでこの問題を再検討することになる。
もっとも、人間を操作するということで言えば、そもそもセルダン計画がそういうものである。
人間集団の行動を数学的に処理して予測する心理歴史学というアイディアは、厳然とした法則性が強調されるので何か決定論的な予測であるように思えるが、実際のところ、その集団行動の法則をその集団のメンバーが知ってしまうとかえって外れてしまう、というアポリアを抱えている。
そのため、一般に科学理論というものはその内容が公開され広く議論されることが前提になっているが、心理歴史学はその性質上セルダン計画を十全に実現するにはその内容を隠蔽しなくてはならないので、きわめて秘教的な性質を帯びている。
さらにミュールが登場し、さまざまな偶然的ファクターで計画が危うくなると、それを修正するために隠された心理歴史学者の集団である第二ファウンデーションの出番となるのだが、そのありようはまさに世界を陰から操る秘密結社そのものである。
第二ファウンデーションの主席は「第一発言者」と呼ばれているが、旧版の《銀河帝国の興亡》の訳者である厚木淳によると、これにはアリストテレスの「第一動者」という森羅万象の原因としての神の概念が込められているということで(それが第一発言者の正体を示唆する伏線にもなっている)、ユダヤ・キリスト教的な神ではないにせよ、そうした宗教的権威が象徴的にはめ込まれているのも、その秘教的性質を強調しているようだ。
第一ファウンデーションは、セルダンの予言を信じて行動し、第一巻の解説で引用された笠井潔の言葉を借りれば、個々の主体性によって計画を肉化していく。それは自分の行為が、どういう結果をもたらすのか無知であるがゆえ、実存的な賭けという部分をかならず含んでいて、それゆえロマンティックな行為となる。それらの人物たちが魅力的であればあるほど、彼らの意思とは無関係に実現していくセルダン計画の完全性とのコントラストが鮮やかに物語を彩るわけである。
しかし、第二ファウンデーションは、むしろ計画にまつわる知を囲い込んで、陰謀論的な方法で世界を操作する。しかもそれは計画を完遂するために多少の犠牲はやむを得ないというかなり残酷なやり方として描かれており、到底ロマンティックとは思えないありようだというべきだろう。稲葉振一郎が『銀河帝国は必要か? ロボットと人類の未来』(ちくまプリマー新書)という著作で、初期三部作について「ディストピア小説」という評言を与えているのも理解できなくはない。
それゆえ、第三部において読者が感情移入するだろう「主役」側の人間はミュールであったりダレル博士とその愛娘アーケイディアであって、第二ファウンデーションはほとんど謎に包まれた存在に留まる。ミュールも第一ファウンデーションも、みずからが敗れたことを自覚しないまま物語から退場し、その何とも言えない後味の悪いアイロニーは、謎解きの快感の明快さと衝突して物語に複雑な余韻を残す。
現在、世界は計算機科学の応用によるさまざまな「計画」が花盛りで、SF的想像力で未来をデザインする思考も企業などに歓迎されている。また同時に、反ワクチン運動など世界を陰謀論的な枠組みで理解するのも大流行だ。もちろん《銀河帝国の興亡》は、基本的にはロマンティックなエンターテインメント小説であり、その大掛かりな陰謀の謎解きをワクワクしながら推理しあるいは驚き、登場人物たちの運命に一抹の悲哀を感じるのが読み方としては本筋だろう。
しかし、ここで展開される人間にとって最良であると科学的に算出した計画を堅持貫徹しようとする人間たちのエリート主義的な意志と、誰かに操作されることを嫌い、そのことであるいは酷いことになろうとも自由を求める愚かでアナーキーなものたちの戦いから、知識と権力の危うい関係について学べることは多いに違いない。
二〇二二年四月
一九四〇年代のアメリカSFは「黄金時代」と言われていて(雑誌掲載のそれらの作品の多くは五〇年代に単行本化された)、《銀河帝国の興亡》初期三部作もその時代を代表する作品の一つ。アシモフはこのシリーズで、R・A・ハインライン、アーサー・C・クラークと並んでビッグ・スリーと呼ばれる有名作家となった。近年も人気は衰えず、配信サービスAppleTV+でドラマ化されたりしている(詳しくは第二巻『怒濤編』の堺三保による解説を参照のこと)。
今回解説を書くにあたって厚木淳訳の旧版から読み直してみたのだが、なるほど古典的名作と呼ぶに相応しく、物語の中で描かれる野蛮な帝国幻想や偏った功利主義や権威主義で科学技術が簡単に失われてしまうことは現在の政治状況を彷彿させるし、また統計力学的な方法で未来を予測する心理歴史学が、近年の計算機科学の応用技術の発展やその心理学との強い結びつきを連想させる。もちろん、いかにも一九四〇年代のアメリカという時代性を感じさせられる部分も多々あるのだが、いまでもじゅうぶんアクチュアルな作品である。
心理歴史学者ハリ・セルダンが銀河帝国の崩壊を予見し、暗黒時代を少しでも短くするために二つのファウンデーションを設立。忘れられた科学技術で野蛮化した帝国を圧倒した第一ファウンデーションは、セルダン計画では予定されていなかった、他者の精神を操ることができる突然変異体ミュールによって撃破される。しかし、謎に包まれた第二ファウンデーションの存在に脅威を感じたミュールは、銀河全域の制圧を前にしてまず第二ファウンデーションの打倒を誓う、というのが前巻までの物語。
アシモフは本作を構想するにあたって十八世紀の歴史家エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参考にしたという。ギボンがローマ帝国が衰退した主要な原因として挙げていたのは、ゴートなどの野蛮な異民族の侵入と、ヘブライから現れて帝国を席捲し遂に国教となるキリスト教の影響だったが、アシモフは帝国の外部を設定していない。単に長く続いて空疎な権威主義と政治腐敗が横行、技術革新などの進取の気質が失われて野蛮化するとし、宗教については第一巻で原子力技術を祭儀化して宗教権力で野蛮な辺境国家を制圧する道具に使っただけで、視野の外かと思えば、後述するように帝国を再興させるほうの第二ファウンデーションにむしろ宗教的な佇まいがある。
アシモフが、銀河帝国を異星人のいない地球出自の人類だけの世界にしたのは人種問題を小説に組み込まないためだったらしいが、おそらくその方針のために使われる言語がどの地域でも一緒というちょっと異様な世界になっている。
一般に「帝国」という政体には、古代や中世の世界帝国と近代以降の帝国主義国家の二つがあるが、アシモフの銀河帝国がどういうものであるのかは率直に言ってよくわからない。というか、あきらかに古代や中世を想起させる貴族制だったり執筆当時のアメリカと同じような市民社会だったり地域によってバラバラで、ほぼ雰囲気だけの「帝国」に見えるのも、このような外部のない世界観のためだろう。
また、栄華を誇った帝国が衰退し長い暗黒期が訪れ、復興して第二銀河帝国ができる、という設定には、古代ギリシャ・ローマの栄光が失われた後、長い中世の暗黒期を経て、ルネサンス(再生)から革命の世紀へ、という近代的な歴史観が反映していると思われる。
近年では、中世はべつに平坦な暗黒期などではなく、そこには独自の文化的価値があるという見方が有力だが、第二次世界大戦を経て覇権国家としてまさに帝国化していく一九四〇年代のアメリカでは、まだ歴史はずっと単純に理解されていたのがわかる。
宗教に関していえば、ロシア生まれのユダヤ人という出自にもかかわらず、アメリカで物心つき、ユダヤ教の信仰をはじめとする伝統にほとんど無縁で成長したというアシモフ自身の経歴が、いくらかは反映されているのかもしれない。
訳題は「興亡」となっているが、シリーズ全体を見渡しても、基本的に銀河帝国は衰亡していくだけで、第二銀河帝国はその片鱗も現れてこない(ファウンデーションがそのまま第二銀河帝国になるという道筋も考えられなくはないが、年代順でシリーズ最後のパートである『ファウンデーションの彼方へ』『ファウンデーションと地球』の二部作になるとその見通しはかなり怪しくなってしまう)。
実際のところアシモフはあまり物語の先を考えないで書いていたらしく、たとえばセルダン計画を止めるミュールも担当編集者の発案で登場させたらしい。詳しくは後述するが、おそらくそのために年代記風の叙述はミュールが登場したことでほぼ途切れてしまい、この三巻『回天編』では、物語は第二ファウンデーションを探すミュール及び第一ファウンデーションと、その裏をかく第二ファウンデーションの謀略の鬩(せめ)ぎ合いという広義のミステリ的な展開に終始する。どちらも結末はかなり無理があるどんでん返しなのだが、丁寧なロジックの積み重ねで読者を丸め込んでしまうストーリーテリングの妙は見事なものだ。
SF的なアイディアとしては、ミュールや第二ファウンデーションが有する、他人の感情を探知・支配できる能力を、本作第二部の登場人物ダレル博士とその仲間たちが脳波を分析して察知しようとする部分が面白い。
ダレル博士たちは、第一ファウンデーションが物理科学中心の世界観に囚われていて、心理学や社会学などの精神科学を軽んじているために、心理歴史学者たちで構成されるはずの第二ファウンデーションに勝てないと分析し、脳波を機械で測定して精神感応能力を理解しようとする。
アシモフは、当時の本格的とされるSFが自然科学と工学技術を偏重しすぎていて、これからのSFは心理学や社会学などの社会科学をもっと追求しなくてはならないという作家としての問題意識を持っていたのだろうが、いうまでもなくそれは、心理や社会を自然科学的な対象としてみるということであり、物理主義の拡張に他ならない。
ダレル博士の研究は、機械によって人間の感情をコントロールできるまであと一歩のところまで来ているのだが、この『回天編』ではその可能性については追及されず、アシモフは八〇年代以降に再開した後期シリーズでこの問題を再検討することになる。
もっとも、人間を操作するということで言えば、そもそもセルダン計画がそういうものである。
人間集団の行動を数学的に処理して予測する心理歴史学というアイディアは、厳然とした法則性が強調されるので何か決定論的な予測であるように思えるが、実際のところ、その集団行動の法則をその集団のメンバーが知ってしまうとかえって外れてしまう、というアポリアを抱えている。
そのため、一般に科学理論というものはその内容が公開され広く議論されることが前提になっているが、心理歴史学はその性質上セルダン計画を十全に実現するにはその内容を隠蔽しなくてはならないので、きわめて秘教的な性質を帯びている。
さらにミュールが登場し、さまざまな偶然的ファクターで計画が危うくなると、それを修正するために隠された心理歴史学者の集団である第二ファウンデーションの出番となるのだが、そのありようはまさに世界を陰から操る秘密結社そのものである。
第二ファウンデーションの主席は「第一発言者」と呼ばれているが、旧版の《銀河帝国の興亡》の訳者である厚木淳によると、これにはアリストテレスの「第一動者」という森羅万象の原因としての神の概念が込められているということで(それが第一発言者の正体を示唆する伏線にもなっている)、ユダヤ・キリスト教的な神ではないにせよ、そうした宗教的権威が象徴的にはめ込まれているのも、その秘教的性質を強調しているようだ。
第一ファウンデーションは、セルダンの予言を信じて行動し、第一巻の解説で引用された笠井潔の言葉を借りれば、個々の主体性によって計画を肉化していく。それは自分の行為が、どういう結果をもたらすのか無知であるがゆえ、実存的な賭けという部分をかならず含んでいて、それゆえロマンティックな行為となる。それらの人物たちが魅力的であればあるほど、彼らの意思とは無関係に実現していくセルダン計画の完全性とのコントラストが鮮やかに物語を彩るわけである。
しかし、第二ファウンデーションは、むしろ計画にまつわる知を囲い込んで、陰謀論的な方法で世界を操作する。しかもそれは計画を完遂するために多少の犠牲はやむを得ないというかなり残酷なやり方として描かれており、到底ロマンティックとは思えないありようだというべきだろう。稲葉振一郎が『銀河帝国は必要か? ロボットと人類の未来』(ちくまプリマー新書)という著作で、初期三部作について「ディストピア小説」という評言を与えているのも理解できなくはない。
それゆえ、第三部において読者が感情移入するだろう「主役」側の人間はミュールであったりダレル博士とその愛娘アーケイディアであって、第二ファウンデーションはほとんど謎に包まれた存在に留まる。ミュールも第一ファウンデーションも、みずからが敗れたことを自覚しないまま物語から退場し、その何とも言えない後味の悪いアイロニーは、謎解きの快感の明快さと衝突して物語に複雑な余韻を残す。
現在、世界は計算機科学の応用によるさまざまな「計画」が花盛りで、SF的想像力で未来をデザインする思考も企業などに歓迎されている。また同時に、反ワクチン運動など世界を陰謀論的な枠組みで理解するのも大流行だ。もちろん《銀河帝国の興亡》は、基本的にはロマンティックなエンターテインメント小説であり、その大掛かりな陰謀の謎解きをワクワクしながら推理しあるいは驚き、登場人物たちの運命に一抹の悲哀を感じるのが読み方としては本筋だろう。
しかし、ここで展開される人間にとって最良であると科学的に算出した計画を堅持貫徹しようとする人間たちのエリート主義的な意志と、誰かに操作されることを嫌い、そのことであるいは酷いことになろうとも自由を求める愚かでアナーキーなものたちの戦いから、知識と権力の危うい関係について学べることは多いに違いない。
二〇二二年四月
【編集部付記:本稿は『銀河帝国の興亡3 回天編』(創元SF文庫)解説の転載です。】
■渡邊利道(わたなべ・としみち)
作家・評論家。1969年生まれ。文庫解説や書評を多数執筆。2011年「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」が第7回日本SF評論賞優秀賞を、12年「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。