少年院に入っているらしい、足の悪い少年の回想です。イタリア系の名前かと思っていると、ヒスパニックと分かります。ただし、初読時に、ヒスパニックという言葉を、大学生の私は知らなかったと思います。貧しい一家らしく、父親は働きながら夜学に通って、高卒の資格を取ろうとしている。足に装具をつけているらしい少年は、学校から拒否されていて、ひがな上手な絵を描いています。たくさんいる兄弟のなかでも、姉のリタととりわけ仲がいい。
新人作家の処女作がエドガーを獲ったもので、最初の邦訳はE・D・ホック編の『今月のペテン師』でした。なんらかの罪を犯したであろうことは、冒頭から分かっていますが、それが姉殺しで、最後に「つまりそういうわけなのさ」と見得を切られても、最後まで書かなかっただけじゃないかと思ったものです。足が悪いがゆえに、一家の貧乏暮らしのあがきからも、主人公だけは免れていますが、早い話がみそっかす扱いだし、それに甘んじている。姉殺しの動機も分かるようで分からない。というより幼さゆえの短慮丸出しでしょう。この犯人には恐ろしさもなければ悲しさもない。実は、邦訳は順番が前後していて、このあとの「最後のチャンス」「軒の下の雲」を、私は先に読んでいました。そして、失望が高まっていたのですが、この「恐ろしい叫びのように」を読んで、とどめを刺された気がしました。
翌78年の「最後のチャンス」でトマス・ウォルシュがエドガーを獲ったときの驚き(この人は現役だったんだ)は、以前にも書きました。パブでパードレと呼ばれている、呑んだくれの破戒僧(ボストンの富裕な家の、あまやかされた末っ子の極道息子なのです)の話です。かつては本当に神父だったため、死を目前に告解を求めているギャングがいて、そいつから奪った金の隠し場所を聞き出してほしいと頼まれます。予想通りに展開し予想通りに終わる、平凡なクライムストーリイというよりは人情噺で、毎月の雑誌を飾るには好短編かもしれませんが、これにMWA賞をやるのかねというのが、正直な気持ちでした。79年はバーバラ・オウエンズ「軒の下の雲」で、精神的に不安定な女性が、新しい住まいと職につき、それを機につけ始めた日記という体裁です。彼女の不安定さが徐々に増していき、屋根裏部屋から見えていた雲が、いつのまにか彼女の周りを覆うほどになる。書き手の精神が少しおかしいですよと、はっきり分かるように、まともな人間が書いた手記です。作為があからさまというものでしょう。「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」から十年経っていません。ここまで後退するものでしょうか?
これら三編は、いずれもEQMMが初出でした。エタ・リーヴェスとバーバラ・オウエンズは処女作でした。ジョイス・ハリントンもそうでしたが、その差は歴然としています。そして、その後の歩みを見ても、ジョイス・ハリントンとは比べ物にならないのも、また、歴然としています。スリックマガジンに魅力的なミステリ短編が載らなくなり、EQMMは目を覆うような惨状を呈し始めていました。
1979年のMWA賞受賞作、ジェフリー・ノーマンの「拳銃所持につき危険」を、ミステリマガジンで読んだときは、ほっとしました。受賞作に値する佳品であったからです。
帰宅すると警察に来てくれというメモがあり、行ってみると、妻が「わたし、強姦されたの」と告げるショッキングな冒頭です。専業主婦で時間に余裕があったので、求人広告に応募すると、その広告主は、やってきた女性を餌食にする強姦常習犯だったのでした。奥さんは気丈な女性で、裁判で決着をつけようとします。この警察は好意的な部類でしょうが、それでも被害者には、被害を疑っているかのように見える。夫が暴力も辞さない怒りを見せると「強姦されたのはわたしよ。わたしに始末をつけさせて」と妻が言います。以下、訴訟社会アメリカでの、性犯罪とその裁判が、リアルというには、あまりのやるせなさで描かれていきます。相手側の弁護士は、秘術をつくして、被害者が火遊びを求めて広告に応募してきたと、陪審員に信じ込ませようとします。そして、被告は無罪となる。その後の展開は、陰鬱なものから免れないと思いきや、妻が護身用に拳銃の練習をすると言い出し、さらに、予想外の方向へそれていき、少々破天荒な小事件を経て、彼女に心の平和が訪れたように見える結末を迎えます。もっとも、最後のこの一行があることで、この好短編がお気楽なものではないことが、明示されていました。
この短編は初出がエスクワイアでした。この短編はスリックマガジンに書かれた、短編ミステリを牽引するだけの力のある、同時代の先鋭的な短編ミステリに、MWAがエドガーを与えた最後の昨品となりました。そして、これ以後、スリックマガジンから受賞作が出ることは、ますます少なくなっていくのです。
1980年の受賞作は、ふたたびEQMM初出に戻ります。クラーク・ハワードの「ホーン・マン」でした。ムショ帰りのホーン・マン(ジャズのトランペッター)が、ニューオリンズに戻ってきます。殺人罪で入った刑務所でしたが、実は真犯人は他にいるらしい。一方で、老練なトランペット奏者に老いが見られ、跡を継ぐプレイヤーにと、地元のクラブは破格の待遇=純銀のトランペットを提示します。今日からでなければ、話はなかったことにという申し出に、ホーン・マンは、今夜はどうしても無理だと、女に会いに行く。なんの変哲もないかわりに、なんの綾もない、クライムストーリイにしなかったことが取り柄のような、これまた人情噺でした。
翌81年の受賞者にも驚きました。ジャック・リッチーだったのです。日本での再評価など影も形もない、知っている人の方が少なくなったころでした。その「エミリーがいない」は、冒頭から、語り手のわたしが、妻のエミリーからかかってきた電話を、人違いだと即座に切ってしまいます。目の前にはエミリーのいとこのミリセントがいます。あきらかに怪しげな語り手です。エミリーはサンフランシスコに行っていると、ミリセントには言うものの、いかにも怪しい。エミリー名義の家をミリセントに買うようもちかけ、ますます怪しいのです。さらに、街でエミリーらしき人物を見かけ、エミリーからの手紙が来ると、ミリセントから隠します。ここまで怪しいと、そのままでは終わらないだろうと、読者が考えるのも、いたし方ないところ。終盤あれよあれよという展開にはなります。しかし、です。これでは、この小説は、主人公のアルバートが、読者を騙すために書いた文章にすぎないでしょう。ジャック・リッチーが読者を騙すのは構いませんが、アルバートが読者を騙すための文章を書くというのは、構造としておかしいし、しかも、意外性や、その他なにかの効果があるとも言えない(それくらい、端っから怪しいのです)。『アクロイド殺し』に、もしポアロが出て来なければ、あれは、誰に読ませるための文章になるのかということです。当然ながら、リッチーには他にいくらでも秀作があります。これもEQMMが初出でした。
82年の受賞作は意外でした。フレデリック・フォーサイスが短編集『帝王』に書き下ろした「アイルランドに蛇はいない」だったのです。『悪魔の選択』以降のフォーサイスには興味が持てませんでしたし、短編は無視していたので、『新エドガー賞全集』に入ったときに初めて読んだのですが、我あやまてりと反省しました。『新エドガー賞全集』の中で、もっとも秀れた一編だったのです。貧乏なインド人の留学医大生ハーキシャン・ラム・ラルは、最終学年の学費を稼ぐために、北アイルランドのベルファスト近郊で、金になる日雇いの土方仕事に就きます。現金日払いの代わりに、税金や保険の控除もないという、厳密には非合法の労働です。そこで、現場を仕切るアイリッシュ・プロテスタントの大男に目をつけられ(ヒンドゥー教徒なので異教徒ですしね)いじめを受け、抗議したところ殴り倒されます。いまでこそ貧乏ながら、カーストはクシャトリア、戦士階級(二千年前、おまえたちの先祖が、素裸で地面を這いまわっているころ、ぼくの先祖たちは戦士や王族、支配者や学者だったのだ)です。侮辱には復讐しなければと思いつめ、インドに戻って毒蛇を手に入れ、相手の上着のポケットに忍ばせます。ところが、ポケットに穴があいていたため、裏地との隙間に蛇が入りこみ、そのまま男は家に帰ってしまいます。「アイルランドに蛇はいない」というのは、かの地の常識らしく、毒蛇を見ても、アイルランドに蛇はいないのだから、これは蛇ではないと皆が口をそろえるという、ユーモラスな展開のうちに、海の向こうから来た者への憎悪の種子は、海の向こうから来た、元々その土地にはいなかった毒蛇によって根を張り生き続けるという、一編の寓話になっていました。
83年はルース・レンデル二度目の受賞となる「女ともだち」でした。女装癖のある妻帯者の女装外出の相方という、ひねった状況設定をユーモラスに描いた、レンデルが時おり書く明るい一編でしたが、この結末にしたことで、かえって平凡な作品になったのではないでしょうか? そして84年がローレンス・ブロックの「夜明けの光の中に」です。苦節三十年。一流作家の仲間入りを果たしたブロックの、人気キャラクターが登場する一編が、プレイボーイの誌面を飾ったものでした。もともと、ローレンス・ブロックという人は、巧みなプロットで読ませる作家です。その長所を活かし、気合の入った出来栄えはエド・マクベインが『殺意の楔』で、八七分署ものを初めてハードカヴァーで出したときのことを思い出しました。「夜明けの光の中に」はクライムストーリイの好短編と呼んでいいでしょう。しかしながら、のちに長編に改作された『聖なる酒場の挽歌』と比べた場合どうなのか? そして、ブロックが短編で本領を発揮するのは、どういう場合なのか?
フォーサイス、レンデル、ブロックと続く八〇年代前半のエドガーは、大家の短編に立て続けに与えられ、EQMMのファーストストーリイが目立った七〇年代とは一変しています。そして、この段階で、この三人の受賞作は、三人の長編作品と比較すると、貧弱なものに私には見えます。そして、この傾向は八〇年代の終わりにエドガー賞に決定的な変質をもたらします。
85年のジョン・ラッツ「稲妻に乗れ」は、前年のブロックに続いて、ネオハードボイルドのシリーズキャラクターものでした。死刑目前の強盗殺人犯が、実は無罪なのでそのことを立証してくれという無茶な依頼です。依頼人(死刑囚の恋人らしい)の確信の仕方が尋常ではなく、それを不自然にしないためには、この結末しかないという意味で、あからさまな結末を無理に引っ張った作品でした。後半に少し出てくる、彼女の真意の不可思議さに迫るなら、これはディテクションの小説にすべきではないでしょう。佐野洋の言うヒラメの鉄火巻きですね。86年のロバート・サンプスン「ピントン郡の雨」、87年のハーラン・エリスン「ソフト・モンキー」と、クライムストーリイが続きました。前者は禁酒法が生きているピントン郡(南部の架空の郡でしょう)を舞台に、密造酒で稼ぐギャング一派と大地主の禁酒法厳格化の一派が、それぞれ保安官事務所の人間と癒着しているという、半世紀前のような話です。後者はニューヨークのバッグレディが殺人を目撃してという、これまたひと昔前なら、ヴィヴィッドだったかもといった内容でした。とくに前者は、雰囲気づくりなど、枝葉の部分が巧みに書かれていることは認めますが、マッギヴァーンが『緊急深夜版』あたりで書いたときは、もっと熱気をはらんだ問題意識で書いていて、それに比べると、趣味的な域を出ません。あるいは、この直後にLA三部作を書くエルロイは、こんなにのほほんとはしていません。
88年のビル・クレンショウ「映画館」は、このころの受賞作の中では好意的に読むことが可能な作品でした。ホラー映画を上映中の映画館で、すりが仕事をしようとしたところ、相手は喉を掻き切られていて、血まみれになってしまうというショッキングな出だしで、捜査官のコーリーを主人公にした警察小説です。快楽殺人や通り魔にしては、人が密集した映画館での犯行というのが、珍しい。被害者はよそ者のセールスマンで、たまたまセールスマンの大会が開催されていて、参加していたのでした。警察小説としては新味がない上に展開がもたついていて、コーリーの事件へのこだわりも良く分からない。同じ映画館で、口紅で見知らぬ他人の喉に筋をつけるイタズラが起きたりして、捜査も行き詰まったところで、同じ手口の事件が起きる。そこからは一気に結末に到りますが、その異常性と、それに向き合うコーリーの人間像がぼやけているので、奇妙な一編に留まっています。88年はトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』が出た年で、サイコサスペンスの時代を反映した作品ではありますが、その傾向の何かを代表するものではありませんでした。
そして89年がドナルド・E・ウェストレイクの「悪党どもが多すぎる」でした。これがエドガー賞受賞作としてミステリマガジンに訳されたとき、読んであまりのつまらなさに愕然としました。ドートマンダーシリーズ自体が、昔日の面影はもはやなくなっていたのですが、シリーズのおまけのように軽く書かれた一編が、なにを間違ってエドガー賞を獲ったものやら、まったく理解不能でした。さかのぼって、ローレンス・ブロック(しかし、彼はシリーズキャラクターの出ないクライムストーリイの短編を、いくつも書いています)やジョン・ラッツ、そしてウェストレイクの受賞は、短編ミステリがシリーズキャラクターに頼るようになっているという事態の反映であったと、いまにして思います。
マージェリー・フィン・ブラウンの受賞から二十年。MWA賞短編賞は、ついに短編ミステリを牽引していく力を失くしてしまったのでした。
※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2021年2月19日)