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●3月某日 『異常(アノマリー)』エルヴェ・ル・テリエ

 昨年末頃から、首にやたらとかゆい吹き出物が無数にできて困っていた。ブツブツした吹き出物の一部は真っ赤なミミズ腫れのようになって、かなり目立つ。さっさと病院に行けばいいのだが、生来の病院嫌いも手伝って、まあそのうち良くなるだろうと楽観&自己診断で市販の薬を塗って、やりすごしていた。
 ……当たり前だが素人(しろうと)の自己流でうまくいくものじゃない。とある薬Aはまったく効かずむしろ悪化、とある薬Bはミミズ腫れこそ治してくれたものの、ブツブツの吹き出物は依然として首に居座っている。
 同じくらいの時期、目の飛蚊症(ひぶんしょう)も増えていて、眼科にも行かねばならないなーと思っていた。「飛蚊症が増えたら網膜剥離(もうまくはくり)になりかけました」という内容の実録漫画をTwitterで観たこともあり、不安に駆られていた。
 けれども病院に行きたくない。オミクロン株が猛威を振るっていたし、病院というだけでなんとなく怖い。「いやだなーいやだなーこわいなーこわいなー」と稲川淳二みたいなことを呟きながら、自宅に引きこもっていた。
 そんな風に見て見ぬふりをしてきた私でも、底を打つ瞬間は来る。ぐずぐずした恐怖心の泥沼に浄化剤でも突っ込んだかのごとく、ふいにすっきりして、「病院行くか!!」という気分になる。どこに浄化剤のスイッチがあるのかは不明だけれど、痩せ我慢が積もりに積もって限界に達した時、スイッチがオンになるのかもしれない。
 それで、ちゃんと病院に行ってきた。まず眼科。評判のいいところだったからかなり待ったものの、しっかり検査してもらえた。瞼(まぶた)を思いっきり広げて眼球にレンズを密着させるやつは本気でしんどかった。ともあれ結果は何も問題なし。待合室の患者さんたちもみんなマスクしていたし換気もばっちりだったので、病院に対する警戒心のようなものがかなり薄らいだ。
 上り調子の気分のまま、翌日は皮膚科に行った。順番待ちを事前にネットで予約できる医院なので待ち時間が少なくて済む。助かる。診てもらうと、吹き出物はどうやらニキビだったらしい。硫黄(いおう)のボトルと抗生剤の軟膏を処方してもらい、家に帰った。
 毎日朝晩、首に薬を塗っていると、半月ほどでだいぶ良くなってきた。こんなことならさっさと病院に行けば良かったなあと思う。毎度そんな結論に達するんだし、いい加減病院嫌いを直せばいいのだ。しかしたぶんまたぐずぐず躊躇(ちゅうちょ)するんだろうなあと思う。

 さて読書。
 エルヴェ・ル・テリエ『異常(アノマリー)』(加藤かおり訳 早川書房)を読む。
 冒頭、殺人に興味を持ち、実際暗殺者として生計を立てている、ブレイクという名の男の物語からはじまる。おや、これは殺人者を主人公にしたサスペンスなのかな……と思いきや、次の章でどうやら違うらしいとわかる。新たな視点人物、今度は思い詰めている小説家兼翻訳者の男が登場する。そうして次から次へと、違う性格、異なる職業の男女が、現れてはバトンを渡すように描かれていく。中には接点がある人物同士もいるが、ほとんどがまったくの赤の他人だ。
 いったい何が起きているのだろうかと不思議に思いながら読み進めていくと、どうやらひとつだけ共通点があるらしい。それは2021年3月10日、パリ発ニューヨーク行きのエールフランス006便に搭乗していたということ。その飛行機は、類を見ないほど激しい乱気流に遭遇し、辛(から)くも無事上陸した。登場人物たちはみな、あの飛行体験は悲惨だったと振り返るが、それぞれの人生を歩んでいる。
 しかし、どうもおかしいらしいぞ、と読者は不穏な気配を感じ取る。乱気流に巻き込まれたエールフランス006便は無事上陸したはずなのに、何か異常なことが起きているようなのだ。
 詳しくは読んでみてからのお楽しみということで書けないのだが(そういえば先月の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』もあらすじはできるだけ読まないでほしい本だった)、これがなるほど、そういうアイデアがあったか!と驚くほど面白い。ありそうでなかった、異色な作品ではないだろうか。
 ミステリとしてもSFとしても出来が良いし、人類への哲学的な問いかけでもある。読んでいる間中、なんとなく薄ら寒い気配を感じ続けていたのは、スリルの味わわせ方が絶妙だからだろうと思う。いったい何が起きていたのかがわかった後、「こんな状況に陥った場合、人間はどう行動するだろうか」という実験的な思考も試される気がする。人生とは選択の繰り返しだが、もしこんな形で道が提示された場合、果たして人は何を選ぶのだろうか。そしてその選択の結果は、必ず以前とは変わるものなのだろうか。
 『異常(アノマリー)』は、フランスのゴンクール賞を受賞しているほか、ニューヨーク・タイムズのベスト・スリラー2021にも選ばれている。訳者あとがきによると作者のエルヴェ・ル・テリエは、実験的小説を生み出す「潜在的文学工房」ウリポの一員だという。ウリポに入っている作家の作品だと、何年か前にハリー・マシューズの『シガレット』(木原善彦訳 白水社エクス・リブリス)を読んだことがあるが、これも面白かった。
 数学や理論物理学的な要素もありつつ、人間の複雑さが絡(から)み合うドラマもありつつ、スリリングで夢中にさせられる牽引力もあるという、幾重にも美味しい小説だ。(ちなみに、一応2021年が舞台ではあるが、アメリカの大統領の描写から感じられる人物像が明らかに前代の人なのは、これが書かれたのは2019年、推敲期間が2020年だったせいらしい。)
 映像化したらそれはそれでユニークな作品になりそうだが、脚本をかなり練って、この本が持つ異色さを恐れず演出しないと、良さが発揮できない気もする。
 ともあれ、面白さはお墨付きということで、ぜひ手に取って読んで頂きたい1冊だ。

異常【アノマリー】
エルヴェ ル テリエ
早川書房
2022-02-02




 先月の読書日記で、最近人と話していなさすぎ「この会話力の低下ぶり、リハビリをしないと本気でやばいかもしれない。」と書いたところ、東京創元社の担当編集者Sさんがぜひ電話でも!と声を掛けて下さった。
 出版社とは色々とお仕事をさせて頂いているけれど、中でも東京創元社はデビュー版元でもあるので1番思い入れが深く、かつ付き合いも長い。『戦場のコックたち』が刊行された頃は特にしょっちゅう社に通っていて、SF班のK浜さんに「もういっそ定期買えば?」と言われたくらいの頻度(ひんど)だった。
 社屋の各階になぜか炊飯器があり、前担当のFさんから「お米炊けてるけど食べてく??」と訊かれたこともある(当然のごとく冷蔵庫も完備なので夏に行くとアイスがもらえるし、今ならホームベーカリーで焼いたパンを食べさせてもらえるだろう)。私のなかで東京創元社は実家的なものに位置づけられている。コロナが流行してからは残念ながら一度も訪問できていないけれど、電話は比較的かけていた。
 この日はまず担当Sさんに電話をして、なんやかんやの世間話の後、私がいまだにドハマりしている例の某ギャグアニメの話をした。結構前に放送された作品なこともあるせいか意外がられつつ、Sさんも観て下さるという。わーい。推し声優である櫻井孝宏(さくらい・たかひろ)さんの話もできたし、気を良くした私は前担当のFさんに代わってもらい、Fさんも沼につま先だけでも入ってもらおうと試みる。
 Fさんはデビューからの付き合いになるが、話していると腹筋が割れる(比喩)。ミズ・人間腹筋マシーンとでも言おうか。雑誌「ミステリーズ!」の人気コーナー「レイコの部屋」の著者でもあらせられる。某ギャグアニメを観て下さるかどうかは不明だけれど、いろんな話をして、その間まあだいたい9割方私は笑っていた。ただの笑いではない、壁が震えるレベルの爆笑だ。いや、基本的には真面目に、読んだ本や観た映画の話などをしているのだけれど、なんかこう笑っちゃうんだなあ。Fさんと私の会話は傍(そば)で聞くと漫才みたいになっているかもしれない。しかしディープな話ができるので大変助かっておるのです。これからもいきなり電話をかけてお仕事を邪魔していく所存。すみません。この場をお借りして先に謝っておきます。

 さて読書。
 ショクーフェ・アーザル『スモモの木の啓示』(堤幸訳 白水社エクス・リブリス)を読み終わった。
 「ビーターによると、母さんは一九八八年八月十八日午後二時三十五分ちょうどに、五十三軒から成る村を見下ろす丘にあるいちばん背の高いスモモの木の上で啓示を受けた。それは日々、鍋やフライパンを洗う音が木立まで響き、けだるさを吹き飛ばす時間だった。まさにそれと同じ瞬間、ソフラーブは目隠しをされ、後ろ手に縛られたまま絞首刑になった。裁判は行われないままの処刑だ。」という書き出しではじまる本作は、イランからオーストラリアに亡命した作家が書いたものである。
 母と父、ふたりの娘とひとりの息子の五人一家を主軸とした、イランが舞台のマジック・リアリズム小説だが、1979年に起きたイラン・イスラーム革命とその後の政治によって傷つけられ、殺され、剥奪された人々の姿がはっきりと描かれている。
 まだ物語を摑(つか)みきれない読みはじめの頃は、マジック・リアリズム――たとえばガルシア・マルケス『百年の孤独』のような、魔術的で現実を凌駕(りょうが)する描写がごく自然に日常と溶け込んでいる手法――が醸(かも)し出す効果だけではない、「おや、何か違和感があるぞ」「この語り手は一家の娘のひとりのはずだが、いったいどこにいるのだろう?」という疑問を、読者は持つだろうと思う。その答えは序盤に明かされるのだが、私は「なるほどこれが前提だったとは!」と膝を打った。語り手の少女バハールの立ち位置を知ることによって、読者は一層この魔術的な物語にのめり込み、また、物語という皮で包んだ現実の陰惨さ、内から溢れ出る叫びを感じ取る。イランについて何も知らない自分を恥じると共に、この本から溢れてくる「伝えたい」という強い意志を受け取りながら読んだ。
 語りの手法としては、マジック・リアリズムの他に、『千一夜物語』の構造も使用されている。物語の本筋を話しつつ、登場人物が語る別の物語に逸れたかと思うと、また別の物語に分岐する。そうして幾重にもわたる「入れ子構造」を経た後、深い海から浮上するかのごとく再び本筋に戻ってくる。『スモモの木の啓示』は、こうした『千一夜物語』(岩波書店から西尾哲夫訳にてガラン版が刊行されているので興味のある方はぜひ)の構造を踏襲していて、非常に効果的だと思った。口承文学の伝統を受け継ぐ意味もあるし、立体的で奥行きを持ち、迷宮の中に踏み入ったかのようだ。さまざまな人々の声があちこちからざわざわと聞こえてくる。中には、句読点を一切廃した上にすべてを接続詞で繋ぎながら物語を語る人物が出てきて、原文はもちろん、これどうやって翻訳したんだろうとたまげた。
 有機的という表現が形容として正しいかはわからないが、隅々まで血の通っている作品であることは確かだ。土の匂いや太い木立、たゆたう海など生命の息吹に満ちている一方、血をまき散らしながら死にゆく小鳥たちの悲劇や、何日も降り続ける雪に為す術(すべ)もない人間の無力さも描かれる。そうしたあらゆる描写が重なり合い、恐ろしい現実に晒(さら)された人々の苦境と、絶望の先にある大いなる何かが満ち、物語は終わっていく。
 冒頭のページに書かれた引用句、「幸福を得るすべての利器を備えた都市にいながら自らを破壊したのは私たちが最初ではない。」(バフラーム・ベイザーイー『荒廃宣言』)にどきりとさせられるのは、人間の愚かさを的確に言い表しているからだろう。
 非常に豊かな読書体験ができる傑作小説だ。ちなみに国際ブッカー賞と全米図書賞の候補になっている。

スモモの木の啓示 (EXLIBRIS)
ショクーフェ・アーザル
白水社
2022-01-28


 
●3月某日 『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀

 比較的近所に大きい公園がある。ランニングコースの他に、野球場や運動場も備わっているので、運動好きな人々の賑(にぎ)やかな声がよく聞こえる。私も少し前までは気分転換がてらランニングをしていたのだが、最近はめっきりやらなくなった。
 その公園は運動用施設だけでなく、木々が豊かに茂っていて、植物もあちこちに生えている。別にランニングしなくても、散歩するだけで充分気分がいい。
 特に春先の散歩が格別で、広場に一本だけある白木蓮の木がお気に入りである。白くて厚ぼったい花弁が、青空の下で生き生きと開いているのを眺めるのが好き。この木のおかげで木蓮と辛夷(こぶし)の違いがわかるようになった。初夏の頃もいい。そういえば昨年は、銀杏(ぎんなん)の若葉が空豆みたいで可愛いことに気づいて、ばしばし写真を撮った。ちょうど雨上がりの午後で人も少なく、リラックスできた。
 花は好きなのだけれど、猫がいるので家には持ち帰れない。外でも触れず近づきすぎず、ただ眺めるだけだ。
 子どもの頃は外で遊んでばかりで、近所の公園はどこも私の縄張りだと思っていた。アスレチックで飛び回り、木登りをし、砂場の砂で遊ぶ。匂い立つ木々や草土は私の最も親しい友だちで、ふと、もし自然の中で遊べなくなったら私は私じゃなくなるかもしれない、と思った覚えがある。ところが大人になった私は、家に籠(こも)って机に向かい、パソコンでひたすら字を打ち込んだり、本を読んだりするのが仕事、というちょっと特殊な職業についてしまった。晴れていようが雨が降ろうが毎日毎日自然の中に突っ込んで駆け回っていた、あの頃の自分にこんな未来を聞かせたらひっくり返りそう。親戚一同も私が小説家になったことをしばらく信じていなかった。
 そういえば将来何になるか、どんな大人になるか、ろくに想像したことがなかった。将来の夢みたいなものはぼんやり持っていたものの、30歳を過ぎた自分の姿なんて一度も考えなかったんじゃなかろうか。

 なにはともあれ、読書。
 佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』(角川書店)を読み終わる。
 舞台は18世紀、ベルギーのフランドル地方にあるシント・ヨリスという小都市。そこに亜麻糸を扱うファン・デール商会がある。主のファン・デール氏にはヤネケとテオという双子の子どもたちがいるが、新たにヤンという少年を里子として引き取ることになる――ヤンの父親、故デ・ブルーク氏は若い頃、ファン・デール氏と共に亜麻の仲買をし、店を立ち上げようとした友人だった。
 ヤンは、ひとつ年下のヤネケとテオ姉弟と共に育てられるうちに、この双子が途方もなく賢いことを知る。ふたりは頭が良すぎて学校の授業では退屈を持て余し、奇行に走って追い出され、家庭教師がついている。ヤン自身かなり聡明ではあるのだが、学力でテオに追いつくのに多少の苦労をしたし、ヤネケにいたっては理解の範疇(はんちゅう)を超えるほどの差があって、それはずっと縮まることはない。
 ヤネケの頭脳は、テオいわく、「おれは、人がみんな出来が違うことは知ってる。学校の連中はおれからすれば驢馬(ろば)だったが、姉ちゃんからしたらおれも驢馬だ。」というほど優れていて、数学や語学の習得はもちろん、家業である亜麻の取引どころか、最新の生物学や経済、天文学など難解な学問にまで知識を広げていた。
 ある時ヤネケは生物の繁殖に興味を持ち、ヤンを性交に誘う。ふたりは何度となく絡み合い、ヤンの方はどんどんヤネケに惹かれていくが、ヤネケはというと、あらゆる行為を試すものの人体実験以上の思い入れはないように見える。しかしやがてヤネケは子を宿し、父親がヤンである事実は隠したまま、両親に命ぜられてヘントにある大ベギン会へ向かう。
 ベギン会――これが本書のもうひとつの大きな舞台である。
 詳細は本書の本文の他、巻末に収められた「覚書」にも記されているので参照されたいが、ごくごく簡単に言えば、ベギン会とは結婚を望まない女たちが集まり、衣食住を共にする場所である。特定の修道会には属さないものの、会のはじまりは信仰熱心な単身女性たちが集まったことに端を発しているそうだ。本書の時代では敷地内に教会が建ち、ベギンは一般信徒として扱われる。会に属する限りは純潔を守らねばならないが、会を離れれば結婚も可能だそうだ。特筆したいのは、中にいる女たちはそれぞれ職を持ち、自力で金を稼ぐことができる、という点である。
 このベギン会はヤンやヤネケ、テオが暮らすシント・ヨリスにもある。出産した子を里子に出した後、町に戻ったヤネケはベギン会の住まいに移り、白い亜麻布を頭に被ってベギンとなる。ヤネケが帰ってきたら妻にするつもりだったヤンは困惑するが、ヤネケにのらりくらりとかわされ、結局は家業を継ぐ。同じ頃、養父で家主のファン・デール氏が卒中で倒れたのだ。
 物語は、ファン・デール商会の長となり事業を拡大していくヤンと、ベギンとして門の向こう側で生きながら、時折商会の帳簿を見て助言をしてやったり、論文をテオやヤンの名で書いて発表したりするヤネケを中心に、進んでいく。

 とにもかくにもヤネケが魅力的だ。興味のない物事には滅法冷たく、面倒くさがりの一方、興味を持った対象には旺盛な探究心を発揮する貪欲(どんよく)さがある。他人から「人でなし」と揶揄(やゆ)される彼女は、どこまでも軽やかで何者にも束縛されない。
 彼女はいわゆる天才で、その存在は規律を重んじ平均的であろうとする集団の中に突如生まれた異分子に見える。けれど自然とは、言うなれば神とは、種がいつもまとまっていて大人しく平均的であることを本当に奨励しているのだろうか。
 ヤネケはある時、羚羊(れいよう)とライオンを例えに出して、個体差について語る。ライオンは捕食者だからといって被捕食者の羚羊を常に捕まえられるわけではない。逃げ延びる羚羊がいるのは、能力にばらつき、個体差があるからだ。つまり「無作為で無目的な自然はそこにばらつきを与え、偶然を与え、機会を与える」のだという。それはヤネケ自身にも当てはまる言葉なのではないか、と思う。彼女は確かに「鬼子」かもしれないが、そういった異例の存在こそが均衡を取り、世界は成り立つのではないか。「神は逃げる羚羊を祝福し、追うライオンも祝福する」のなら、賢く強い彼女らもまた神に祝福される存在のはずだ。
 女の名で論文が書けないこの時代を通して、現代になってもなお女というだけで貶(おとし)められる現実に(大学受験での差別発覚のニュースは記憶に新しい)、苦味と怒りとをあらためて覚えながら、ヤネケの痛快な姿や言動に胸を躍らせて読む。ヤネケ以外のベギンたちにも軽やかさがある――ヤンは彼女たちを見て、「何て楽そうに歩くんだろう、と思う。靴に羽でも付いているみたいだ。」と感じる。ああ、自分の手で稼ぎ、自立した女たちの快さときたら!
 また一方で、ヤネケのような賢き異端の者たちが、技術革新、つまり乱暴で容赦のない未来を連れてくるという展開も用意され、なるほどと唸(うな)った。彼女は天才だが、決して冷徹な超人ではなく、物事を制御しきれない人間らしさを纏(まと)った存在である点も深い。
 その上、やがてもっと横暴で非論理的で無情な「戦争」が見えてくる。
 ふと、先頃読んだ『スモモの木の啓示』の冒頭の引用句「幸福を得るすべての利器を備えた都市にいながら自らを破壊したのは私たちが最初ではない。」(バフラーム・ベイザーイー『荒廃宣言』)を思い出す。安全で、快く平穏に暮らせるすべてを持っておきながら、他の地をも得よう、あるいは故郷すら攻めようとする人間の姿は、現実に侵略が行われている今の世界で、より一層醜悪(しゅうあく)に感じる。進化に手を伸ばした結果、貧困を与え崩壊を促進し、思想も極端に走る。「乳と腹だけだ。お前はそういう生き物だ。子どもを産んで育てる容器だ。」という非道な言葉を、あたかも真実であるかのように信じ、自由に羽ばたいていた翼をもぐ。

 人間は結局のところ救いようのない存在だ。幸福な時があったとしても長くは続かず、望みのとおりにはいかない。まあ個人の望みが全部叶うとしたらひとりひとつずつの多次元世界が必要なわけで、あり得ないし、あり得るべきでもないだろう。
 思ったようには育たないものたちが、ばらばらと手から離れていって、愚かさを露呈したり争い事を招いたり、愛し合ったりするのが、自然なのかもしれない。下らなくて手に負えないと苦笑いしつつ、時折輝く眩(まぶ)しさに目を細めてこの世界を眺める。その延長線上で、ヤネケとヤンのふたりを愛おしく思い、現実に生きる誰かのことも大切にしたいという感情を、私は抱いた。
 どこか爽快でありながら豊穣で深い読後感が味わえる1冊だ。


【編集部からのお知らせ】
5月は「深緑野分のにちにち読書」を休載させていただきます。次回・第五回は6月15日(水)に掲載予定です。


■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)などがある。

オーブランの少女 (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2016-03-22


戦場のコックたち (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2019-08-09