銀河帝国の興亡(1)【新訳版】: 風雲編 (創元SF文庫 ア)

時代を超えてSF読者の支持を集める
  《銀河帝国の興亡》三部作の開幕編

牧眞司 Shinji MAKI  


 本書『銀河帝国の興亡1』は、アイザック・アシモフの代表作《銀河帝国の興亡》三部作(ファウンデーション・トリロジー)の第一冊目Foundation(1951)の全訳である。
 この三部作は、本文庫では厚木淳訳『銀河帝国の興亡』1~3(初版一九六八~七〇年)として半世紀余にわたるロングセラーになっていたが、デイヴィッド・S・ゴイヤー製作・脚本による実写ドラマ化を期に、鍛治靖子さんに新訳を起こしていただいた。いまの時代にあった瑞々しい言葉によって、この名作を堪能いただきたい。
 まず、本シリーズの基本設定を押さえておこう。
 銀河帝国は首都惑星トランターを中心に一万二千年にわたる発展をつづけ、二千五百万近い居住惑星にその版図を広げていた。人類文明はゆるぎのない繁栄を謳歌している。ほとんどのひとはそう思っていた。しかし、ここにひとり、帝国の滅亡を予見する人物があらわれる。ハリ・セルダン、希代の数学の使い手だ。彼が理論化した心理歴史学(サイコヒストリー)によれば、銀河帝国の衰退はすでにはじまっている。帝国が滅亡すれば、蓄積された知識は消失し、確立された秩序も崩壊する。もはやこの趨勢を食いとめることはできない。しかし、帝国滅亡後につづく三万年もの暗黒時代を、一千年にまで短縮することは可能だ。
 かくして、人類の叡智の避難所として、ふたつのファウンデーションが設置される。第一ファウンデーションは銀河系の最外縁の惑星テルミヌスに。第二ファウンデーションの場所は秘匿され、ただ「銀河系の向こう端、いわゆる“星界の果て”」とだけ伝えられる。
 本書『銀河帝国の興亡1』では、第一ファウンデーションの設置からはじまり、内政的事情・外交的環境が時代とともに移りゆくなか、社会システム(共同体の形態)の変遷が描かれる。

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 翻訳SFに親しんでいる読者ならば、ヒューゴー賞はご存知だろう。世界SF大会参加者の投票によって決定される年次の賞で、設立は一九五三年、翌五四年には実施されなかったものの五五年以降は途切れることなくつづき、SF界でもっとも歴史と権威がある賞となっている。この賞は規約で定められたレギュラーの部門(時代に合うよう随時見直しがおこなわれているが)のほか、当該大会の実行委員会の裁量で特別部門が設定できる。一九六六年に一度だけ「オールタイム・ベスト・シリーズ」の投票が実施され、そのときに受賞したのが《銀河帝国の興亡》三部作である。オールタイム・ベストなのでノミネートされたのはいずれ劣らぬ人気シリーズばかり。参考までに記しておくと、エドガー・ライス・バローズ《火星》、ロバート・A・ハインライン《未来史》、E・E・スミス《レンズマン》、J・R・R・トールキン《指輪物語》だ。これらを抑えての堂々たる栄誉である。
《銀河帝国の興亡》三部作と呼ばれてはいるものの、このシリーズを「三部作」と見なすのはいささか変則的で、内容的には、ひとつらなりの宇宙未来史に属する短編・中編をまとめた三冊本なのだ。なりたちについては後述する。
 実質的には連作集だが、出版企画としては長編の体裁をとる。ほかのジャンルにもあることだが、アメリカSFでは第二次大戦後、雑誌初出の作品を単行本にまとめる際によくおこなわれるようになった。有名なところで言うと、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』やクリフォード・D・シマック『都市』だ。《銀河帝国の興亡》三部作も同様で、書誌的正確を期す場合以外は長編として扱うのが慣例になっている。
 たとえば、SF情報誌〈ローカス〉が一九七五年に実施した読者投票による「オールタイム・ベスト長篇」(SFおよびファンタジイが対象)では、フランク・ハーバート『デューン』、アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』、アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』、ロバート・A・ハインライン『異星の客』、ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』に次いで、《銀河帝国の興亡》三部作が第六位にランクされている。
 少し回り道になるが、〈ローカス〉がときおりおこなうオールタイム・ベスト投票における《銀河帝国の興亡》三部作の戦歴(?)を記しておこう。
 一九八七年実施の「オールタイム・ベストSF長編」(これ以降はファンタジイは別カテゴリになった)では、『デューン』『闇の左手』『地球幼年期の終わり』『月は無慈悲な夜の女王』『異星の客』に次いで第六位。
 一九九八年の「一九九〇年以前作が対象のオールタイム・ベストSF長編」では、『デューン』『月は無慈悲な夜の女王』『闇の左手』に次ぐ第四位。
 〈ローカス〉がオンライン化して以降の二〇一二年に実施された「二十世紀のオールタイム・ベストSF長編」では、『デューン』、オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』に次ぐ第三位となっている。そのうえ、『銀河帝国の興亡1』単体でも四十二位にランクイン。なんとも根強い人気である。
〈ローカス〉の二〇一二年投票には「二十世紀のオールタイム・ベストSF中編(ノヴェレット)」のカテゴリもあり、「ファウンデーション」が三十四位に入っている。これは本書の第二部「百科事典編纂者(エンサイクロペディスト)」の初出時の題名であり、《銀河帝国の興亡》シリーズを代表する一編として票が集まったのだろう。ちなみに、この中編カテゴリ、アシモフ作品は「夜来たる」が二位、「バイセンテニアル・マン」が四位にランクされている(一位はダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」)。

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 なぜ、《銀河帝国の興亡》は時代を超えて、かようにもSF読者から支持されるのか?
 ひとことで言えば、提示されるスケールの大きさだろう。もちろん、たんに広大な宇宙や悠久の時間を扱った作品ならばアシモフ以前にもいくらでも書かれており、むしろSFでは手垢のついた舞台装置である。しかし、《銀河帝国の興亡》はたんなる設定ではなく、大局的な歴史(人類社会の変遷)そのものを主題化した。エピソードごとに個性的な主人公がいて、知略・冒険・葛藤の物語が紡がれるのだが、一歩引いてみれば彼らはけっして特権的な存在ではなく、あくまで歴史の過程を担う要素にすぎない。例外は、銀河帝国崩壊後の暗黒時代を短縮させる〈プラン〉を立てたハリ・セルダンと、その〈プラン〉では予測不能の因子となる謎めいたミュール(『銀河帝国の興亡2』に登場)くらいである。
 本書で言えば、市長サルヴァー・ハーディンも、豪商ホバー・マロウも、万人の幸福のため、あるいは人類の暗黒時代を短縮するため、やがて勃興する第二銀河帝国のためなど、仰々しい目標で行動してはいない。彼らは第一ファウンデーションの難局(「セルダン危機」と呼ばれる)に立ちむかうが、そこで行動原理となるのはあくまで自分の立場・分限における合理と実利だ。〈プラン〉全体で見ればひとつの局面にすぎず、たとえハーディンがいなくてもマロウがいなくても、彼らが担った役割を別な誰かが果たす(あるいは勢力間の拮抗によって実現する)はずだ。プレイヤーが違い細かな筋道が異なったとしても、歴史の大きな流れは変わらない。
 マロウは言う。

セルダン危機を解決するのは個人ではなく歴史的な力だ。未来の歴史の筋道を計画したとき、ハリ・セルダンが考慮したのは、個々の英雄的行為ではなく経済学と社会学の大きな流れだった。

 歴史の流れ。ハーディンの決断や策謀がその局面において妥当であっても、時代や状況が変わればその意味を失う。マロウが達成した社会秩序も、あとの時代では旧弊なシステムとして乗り越えられていく。また、第一ファウンデーションが人類史の正統でありつづけるわけでもなく、実際、後続の『銀河帝国の興亡2』『3』では、その意義や機能が相対化されていくのだ。
 もちろん、歴史の流れが決まっているからと言って、ハーディンやマロウが盤上を動きまわる無個性な駒ということにはならない。そこが心理歴史学なるアイデアの塩梅が良いところで、〈プラン〉がどうあれ、キャラクター一人ひとりが体験する葛藤・冒険・駆け引きは、どれも抜き差しならぬ自分の人生なのだ。笠井潔は「銀河帝国の社会学」(評論集『機械じかけの夢』所収、ちくま学芸文庫)において、次のように述べている。

アシモフは、「心理歴史学」的な計算された歴史が、個々の登場人物の生きられた歴史として肉化されていく過程を作品に描き出したのであり、この過不足ない均衡が作品の安定感と深みを保障しているといってもいい。

 読者はキャラクターに寄りそって物語を追いかけ、クライマックスで背後に大きな歴史が立ちあがるのを見る。物語に「謎」が仕掛けられていて、その謎が明らかになると、いっそう大きな謎(〈プラン〉の次なるステップ)への展望が開けるところが素晴らしい。
 心理歴史学は、気体分子運動論のアナロジーで説明される。つまり、個々の分子がどう振る舞うかは予測できないが、まとまった容積の気体全体の挙動は計算しうる。人間もじゅうぶんに大きな集団になれば、全体の趨勢を統計的に導くことが可能だ。もちろん、社会動勢や人間行動を扱うので、考慮すべきファクターは多い。アシモフが現代に生きていたら、ビッグデータを引きあいに出して説明したところだろう。
 心理歴史学は魅力的なアイデアだが、そこから作品が出発したわけではない。アシモフにインスピレーションを与えたのは、一枚の絵だった。
 一九四一年八月一日、コロンビア大学の大学院生(専攻は化学)にしてデビュー三年目の新人作家だったアシモフは、当時の主要SF誌〈アスタウンディング・サイエンス・フィクション〉(以下〈ASF〉)の編集長ジョン・W・キャンベルを訪ねるため、ニューヨークの地下鉄に乗っていた。そのとき、手にしていたのはギルバート&サリヴァンの戯曲集である。本を開くと「アイオランシ」の箇所で、妖精の女王が歩哨の兵卒の前に身を投げだしている絵があった。そこから連鎖的に想像が膨らみ、銀河帝国の滅亡と封建体制への後退を、それより遙か未来の第二銀河帝国の誰かの視点で描く作品へつながった。
 じつを言うと、アシモフは前々から未来史に野心を燃やしていたのである。プロデビューの前後に、歴史小説の体裁による未来の物語(アシモフ自身は“叙事詩”と考えていた)「巡礼」"Pilgrim" を書きあげていたのだが、この中編はキャンベルの眼鏡に適わず、改稿をしたもののそれもまた通らず(つごう四度の没をくった)、その後に持ちこんだ他誌からも相手にされなかった(この作品は紆余曲折のすえ〈プラネット・ストーリーズ〉に採用され、アシモフに無断で「焔の修道士」"Black Friar of the Flame" と改題のうえ一九四二年二月号で日の目をみることになる)。しかし、今度は成算がある。アシモフはエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』を二度通読していた。これを活用すればいい。
 アシモフが構想を話すと、キャンベルがすぐに乗ってきた。キャンベルは単独の作品ではなく、シリーズ化するようと熱心に提案した。アシモフにとってキャンベルは大切な得意先というレベルを超えて、自分を励まし導いてくれるSFの師である。その彼からの「提案」は、事実上の「指令」だった。

(以下は『銀河帝国の興亡1 風雲編』をお買い求めのうえお読みください)