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●12月某日 『ガラスの顔』フランシス・ハーディング

 大晦日である。
 医師から処方されている睡眠導入剤の効き目がやたらといいせいで、起きるのが遅く、昼頃に目を覚ます。のろのろ身支度してから朝ご飯(トーストにバターと、通販で買ったイギリスのアプリコットジャムを塗る)を食べ、おせちの準備をはじめる。おせちは、以前は黒豆を煮たりしてずいぶん凝っていたのだが、ここ数年はもう、煮物を作ってあとは市販の伊達巻きとかまぼこで済ませてしまう。
 最近よく、近所の直売所で野菜を買っていて、そこで仕入れた立派な大根をがすがすと切る。豚肉のかたまり肉と一緒に煮て、かたまり肉はまた別に取ってゆで卵と一緒に煮豚にする。それから筑前煮というかがめ煮というか、亡き母がよくお正月に拵(こしら)えていた煮物を作る。あとはなますを作ればOKだ。なますは同居人K氏がスライサーで擦(す)った大根とにんじんの千切りに、甘酢と柚子(ゆず)のしぼり汁を入れ、柚子皮も飾る。これが甘酸っぱく香りも良くておいしいのだ。
 電話で、K県に住んでいる姉と話す。少し前まで姉一家は揃って風邪を引いていたのだが一週間経ったら良くなっていた。よかった。おせちの話から、お雑煮の話になる。うちは母が東京出身なので、内容は代々、餅、すまし汁、鶏肉、三つ葉、海苔のはずなのだが……なんと姉はお雑煮に芹(せり)を入れると言っていた。え、そうなの。と尋ねると、「やだ、お母さんのお雑煮って芹だったんだよ、覚えてないの?」と言われる。……全然覚えていない。私はいつも三つ葉を入れているよと言うと、「私はお母さんから作り方をちゃんと聞いたもん」と姉は自信たっぷりに答える。あれまあ。でも姉が正解なのだろう。私は記憶力が良い方だと思っていたのだがたまにこういうことがある。
 しかし寒い日だ。冷たい風がびょうびょう吹いて、ろくに日差しもなく、なぜ日本の窓は北欧やロシアのように二重窓ではないのかと思う(北海道や東北は二重窓なのだそうだ)。しかもアルミサッシは冷気を通しやすいという。どうなってるんだ窓。
 寒波のために日本海側では大雪だというし、関東も雪が降ったようだ。たまたま私の住んでいるところには降っていないだけで。
 暖房をつけていても寒くて、猫のしおりも毛をぶわっと膨らませ気味である。一瞬だけ紅白歌合戦をつけたけれど、テレビをほとんど観なくなって久しく、ノリにあまりついていけなかったので消してしまった。
 2021年のことは、あまり思い出したくない。寂しくて悲しいことがたくさん起こったから。大晦日だからって一年を振り返らなきゃいけないわけではもちろんないので、振り返らないでおく。呑気に床暖房の上で転がっていた頃が懐かしく呪わしい。

 元日。用意しておいたおせちを食べながら、またテレビをつけた。適当にパチパチとチャンネルを変えていたら、ドラマ『孤独のグルメ』のシーズン9を連続放送していて、つい観てしまう。人気なのは知っていたが、今まで観たことがなかった。
 主演の松重豊さんは私の母が好きだった俳優さんでもある。長身痩躯の方だが、ドラマではものすごい量の料理を食べる。インタビューを読むと、実際の松重さんは小食らしく、撮影時は大分無理をなさっているような印象を受けた。……無理しすぎないでほしいなと思う……
 ともあれ食べっぷりはとても美味しそうだし、コロナ禍で集客に苦しんでいる飲食業にとっても配慮された内容になっていて(マスク着用とか消毒液とかだけでなく、個人で出来る範囲で支えよう、という気持ちにさせてくれる)、制作側も考えているんだなあと思う。
 シーズン9が面白かったので、アマゾンプライムに入っていたシーズン1の第一話を観てみたら、これが10年も前で、作風もだいぶハードボイルド気味だし(きっとこっちが原作寄りなんだろう)、何より誰もマスクをしていないし消毒液もつけていない世界に面食らう。そうだった、世界はこんな風だったのだ。
 ○○の前の世界に戻りたい、と願うことが私にはある。けれど、いつまで遡(さかのぼ)れば気が済むのかというと、きっと気が済まない。どこまで戻ったところで結局同じ事がきっと起こるのだ。だとしたら、傷だらけの心のままで一本道を前に進むしかない。
 
 さて読書。フランシス・ハーディング『ガラスの顔』(児玉敦子訳 東京創元社)を読み終わる。いやあ、『嘘の木』『カッコーの歌』もミステリ度の高いファンタジーだったけれども、今回はものすごかった。
 舞台は入り組んだ迷路のような地下都市、カヴェルナ。ここに住む人々は「面(おも)」という、「面細工師(フェイススミス)」によって作られた表情をまとい、奇妙奇天烈な品々に囲まれて暮らしている。物語は、「チーズの匠」グランディブルからはじまる。彼はたったひとりで、自分の自宅兼作業場のトンネルに籠もりきり——それも侵入者防止用に厳重な鍵を掛け、罠まで仕掛けて——暮らしていた。しかしそこに、五歳ほどの小さな女の子が、どこかから侵入してきた。その顔を見たグランディブルはおののきつつも、自分以外に顔を見せる時には必ず仮面をかぶるようにと命じ、その子をネヴァフェルと名付け、弟子として育てることにした。やがてネヴァフェルは好奇心いっぱいでおしゃべりの少女に成長する。騒がしいネヴァフェルと厳(いか)めしく警戒心の強いグランディブル、そして手間のかかる不思議なチーズたちとの生活は、ある日、「フェイススミス」であるマダム・アペリンの登場によって変化してしまう。ネヴァフェルはマダム・アペリンをひと目見ただけで、強烈に惹かれてしまうのだった。
 カヴェルナで生み出されるものは奇妙奇天烈なものや怪しげで効き目の強いものが多い。幻を見せるチーズ、記憶を消してしまうワイン、心を乱す香水などなど。何よりフェイススミスが作り出す「面」という発想がすごい。しかもこれらの、一見ごちゃごちゃした、ただ不思議なものを並べただけのようなものたちが、幅広く豊かな冒険物語を一本の糸に収斂(しゅうれん)させる伏線、鍵となるのだ。
  『嘘の木』『カッコーの歌』もそうだったけれど(ちなみにカッコーは私が解説を書いているのでよかったらぜひ)、フランシス・ハーディングの著作はミステリとしての出来映えが素晴らしくいい。そしてぐいぐい読ませる。次の展開はいったいどうなるのかまったく予想がつかなくて、わくわく、どきどきする。落ち込んでいる時、無性に寂しい時、『ガラスの顔』は読者を引きつけ、ここにおいで、と呼んでくれる。
 はじめのうちは、奇抜な世界設定や、主人公ネヴァフェルの無邪気さ、純情さに面食らう人もいるだろうと思うけれど、これもまた伏線なので驚かされる。序盤、とあるきっかけでグランディブルのトンネルを出てから、翻弄(ほんろう)され続ける彼女の一挙手一投足、唐突な行動や一本気な悩み、そのすべてが歯車のように噛み合ってかちかちと音を立ててこの巨大な冒険譚を廻(まわ)していく。
 うーん、何を書いてもネタバレになりそうだ。
 キャラクターもいい。個人的に、使い走りの少年アーストワイルと、右目と左目の人格が異なる大長官、大泥棒クレプトマンサーが好きだ。もちろん、主人公のネヴァフェルも。
 とにかく、まず子どもの頃、ファンタジーの児童書に没頭した人は必読。そうでない人も、よかったらぜひ読んでみてほしい。ほんのつかのまでも、幸せを噛みしめさせてくれるだろうから。

ガラスの顔
フランシス・ハーディング
東京創元社
2021-11-11




 雪が降っている。音もなく大粒の雪が勢いよく降りしきり、植木やプランターの植物だけでなく、駐車場や道路も、端っこからじわじわと白く染め上げていく。
 都内在住にとって、このくらい降るのはなかなか珍しい。予報では積雪5cmだというが、もう少し積もるかもしれない。あまりにも寒いのでお汁粉を作って食べた。
 父方の郷里が福井県だったので、北陸のぼたん雪の経験はある。子どもの頃、年末年始を祖父母宅で過ごし、目が覚めると、家の半分が雪に埋もれているのが窓越しに見えた。私は雪かきにあくせくする大人たちを尻目に、大喜びで外に出て、庭で雪だるまを作ったり雪玉を作って姉にぶつけたりしていた。
 私自身の故郷、神奈川県厚木市でもそこそこ雪は降る。マンションの駐車場で、近所の子どもたちと雪と戯(たわむ)れ、大騒ぎした。
 そうこうしているうちに東京でも大雪警報が出た。それに雪国で暮らしている方の大変さは命がけだろう、各地の雪が無事止んで、雪かきや雪下ろしが安全に終わりますように。滑ったり転んだりしてケガしませんように。
 
 雪といえば、映画『ユンヒヘ』を視聴してコメントを寄稿した。これがとてもよい雪映画であった。
 舞台は、韓国と日本の小樽。今よりも少し前の時代——20年か30年ほど前、お互いに愛し合っていた女性ふたりが、別れた。そして韓国と日本とで別々に暮らし、連絡も取らずに過ごして、中年の女性になった。片方は親族の強い勧めで結婚してから離婚し、一人娘を抱えながらパートで食いつないでいる。もう一方は独身で、叔母と一緒に暮らしている。ある日、あるきっかけから、ふたりに再会の可能性が出てきて——というストーリーである。
 素晴らしい映画だった。一昔前(いや、今でもなのだろう)のレズビアンが経験した苦しさや切なさ、日韓関係の複雑さを織り込みつつ、丁寧に編み上げられた作品だ。
「雪はいつ止むのかしら」と、小樽の豪雪の前ではいくら言ってもしょうがないことを言いながら、深い深い雪を雪かきする叔母の言葉が、どんどん、どんどん胸に沁みていく。雪は止まない。心の中でずっと。
 ユンヒ役のキム・ヒエ、ジュン役の中村優子のふたりの、寂しく、抑えた演技が見事である。そしてユンヒの娘セボム役のキム・ソヘの溌剌(はつらつ)とした明るさ、ジュンの伯母マサコ役の木村花のおっとりした温かみが映画を照らす。
 この原稿が掲載されている頃にもまだ上映されているといいが、もし終了してしまっていたら、ソフトの購入、配信やレンタルなどで、ぜひ鑑賞して頂きたい。

 同じく韓国繋がりで、イ・ヒヨン『ペイント』(小山内園子訳 イースト・プレス)を読み終わる。
 韓国では中学校での必読書として本書が紹介されているそうだ。確かに、これぞYAというか、13、4歳の子にぜひ読んでもらいたい本だと思った。
 近未来、危機的な少子化によって国家が子どもを育てると公約した時代のお話。もちろん子どもを産み育てる親も存在するが、育てたくない親は子を国が管理するNCセンターに預けることになる。
 センターは三つに分かれている。生まれて間もない赤ん坊や未就学の児童を管理しているファーストセンター、小学校入学から12歳までを教育するセカンドセンター、そして13歳から19歳までのラストセンター。このラストセンターで、養子を欲しがる親志望者=プレフォスターと、子どもの間で「ペイント」=「ペアレント・インタビュー」が行われ、複数の段階を経てそれでもこの親がいいと子どもが判断した場合、晴れて養子縁組が決まる。そんなシステムが施行されているラストセンターで生活する、17歳の「ジェヌ301」が主人公だ。
 なぜジェヌ301と呼ばれるかというと、ここにいる子どもたちはみな、1月から12月までの生まれ月に因んだ名前をつけられ、個別化するために番号を振り分けられるからだ。ジェヌは1月に生まれたから、301は識別番号。親が決まれば新しい名前を得られ、センターでの暮らしをすべて捨てて外に出ることができる。
 センターの生活は悪くない。子どもたちを守るガーディアン、通称ガーディたちは基本的にみんな親切だし、養育費ほしさにやってくるプレフォスターから子どもたちを守ろうとする。それでも、子どもたちはセンターを出て、新しい親との出会いを望む。なぜならもし親を得られず、孤児のままNCセンターを卒業してしまった後には、「親に育てられなかった子」としての差別が待っているからだ。
 どこか達観していて冷静な主人公ジェヌ301は、ペイント中にプレフォスターの本質を見抜くのがうまい。だからこそ17歳になった今も親を決められずにいる。焦りはある。でも自分のことだけでなく、センター内で起きていること、年下の子どもたちのこと、そしてガーディでありセンター長である大人、パクのことも、よく気がつく。
 しかしそんなある日、ガーディの誰もが「親にふさわしくない」と考えていた2人組のハナとヘオルムに、ジェヌ301は不思議なほど惹かれていく……

 見事なティーン小説である。帯に「君たちは、親を選べる子どもなんだよ」とあるとおり、NCセンターの子どもたちは、肉親の愛情というものを欠いて育ちはしても、親を選べる自由さがある。望んだ親と暮らすことが出来るのだ。反対に、肉親に育てられた子どもはどうだろう? 誰もが生まれた子を愛するわけではない——暴力的な親、ネグレクトをする親もいる。そういう親に育てられている子どもたちから見れば、NCの子どもたちはうらやましく映るかもしれない。だけど、NCの子どもたちもまた、養育費目当てや、虐待目当ての親志望者もいる中から、自分の目で「良い人」を選ばなければならないという試練がある。そのどちらの立場もしっかりと描いた上で、「自分」を確立していくジェヌ301の成長が頼もしく、瑞々しい。
 人は嘘をつく。仮面をかぶって隠すことを知っている。親を選べないまま社会に出たら「NC出身者」のレッテルと差別が待っている。そんな中でついに訪れる、最良ではないかと思える親志望者との出会い——ジェヌ301は果たしてどんな未来を選ぶのだろうか。

 NCに暮らしているみんな、ガーディも含めて、みんなが幸福であるようにと願う。明るくて、ちょっと苦くて、少しヘヴィーで、きっと10代の子どもたちには響くであろう本だった(もちろん40歳前の私にも)。
 名言、名台詞も多い。たとえば「……ほとんどの人は、リハーサルなしで親になりますよね」と「大人だからって、みんなが大人っぽい必要ありますか」。
 この言葉に、どきん、とする読者も多いんじゃないだろうか。同じように、子どももリハーサルなしで子どもになり、子どもだからって子どもっぽい必要はない。色々なことを考えさせられる名言である。「家族だから、大人だから、子どもだから」なんて陳腐な言葉でごまかしたりしない、真摯(しんし)な本だった。
 子どもはもちろん、大人にもおすすめです。

ペイント
イ ヒヨン
イースト・プレス
2021-11-17


 
●1月某日 『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて ル=グウィンのエッセイ』アーシュラ・K・ル=グウィン

 2016年から『別冊文藝春秋』で連載をしていた長編『スタッフロール』の、単行本化初校ゲラが手を離れる。まだ再校ゲラが来るので油断はならないが、一応の一段落ではある。
 『スタッフロール』は、1946年アメリカ生まれのマチルダが、映画に憧れ、ハリウッドで特殊造形師になっていく物語と、2017年現在にロンドンのVFXスタジオでCGアーティストとして悩みを抱えつつ生きているヴィヴの物語、ふたりの主人公を書いた作である。しかしこれがまた本当に苦戦して……TB(テラバイト)がどのくらい大きいのかすらわかってないコンピュータ音痴の私がCGの話を書こうなんていう時点で間違っていたのだが、連載終了後も改稿に改稿を重ね、6年かかってようやく日の目を見ることになりそうである。
 どこかで折り合いをつけてさっさと出してしまえばよかったのかもしれないが、七転八倒しながら書き終わったら、「四回転半ジャンプを跳んだものの着氷が両足になっちゃったかもしれない」感じの作品になった。どう読んで頂けるかさっぱりわからないが、とりあえず2022年4月の刊行を予定しているので、よかったらぜひ。
 
 オミクロン株が猛威をふるっているせいで感染者数がまた増え、友人たちと悲鳴を上げている。どうにかこうにか終息してくれないかと祈り続けるしかないのが虚(むな)しい。
 少し先の未来のことを考えると、手が冷たくなり、緊張で体が強張ってきてしまう。なんとかリラックスしようと温かいマグカップをぎゅっと手で包み込みながらこれを書いている。

 さて読書。
 アーシュラ・K・ル=グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて ル=グウィンのエッセイ』(谷垣暁美訳 河出書房新社)を読み終わる。
 実はル=グウィンの小説は一切読んだことがなくて(面目なさすぎて頭ごと土にめりこませて土下座する)、この生前最後のエッセイ集が私の初ル=グウィンとなった。
 『ゲド戦記』等の著名な作品の数々を読まずにきたのは、単に子どもの頃の自分は読書より外で遊ぶ方が好きだったこと、それからなんとなく「戦記」というタイトルに気後れしたせいもある。あと、名作名作言われていると反抗的な気持ちになってしまうもので、「いいよ読まなくて」と思っちゃったのだ。そういうことをしていると後悔するのに。

 さて、エッセイ集である。なぜ今更ながらル=グウィンのエッセイから読もうかと思ったかというと、「はじめに」の冒頭でジョゼ・サラマーゴに言及していたからだ。
 ル=グウィンはブログなんてさっぱりやるつもりはなかったのに、彼がブログを書いていたから触発されてはじめたのだという。そして私は先日、これまた読んだことのなかったサラマーゴの『だれも死なない日』を読み終わっていたく感動したのである。これはなんとなく縁じゃないか……そう天啓のようなものを感じて、読みはじめた。

 偉大な巨人ル=グウィンのエッセイにこんなことを言うのはなんだが、読みながら「めっちゃ共感できる」と「ちょっと話し合ってみたい」と「今だったらどう書いていたんだろう」という感情が絡(から)み合って、ぐいぐい読まされたり、いったん本を閉じて天井を見上げしばらくぼんやりしたり、豊かな読書だった。
 2010年からはじめられたブログを2017年に出版した本であり、ブログのあちこちを抜粋しているため、2010年、2013年、2015年、また2010年、2011年に戻る、など、日付はあっちこっち行ったり来たりする。
 最初に収録されているエッセイ「余暇には何を」はもうめちゃくちゃ頷いたし(「余暇、つまり余っている時間の正反対は、何かをするために使われている時間、つまり忙しい時間だろう。私の場合、余暇というものがどういうものなのか、未だわかっていない。私の時間はすべて、使われている時間だからだ。これまでもずっとそうだったし、今もそうだ。私はいつも、生きるのに忙しい」p.21引用)、愛猫パードとの生活については、私の亡き愛猫こぐちと似た白黒猫なので涙でページが霞まないようにするのに必死だった(ちなみに本書中のパードは元気である)。「猫に選ばれる」という感覚もよくわかる。
 文学と競争、賞についても、ため息をつきつつ「ぐおお」となる。
(「芸術は競馬ではない。文学はオリンピックじゃない。ザ・グレート・アメリカン・ノヴェルなんかに用はない。私たちは今必要とする偉大な小説群をちゃんともっている。」p.102引用)
 小説の書き方や向き合い方については、小説家個々人違うのだなあと改めて思う。他にも機知に富んだ記述ばかりで、目を見開かされる思いがする。私とは政治的な部分や、フェミニズムについては基本的に同じ姿勢で、わかるなあと感じ入りつつ、今もしル=グウィンが生きていたらと思わずにはいられない。新型コロナについてだって、彼女ならどう考えていたのか気になる。
 2014年に書かれた「怒りについて」は非常に興味深い。
 個人的には、「鬱病についてのある見解は、鬱病の源は抑圧された怒りにあると説明する。怒りの原因である人や環境に怒りが向かうことを、恐れ——傷つけられることへの恐れや他者を傷つける事への恐れ——が阻むので、怒りはおそらく自分自身に向かうのだろう。(p.187引用)」が相当に納得できた。
 
 他にも……と書き出すと、きりがない。とにもかくにも、読んで、よく噛んで含んで飲み下し、「そうだね」「そうは思わないけどね」などと考えるのが楽しい読書だ。読みながらさまざまな考えがよぎるのは、いいエッセイの証拠だと思う。知的好奇心も大いに刺激されるが、吟味された言葉が作り出すタペストリーのような文章を読むだけでも満足、すごい、巨人とはこういう人のことを言うんだなあと思ったりする。
 とりわけ自然描写のこととなると、美しすぎて肌が粟立つ。共に鳥となって高く飛び、遠い遠い景色を同じ瞳で見ている気にさせてくれる。動植物に対する繊細になってしまう気持ちはすごいよくわかるぞ………大胆さも繊細さも、強さも弱さも同居している本だ。

 このエッセイ(というかブログ?)が書かれたのは、ル=グウィン80歳以降のことである。私はいま38歳だ。ひよっこだ。80歳になるまで何度も読み返してみてもいいかもしれない。
 エッセイを読み終わったその晩、不思議な夢を見た。「言葉」が具象化して、奇妙な生物や洋服、ダンス、食事などに変化して、ひとつの巨大なショッピングモールの中に溢れている、という内容だった。「言葉」に関して非常な関心を持っているル=グウィンのエッセイを読んだ直後だったからだろうか。それから猫。猫があちこちにたくさんいた。


●1月某日 『ニッケル・ボーイズ』コルソン・ホワイトヘッド

 パンをこねる。強力粉にドライイーストを入れて、ぬるま湯、砂糖、油、塩と一緒にこねる。ごくごくシンプルなレシピで、私は最近、これしか作っていない。
 パン作りは2020年の春にはじめた。新型コロナウィルスが蔓延(まんえん)しはじめた頃、ステイホームでパンや菓子作りが流行ったのに便乗したのだ。最初の一年は、天然酵母を自作し、ベーグルだのライ麦パンだの全粒粉カンパーニュだの、凝ったものを作っていた。けれども最近は、なんだか疲れてしまって、前述のごくシンプルなパン、丸パンしか作っていない。
 気力がどうにもわかない。問題が多すぎるのだ。
 秋に落ち着いていた新型コロナはまた新しい株が出てきて感染者数が爆発的に増えていくし、トンガでは火山が噴火するし、人間同士の問題や国家間の争い事などなど、Twitterやニュースを開くだけでめまいがしてくる。心療内科で処方されている薬を飲んでも、なかなか気分は持ち直さず、うんうん唸ってばかりだ。
 唸りながらパンをこねる。パンをこねたところでどうにもならないが、明日明後日しあさっての朝ご飯にはなる。日々生きていかねばならない——だからこそ苦しいのだが——パンは糧になり、頭を働かせ、体を動かす力になってくれる。地道だけれど、この積み重ねこそが生活なのかもしれない。

 コルソン・ホワイトヘッド『ニッケル・ボーイズ』(藤井光訳 早川書房)を読み終わる。
 著者は『地下鉄道』でピュリッツァー賞等を受賞し、日本でも刊行され、著名になった作家である(実は私はまだ『地下鉄道』を読み途中なのである、面目ない)。この『ニッケル・ボーイズ』もまたピュリッツァー賞を受賞している。
 あらすじはこうだ。
 犯罪をおかした青少年を矯正させて社会に送り返すという名目の少年院「ニッケル校」には、「墓地」があり、十字架に素っ気なく書かれたことで名前のわかる者もいるが、名前のわからない遺体もある。なぜ少年院に墓地がある、その答えは……という怖気で震えるような事実から、この本は幕を開ける。
 そのニッケル校に、1960年代前半、アフリカ系アメリカ人の堅実で聡明な少年エルウッド・カーティスは、無実の罪で送られてしまう。本当だったら大学へ行くはずだった優秀な彼は、はじめのうち、いつもどおり過ごせば優等生として早くここから出られると思っていた。しかしこの少年院は地獄だった。
 人種差別法のジム・クロウ法が存在していた時代、キング牧師の演説のレコードを聴いて、デモにも参加したことのあるエルウッド。働いていたホテルの白人専用の食堂室で、いつの日か黒人が食事をする未来が来ると思っていたエルウッド。読者は——私は、彼を愛さずにはいられない。他のニッケル・ボーイズたちのこともそうだ。無実であろうがなかろうが、ニッケル校にいる彼らが無事にここを出られるように、願う。
 しかしこのニッケル校から出るための方法と、「耐え忍ぶという能力」「私たちは魂の力で立ち向かいます」というキング牧師の演説内容がフラッシュバックして、エルウッドと同じように、「何ということを求めるのか。何という、ありえないことを」と思うようになる。
 痛切である。そして冒頭のあの墓地。あれが頭を過(よぎ)って離れない。暴力が行われていること、残酷さ、その末路ははっきりとわかるし、訴えは直球で読者に届く。
 苦しい読書だった。時折挟まれる美しい描写や心に残しておきたい滋味深い文章が、束の間の幸福が、かえって後からやってくる嵐を予感させ、もがきたくなる。特に中盤以降の構成の巧みさに胸を打たれる。これはぜひ読んで、なんという構成にしてくれたんだと、実感してほしい。私は呻(うめ)いて、倒れ伏して、なんという世界に住んでいるんだろうと思った。
 それでもラストの一文は素晴らしい。この一文が救いだということそのものが、現実の地獄ぶりを伝えているのだが、それでもほんの少しは、遅々としながらも、前に進んでいるかも知れない希望がある。
 本作はフィクションだが、同じフロリダ州にあったドジアー男子高校での実在の出来事をベースにしており、決して架空の小説ではない。
 そして今も、「I can’t breath」をスローガンに掲げたブラック・ライブズ・マター運動をはじめ、差別への抵抗は続いている。ここにまだ差別が、憎悪が、暴力が、存在しているのだと私たちは知らなければならない。そして差別や憎悪犯罪はアメリカの地だけでなく、日本にも厳然として存在しているのだと、私たちは知り、改善しなければならない。
 2021年のアカデミー賞の短編映画部門賞を受賞した「隔たる世界の2人」のことも思い出した(Netflixオリジナル作品なので配信で観られる)。ある女性宅で目覚めた黒人男性が家に帰るために外へ出ると、無実にもかかわらず白人警官に拘束され殺される。しかし次の瞬間時間が巻き戻り、再び目覚めて外に出るも、また同じ警官がいる、という筋書きだ。主人公は時間が戻るたびに違うルートを試しては殺されるのだが、家に帰り、愛犬に餌をやるために何度でもトライし続ける——それしかないのか、本当に?でも、それでも、なお。
 映画の結末についていろんな人と話し合いたい作品である。

ニッケル・ボーイズ
ホワイトヘッド,コルソン
早川書房
2020-11-19



●1月某日 『異形コレクション〈52〉狩りの季節』井上雅彦監修

 まるまる5日間ばかり仕事を休み、呆然と某ギャグアニメやらその関連イベントやらを観て過ごしていた。現実に戻りたくない。しかしいい加減仕事をしなければ……起きて朝ごはんを食べながらふと手を見ると、爪が伸びている。まめに爪を切るタイプなのに爪が伸びていたことにすら気づかなかった。
 声優さんにはまったく詳しくないのだが、アニメを観ているとめちゃくちゃ上手い人がいてびっくりすることが多々ある。個人的には、一度聴けばすぐ「ああこれは誰それだな」とわかる声の人が好きで、その上で演技まで上手いとなるとたまげてしまう。映画も基本は字幕派ではあるが、最近は吹き替え版も観ることが多くなった。俳優さん本人の声と聞き比べてみると面白いし、字幕では省かれたりした台詞などを補えるから。
 以前、拙作『この本を盗む者は』(KADOKAWA)の宣伝用動画で、梶裕貴(かじ・ゆうき)さんにナレーションをつけていただいたことがあった(今でも観られます)。ぜ、贅沢すぎる!!元々ファンだったため、担当さんから「梶さんに声をやってもらいますー」と聞いた時は本気でひっくり返った。私の人生の中でも指折りのびっくり&嬉しい案件です。



 声って不思議だ。何しろ自分で自分の声色がわからない。録音されたものを聞いて、なんじゃこりゃ、となる。自分の声が苦手だという人は多いように思う。私もラジオ出演した際などは「変な声だな……」などと感じてへこむ。いや、自信を持てばいいのだよ!声くらい!でも滅多に聞かないからそのつど驚いてしまうのだな。
 今のコロナ禍では、声優さんにせよ歌手さんにせよ声の仕事をしている人たちは苦しい職業のひとつだと思う。どうか健康でいてほしい……と切に願いながらまたアニメや映画の吹き替え版を観る。原稿やれよ私。

 本は、『異形コレクション〈52〉狩りの季節』井上雅彦監修(光文社文庫)を読む。
 恥ずかしながら実は、この著名な『異形コレクション』を読むのははじめてである。そしてびっくりした。「け……傑作揃いじゃないかい……!」と。
 巻頭の柴田勝家「天使を撃つのは」からして、まるでジョン・R・ランズデールのハントものを思わせるかっこいい×異形の語り口だし、上田早夕里「ヒトに潜むもの」はヒトの矜持を感じるさすがのラストで心が震える。
 他、黒木あるじ、清水朔、井上雅彦、霜島ケイ、澤村伊智、牧野修、平山夢明、伴名練、王谷晶、斜線堂有紀、久美沙織、真藤順丈、空木春宵の全15人の作家による、「狩り」をテーマにした競演アンソロジーである。
 どれも面白いので全部に言及したいところなのだが、それだとさすがに文字数がスーパー長大になってしまうので、特に印象に残った一編について触れる。
 霜島ケイ「七人御先」は、南北朝時代、下級の陰陽師である八角と少年捨丸のふたり連れが、「七人御先」と呼ばれる亡霊退治に赴く物語。亡霊が七人並んで歩き、生きた人間をひとり殺すと、亡霊がひとり成仏し、七人で在り続けるというその亡霊をどう退治するのか。そしてもうひとつの謎とは——あっと驚くミステリであり、八角と捨丸の躍動するような魅力が堪能できる、逸品だった。
 
 ひとまず一作だけ抜粋したけれど、しかし、本当によく「狩り」という主題だけでここまで異なる物語が15編も集まるなあと感心しきりだった。仄暗(ほのぐら)い闇の中から現れる狩る者とその獲物。狩る者がいれば狩られる者がいるわけで、そこに物語の深淵が見える。
 私が書くならどうしただろうな、と考えてまた少しうきうきしてしまう。物語を書くことは私にとってとてもしんどいことなのだけれど、それでもやっぱり、なんだかんだ言って好きでしょうがないのだ。
 最初からおしまいまで面白いアンソロジーなので、ぜひ手に取って読んでもらいたい。掲載順もよく考えられていて(特に澤村伊智から牧野修、平山夢明、伴名練、王谷晶の並びがすごかった……)、頭から順に読むことをおすすめしたい。


■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)などがある。

オーブランの少女 (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2016-03-22


戦場のコックたち (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2019-08-09