アシモフのSFにおける「科学的」
思考法の真骨頂「心理歴史学」
堺三保 Mitsuyasu SAKAI
本書は、アイザック・アシモフの《銀河帝国の興亡》シリーズ初期三部作の第二部Foundation and Empire (1952) の新訳版である(初期としたのは最初の三部作が一九五三年に完結したあと、八〇年代になって第四部、五部となる『ファウンデーションの彼方へ』と『ファウンデーションと地球』が、またそれ以後最晩年にかけて第六部、七部として初期三部作の前日譚となる『ファウンデーションへの序曲』『ファウンデーションの誕生』の四作品が書かれているからだ。今回の創元SF文庫版新訳は初期三部作のみを対象としている)。
本書は「将軍」"The General" と「ミュール」"The Mule" の二つの中編で構成されており、いずれも初出は第一巻収録のうちの四編と同じく〈アスタウンディング・サイエンス・フィクション〉誌である(「将軍」(雑誌掲載時のタイトルは「死者の手」"Dead Hand")は一九四五年四月号、「ミュール」は一九四五年十一月号と十二月号に分載)。
前巻では、天才数学者ハリ・セルダンが人類の未来を数学的手法で予測する「心理歴史学」を用いて、銀河帝国の崩壊とその後につづく長い暗黒時代を予測、帝国の崩壊は不可避だがその期間を大幅に短縮できるとして、二つのファウンデーションを設立するところから始まり、彼の死後、第一ファウンデーションが数々の危機を乗り越えていったところまでが描かれた。
本書はその後を受け、ついに訪れる銀河帝国と第一ファウンデーションとの対決と、それにつづいて登場する、セルダンも予期していなかった新たな脅威について描いている。
特にこの新たな脅威であるミュールが登場する後半部分は、シリーズ全体を貫く大前提である「心理歴史学」による未来予測が外れるという、大変ショッキングかつスリリングな展開となる。
果たして心理歴史学とその研究結果によって生み出された二つのファウンデーションが、予測し得なかった事態にも対応し、未来の歴史をより良い方向へ導けるかどうかについては第三巻に譲るとして、本稿では心理歴史学という架空の学問について、SF的な設定の側面から考察してみたい。
第一巻の『銀河百科事典』引用部で、アシモフは心理歴史学を「一定の社会的・経済的刺激に対する人間集団の反応を扱う数学の一分野」と定義している。その実態はあくまでも、心理学でも歴史学でもない数学的な予測だと言っているのだ。もっとも、どういった計算にもとづくのかという具体的な手法はまったく記していない。人の行動は属する集団が大きければ大きいほど統計学と数学を使って予測できると主張しているだけだ。そして、計算によって導かれた結果に対して、現実の人々がどのように行動していくかを語ることで、読者に心理歴史学の力を否応なく見せつけるのである。
ここがアシモフの巧妙なところだ。つまり大枠のアイデア部分では何の根拠もない大嘘をついておいて、そこから生じる事物については論理的な整合性を示しながら展開させるので、読者はついつい疑うことを忘れて物語に没入してしまう。
とはいえ、アシモフの「心理歴史学」というアイデアそのものが張り子の虎だとしても、その先駆性とおもしろさはまったく変わらないし、いまもなお有効だ。いや、いっそ科学的な根拠が存在しない概念そのものであるがゆえに、いまもなお命脈が保たれていると言ってもいい。
同じことはアシモフのもうひとつの代表作である《陽電子ロボット》ものの作品群にも当てはまる。『わたしはロボット』『鋼鉄都市』をはじめとして、アシモフは作中に登場するロボットが高度な判断力を有する理由を「陽電子頭脳」という装置のおかげとしているが、この陽電子頭脳なるコンピューターの原理についてはまったく説明していない(アシモフはやはり八〇年代に発表した『夜明けのロボット』『ロボットと帝国』で、その未来史を《銀河帝国》シリーズとつなげている)。
そして、《銀河帝国》シリーズと同様、《陽電子ロボット》ものもまた、SFのアイデア部分が時の流れに影響されたり風化したりせずに、いまだにそのおもしろさが担保され、人々に楽しまれているのだ。
アシモフは化学の博士号を持つ、いわゆる科学者作家の先駆けのような人だが、そのSF小説で自分の専門分野である化学の知識を存分に使うようなことはほとんどしていない。このあたりが、同じ科学者作家でも、ハル・クレメントやグレゴリイ・ベンフォードといった、自分の専門知識を使った詳細なSF設定を作り上げるタイプのハードSFの書き手といちばん違うところだ。
アシモフはつねに架空の「もしこんなものがあれば?」という大きな嘘をアイデアの核心に置き、そこから論理を紡いでいって驚くべき物語を展開してみせる。それは本シリーズや《陽電子ロボット》ものはもちろん、初期の出世作である短編「夜来たる」(二千年に一度しか夜が来ない惑星が舞台)や、ヒューゴー賞とネビュラ賞をダブル受賞した長編『神々自身』(架空の物質「プルトニウム186」が登場する)にも当てはまる。
つまりアシモフのSFは、その科学的情報の新しさや正確さよりも、設定の論理的な緻密さに真骨頂があるのだ。言い換えると、科学的知識よりも科学的思考法に重点が置かれている。そして、繰り返すが、だからこそアシモフ作品はいまもなおその魅力を保ちつづけているのである。
さて、《銀河帝国》シリーズは配信サービスAppleTV+によってドラマシリーズ化が進行中だ。二〇二一年十一月現在、ちょうど第一シーズン全十話の放送が終わるところで、すでに第二シーズンの製作も発表されている。
SFファンとしても知られ、『ダークシティ』、『ブレイド』、『バットマン ビギンズ』、『マン・オブ・スティール』などの脚本を手がけたデイヴィッド・S・ゴイヤーがこのドラマ版の原案とメイン脚本家を担当し、アイザック・アシモフの娘、ロビン・アシモフと共に製作総指揮に名を連ねている。
いま「ドラマ版の原案」と書いたが、ゴイヤーはアシモフの原作をもとにしながらも、かなり大胆な脚色をおこなっていて、登場人物たちの性格や行動をよりドラマチックに書き換えている(ガアル・ドーニックとサルヴァー・ハーディンが女性になっているのもその一例)のと、世界の描写がより細密でSF的美術に彩られ、原作ではほぼ描かれていない帝国内の描写が多い(クローン体である三人の皇帝の連立政権であったり、自分がロボットであることを隠している宰相がいたり)ところが大きな特徴だ。
特に、帝国内での皇帝らによる権力争いを執拗にとりあげているのが物語上の最大の違いだが、これはこの先、帝国が滅んでいく際、第一ファウンデーションやミュールとの対決を原作以上に克明に描く布石なのだろう。
また、原作では第一巻第一部「心理歴史学者」に登場しただけの人物ガアル・ドーニック(テレビ版ではガール・ドーニック)を、原作に登場しないオリジナル・キャラクターと恋仲にした上で間を引き裂き、一人、亜光速宇宙船に乗せてウラシマ効果で歳を取らせないまま、同第三部「市長」の時代に再登場させたり、その「市長」の主人公であるサルヴァー・ハーディンを、過去や未来を幻視する超能力を持つ「外れ値」の人物として、それぞれ物語の重要な鍵を握る人物に再設定したあたりは、原作ファンの賛否が分かれるところかもしれない。
第一シーズンは原作第一巻(『銀河帝国の興亡1』)の前半部(第一部から第三部)までで、ゴイヤーは、できれば全八シーズン八十話を使って、原作の全七巻(初期三部作および後期四作)をすべて映像化したいと語っている。おそらく、第一シーズンからアンドロイドを登場させているのは、シリーズの後期作や、その前史として《陽電子ロボット》ものとの橋渡しとなる『ロボットと帝国』の物語もこのさき描くための伏線なのではないか。
いったい、どんな物語が展開していくのか、新訳成った原作と比較しながら楽しむのも一興だろう。
二〇二一年十一月