夜空に浮かぶ月が不気味なものに思えてくる。小田雅久仁(おだ・まさくに)の『残月記』(双葉社 1650円+税)は、そんな三篇を収めた作品集だ。話題となった『本にだって雄(おす)と雌(めす)があります』から実に九年ぶりの新作である。



 巻頭の「そして月がふりかえる」は、ようやく安定した生活を手に入れた三十五歳の大学准(じゅん)教授の男が主人公。家族四人でファミリーレストランで食事をしていた際、窓の外の月がぐるりと振り返る。その直後、妻は自分を不審者扱いしはじめ、そこに現れた見知らぬ男を夫だと言い出す。どうやら、同姓同名の男と人生が入れ替わってしまったようだ。そこから主人公がどう行動し、どんな事実に突き当たるのか。緊張感あふれる濃密な文章で一気に読ませる。

 そう、今回の作品集はかなりダークなのだ。二篇目の「月景石」は、叔母の形見として月夜の風景の模様が入った石を譲り受けた女性が主人公。その石を枕の下に入れて眠った彼女は、気づくと護送トラックの中にいた。そこは月の裏側の独裁国家で、彼女は仲間とともに捉えられたのだ。そこから幻想的で壮大で、非常に残酷な景色が広がっていく。

 三篇目に収録された表題作もまた、独裁国家が舞台だ。感染すると満月の夜に精神と肉体が高揚し、時に犯罪的行為を犯してしまう月昂(げっこう)という病が流行。感染者は強制隔離される決まりで、木工職人の青年、宇野冬芽(うのとうが)も発症して拘束される。それだけでなく、剣道の有段者の彼は政府が極秘裏に開催する剣闘行事に出場を打診される――。剣闘士としての死闘、感染者の女性との交流といった生活が描かれるなか、彼が幻視する、月の裏側の砂漠で月鯨に乗った冒険の風景描写が美しい。

 どれもぞっとする展開が待っているが、ただ残酷なだけでなく、必死にあがいて置かれた状況に抗おうとする主人公たちの懸命さと力強さが胸を打つ。待ちに待った新作だが、期待以上の読み応えだった。

 残酷な運命といえば、河﨑秋子(かわさき・あきこ)の『絞め殺しの樹』(小学館 2000円+税)も壮絶な一作だった。前半は苦しいが、だからこそ、どうなるのか気になってページをめくる手が止まらなくなる。



 根室(ねむろ)で生まれたミサエは新潟の農家に引き取られるが、昭和十年、十歳で元屯田兵(とんでんへい)の吉岡家の養女となってこの北の地に戻ってくる。畜産業を営む吉岡家は彼女を酷使し、部屋も与えずに廊下で寝かせ、学校にも通わせない。しかし周囲の助けもあり、ミサエは学校に通えるようになり、札幌(さっぽろ)の薬問屋に奉公し、やがて保健婦に。そして恩人に乞われて再び根室に戻り、再び吉岡家の面々と顔を合わせることに……。

 困難から逃れたと思ったらやってくる別の苦難。「絞め殺しの樹」とはシナノキ科の菩提樹(ぼだいじゅ)で、蔓(つる)性で他の木を絞めつけるように絡みついて栄養を奪い、やがて枯れさせてしまう習性があるという。ミサエにとって吉岡家はまさに絞め殺しの樹であるが、実は本作にはもっと恐ろしいラスボス的存在がいる。いやいや、いったいどこまでミサエは痛めつけられるのか。そのなかで、数少ない理解者が、ミサエに自分を憐(あわ)れみすぎないようにと示唆(しさ)する言葉が読者の心にも刺さる。

 本作は二部構成。第二部ではミサエの後に吉岡家の養子となった雄介の視点へと移る。彼もまた吉岡家やラスボス的存在に絞め殺されていくのかと思わせるが、彼の努力と時代の変化が大きく影響していく。雄介が自分の人生とどう向き合っていくのか、成長譚(たん)として読ませるのだ。そしてたどり着いた最後の一行に、なんと救われることか。


■瀧井朝世(たきい・あさよ)
フリーライター。1970年東京都出身。文藝春秋BOOKS「作家の書き出し」、WEB本の雑誌「作家の読書道」ほか、作家インタビューや書評などを担当。著書に『偏愛読書トライアングル』『あの人とあの本の話』『ほんのよもやま話 作家対談集』、編纂書に『運命の恋 恋愛小説傑作アンソロジー』がある。