勝山海百合 Umiyuri Katsuyama



 本書『逃亡テレメトリー』は、アメリカの作家マーサ・ウェルズの《マーダーボット・ダイアリー》シリーズの本邦における三作目の訳書で、表題作の「逃亡テレメトリー」Fugitive Telemetry, 2021)に、短編「義務」("Compulsory", 2018)と「ホーム――それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地」("Home: Habitat, Range, Niche, Territory", 2020)を併せて収録したものである。

 本シリーズは、人間が組み込んだ統制モジュールを自らハッキングして自由を得た警備ユニット(有機部品を含んだアンドロイド)が、大量にダウンロードしたメディア――だいたいは連続ドラマ――を視聴することによって荒んだ心を慰めながら日々の業務に励む物語だ。簡単に紹介すれば。
 この警備ユニットは、記憶を削除されたので覚えてはいないものの過去に大量殺人を犯したとされているため、殺人(マーダー)ボットを内心で自称している。自ら統制モジュールをハッキングしたのは、二度と大量殺人を犯さない(命令されてもやらない)ためである。この警備ユニットは、人間とのコミュニケーション(業務連絡以外の会話や、自分の顔を見られたり、他人と目を合わせたり、接触を伴う挨拶)が苦手で隙あらばドラマの視聴に耽りたがるものの、業務だから契約だからと弁解しながら人助けをする。欠点はあるが愛すべき友人のようなこの警備ユニットの物語が英語圏で世に出るやいなや大人気となり、各国語に翻訳され、日本でも紹介されるとたちまち読者の心を掴んだ。作中に登場する連続ドラマ『サンクチュアリームーンの盛衰』を視聴したことのある地球人類は一人もいないはずなのに、本文中でタイトルを見ただけで、警備ユニットの心が安息を求めていると察するようになる……という現象を筆者は複数例観測している。
 シリーズのほとんどが警備ユニットの一人称で書かれているが、その一人称が「弊機」というのも魅力の一つだ。原文(英語)の“Ⅰ”が、「わたくし」でも「やつがれ」でも「みども」でもなく弊機。「本官」や「小職」のように大きな組織に奉職している雰囲気と、人間ではなく機械であることを同時に表し、へりくだってもいる。有能なのに自己評価が低い主人公にぴったりなこの訳語は、本シリーズを翻訳している中原尚哉が掘り当てた。日本で最初に邦訳、上梓された『マーダーボット・ダイアリー』上下巻(創元SF文庫)の収録作は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞といった優れたSF作品に与えられる賞を多数受賞しているが、この邦訳書は「最も賞讃したい」翻訳作品に授与される日本翻訳大賞をも受賞している。ちなみに、日本翻訳大賞は第七回にして初めてのSF作品への授賞であった。

「逃亡テレメトリー」は、アイーダ・メンサー博士と出会い、なりゆきによってプリザベーション連合に落ち着いた警備ユニットが、ステーションのモールの往来で死体を検分するところから始まる。死体は身元不明だが一見したところ訪問者で、状況からいって事故ではなく他殺と見られた。連合の指導者で友人でもあるメンサーに事件の調査を提案された警備ユニットは、データフィードへのアクセスや得意のハッキングを制限されながらも別ルートの情報に当たって犯人を探し始める……。タイトルを軽く説明すると、テレメトリーは遠隔操作によるデータの取得のことで、逃亡は真相に近づいたと思うたびに、するりと逃げていくさまを表しているのだろう。
 本書で、行き場のない難民たちを保護したのが始まりというプリザベーション連合のなりたちと、人権を尊び、誰でも、いつでも無料で食物など生活に必要なものを入手できる社会であることに触れられる。連合のリーダーであるメンサーは、命の危機を救ってくれた警備ユニットに〈人格〉があることを知り、人類の難民と同列に考え、人間のように暮らせるよう手を尽くしてくれているのだが、多くの人々からは、警備ユニットが突然暴走して大量殺人を犯すのではと警戒されている。警備ユニットを知るメンサーたち友人と、既に本シリーズに触れている読者諸氏は「弊機、悪いやつじゃないのに」とじれったくなるが、そこはしかたがない。読者にできるのは、これから理解が深まり、警備ユニットを受け入れてくれるようになるのを願うのみだ。連合と対照的に、利益の追求を最優先にしているのが企業リムと呼ばれる領域で、警備ユニットももとはこちらの企業に使役されていたため、かつての所有者である保険会社をしばしば「元弊社」として言及している。利益第一、労働者は死なない程度にしか大事にせず、都合が悪くなれば見捨てることも躊躇わない、強欲の罪で地獄に落ちそうな集団である。企業が利益を求めることは罪ではなく、その過程で警備ユニットを含む命を蔑ろにすることが罪深い。

「義務」「ホーム――それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地」は前日譚の短編で、メンサーに出会うまえの警備ユニットの仕事ぶりが見られたり、メンサー視点での警備ユニットの姿を知ることができる。
「義務」では、統制モジュールをハッキングした後で、それを保険会社や周囲に知られないようにしたまま、ある惑星の採掘場で警備の仕事をしていた頃のインシデントを描く。危険な環境で重労働に従事する現場では殺人事件が起きやすいため、警備ユニットの仕事は労働者を監視し、そうした事件の発生を未然に防ぐこと。しかし、労働者の身が危険に曝されても、積極的に救助することは命じられていない。
 読み終わって、「義務」というタイトルの意味がじわりとわかる佳作。
「ホーム――それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地」は、『マーダーボット・ダイアリー』下巻所収の「出口戦略の無謀」のすぐあとのシークエンスだ。プリザベーション・ステーションに戻ったメンサーが、警備ユニットを難民として受け容れられるよう、辛抱強く交渉を重ねるエピソードが挿入される。警備ユニットは命令次第で殺人も辞さないと刷り込まれている人々に、そうではないことを伝えるのに苦慮する。とはいえ、以前のメンサーも警備ユニットは残虐な行為も平然とこなす感情のない機械と認識していたので、その印象を拭うのが困難なことをよく知っている。
 メンサーは警備ユニットと出会い、命を救われたばかりではなく、警備ユニットに感情や〈人格〉があることを知ってしまった。そのため自分が何をさせられているかを理解しながらも、反抗することも逃げることもできず、ただ酷使されるがままだった警備ユニットに安心できる場所を与えたくなったように見える。メンサーの行動には他者を助けたいという芯があり、相手の意思を尊重する余裕がある。
 そうではあるが、警備ユニットから見たら、寛容で強く優しいメンサーも、たやすく再起不能になる、極めて脆弱な生体である。

 本シリーズを本書から読み始めた方々には、既刊『ネットワーク・エフェクト』(創元SF文庫)もあることをお知らせする。
『ネットワーク・エフェクト』刊行後の最新ニュースとしては、二〇二一年十二月に同作がヒューゴー賞長編部門を受賞し、これでネビュラ賞・ローカス賞とのトリプルクラウンを達成した。また同時に、《マーダーボット・ダイアリー》シリーズ全体がヒューゴー賞シリーズ部門を受賞している。そして同年、マーサ・ウェルズが出版社のTorと、本シリーズをさらに三冊執筆する契約を交わしたことが報じられた。もうしばらくはマーダーボットを心密かに自称する警備ユニットの活躍を楽しめそうだ。



【編集部付記:本稿は『逃亡テレメトリー マーダーボット・ダイアリー』解説の転載です。】



■勝山海百合(かつやま・うみゆり)
岩手県生まれ。2006年「軍馬の帰還」で第四回ビーケーワン怪談大賞を受賞。また翌07年に「竜岩石」で第2回『幽』怪談文学賞短編部門優秀賞を受賞し、同作を含めた短編集竜岩石とただならぬ娘』により本格的にデビューを果たす。11年、『さざなみの国』で第23回日本ファンタジーノベル大賞を受賞。主な著作として『厨師、怪しい鍋と旅をする』『玉工乙女』『狂書伝』ほか、現代語訳を手がけた『只野真葛の奥州ばなし』などがある。また、既発表の翻訳短編にS・チョウイー・ルウ「沈黙のねうち」「稲妻マリー」「年々有魚」L・D・ルイス「シグナル」などがある。

マーダーボット・ダイアリー 上 (創元SF文庫)
マーサ・ウェルズ
東京創元社
2019-12-11


マーダーボット・ダイアリー 下 (創元SF文庫)
マーサ・ウェルズ
東京創元社
2019-12-11