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●10月某日 『雨の島』呉明益

 何だか最近、妙に焦ってしまうのだと、東京創元社の前担当Fさんに相談する。文章を書くのもなんだか焦るし、家の中をうろうろしてしまう。おそらく不安からくる焦りなのだけれど、その源は、Covid-19新型コロナの圧迫感が強いことと、大事な猫を一頭、癌で亡くしてしまったせいもあるかもしれない。
  そう電話で話してみたら、「読書日記をやってみませんか」と薦められた。自分の感じたことや、本を読んだ感想なんかを言語化して整理してみることは、確かに私にとって今必要な作業な気がする。それに最近、資料以外の本をろくに読めていなかった。こういう機会があればもっとわしわし読めるかもしれない。
 そうすると現担当のSさんも賛成してくれ、企画があれよあれよと進んでいった。
 ということで、誰が読むかもわからない、深緑野分の読書日記がはじまります。

 住んでいるマンションにて、定期的に行われている防火設備の点検と配水管清掃があった。Covid-19以降、感染対策から基本的に人を家に入れてこなかったので、私は緊張でびくびくしていた。うちに業者さんが来る時間は午後1時過ぎ。その前にと、書評家で同居人のK氏と一緒に早めのお昼を食べた。(最近の我が家、K氏が基本的に夜ご飯を作ってくれ、朝は各自、昼は私かK氏というルーティンになりつつある。私は最近料理をあまり作らず、もっぱら皿を洗っているかパンを焼いている。)
  この日の昼ご飯はさっさと済ませようということで、インスタントの「赤いきつね」うどんを食べた。ふっくりしたお揚げを噛むと、ぐじゅっとお出汁が染み出てうまい。第五波の時に「万が一動けなくなったら」と1ダース買って、あと5個のうどんが残っている。
 ついに業者さんが来る。最初の防火設備点検はうまくいったのだが、その後の配水管清掃の後、大変なことが起きた。洗面所で手を洗っていたら、足下がぐしょ濡れになった。
  水漏れである。
  どうも洗面所の下の収納棚に物を詰め込みすぎ、老朽化した配水管が傷み、そこに清掃が相俟(あいま)って割れてしまったらしい。急遽業者さんを呼び戻して応急処置をしてもらう。結局、器材があるか数日以内に確認して、再度本格的な修繕となるという。また緊張の時がやってくるのかあ……と、私は少し疲れた。

  そうこうしている間――というか、業者さんの応対はほとんどK氏がやってくれたので、私は猫のしおりと一緒に(二頭いたのが、先日こぐちが癌で亡くなってしまったのでしおり一頭だけになってしまった)仕事部屋に籠もっていた。
  それで、次の次の長編のために読み進めていた資料を一冊読み切った。陰鬱な歴史の資料なので内容はしんどいが、異国のとある街の古い地図を参照しながら読むのはとても楽しい作業である。ただ漫然と文字を追うよりもずっと現実感が増してくる。通りや広場の名前を次々メモして、どの場所で何が起きたのかを見ていくと、知らないはずの街がずんずんと立ち上ってくる。まだ調べはじめたばかりなだけに、本当に小説にできるのかと途方に暮れそうにもなるが、雄弁な市民の声や地図の導きに耳を澄ませると、そこに降り立って共に暮らしているような気になる。

  とりあえず一冊分勉強したので、好きな本を読むことにする。平行して読んでいた呉明益『雨の島』(及川茜訳 河出書房新社)の続きを読む。
  そのタイトル通り、降り続ける雨に打たれるような小説。なんだか、泥だらけの心が洗われて、でもその泥の一粒一粒をよく観察して吟味するような小説だ。物語を綴(つづ)る言葉は静かだけれどはっきりとしていて、澄んだ空気を吸うように体に染み渡っていく。そしてとても寂しい。
  作者自身が描いた博物画が短篇の巻頭にあり、ミミズや、鳥、樹木、絶滅した/あるいは絶滅寸前の生物たちの美しい絵を見てから、それぞれの物語に入っていく。さまざまな生物に没入する人々の生きる息づかいを愉しむ。
  全部で6編あるがふたつずつ対になっていて、前の作品の人物が再登場したりする。大切な誰かが残したデータの鍵を渡してくるコンピュータ・ウイルス「裂け目」というSF的要素も相俟って、お話は緩く連関している。このコンピュータ・ウイルスは、たとえば、亡くなった人がコンピュータにこっそり残していたデータや書き物などを、ウイルスが「鍵」として、親しい者に届けるのだ。
 『雨の島』には生と死のにおいが満ちている。生命力を謳(うた)う作品もあれば、死のそばでその体臭をずっと嗅いでいるような作品もある。
  登場人物たちはみな、どこか「人と違う」。そして大いなる自然と向き合っている。ミミズを採集していたり、鳥の声を聞き分けられたり、樹木を登攀(とうはん)したり――誰かといてもいつも孤独で、何かを捜していて、「裂け目」から受け取った鍵を使うかどうか逡巡する。
  読んでいてずっと寂しかった。しとしとと降り続ける雨を呆然と眺めている時のあの寂寞感(せきばくかん)にも似ているし、雪の布団をかぶせられて「もう何もしなくていい」と囁(ささや)かれているような諦念もある。それでも、高い高い樹木の上から雲海を見下ろしたり、広大で深い海に船で乗り出したりするような蛮勇さがある。
  生き物が好きな人はとりわけ、もっと寂しくなるだろう。この作品群と生き物、自然は切っても切り離せないから。物語世界を追うだけでなく、人間が滅ぼしてしまった生き物たちに思いを馳せる。
  どこかから飛んでくる「裂け目」の鍵は、いつか、亡き生き物たちからの声に変わるのかもしれない。
 夕飯に発酵白菜と干し椎茸と鶏もも肉と春雨で拵(こしら)えた薬膳鍋を作ってもらって食べた。美味しい。温まる。ありがたい。

雨の島
呉明益
河出書房新社
2021-12-17




「まあまあ良い感じのサワラが釣れたけど食べますか?」
 筋金入りの釣り人のC氏から連絡が来たのは、日曜の夜、アニメの再放送を観ながら夕ご飯を食べ終わったタイミングであった。私は「食べる!」と即答した。
 C氏は、同居人K氏の大学の後輩で、以前は書評家の杉江松恋さんの手伝いなどをしていた人だ。今は会社に勤めつつ、私が体調を崩した2019年頃から、メールの代筆やスケジュール管理などのマネージャー業をしてくれている。私はメールを書いたりスケジュールを組んだりするのがひどく苦手なので、とても助かる。ちなみに友人ではあるがお給料はちゃんと支払っている。世の中ギブアンドテイクだ。
「じゃあ今から行きますんで」
 釣り場から車でうちまでやって来てくれるというC氏に御礼をせねばと、家の中にあるものをひっくり返して、何か良いものはないかと、K氏ともども探し回った。新型コロナの第五波が来た時や、こぐちの癌を知った際に食欲が一切なくなった時などに、いろいろと備蓄しておいたものが、書庫の中に積んであるのだ。いまから新品を買いに行く時間はないしもう夜だし、とりあえず未開封で賞味期限も長くて迷惑にならなそうなものを探し回る。
 お菓子。うーん、だいたい開封しちゃってるし、そもそもC氏は健康志向で、時々私にはよくわからない妙な体力作りやダイエットに凝っているから、普通にお菓子をあげたら迷惑かもしれない。以前オートミールを勧められて、うちも二袋ほど買ってある。ひとつはほとんど食べてしまったがもう一袋は開けてない。
「彼も食べてるしオートミールがいいんじゃないか」
「いや、最近は食べてないって言ってた」
 次に別の箱を開けてみる。まだ開けてないはちみつが三つ四つある。
「はちみつがいいんじゃないか」
「はちみつ食べるかなあ……」
 別の箱を開ける。大量のINゼリーが出てくる。
「カロリー摂れるしこれがいいんじゃないか」
「あまりにも余り物すぎないか」
 結局、INゼリーのエネルギーチャージと、私が趣味で買い集めている新品のノートの中から、伊東屋の魚ノート(アジ柄とかマグロ柄とかがある)をあげることにする。ついでに紅茶のサンプル品も入れる(なんでここで唐突に紅茶のサンプル品なんだ、と自分で突っ込む)。
 C氏は無事やって来て、K氏と一緒に出迎えると、すでに捌(さば)いて柵状にしたサワラを渡してくれる。
「刺身にできます」
 サワラの刺身は食べたことがないので大変嬉しい。御礼と言っては何だが……と、例のがんばってかき集めた御礼類を渡すと、「おばあちゃんちに行ったみたい」と笑われる。言われて見れば、母方の親類縁者がみんなこういう感じで、誰か来たり何か送ったりする時に、なんだかんだと入れまくる癖があるのである。私もそのひとりだったというわけだ。
 もう10年近くの友だち付き合いが続いているC氏は根っからの魚好きで、土日というと釣りに出ている。土日どころじゃなく平日でも釣ってるので、行ける時にばっと行ってくるスタンスなんだろう。彼が言うルアーや釣り竿や釣法の話は99%わからない。以前一緒に釣りをしたときに教えてもらったサビキ釣りだけわかる。ちなみに彼は短篇「新しい音楽、海賊ラジオ」『カミサマはそういない』収録)のアカザカナという青年のモデルになった。主人公も彼の友人だったりする。

 頂いたサワラは無事に、翌日の夕飯になった。大きなサワラだったので柵の半分を刺身にして食べる。「炙(あぶ)るとうまい」らしい。以前C氏本人からもらったバーナーで炙る。これがすこぶるおいしい。脂が乗っていて、でも炙ったことでさっぱりと食べられる。しかも生臭くない。サワラというのはサバと同じ分類らしい。確かに皮はサバっぽい斑点がある。皮を剥ぐのはちょっと難儀したが……
 次の日は残った柵の半身でしゃぶしゃぶにする。ちょうどこぐちが亡くなって二ヶ月目の月命日なので、しょんぼりしている。こぐちの骨壺が入った袋を撫でると、こぐちみたいにつるつるすべすべする。あの子はとても毛並みの柔らな子で、触ると、ちゅるんとした。

 その後、リュドミラ・ウリツカヤ著『子供時代』ウラジーミル・リュバロフ絵(沼野恭子訳 新潮クレスト・ブックス)を読む。
 こんな掌編集が書けたら、と思う。
 大祖国戦争(つまり第二次世界大戦)が終わった後、まだスターリン時代にある1950年代のソ連で、子供時代を過ごした著者が書く短篇集。とても素朴で小さい物語のなかに、きらりと光る穏やかな奇跡を含ませてある。
 巻頭の「キャベツの奇跡」からして、こんなに普遍的なのに心を揺さぶられる物語が書けるなんて、と驚く。ソ連お馴染みの長い行列でキャベツを買うよう、おばあさんから命じられた幼い姉妹だったが、お金を入れたポケットには穴が空いていて……しかも、このおばあさんはいつ姉妹を追い出すとも知れないくらい、彼女たちをお荷物だと思っている。この10ページにも満たない、短い短い物語に確かに存在する、人生の面白さ、豊かさといったら。
 とりわけ気に入ったのが「釘」という掌編。妹が産まれるというので、夏の間だけ都会の家(おそらくモスクワ)から田舎の親戚の家に預けられた少年は、生活の違いやおじいさんおばあさんたちの風貌にびくつきながら初日を迎える。少年は最初、羊さえわからなくて「変てこな犬!」と言うくらいだの都会っ子だし、田舎の家にあるものすべてが、「絵本に描かれてる絵みたいだ」と思う。大きなスープの鍋がどんと食卓に置かれるが、個々の皿はなく、みんな直接スプーンを突っ込んで、こぼさず器用に飲む。戸惑う少年におばあさんが「都会風に慣れちまったんだね」と言って少年用の皿を持ってくる。
 涙を堪えながら、どうにか田舎の生活に馴染もうとする少年に、ひいおじいさんが声をかける。釘を打つやり方と、釘を抜くやり方。悪戦苦闘しながらも少年はうまく釘を扱えるようになっていく。そしてひいおじいさんはとあるものを作りはじめるが――
 この物語は、田舎に馴染もうと奮戦する都会の少年の物語であり、都会の少年を優しく迎えようとする田舎の人々の物語でもある。それでいて、このひいおじいさんが何を作っていたかに「あっ」と驚かされる。邂逅しつつも、価値観や人生のやり方の「決定的な違い」を見事に描いている。誰もが子供の頃、思いもよらぬ「差異」に触れて、それをずっとずっと覚えているような出来事を経験していると思う。掌編「釘」は、そんな瞬間を驚くほど鮮やかに――しかも当たり前のような顔をして――描き出した小説である。

子供時代 (新潮クレスト・ブックス)
リュドミラ ウリツカヤ
新潮社
2015-06-30


 
●11月某日 『だれも死なない日』ジョゼ・サラマーゴ

 新作の準備のために、漫画家の速水螺旋人(はやみ・らせんじん)さんにご足労頂いてお目にかかってきた。
 それなのに私、お訊きしたいことはいろいろあるのに、なんともふわっとしたことばかり窺(うかが)ってしまう。緊張もある。しかし新作を書く時の準備とはだいたいこういうものだよなあ、とも思う。文献や資料を少しずつ読み始めるも、そもそも空気感とかそういったものがなかなか摑めないので、先達や先輩にお話を聞いてみたいとなるのだ。
 雑談しつつ、ロシア/ソ連について窺いつつ。自分の中に存在している物語の種明かしをしながら、答え合わせを手伝って頂く。建築や住宅史の専門の方をご紹介頂くことにもなった。速水さんには本当にいつもおんぶに抱っこでお世話になりっぱなしである。
 そんな雑談の中で、映画監督リドリー・スコットの「画」の強さの話になる。作家の個性の話になるのかもしれないが、確かにリドリー・スコットの「画」はすごく強い。以前、飛行機に乗っていたとき、斜め向かいの人が映画を観ていて、それが『プロメテウス』か『エイリアン:コヴェナント』のどちらかだとすぐにわかった。ちなみにどちらも私は未見である。それなのに、画だけで「あ、リドスコの映画を観ているな」とわかったのだ。機内プログラムを確認したら『プロメテウス』だったことが判明した。そういえば他にもそういう監督がいた。ヒッチコックだ。私は当時まだ十代で、『ハリーの災難』や『ダイヤルMを廻せ!』などは観ていたものの、『サイコ』はまだだった。しかし家のテレビで『サイコ』が映ったとき、すぐにヒッチコックの作品だとわかった。確かに「画」が強い監督というのはある。

 行きは電車だったが、帰りは混むだろうとタクシーを呼んだら、マスクを顎につけている運転手さんであった。たのむ、マスクをしてくれ、とこのご時世なので思う。けれどもしてくれない。時々咳をされる。窓は開いているので換気はされている。うーん。
 新型コロナ禍になってから、本当にささいなこと、たとえば人が咳をするなんてことだって普通の現象だったし、風邪なのかなあー、お大事にね、くらいに思っていたのに、今はちょっとしたことでびくびくしてしまう。感染が下火になってもまだ神経質になっている。
 どっと疲れが来て、ついサツマイモを、砂糖とバターで甘くカロリー高く煮あげて食べてしまう。

 本は、ジョゼ・サラマーゴ『だれも死なない日』(雨沢泰訳 河出書房新社)を読み終わった。これがすごかった。
 ああ、読書とはなんと豊穣な経験を与えてくれるのだろう。
 読み終わって、本を胸に抱いて大の字に寝そべった。ああ、ああ!読書とはなんと凄い経験なのだろう!!手を開いて天井にかざす。私の手はなんともちっぽけだが、ここには血管が走っていて、血が通っている。温かい。命が宿っている。
 恥ずかしながら、ノーベル賞作家でもあるサラマーゴの本を読んだのはこれがはじめてである。
 あらすじはこうだ。ある日突然、その国から「死」(モルト)が消え去った。その国の中だけで、人間だけが死なない。しかし健康体のままの不老不死だったらいいのだが、大けがをしても、危篤状態でも、老いによる寿命でも、痛くて苦しくても、その状態のまま生きながらえて死ぬことができないのだ。
 はじめのうち、人々は不死を喜ぶ。けれども死が訪れないとなると、当然のごとく不具合や不都合が起こり始める。たとえば葬儀会社や保険会社は倒産の憂き目を見るし、介護施設は延々続く老人介護を予想して困り果てるなど、とにかく「死」が訪れないことによって国は右往左往する羽目になる。いまの新型コロナで右往左往する国や自分たちみたいだ。
 やがて、とある家族が老いた父と危篤の赤子を連れて国境を越えてしまう。国境を越えればまだ「死」が機能しているからだ。人々はこっそり臨終間際の人を運びはじめ、そこからマーフィア(マフィアではない)と呼ばれる「自殺」請け負い組織が現れ、隣国との争い一歩手前にまで進展し、国中のシステムが大混乱に陥る。
 そんなこんなで数ヶ月が過ぎ去ったある日、テレビプロデューサーのもとに一通の紫色の封筒が届く。

「死」(モルト)がいなくなったらどうなるかというアイデア自体を、もし私が書くとしたら短篇か中篇で書ききってしまうだろう。しかしサラマーゴはそうしない。会話文と地の文が同居する独特の文体で、直面するひとつひとつの問題を馬鹿馬鹿しいくらい論理的に書き記してみたり、悲劇をあっさりと通り過ぎてみたりして、読み飽きさせない。ぐいぐいぐいぐいと読まされて、そして読者は「小文字の「死」(モルト)」と出会う。
 
 豊かな物語だ。私のような凡百の作家ではアイデアだけで突っ走ってしまうところを、長編で、かみ応えのある、とても栄養価の高い物語にしあげてくる。なぜこんなことができてしまうのか――まるで手品みたい、魔術師みたいだ。そうだ、これは魔術師が書いた本だ。
 けれどもサラマーゴは作中でこう言う。
「言葉は動きます。昨日から今日へと影のように落ち着かず、変化するのです。言葉はそれ自体が影であり、現存すると同時に存在するのをやめている、石鹸(せっけん)のあぶく、ささやき声がかろうじて聞き取れる貝殻、たんなる木の切り株です。」
 美しい。唸るほどうらやましい。言葉がむちゃくちゃ卓越なくせにこんなことを書く。いや、卓越だから言えちゃうのか。これほど芳醇な表現ができたら、どれほど楽しいだろうか。

「ああ、人生はそんなものだ、と彼はつぶやいた。
それは間違っていた。人生は必ずしもそんなものではない。」
 滑稽で、皮肉っぽくて、スリリングで、陰鬱で、それでいて愛と人生の不可解な明るさに満ちている。傑作本である。

だれも死なない日
ジョゼ・サラマーゴ
河出書房新社
2010-01-01



●11月某日 『シンプルノットローファー』衿沢世衣子

 休みを取らずに働いていたら、マネージャーのC氏が「気分転換に旅行してきて!」と何度も言うので、そんなに言うなら行ってやらあ!とばかりに、翌日から一泊分のホテルを予約し、ひとり旅、敢行!となった。
 私はかなりの小心者なのだけれども、自分でもどうかと思うくらいに突然行動に出る性格でもあり、すぐビビるわりに蛮勇なところがある。たとえば、勉強しても頭に入ってこない!と悲鳴を上げながらも外国が舞台の話を書いてしまったり、ポーランド語はおろか英語も話せないのに、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を訪れるため、いきなり単身でポーランドへ旅立ったりしてきた。

 さて、今回のひとり旅の先は比較的近隣のH市である。電車で一時間かそこらで着いてしまうが、山や渓流などがたくさんあって、ちょうど気分転換にいいかなと思ったのだ。
 よく晴れた日だ、突貫で向かってよかった。予約していたホテルに荷物を預け、徒歩でも行ける距離の渓谷へ向かう。といっても、自宅に籠もってばかりの怠けた体に、一時間近い往路はかなりきつかった。スマートフォンの地図を見ながらどうにか渓谷の入口につき、渓流をせっせと散策する。足場は、多少舗装されてはいるもののほとんどが自然のままで、迂闊(うかつ)には上れないほど大きな岩もごろごろしている。気温がなかなか下がりきらないせいか紅葉はさほどでもない。それでも、川の音、様々な鳥の声に耳を傾け、自然の中に体を馴染ませていく感覚は何にも代えがたく、自分を保つ養分となる。思えば子どもの時分から、自然の中で遊んで暮らしていてそれが普通だったので、本当は今のように引きこもっている生活の方が不向きなのだ。
 水は透明で、とうとうと流れ、深くなるほど青く、岩の隙間に小さな魚影も見える。だんだん心に良いものが芽生え、にょきにょきと育っていく。

 一時間ほどの渓谷散策を終えてから、さらに四十分ほど歩いて、山へ向かった。標高200mにも満たない小柄な山なので登山時間はせいぜい二十分ほどだけれど、見晴らしは良く、東京スカイツリーから丹沢の尾根まで見渡せる。
 それにしても足腰を鍛えなければなと痛感する。駅についてからここまでで三、四時間近く歩いたが、すでに膝の裏が痛い。
 帰りの道はいくつか分岐していて、人がいない方、いない方を選んでいたら、本当に誰ひとりいない場所に出た。そこでほんの少しだけマスクを取って深呼吸した。木々のつんとした香りと土のふくよかな匂い、芳しくて清廉な空気が一気に入り込んで、まるで遠いどこかに来たみたいだった。またマスクをつけて町に戻りながら、来られてよかったとしみじみ思う。

 ホテルに帰ってみると、足が棒どころか鉄みたいになって、ごちごちのだるだるだった。シャワーを浴びて熱いお風呂に入り、ベッドにくるまって、ぐーんと足を伸ばす。いやはや、本当に疲れ切っていたが、まだ日が落ちたばかりで寝るには惜しい。
 旅といえば本、だけれども、実は今回本を持参しなかった。帰宅してから消毒するわけにもいかないので、最近は持ち歩かないようにしているのだ。それで、スマートフォンの電子書籍に入れていた漫画の、衿沢世衣子『シンプルノットローファー』(太田出版)を読む。
 とある女子中学校/高校が舞台の、オムニバスストーリーで、13話が収録されている。冒頭のプロローグで、糸が切れた凧を見つけ、凧糸を捜そうと校内をめぐるところで、これから各話に登場する主人公たちの顔ぶれがわかってくるのも面白い。
 日常の何気ない瞬間を切り取った小説や漫画は数多いが、『シンプルノットローファー』は、確かに何気ないかもしれないけど、本当は全然何気なくなんかない。当人にとってみれば深刻で重大なことだったり、人と人の関係が、意外な方へ向かったり、とても自然な場所に落着したり、する。そういうのは人生のきらめきだと私はもう知っている年齢だが、若い彼女たちはまだそれを知らない。それだからいいのだとも思う。
 そういう点でもとりわけ好きなのが、「トップシークレット」「ハイロースト」
 「トップシークレット」は、笑ってしまうけれど本人にとっては大問題(そして同じ問題を抱えている人は多いんじゃなかろうか)な話である。きれい好きで掃除好きとして知られている〝ツダ〟の家に友だちが料理を作りに来ることになったのだが、実は〝ツダ〟は学校で見せている顔と違い、家はいわゆる「汚部屋」で、「物が捨てられない」人なのである。さあ大変、面子を守るために部屋を片付けなければ!しかしどこへ?何を?どうやって?衿沢世衣子らしくオチはガクッときてしまうが、なんだか一緒になって笑っちゃう一編だ。
 「ハイロースト」は、珈琲好きでクール、とかく冷静で行動が素早い〝くぐみ〟と、やる気はあるけど万年遅刻の〝森〟が一緒に週番になってしまう話。こちらはふたりの「全然違うキャラクター」がふと融合するケミカルな物語である。私はこういう話に弱くて、いいなあ、としみじみ思う。普段、生活圏も行動時間も違うふたりが、ある目的を達するために行動した結果、ほんの少し互いの見方が変わる話には、いくつになってもぐっと心を摑まれる。
 最後のページに生徒たちのプロフィールが載っているのも楽しくて、私にも確かにいた友人たちのことを思い出した。
 衿沢世衣子の漫画は他に『向こう町ガール八景』(青林工藝舎)を読んでいて、こちらには「大晦日と元旦の日付が変わる瞬間にジャンプして地球にいない」ということを実践している子どもの話とかあって好きだった。
 
 そんな漫画を読みながら、だるだるした足を揉んだり伸ばしたりしつつ、ホテルでまったりしていた充実の旅行でした。

シンプルノットローファー
衿沢 世衣子
太田出版
2013-10-16



●12月某日 『百年と一日』柴崎友香

 拙作『この本を盗む者は』(KADOKAWA)が、お陰様で、繁体字に翻訳されて台湾にて刊行!……と相成り、月末の発売日に向けていろいろと企画が動いている。その中に、サイン本作成が含まれていた。本に直接書くのではなく、見返しか中扉の部分に該当する紙にサインを書いて台湾に送り、製本するとのこと。そういえば『カミサマはそういない』(集英社)のサイン本作成の際もデルタ株蔓延(まんえん)の真っ只中だったので、見返し紙を自宅に送ってもらい、サインをして、後から製本してもらったのだった。
 3時間かけてわっせわっせとサイン紙を作っていく。台湾の本なので日本の紙とはまたちょっと違う。海外で出版する自作にサインをするのははじめてなので、かなり緊張した。
 本当は、出来上がった本に直接サインするのが嬉しいし感慨深いのだが、時世柄そうも言ってられない。そもそも本、まだできてないし。
 やっと終わった頃には日も暮れて、カラスがカアカア鳴いていた。

 夕飯はセリ鍋。同居人K氏が作ってくれたのだが、セリの根がうまいらしいとのことで、洗うのは私がやる。歯ブラシでこれまたわっせわっせと泥を取るが、どこから泥でどこから茎なのかよく見ないとわからない。しかし最終的にはきれいに洗えて、美味しいセリ鍋ができた。鴨があったら最高だけど、今回は普通に鶏もも肉。

 さて読書。
 柴崎友香『百年と一日』(筑摩書房)を読み終わる。
 読みながら「寂しい、寂しい」と呟き続けていたけれど、寂しいというか、「こわくてきれい」(引用)なのだと154ページ目を読んでいて思った。
 全185ページのなかに、ごく短い掌編を33編も集めた短篇集であるが、『百年と一日』という長編としても読める、と思う。区切りの良い百年という数字に、半端な一日を足して、『百年と一日』
 物語の舞台はそれぞれ、急行の止まらない各駅停車の一駅や、寂れた名画座、ビルの奥まった場所にあるカフェ、屋上にあるプレハブ小屋、川べりに立った家など多種多様で、そこには流れる時間と人生がある。主人公はひとりの場合もあれば、糸をたぐるように物語を遡(さかのぼ)って、違う人間の別の人生を歩くこともある。
 不条理なものや奇妙なものが多く、私の好みのどストライクだった。特に気に入っている短篇のひとつが、トタン壁でできたラーメン店『未来軒』の物語だ。このラーメン屋が立った当初は両隣の店も安普請で、裏手には長屋があるような場所だった。しかし一帯はいつしか高値が着くようになり、みんな店を売りに出すなか、『未来軒』は――という話なのだが、なんともいい塩梅の終わり方をする。そうか、とにっこりしてしまう。
 また、各駅停車を降りてふと入った不動産でそのまま部屋を借りてしまう男の話や、男児が産まれるとなぜか名前に「正」の字を継承し続ける銭湯の話もいい。
 いや正直、全編素晴らしいのだが、自動車事故にあった水島と、その時ドライバーだった横田の話も好きだ。どんなことを普段考えていたらこんなエンディングを思いつけるのだろうかと、同じ作家として素朴に不思議に思う。すごいことである。
 
 本人はシンプルだと思っている人生に、奇妙な曲がり角や、〝トマソン〟のような、何らかの事情でどこへも繋がらなくなった扉や階段がある。宙ぶらりんに浮かんだ、あるいは壁にめり込んだ扉や階段のその先に、驚きの風景が広がった後、何ごともなかったかのように静かに断ち切られる。きっと〝トマソン〟は、誰の人生にも不意に現れるのだろう。そしてこの〝トマソン〟感が、百年にプラスされた半端な一日、なのかもしれない。
 覚えていたいこと、忘れてしまうこと、記憶違い。誰かを得ては失い、場所を得ては失い、その一方で、誰かが残り、場所が残り、時間は再び進む。こうした繰り返しの中に〝人生〟があるのか、それともこの絶え間ない繰り返しを〝人生〟と呼んでいるのだろうか。人も生き、場所も生き、時間も生きる。生は不思議に曲がりくねりながら、どこかには落着する。
 読者はこの33編ある小宇宙のひとつひとつと手のひらを合わせていく。私はあなたでもあって、あなたと私は違う人間でもある。この場所は知っているようで、知らない。近づいたと思ったら、指先をかすめ、ぐうっと遠くへ行ってしまう。でもそれがすこぶるいい。寂しいけれど「こわくてきれい」なのはそのせいだと思う。
〝シンプルな人生〟の思いもよらない一瞬、でも大きな亀裂にもなり得る分岐点を、プリズムのように輝かせ、色とりどりに見せてくれる、傑作掌編集である。

 翌日、冬の快晴の日に、近くの大きな公園へ散歩に出かけた。その帰りに近所の畑の野菜直売所で、ものすごい豊かな葉付きの大根を買った。値段は100円だった。安すぎる。
 葉はごま油で炒めて、醤油、みりん、酒、鰹節で味付けをする。おいしい。
 そういえば『百年と一日』にも大根が出てくる話がある。祖母の畑では見事な大根が獲れるのだが、主人公のわたしは大根が売っていない町に住んでいて、無性に大根が食べたくなる。そして大根の栽培を試みるが――という話。

 故郷とは違う場所に住む主人公の話から、あ、そういえばと、ずいぶん前に読んだハン・ガン『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳 河出書房新社)を思い出した。これがまた素晴らしい短篇集で、とても寂しい小説なのだ。こちらは〝祈り〟や〝鎮魂〟の色合いがとても濃く、そして著者自身のまなざし(生まれてすぐ亡くなった姉のことなど)が強い。美しく哀しい詩のようでもある。こちらもぜひ読んで頂きたい。

百年と一日
柴崎友香
筑摩書房
2020-07-15



■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)などがある。

オーブランの少女 (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2016-03-22


戦場のコックたち (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2019-08-09