マイケル・イネス(本名ジョン・イネス・マッキントッシュ・スチュアート)は1906年にスコットランドのエディンバラで生まれた。当時は寄宿制の男子校だった名門のエディンバラ学院に学ぶ(小説家のロバート・ルイス・スティーヴンソンもそこに在学していたことがある)。オックスフォード大学に進学して英文学を専攻し、その後ウェスト・ヨークシャー州にあるリーズ大学で講師を務めていた。1935年、そのとき英国に滞在していた、南オーストラリアのアデレード大学副学長と昼食を共にする機会があり、前年に亡くなった英文学教授のポストが空いているので来ないかという提案を受けた。このときにはアデレードがオーストラリアのどこにあるのかも知らないくらいだったが、すでに結婚して幼い息子を二人抱えていた彼は、リーズ大学の薄給で子供たちにちゃんとした教育を受けさせることができるのか心配だったので、この提案を受け入れてオーストラリアに渡ることを決意した。5年という約束だったが、オーストラリア滞在は10年にも及び、ちょうど第二次大戦の時期をそこで過ごしたことになる。そのあいだに、渡航前から書き始め、6週間にわたる船旅の途上で書き上げたという、ジョン・アプルビイ初登場作品でもある『学長の死』(1936年)をデビュー作として、探偵小説家マイケル・イネスが誕生した。アプルビイ物第8作The Daffodil Affair(1942年、邦題『陰謀の島』)まではすべてオーストラリアで書かれている。英国に戻ってからは、後にオックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジで英文学教授を務め、1973年に退職した。本名のJ・I・M・スチュアート名義では、英文学者としての研究書が9冊に、普通小説が20冊。そしてマイケル・イネス名義では、アプルビイ物の長篇が32冊に、それ以外の長篇が13冊。この他にも短篇集が両名義を合わせて10冊あるのだから、いかに多産だったかがおわかりいただけるだろう。読者を大いに楽しませてくれる作品を多数残して、彼が世を去ったのは1994年、88歳のときだった。
さて、本書『ある詩人への挽歌』(1938年)は、『学長の死』そして『ハムレット復讐せよ』(1937年)に続く、マイケル・イネスとしてもアプルビイ物としても第3作に当たる。この作品は、邦訳される前から名作という評判が立っていた。その評価に寄与したのは、英米の探偵小説を幅広く渉猟して原書で読んでいた江戸川乱歩である。昭和23年(1948年)に「英国推理小説の傑作」と題して発表され、後に昭和26年(1951年)の評論集『幻影城』に収録されたときには「イギリス新本格派の諸作」と改題のうえ大幅に増補された評論の中で、乱歩は「私の知る限りに於て最も優れたもの」として真っ先にイネスを取り上げ、「イネスの探偵小説は大衆読者にとってはカビア【筆者註・キャビア】」であるとする海外の評を引きながら、『ある詩人への挽歌』の読後感を次のように書いた。「ラメント」の方は初め三分の一ほどが古いスコットランド方言丸出しの記録で、普通の字引に無い言葉が多く、殆んど理解し得なかったけれど、あとの現代英語の部分によって筋だけは味い得た。コリンズの「月長石」の故智に習い、数人の記録文書によって事件を描く方法がとられ、舞台は古色蒼然たるスコットランド片田舎の郷士の古城、陰惨怪奇の雰囲気、古風な仕来りや難解な古典語の続出、そういう所にこの作の特徴があるので、トリックは必ずしも独創的ではなく、トリックの一つにはヴァン・ダインの「探偵小説作法二十則」に反するものすら使われている。トリックやプロットよりも教養と文体に於て格段に優れた作風であり、あんなに饒舌ではないし、もっと引きしまった文体ではあるが、どことなくセイヤーズの「ナイン・テイラーズ」を思出させるような所がある。
また乱歩は、この評論に先立って、昭和21年(1946年)に発表した「世界探偵小説傑作集」(『幻影城』に「欧米長篇探偵小説ベスト集」と改題して収録)で、「一九三五年以後のベスト・テン」の中にこの『ラメント・フォア・ア・メーカー』を入れた。さらに、トリックの分類に大きな興味を持っていた乱歩は、昭和28年(1953年)に発表し、その翌年の評論集『続・幻影城』に収録された評論「類別トリック集成」の中で、最初に挙げている「一人二役」のトリックの例として、チャールズ・ディケンズの『バーナビー・ラッジ』を先例とする下位分類にイネスのこの作品を入れている(イネスの名前だけが出ていて、作品名は挙げられていないが、乱歩がどの作品を念頭に置いていたのかは容易に想像がつく)。
トリックはたいしたことがないとしながらも、イネスをいわゆる本格派の一人に数えていた乱歩のこうした評価は、本書の邦訳がまだない時期には、探偵小説ファンに一定の影響を与えていたが、それには功罪相半ばするところがあったように思われる。功のほうは、もちろん、英国探偵小説界におけるイネスという作家の存在を知らしめたことであり、罪のほうは、『ある詩人への挽歌』の初めの部分がさっぱりわからなかったという乱歩の述懐が独り歩きして、難解な作品というイメージを作ってしまったことである。
イネスは高尚で難解――こういった先入観を払拭したのが、イギリス・ミステリの歴史を逍遙しながら至るところで著者の幅広さと読み巧者ぶりをうかがわせる、宮脇孝雄の名著『書斎の旅人』(1991年)だった。ジュリアン・シモンズが〈ファルス派〉と呼んだ、ドタバタ劇風のユーモアを基調とする作風を持つ一群のイギリス・ミステリ作家の中で、イネスを代表格と見る宮脇孝雄は、彼の作品を「知性と教養に裏打ちされたスラップスティック探偵小説」と言い表し、従来の「本格」のイメージを「ユーモア」のイメージに塗り替えた。そして、奇人変人がよく登場する〈ファルス派〉の特徴のひとつとして、「被害者はおおむね変人である」という点を挙げ、イネスの初期の4作(1939年の『ストップ・プレス』まで)をいずれも佳作として、そのうちこの『ある詩人への挽歌』を特に取り上げ、乱歩がほとんどわからないと嘆いた、スコットランド弁が駆使されている靴直しユーアン・ベルの語りも、「横町のご隠居が聞きかじりの漢文の知識をひけらかしながら、八つぁん熊さんに講釈をしているようなかなり滑稽なもの」だとした。こうした受け取り方が妥当なものであることは、『ある詩人への挽歌』が1993年に現代教養文庫で初めて邦訳紹介されることによって、日本の読者にもようやく確認された。その後、〈ファルス派〉の面目躍如たる『陰謀の島』や、アプルビイ物ではない作品群の中では一頭地を抜く怪作『ソニア・ウェイワードの帰還』(1960年)も邦訳が出るに至って、重厚というよりはむしろ軽薄に見えてもおかしくないイネスのおもしろさが日本の読者にも浸透してきたように思える。今回の『ある詩人への挽歌』新訳の意義は、まずそうしたイネスの楽しさを再確認できる点にあるだろう。
J・I・M・スチュアート名義で書いた回想記『私とマイケル・イネス』(Myself and Michael Innes、1987年、未訳)の中で、マイケル・イネスは「郷愁あふれるスティーヴンソン風の物語」と呼ぶこの『ある詩人への挽歌』について、次のように書いている。
『ある詩人への挽歌』は『バラントレーの若殿』の匂いがぷんぷんしていると言われたことがある。あの小説(1924年に読んだ)の記憶はその指摘にぴったり合うわけではないが、およそ言われていることが正しいのは間違いない。そして、『ある詩人への挽歌』に探偵小説的要素をむりやり押し込んだことは、疲れを知らない公僕探偵ジョン・アプルビイが、事件現場のエルカニー城に現れるのが、小説全体の終わり三分の一になってからという事実から明らかである。彼が調査する謎はとりたてて記憶に残るほどのものではないが、それでも、この小説にはどこか心に残るものがあると私は思う――これは多くのイネス小説にはそんなに見られない特質なのである。
ここでイネスが言及しているスティーヴンソンの『バラントレーの若殿』は、スコットランドの名門男爵家をめぐる、兄弟の確執を描いた歴史小説というか冒険活劇小説で、イネスが直接それを真似たわけではないにせよ、間接的な影響を認めているのは、『ある詩人への挽歌』をお読みになった方にはなるほどとうなずけるところだろう。
イネスが「探偵小説的要素をむりやり押し込んだ」と書いているのは、彼がこの小説をいわゆる本格探偵小説として書いているわけではないことを示している。『ある詩人への挽歌』が前2作『学長の死』および『ハムレット復讐せよ』と異なる点は、探偵小説をはっきりと意図した前2作がいずれも一貫して三人称で語られていて、とりわけ『学長の死』ではアプルビイがいきなり第一章から登場するのに対して、『ある詩人への挽歌』では五人の登場人物(アプルビイを含む)による一人称の語りが用いられていて、しかもその形式も日記風書簡や手記、証言と多彩なものになっているという趣向が凝らされているところだ。
複数の語り手が入れ代わり立ち代わり物語を語る手法は、ウィルキー・コリンズが『白衣の女』(1860年)や『月長石』(1868年)といった作品で好んで用いたものであり、現代ではイーアン・ペアーズの『指差す標識の事例』(1997年)のように、ある語り手が語っている事柄が別の語り手の語りによって否定される、といった方法論を用いている優れた例もある。『ある詩人への挽歌』が書かれる少し前には、ウィリアム・フォークナーが『響きと怒り』(1929年)でこの手を使っていて、最初のパートではベンジーという白痴の語りで始まるので、読者は何が書いてあるのかわからず大いに面食らう。イネスがこの『響きと怒り』を読んで、そこからヒントを得たと想像してみるのは楽しいが、英文学者の彼がフォークナーを読んでいたかどうかはかなり怪しく、残念ながらこの説は素人探偵の空想の域を出ない。
『ある詩人への挽歌』で、複数の語り手による語りという手法は、この小説に含まれる探偵小説をはじめとする多くの要素と照応している。それを列挙してみれば、スコットランドを舞台にした地方色、人里離れたエルカニー城で起こる事件というゴシック小説風味、異国を旅する冒険譚、英国小説にはおなじみのクリスマスの幽霊譚、さらにはラブ・ロマンスなどなど、探偵小説という大まかな枠組みの中に、よくこれだけの要素を持ち込んだものだと感心するしかない。
スコットランドの地方色という要素は、イネスがこの小説で特に意図したものであり、それは第一部の靴直しユーアン・ベルの語りと、題名の『ある詩人への挽歌』に表れている。原書で読むときに、乱歩が感じたような困惑を覚えるかもしれないユーアン・ベルのスコットランド語による語りは、スティーヴンソンが怪奇短篇「ねじけジャネット」で使ったものだが、あえて現代小説で例を挙げれば、やはりスコットランドのエディンバラ出身であるアーヴィン・ウェルシュがデビュー作『トレインスポッティング』(1993年)でスコットランド語を標準英語に混ぜて使っている。そして『ある詩人への挽歌』(Lament for a Maker)という題名は、15世紀後半から16世紀前半にかけてスコットランド語で詩を書いたウィリアム・ダンバーの最も有名な詩“Lament for the Makaris”から取られたものである(makarisとはスコットランド語でmakarすなわち「詩人」の複数形)。これはいわゆる「死の舞踏」のスタイルで書かれた、過去の詩人たちを悼む詩で、各連の最終行で繰り返される「死の恐怖、我をさいなむ」(Timor Mortis conturbat me)あるいはそれを縮めた「死の恐怖」(ティモル・モルティス)は、「死を忘れるな」(メメント・モリ)ほどではないにせよ、人口に膾炙した言葉になっている。
第二部は、ノエル・ギルビイという青年が恋人ダイアナ・サンズに宛てた日記風書簡という体裁で語られる。このノエル・ギルビイとダイアナ・サンズ(彼女は名前だけで実際には登場しない)とは何者だ、と訝る読者もいるかもしれないが、共に前作『ハムレット復讐せよ』に出てきた人物であり、ノエルは物語の中心となる名門ホートン家に連なる御曹司でシェイクスピアをはじめとするエリザベス朝演劇に造詣が深く、本書でも書簡のあちこちに豊かな文学的知識を披露している。そしてダイアナは、いわゆる「新しい女」と呼ばれるタイプの、ノエルが熱を上げている相手として登場する。つまり、この二人はアプルビイと並んで、忠実な読者に対するイネスの目配せなのだ。
ここまでが本書の約半分で、第三部「アルジョー・ウェダーバーンの調査報告」からは事件の真相究明編となる。実を言うと、読者としてわたしが心配したのはそこだ。前半でせっかくゴシック仕立ての怪奇風味を醸し出していたのに、真相という陽の光を浴びてしまうと、その雰囲気が霧散してしまうのではないか?
わたしの心配はまったくの杞憂だった。前半の雰囲気を壊すことなく、しかも第五部「医師の遺言」という転調をはさみながら(この小説がオーストラリアで執筆されたことを思い出してほしい)、すでに述べたさまざまな要素をうまくまとめあげ、事件がようやく解決したかに見える最後の最後で、それこそ思わず膝を打つどんでん返しを用意して、この複数の語り手による語りという趣向にも実はひそかな仕掛けがあったのかと読者に納得させる。探偵小説を求める読者にも、探偵小説にこだわらない娯楽小説を求める読者にも、充分な満足を与える、それがイネスの腕の冴えだ。『学長の死』や『ハムレット復讐せよ』では、いささか探偵小説としてのプロットが凝りすぎた恨みがあったが、ここではそうした不満も解消され、イネスにしか書けない奇想をまじえた小説に仕上がっている。つまり『ある詩人への挽歌』は、イネスが初めてイネスらしい〈ファルス派〉の個性を存分に発揮した傑作なのだ。しかしそれにしても、「学者ネズミ」には参りましたね。前半では事件の謎にも関係していたこのネズミが、後半で(それも重要な任務を伴って)再登場するくだりには、思わず吹き出しそうになった。イネス以外に、いったい誰がこんな奇想天外なことを思いつけるだろうか。
最後に触れておきたいのは、イネスの作品群に見られる、大袈裟に言えばいわゆるメタフィクショナルな趣向のことである。『学長の死』と『ハムレット復讐せよ』には、英文学を研究するかたわら筆名で探偵小説を書いている、イネス本人を想起させるジャイルズ・ゴットという人物が登場する。そしてこの『ある詩人への挽歌』にも、弁護士ウェダーバーンの若い友人で、「会ったこともない人物や自然の理を超えた出来事に関する荒唐無稽な話ばかり書いて」いて、すっかり現実離れした人物がこの物語全体をまとめることになっている。言うまでもなく、これはイネスの自己戯画化された自画像である。この人物に限らず、本書の語り手たちはみな語ること、書くことが大好きなのだ。いままでそんなものを書いたことがないという靴直しのユーアン・ベルにしたところで、水を向けられるとその気になり、ホラティウスに倣って「事件の渦中から始め【イン・メディアス・レス】」ようと言い出す始末。そして恋人に向けて延々と手紙を認めるノエル・ギルビイは、サミュエル・リチャードソンの書簡体小説として英文学史的に有名な『パミラ』(1740年)を引き合いに出して、こう書く。
君も覚えているだろう、パミラときたら、若主人に貞操をおびやかされるたびに何万語もの手紙を家族に書き送ったんだ。僕は前からパミラが好きだったけど、その理由がわかった。僕は同じ欲望を持っているんだ。彼女とだぜ、若主人のほうじゃないからな。ローマ帝国を研究する歴史家が言われたように、「いつも書き散らし、書き散らしだね、ギボンさん?」というわけだ。
70冊以上の小説を書いたイネスも、きっとこうだったのだろう。彼はまず自分の楽しみのために小説を書いた。回想記の中で、彼は探偵小説についてこう言っている。「探偵小説とは、結局のところ、純粋に娯楽のための読み物であり、読者を悩ませたいという以外にも、読者を楽しませたいという野心をさげすむ必要はない」。書く楽しさと読む楽しさがあふれているのがイネスの作品群であり、『ある詩人への挽歌』はその代表作のひとつなのだ。
■若島正(わかしま・ただし)
1952年京都府生まれ。京都大学卒業。英文学者、翻訳家、アンソロジスト。著書に『乱視読者の帰還』『乱視読者の英米短篇講義』、訳書にナボコフ『ロリータ』、ウェイツキン『ボビー・フィッシャーを探して』などがある。