第13回創元SF短編賞の公募は2021年1月13日に開始しました。2022年1月11日の締切までに496編の応募があり、編集部4名で分担する第一次選考で2月28日に62編を選出したのち、編集部4名による合議の第二次選考で3月25日に次の5編を最終候補作と決定いたしました。
植田 良樹(うえだ よしき)「終の住処」
河野 咲子(かわの さきこ)「海底劇場にて」
笹原 千波(ささはら ちなみ)「風になるにはまだ」
猿場 つかさ(さるば つかさ)「骨巣の春鳥は覚えている」(「散骨のダウンローダー」より改題)
長谷川 京(はせがわ けい)「虚ろなる征服者の改鋳」(「パンデモニウム・ダラー」より改題)
河野 咲子(かわの さきこ)「海底劇場にて」
笹原 千波(ささはら ちなみ)「風になるにはまだ」
猿場 つかさ(さるば つかさ)「骨巣の春鳥は覚えている」(「散骨のダウンローダー」より改題)
長谷川 京(はせがわ けい)「虚ろなる征服者の改鋳」(「パンデモニウム・ダラー」より改題)
この段階で通過者に感想と指摘を伝え、約2週間の期間で一度改稿していただきました。編集部の総意として、細部の指摘はせず、大きく気になった点を順に伝えました。
最終選考会は、山田正紀、酉島伝法、小浜徹也の三選考委員により4月26日、オンライン会議で行い、受賞作を次のとおり決定いたしました。
最終選考会は、山田正紀、酉島伝法、小浜徹也の三選考委員により4月26日、オンライン会議で行い、受賞作を次のとおり決定いたしました。
受賞作 笹原千波「風になるにはまだ」
選評 山田 正紀
今回、最終選考に残った作品を読ませていただき、まず最初の印象は、これからSFは徐々に変わっていくにちがいない、というものだった。
私がそんなことを思ったのは、読ませていただいた五本の作品のうち、一作を除いて、残り四作がすべてアイディアを重視しない――アイディアによりかからない――作品であったからなのだ。
確かに、どの作品も、SFとしてのアイディアはあるにはあるが、必ずしもそれにのっとって話が展開されているのではなかった。そうではなしに、そのアイディアをいわば枠組みのようにし、そのうえで展開される人間ドラマ、感情の機微、あるいは感覚の繊細な移ろい、などに関心の中心が向けられていた。
舌たらずな表現を許していただければ、SFのミニマリスム化、とでも言えばいいかもしれない。
斬新な、あるいはハッタリめいた巨大なアイディアの創発に力を注ぐのではなく、むしろそれら装飾的な趣向を必要最低限に抑え、それとは別の、作者が本当に語りたいことを語るのに力を注ぎ込む……そうした姿勢が顕著に見られるように感じられた。
これはもちろん、一時期、一世を風靡したポスト構造主義の「大きな物語は死んだ」という説の実作における実践でもなければ、過去にニューウェーブが追い求めた「内宇宙」に分け入っていく抽象性、前衛性の実現でもない。もっとよりスムーズな、例えば、喉が渇いたから水を飲む、といったふうに、きわめてナチュラルなSFの流れであるように感じられた。
この傾向が、SFが本来持っていた、子供の荒削りな想像力、原初の想像力、その奔放な驚き、無邪気な魅力のようなものを削いでしまうのではないか――という懸念をもたれる方も当然、いらっしゃることと思うが、その点については、さして心配する必要はないように思う。
なぜなら、ある分野において、一方の力が動けば、必ずや、それに反発するもう一方の力が動くのであるから、将来、この両者が、ある地点で拮抗することになるだろうからである。
将来、SFの行き着く先に、どんな風景が待ちかまえているのか、それを見届けたい、という思いは強いが、さて、私の年齢がどこまでそれを許してくれるかどうか。
猿場つかささんの「巣骨の春鳥は覚えている」から始めよう。
まずは、このタイトルに首をひねらされた。巣骨が「すぼね」なのか「そうこつ」なのかわからない、春鳥が「しゅんちょう」なのか「はるとり」なのかもわからない。これでは、この作品を人に語るとき、困ってしまうではないか。もちろん意識的に、難解なタイトルがつけられる作品がないでもないが、それはその内容がタイトルに即している場合が多いように思う。この作品は違う。――もっと即物的に、つまらないことから言ってしまえば、新人賞の作品タイトルに、こうした難解な題名をつけるのは、端的に損ではないだろうか。そのことだけで一次選考から落としてしまう下読み選者がいないとも限らないからである。これから先はできればお避けになったほうが賢明だと思う。
この作品は非常に魅力的なSFワールドに切り込んでいる。手垢のついた仮想現実をテーマに選び、これだけ新鮮で、精緻なイマジネーションを結晶させることができるのは、凡手ではない。そのことを踏まえた上で、この作品の最大の欠点を挙げさせてもらうのだが、これは残念ながら、まだ小説にはなっていない、かなり緻密に書き込まれてはいるが、それでもシノプシスの段階にとどまっていると言わざるをえない。長編のプロットを大急ぎで短編に仕上げた、という印象が強いのだ。もちろん長い長いタイムスパンを短編で語る、という手法もないではないが、それにはそれなりの独自の工夫、テクニックが要求される。残念ながら、この作品は、そのことについて、あまりに無自覚だったと思う。
河野咲子さんの「海底劇場にて」は、まさに冒頭で私が述べたようなミニマリスム傾向のお手本のような作品であろう。
人類が海の底に生息できるようになる……しかし、そのこと自体は、この作品においてはさして重要なことではない。その海の底にある劇場の、明日からは閉鎖される、という最終日の、その何ということのない日常が淡々と描かれる……このアイディア、それにあえてこうした作品で短編賞に挑もうという勇気には、大いに感心させられた。あまたいらっしゃる、優れたプロの書き手でも、こうした作品を過不足なしに仕上げるのは至難の業だろうからだ。
そして残念ながら、この作品も――案の定、というのは酷だろうか――失敗に終わっている。こうした作品のキモ、というか見どころは脇役・登場人物たちの性格とか、それまでの人生が透けてみえ、そうした人々の心の触れ合い、繊細な感情の機微を、いかに魅力的に浮かび上がらせることができるか否か、という一点にかかっているのだが……この作家はそうしたことについてため息をつきたくなるほどに鈍感だったように思う。
そういうわけで残念ながら、入選とするわけにはいかなかったが、この作者には、この作品、この路線に、執着してもらいたい、と思う。これは、いずれ愛すべき小品、佳品として、人に読書の喜びをもたらす、そんな可能性を持ったダイヤの原石であるからだ。捨てるのはあまりに勿体ない。
長谷川京さんの「虚ろなる征服者の改鋳」は、応募作品のうち、私が冒頭に記した「SFのミニマリスム化」に属さない、唯一の作品であった。華麗で、新鮮なアイディアがあり、それを核にして、魅力的な物語が展開される……面白いし、ワクワクさせられる。この作者は、これからプロ作家として羽ばたいていく、その最短距離にいる人なのかもしれない。ただし、それだけにどうしても採点が厳しくなるのはいたしかたのないところであろう。この人の最大の弱点はプロットの立て方が雑だということに尽きる。不自然で、ギクシャクした物語のつなぎ方が多すぎた。このアイディアは、大いに魅力的なのだから、できれば次回作は、このアイディアを核にして、もう少しプロットの立て方に留意していただければ、と思う。
植田良樹さんの「終の住処」もまたSFのミニマリスム化の延長線上にある作品といっていい。この作品は二つの大きな可能性を秘めている。一つは、お仕事小説の可能性であり、もう一つは、仮想現実に託してノスタルジーの現実化に挑む老人の夢と、それに対抗するかのように冷たくそびえたつ「仮想現実設計者」の語り手の徹底した現実主義との相克、その対立の面白さである。――残念ながら、この作品はその両方の魅力的な可能性を二つながら生かすことができなかった。どちらも萌芽のままに終わった。一つだけ言わせてもらえば、これだけの財を成し、成功した老人のノスタルジーの最終点が「子供時代のお祭り」にある、というのはあまりにお手軽で、安っぽすぎはしないか。それがあるために、もしかしたら「現実」が「ノスタルジー」に屈したかもしれない、というラストの趣向が、何の余韻も響かさない。とってつけたような味気のないものにならざるをえなかった。
さて、入選作、笹原千波さんの「風になるにはまだ」であるが、私にはこれは、すでにして「ミニマリスムSF」の完成形、と言っていいような作品であるように思えた。これまでにもファッションを扱ったSF作品はないではなかったが、衣服の生地の手ざわり、その裁断の優劣を、テーマの中心に据えた作品は皆無だったように思う。私は、その繊細な描写にほとんど陶然とさせられた。文句なしの入選作である。どうか読者の皆様にも、この作品のユニークさ、繊細さを存分に味わっていただきたいと思う。
選評 酉島 伝法
前回の最終候補作ではAIものが目立ったが、今回はメタバースや死をテーマにした作品が集まった。SFアイデアと小説としてのバランスの偏った作品が多く、最終選考は難航するのではないかと身構えていたが、始まってみればどの作品も選考委員の評価はほぼ変わらず、受賞作は満場一致で笹原千波「風になるにはまだ」に決まった。
笹原千波「風になるにはまだ」。仮想世界のデジタル移民に肉体感覚を貸すアルバイトをしている若い「あたし」が、元アパレルデザイナーでいまはデジタル移民となった楢山小春に依頼され、楢山の学生時代の集まりに参加する――という、SFとしては珍しくないシンプルな設定ながら、焦点を知覚に絞ってふたりの主観から交互に描くことで、インスタレーションとしても機能する新鮮な感覚の作品となっている。ともかく小説が群を抜いてうまく、読者自身が肉体を借りているかのように、衣装の色や形、テクスチャの手触り、食べ物のにおいや食感など、時にはふたりの間にずれや違和感を挟みつつ様々な知覚を鮮やかに体感させてくれる。楢山さんの「あたし」に対する丁寧な態度が、友人たちに会うなりくだけたやりとりに転じるあたりの自然さも素晴らしい。他にどういう作品が書けるのかが今から楽しみでならない。
長谷川京「虚ろなる征服者の改鋳」。四年に一度の間隔で暗号資産にもたらされる異邦の客からの神託。そこに含まれる未知の科学技術によって世界経済は発展している。シリコンバレーの人工肉会社のCEOだった語り手は、強引な行いから会社を追い出され、新たな神託が出た後に失踪した盟友の後を追って京都へ向かう。そこで知り合ったバイオハッカーと共に、神託から地球の生命とは異なる人工細胞を生み出すが、ようやく対面した盟友に、それは情報体である異邦の客が侵略のために作らせようとしている肉体だと告げられ、暗号資産に抑え込む秘策を巡らせる――スタニスワフ・レムの『天の声』と『正解するカド』を暗号資産で捏ね合わせたようなSF設定は、今回の候補作中で突出して面白かったが、文章やキャラクター造形や構成に難があり、受賞作と競うところまでは届かず残念だった。冒頭の転落ぶりはもっと劇的に描けたと思うし、語り手は29歳のCEOなのに内面やセリフがそれに見合っておらず、他の登場人物も類型的なのが気になった。途中で出てくる偽の死体など、展開のための展開だと透けて見えてしまうのも苦しい。そもそも最初に盟友ときちんと話していれば、後を追う大方の流れはなかったことになる。SFの発想力はかなりのものなので、今後に期待したい。
猿場つかさ「骨巣の春鳥は覚えている」。世界的アーティストの真希は、遺伝性のアルツハイマーから逃れるために仮想世界〈ウーネ〉に移住し、その親友で鳥のアバターをまとう春は生体係数の少ない者を葬る電葬士として働きだす。あるとき春は、新たな作品を生み出せなくなった真希に自らの完全な消去を頼まれるが、パトロンである富豪から真希を隔離する提案をもちかけられ、それに応じてしまう――ひとつの世界を描ききろうとする意欲が強く感じられて好感を持った。生体係数によってもたらされるデジタル死や電葬士などの主となる設定から、ほんの少し触れられる程度の、磁気を使った巨大アートや保育器に入ったまま精神をアップロードされている人工授精で生まれた子供の挿話(こちらをもっと読みたかった)までよく考えられており、SF設定では「虚ろなる征服者の改鋳」に次いで評価した。ただ、設定を詰め込みすぎて全体的に散漫になり、あちこちに細かな不協和が生じているのが文章の生硬さも相まって気になった。改稿前の原稿を見ると構成や要素が大きく異なり、短編としてよくまとまっているので、短期間での大胆な改稿で新たに盛り込んだ要素が継ぎ接ぎのままうまく馴染まなかったのかもしれない。長編向きの内容であり、そのプロットのようだという意見も出た。
植田良樹「終の住処」。海をみおろす邸宅を訪れた技術者が、主である裕福な老人に、かつて津波で消えた集落をAR環境で再現するよう依頼される。老人は寝たきりだが、遠隔ロボットにARで以前の自分の姿を重ねている。技術者が探し出したかつての住民は、厄介な子供がいたとしか覚えていないが、当時の画像を提供してくれる。集落のAR化が進むと、老人は子供の姿をまとって一方的な会話をするようになる。やがて延命措置が取りやめになることが判り、要望していた神社の秋祭りが再現されると、ロボットはそこへ向かおうとして外階段から落下し、動けなくなる。すると子供のアバターだけが離れて、夕暮れの神社に消えていく――丹念に展開が描かれており、面白く読んだ。一昔前のSFアンソロジーに収録されていても不思議はない水準だが、それが良さであり弱さでもある。こうあって欲しかった過去への妄執に、グロテスクさと切なさの両方が感じられるのは独特で良かったが、その根源に願望的なノスタルジー以外の奥行きがないのは物足りなかった。祭りがその対象なのも少々安易ではある。こちらの想像の及ばない過去を垣間見せて欲しかった。
河野咲子「海底劇場にて」。半世紀ほど前に作られて繁栄し、いまは衰退しつつある海底世界に、耳鳴りのせいで歌えなくなった声楽家が移り住み、耳鳴りが潮騒の音であったと知る。働いている野外劇場は最終公演が近づいており、声楽家を慕って近くの地上に住んでいた年下のいとこも外国へ去ることになり、ひとり白い砂に埋もれて静かに時が過ぎるのを待つ――幻想的な散文詩といった趣きで、ゆっくりと静かに海へ還っていくような雰囲気はいい。丸薬のみで水中生活の肉体を調整するあたりは、SFとしては道具立てが古く、幻想小説としては象徴性が弱い。劇場が舞台ということもあって、山尾悠子「夢の棲む街」を連想してしまうが、それだけに文章により一層の濃密さや独自性が欲しい。「みつご座」や「泡沫(シャボン)師」や「水話(サイン)」などは魅力的ながらほぼ名称が出るだけなので、もっと物語に有機的に絡んだところを読みたかった。
今回の最終候補作は、総じて骨組みを築く力は高かったものの、肉付けされた文章には生硬さが目立った。ひとつの作品を創り上げている、という意識でじっくり彫琢してほしい。内容では狭い人間関係の間だけで物語が閉じ、それ以外の広がりや奥行きが感じられないのも気になった。あとは昨年の小浜徹也さんの選評でタイトルへのアドバイスがあったが、今年も全体的にあまりよろしくなく、唯一感心したタイトルが受賞作となった。
選考会では、山田正紀さんの一作ごとの的確な分析に圧倒された。第一回創元SF短編賞のゲスト審査員は山田正紀さんで、その選評にはっとさせられ、第二回に応募しようとしていた自作を見直したことを思い出す。いまもなお有益だと思うので引用したい。
“これから新しいSFを書いていこうとする若い作家が、先人の開拓した耕地に鋤を下ろすのにのみ終始していいのか、という疑問である。最先端をめざすのなら、もっと先の前人未踏の地を耕すべきではないのか。どこか作品が予定調和的なものになってはいないか、前衛を装いながらその一点において保守的で臆病な作品になってはいないか”
まだ未熟ながら、第12回、第13回の選考委員を務めさせていただいた。応募いただいた皆様ありがとうございます、得難い体験でした。皆さんの作品といつか本の中で出会うことを楽しみにしています。
選評 小浜 徹也(東京創元社編集部)
最初にお断りしておきたい。昨年度の最終候補者全員が今年も応募してくださったが、残念ながらどの作品も最終候補とならなかった。あえて前回評価された持ち味や組み立て方を変えて挑んだのだと思うが、それらが自分のものとなるまでに至っていなかった。最終候補に残り受賞すれば、編集者も読者も受賞作に劣らない水準の小説をその後も期待する。もちろんこれはワンパターンの作品を推奨しているわけではないのでご留意を。
その最終候補は今回五作品。
河野咲子「海底劇場にて」は、身体を海棲用に変容させた人々が暮らす海底の街が舞台。とはいえ、移住の原因となった地上の災禍は乗り越えられ、いまや海底世界はさびれつつある。語り手は声に不具合をかかえて地上を去った元声楽家だ。彼女が勤める小さな劇場も閉鎖が決まり、その最後の一日が描かれる。幻想小説なので海底進出の模様や海棲適応の方法は理屈づけられていない。詩的な語り口は好ましく、また「地上と違って声がない」ために「水話(すいわ)」という手話で会話する様も美しい。その一方で、香水をつけ、髪を梳かし、身体についた砂を払うなど、地上と変わらない描写が頻出し、また各種製品も海中用に工夫されたものが持ちこまれているようだが、照明、調整室、本屋など現実世界の単語にでくわすたびに、どういうものなら成立するのだろうと考えこんでしまった。SFとしての詳細な設定が必要な種類の作品ではないとはいえ、どこまでどのように語るか/語らないかにはSFのセンスが求められる。
植田良樹「終の住処」は一種の「終活SF」。震災による津波に見舞われて二十年、復興した町の高台に、引退した老富豪が屋敷を建てた。老人はこの地に生まれ育ったが震災時は町を離れており被災してはいない。その彼から「震災前の町並みを、屋敷の窓に映るようARで再現してほしい」と依頼され、語り手である技術者はグーグルマップに残っていない過去の記録をさがすために手をつくす。過去の再現は、ある世代以上の読者には共感できる願望だし(ボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』を思わせる)、依頼人がアバターロボットに好きな立体像をまとわせるなど、暮らしにARが溶けこんだ演出も自然だ。ハードボイルド的な語りのなかで依頼人と付き添いの女性看護師との関係をほんのりと読者に伝えるところもうまい。子供時代の人間関係をたどるうち、老人の側の懐旧の情と裏腹に彼が友人知人に好かれていなかったことが分かるあたりが小説的な肝だと思うが、淡々とした語り口は別として、全体に起伏にとぼしく感じた。これについては山田さんの「老人の変人さ加減を際立たせられていない」という指摘に大いに頷かされた。また一種の「お仕事小説」でもあり、町並みを再現する手順をもっと描きこむことができればメリハリもついたのではないかと思う。
次の二作品はどちらもIT系のSF。そしてどちらもタイトルを憶えにくい。
猿場つかさ「骨巣の春鳥は覚えている」は、世界規模の仮想空間〈ウーネ〉が実用化された未来の八十年に及ぶ物語。多くの人間がアップロードして移り住み、〈ウーネ〉内で独立した経済活動が成立している。肉体のほうは現実世界で溶液の満たされたポッド内に残されているが、その個人の「生体係数」が劣化すると〈ウーネ〉内の情報体も寿命が尽きたと見なされ、排除される。「リソースの削減」と呼ばれるその仕事に従事する「電葬士」が語り手だ。作品世界は非常によく作りこまれているが、会話も含めて紙幅の大半が説明に費やされ、物語そのものの印象が薄まってしまったようだ。主要登場人物三名の人生や関係性の掘り下げも物足りなく感じた。そのうちの一人であり物語のテーマを背負うアーティストにとっての作品価値をめぐる考察や、記憶されることと忘却されることといった問題がもっと強調されてもよかったと思う。また二つの世界を往還できる立場の語り手が〈ウーネ〉の中で鳥になって飛ぶことを好み、現実世界でも鳥でいたいと望む結末は綺麗だが、この結末に収斂させる展開の絞り込みが甘くはないか。もっとも、この世界設定からはいくつもアイデアが切り出せるので、要素を限って〈ウーネ〉住人の人生に焦点を当てた作品を読みたいと思わせた。
長谷川京「虚ろなる征服者の改鋳」はサスペンスものとしても好感を持った。アイデアとしてもカール・セーガン『コンタクト』を連想させるが、人知を超えた謎の信号の送りこまれる先が、架空のNFTのコード中だというのが面白い。実在する暗号資産「ビットコイン」の開発者がいまもって謎の人物だということから着想したのだろうか。暗号解読の結果、新たな神が受肉する未来を確信する結末もカタルシスがあるが、これにつながるはずの語り手の専門性がうまく生かされていないように思う。また最新のITを扱う際に説明が平易になりにくいのは分かるが、そもそも「四年ごとにNFTのデータが改竄される」という設定がどういうことなのか飲みこみづらかった。展開面でも、失踪したヒロインを追うための手がかりの出し方や、彼女が自分の死体を偽装するやり方に得心がいかない。京都で出会うマッドサイエンティストもご都合的だし、なによりも語り手は人類を置き去りにしようと決意するほどなのに、その人物像の作りこみに欠けていないか。最後の舞台が鞍馬山になるのは、語り手の名とあいまって背景設定に納得したが、多少とってつけたようでもったいない。
なお以上の二作品とも、現状や経緯を独り語りするよりも、読者レベルに合わせた聞き手を用意したほうが説明の効率がよくなるはずなので、試していただければと思う。
さて、受賞作に選ばれた笹原千波「風になるにはまだ」は新井素子さんが登場したときを思い出させるような新鮮さがあり、物語の奥行きも群を抜いていた。タイトルもいちばんだった。
現実世界の肉体に問題の生じた人々が仮想世界に移り、情報体として暮らすようになった世界。情報体になったあとも、現実世界の人の身体を借りて一日だけ過ごさせてもらえる(ただしすごくお金がかかる)。借りた側は五官全部を共有でき、骨伝導を通じて希望する行動を伝えられる。もっとも体感を一致させるため、かつて持っていた肉体とサイズが合わないと利用できない。
貸し手は二十一歳の平凡な女性、借り手は十三年ぶりに現実世界に戻る四十二歳の女性。物語は二人交互に語られるが、中心となるのは貸した側で、すべりだしはとてもカジュアル。彼女は相手を「情報になって生きてるひと」とあっさり納得するし、身体を貸す理由も「アルバイトをさがしてた」。借りた側の理由も大学時代に同じ研究室にいた同期が集うパーティに参加するため。そして、いつでも仮想世界から自分の顔形を見せて現実世界と連絡できるという設定のもとで、巨額のお金を費やして生身の身体を選んだ彼女の物語が立ち上がってくる。
全体に饒舌になりがちだが、借り手がアパレルを仕事としていたがゆえの描写が身体を借りることに重ねられ、さらにタイトルの「風になる」の意味が分かり(このあたりは「骨巣の春鳥は覚えている」と似ている)、物語は前向きな情動をともなって閉幕する。同時代の感性をSFとして再現できる、万人に愛される作風だと思う。選評の執筆のため再読してさらに評価が増したことを正直に記しておきたい。