はてしない海からたえず潮がそそぎこむ広大な館。無数の広間が連なり、古代めいた像が林立するその不思議な場所で、僕は十三人の死者の骨と暮らしている。この世界に生きた人間はたったふたり。僕自身と、週に二度訪れる「もうひとり」と呼んでいる男だけだ。幻の「十六人目」が現れることを夢見る僕だったが、いつしか、館だけで完結していた世界に奇妙なゆらぎが生じはじめる――
 英国の作家スザンナ・クラークが二〇二〇年に発表した長篇ファンタジー、PIRANESIの全訳をお届けする。
 この著者の名にぴんときた方は、かなりのファンタジー通ではないだろうか。『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』(中村浩美訳/ヴィレッジブックス、全三巻/二〇〇八年)という書名のほうなら聞き覚えがあるかもしれない。二〇〇四年に出版されるや一躍世界的なベストセラーとなった一大長篇で、魔術と史実の入り交じる十九世紀初頭の英国を舞台にした歴史改変ファンタジーである。新人の長篇デビュー作でありながら、世界幻想文学大賞、ヒューゴー賞、ミソピーイク賞、ローカス新人賞など数々の賞をさらい、当然のことながら次作には大きな期待が寄せられた。ところが、その後はほとんど作品が発表されていない。出版されたのは二〇〇六年の短篇集The Ladies of Grace Adieu and Other Storiesぐらいのものだ。つまり、この作品は短篇を含めてもひさびさの新作であり、長篇としてはなんと十六年ぶりの第二作ということになる。そのあたりの事情も含め、作者について簡単に紹介しておこう。
 スザンナ・クラークは一九五九年英国にメソジスト派の牧師の娘として生まれ、北イングランドやスコットランドを転々とした。そのせいかいつも周囲から少し浮いていて、本やテレビで養われた想像の世界にこもりがちな少女だったという。オックスフォード大学に進み、ジャーナリストをめざして哲学・政治・経済(PPE)を専攻したが、本当に興味があったのは物語と人間で、自分はむしろ歴史を学ぶべきだった、とふりかえっている。卒業後は出版関係の職についたものの、社会生活が小さくなっていると考え、一九九〇年から二年ほどイタリアとスペインで暮らし英語教師として働いた。その結果、本当にしたいのは部屋にこもって書くことだと自覚したというから、やはり生まれついての物書きなのだろう。帰国したのち、ふたたび編集の仕事をしながら十年以上かけて『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』を書きあげた。もともと腰をすえて執筆するたちなのだろうが、それ以降著作が途切れたのには理由があり、本人が体調を崩してしまったのである。友人宅で倒れてから、一時はベッドから出られないほどの倦怠感や鬱症状が続き、最終的に慢性疲労症候群と診断を受けた。本来はデビュー長篇のあとには続篇を書こうとしていたが、体調不良のため大量の資料を調べたり、長く複雑な物語を組み立てたりすることに限界を感じ、昔からあたためていた別の話に取り組むことにした。それが『ピラネージ』である(なお、この名はローマの古代遺跡を描いた版画で知られる十八世紀イタリアの版画家・建築家、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージからきている)。
 物語の原型は、クラークが二十代のときに生まれた。きっかけとなったのはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスで、その作品を扱った講義を受けたあと、潮の流れ込む巨大な館にふたりの人物が暮らしており、一方が館を探索し、もう一方にその情報を提供する、というアイディアが浮かんだという。幻想的な短篇で有名なボルヘスは、しばしば〝無限〟や〝迷宮〟といったモチーフを用いており、『ピラネージ』に大きな影響を与えた。作中に出てくるミノタウロスの像は、ギリシャ神話に基づく短篇「アステリオーンの家」から連想されたものだ。
 もうひとつ重要な下地となっているのが、C・S・ルイスの〈ナルニア国ものがたり〉である。感受性の強い時期に出会ったルイスの作品は、ある意味でクラークの頭の中をまとめるような影響を及ぼしたという。本書の冒頭で『魔術師のおい』が引用されているが、ディゴリーとポリーが迷い込んだチャーンの都の光景は、無数の像が立ち並ぶ館と重なり合う。また、慈しみに満ちたファウヌスの像は、『ライオンと魔女』のタムナスへのオマージュにほかならない。
 史実や伝承を丹念に調べて織りあげた大作『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』と比べて、この作品ははるかに短い。しかし、それがかえって展開の妙を際立たせ、異世界とはなにか、なぜ人は現実とは異なる場所へ行くことを求めるのか、というファンタジーの根源にかかわる問いをまっすぐに投げかけてくる。作者と同じく、子ども時代に「衣装だんす」の奥を探った記憶のある方は、ぜひ手にとってみてほしい。なお、本作はコスタ賞、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞にそろってノミネートされ、英国で女性小説賞を受賞している。


■原島文世(はらしま・ふみよ)
群馬県生まれ。英米文学翻訳家。主な訳書にダイアナ・ウィン・ジョーンズ『牢の中の貴婦人』『バビロンまでは何マイル?』、パトリシア・A・マキリップ『オドの魔法学校』『茨文字の魔法』、ショーニン・マグワイア『不思議の国の少女たち』、チャーリー・N・ホームバーグ『紙の魔術師』などがある。