勝山海百合 Umiyuri KATSUYAMA
本書『オベリスクの門』は、N・K・ジェミシン N. K. Jemisin の〈破壊された地球〉The Broken Earth三部作の二作目で、『第五の季節』(創元SF文庫)の続編、二〇一七年のヒューゴー賞長編部門を受賞したThe Obelisk Gate(2016)の邦訳である。The Broken Earthは、三部作すべてがヒューゴー賞(優れたSF作品に贈られる賞。世界SF大会参加者・登録者の投票で選ばれる)を受賞しており、二〇二一年七月現在、未だ並ぶ者はない。また、ジェミシンはヒューゴー賞長編部門を受賞した初めてのアフリカ系アメリカ人、黒人作家でもある。
本書について触れるまえに、シリーズの設定と、前作『第五の季節』について簡単に紹介する。
〈破壊された地球〉の舞台は、数百年ごとに大規模な天変地異によって〈第五の季節〉(以下〈季節〉)がもたらされる地球である。この地球はわれわれが住む地球とは別の架空の惑星だが、人類が文明を築き歴史を積み重ねている。〈季節〉は容赦なく人類が築いた社会制度や文明を破壊してきた。人口は激減するが、人類は生き延びる知恵を石に刻み、口から口へ伝える形で情報を共有して命脈を保っていた。
熱や運動などのエネルギーを操る特殊能力オロジェニーをもつ者はオロジェンと呼ばれる。
幼い頃から厳しい訓練を受けたオロジェンはスティルネス大陸を支配する帝国で重用されるが、守護も訓練もされない市井のオロジェンは忌み嫌われ、オロジェンとわかれば幼児でも排除することに社会的な合意がある。
『第五の季節』は、〈季節〉が始まった直後、オロジェニーをもつ幼い息子が父親に殺され、遺体が放置された家に母親が帰ってくるところから始まっている。この母親、中年女性のエッスンは息子の死を嘆き悲しんだのち、姿を消した夫と娘を探す旅に出る。
並行して語られるのはオロジェニーをもつ二人の女性の物語で、一人は辺境の小さな村で、家族にも疎まれながら暮らす少女ダマヤ。彼女の元に都会から一人の男が訪ねてきて、一緒に来れば殺されることなく、能力を活かして生きられると言う。選択肢のないダマヤは、この男、守護者と一緒に村を出る。守護者とはオロジェンを守護し、指導する者だが、『第五の季節』を読んだ諸氏は、かれらがどのような存在で、単にオロジェンを守護するだけではないことをすでにご存じだろう。ダマヤは若いオロジェンたちと一緒に暮らし、学び、成長するが、辛くも生き延びたとも言える。訓練中にいなくなる者もいるのだ。もう一人は訓練を積み、帝国にオロジェンとして奉職するサイアナイト。オロジェニーを社会の安定のために使い、制服を身に着け、市民からは敬して遠ざけられている。あるとき、サイアナイトは能力の高いベテランのオロジェンとともに地方都市への出張を命じられる。港の使用を阻む隆起した珊瑚礁の除去のためだが、その途上で訓練から脱落した仲間がどんな扱いを受けているかを目の当たりにする。
娘を探す旅の途上で、エッスンはオロジェンを受け容れているコム(コミュニティ)に引き寄せられるように出会う。地底にある巨大晶洞内のそのコム、カストリマに身を寄せることになるが、コムのリーダーはオロジェンの女性イッカ、かつて一度も守護者に出会ったことがない野生のオロジェンである。そしてここでは思いがけない人物がエッスンを待っていた。再会は嬉しい、懐かしいだけとは限らず、エッスンはいま地球に訪れている〈季節〉は終わらないことを知る。つまり、人類は徐々に数を減らし、復興することなく絶滅するということだ。
本書『オベリスクの門』はその続きとなる。
エッスンは娘を探しに行きたいが、生き別れていた瀕死のパートナー(体の末端から緩やかに石に変化しつつある)にオロジェニーと地球の秘密を教わったり、コムに存続の危機が訪れたりするためにカストリマを離れることができない。また、本書では、『第五の季節』ではちらりとしか出てこなかった強いオロジェニーを持つ娘、父親に連れ去られたナッスンのパートがある。娘の側から見た家族や母親の様子が描かれ、ナッスンが賢く繊細で、しかし未熟なオロジェンであることがわかる。ナッスンと一緒にいる父親のジージャは、先にも書いたがナッスンの弟でもある幼い息子を殺している。優しい父の記憶しかなく、嫌われたくない一心でジージャの顔色を窺うナッスンは憐れで、生きることの苦しみに満ちている。やがて彼女にも新しい出会いがあり、成長して変わっていく……。
生きる苦しみと言えば、オロジェンであることを隠して生きてきたエッスンも苦難の道を歩いてきているのは『第五の季節』の読者はご存じだろう。人間としての当然の権利、生きること、能力を活かして社会の一員となることがしばしば侵害される。帝国に奉職し、帝国を安定した社会であらしめているオロジェンに、報酬や福利厚生の手当はあっても人権はない。帝国に与しないオロジェンは、エッスンのように能力が知られないよう注意深く暮らすしかないし、オロジェンであることを知られたら二度と元の生活には戻れず、誰も知る人のないコムへ逃れるしかない。
少女の成長の物語、一人の母親の復讐の意志、地球と人類の行く末を左右しようと知恵を絞り能力を駆使するものたちの思惑が合わさり、読者を引きつけて離さない物語が展開するが、その背景には、人間が他の人間から持てる物を一方的に搾取して富を築いた、アメリカの白人奴隷主と黒人奴隷の歴史がある。オロジェンの存在の向こうに、アフリカから、同意もなく黒人を木や石のように船に積んでアメリカ大陸に運んで使役した歴史が透けて見えるだろう。歴史や人権の勉強をするつもりでなく面白く読んでから、ふと黒人奴隷の苦難の歴史に思いを馳せても遅くはない。
アメリカの奴隷制度は十九世紀半ば、およそ百六十年前になくなった、遠い過去のことだと思っていて、黒人奴隷のイメージが『アンクル・トムの小屋』のままであったら、刷新したほうがいい。例えば、コルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』(ハヤカワepi文庫)は、南部の黒人奴隷を奴隷主の白人たちがどのように扱ったかを小説の形で克明に描いている。奴隷たちが命からがら逃亡するわけもわかるし、逃亡に失敗して連れ戻されたらどんな罰を受けるか、罰を恐れて逃げる気を失うわけもよくわかる。逃亡奴隷を追う専門のハンターは執念深く、黒人を匿った白人も残虐に処刑され、黒人の死体は街道脇の木に吊るされる。「奇妙な果実」がぶら下がる木々が延々と続く道。映画なら、元奴隷で奴隷解放運動家ハリエット・タブマンの半生を描いた『ハリエット』(ケイシー・レモンズ監督、二〇一九年)を薦めたい。人間が人間に対してどれほど残酷になれるかがわかる。これらは興味深い作品であるものの、楽しいストーリーではないことをお断りしておくが、奴隷解放運動は実を結ぶことになるので、希望はある。
奴隷制度はなくなったが、一九六四年に公民権法が成立するまで分離政策が敷かれた。公共の場所が分けられ、学校が分けられ、黒人が就ける職業も限定的で選択肢は少なく、黒人と白人の結婚も許されなかった。
アメリカ航空宇宙局ラングレー研究所でロケットの打ち上げに必要な軌道計算などに従事した黒人女性計算手たちの奮闘を描いた『ドリーム』(セオドア・メルフィ監督、二〇一六年)では、黒人女性が「用事のあるときに席にいない」と上司に𠮟責される場面がある。黒人女性用のトイレが遠くにあるので、往復するだけで時間がかかるのだ。これは作劇上の演出で、当時(一九六一年)のラングレー研究所ではすでにトイレは黒人白人共用になっていたそうだが、似たようなことはどこでもあった。
奴隷主でなくても、小さくても権力を持つと理由をつけて弱者を支配し、虐げてしまいがちなことは、人権侵害のニュースが毎日報じられることからも知ることができる。ジェミシンの書くものからは、機会があれば他人を支配したくなるという人類の弱点を自覚したうえで、世界を良い方向に動かそうという意志を感じる。
ジェミシンは黒人女性であるが、アメリカのSF作家は白人男性が多く、黒人で女性は少数派だ。近年は多様な出自、アイデンティティーの作家が増えているが、これまでマージナライズ――瑣末な、取るに足りないとみなされていたマイノリティ作家たちが、「SFあるいはファンタジーなら自分の書きたい話を書ける」ということに気づいて声を上げ始めたためだろう。
黒人女性のSF作家と言えば、オクテイヴィア・E・バトラーがいる。自分の場所を制度の中に確保するために自身の一部を売り渡すという、奴隷制度時代に黒人奴隷がしていたことを異星人と地球人の話に置き換えて描いたり、奴隷制度の時代に、現代アメリカの黒人女性を入り込ませ、当時の黒人が奴隷主たちにどのように扱われていたかを生々しく描写したりした。
ジェミシンは明らかにバトラーの衣鉢を継ぐ者だ。遠い未来や、架空の惑星を舞台に、極限状態で人間が尊厳のためにどのように振る舞うかを描いている。そこには熱い血が流れ、痛みが脈打っている。
ところで、バトラーは二〇〇六年に泉下の客となったが、ジェミシンは読者と直接触れ合う機会で、彼女にオクテイヴィア・バトラーと呼びかける人が多くて辟易しているとSNSで発言していた。バトラーは偉大だがジェミシンとは別人だし、両者に対して失礼だ。アフリカ大陸やアジア出身のニューカマーの作家たちが、名前が発音しづらいと、人前で白人作家に正しくない発音で紹介されることもいまだにあるが、それと同じく、相手を侮り軽く見ている証左となる。それに差別的だと反発する人たちもいるが、笑って追従する人たちもまだいる。残念ながら。
本書の話に戻る。エッスンは一万年続くかも知れない〈季節〉を終わらせる方法を探るうち、失われた文明の遺物、オベリスクがオロジェニーと響き合うことを知る。更に、地球内部の火にのみ注意を払っていたが、天体の動きにも注意を払うべきなのではと気づく。
オロジェンを持っているがゆえに、自分の持っているもの、能力も血を分けた子どもも奪われ続けた登場人物の一人はこう呟く。
「将来、なんらかの選択をするときのために覚えておくといい――選択によっては凄
すさまじい対価を払わねばならない場合もあるということをな。しかし、ときにはそれだけの対価を払う価値があることもあるんだ」
ずっとエッスンの傍らにいる、物語の語り手は、エッスン(あんた)の姿をこう表現する。
〝人はけっして補いきれないほど多くのものを奪われてしまうことがある。(中略)奪われて
奪われて奪われて、残されたものが希望だけになるまで奪われて、そしてあんたはその痛みに
耐えきれずに希望を手放した。〟
そして、エッスンの決意。
〝奴隷として生きるくらいなら死んだほうがまし。〟
続編にして最終巻のThe Stone Sky(2017)の邦訳は創元SF文庫から二〇二二年刊行予定となっている。楽しみに待ちたい。
〝というわけで話は先に進んでいく。〟
【編集部付記:本稿は『オベリスクの門』解説の転載です。】
【編集部付記:本稿は『オベリスクの門』解説の転載です。】
■勝山海百合(かつやま・うみゆり)
岩手県生まれ。2006年「軍馬の帰還」で第四回ビーケーワン怪談大賞を受賞。また翌07年に「竜岩石」で第2回『幽』怪談文学賞短編部門優秀賞を受賞し、同作を含めた短編集『竜岩石とただならぬ娘』により本格的にデビューを果たす。11年、『さざなみの国』で第23回日本ファンタジーノベル大賞を受賞。主な著作として『厨師、怪しい鍋と旅をする』『玉工乙女』『狂書伝』ほか、現代語訳を手がけた『只野真葛の奥州ばなし』などがある。