デビューから9年目にしてようやくの作品集刊行――などと書くと、さもその間ずっと刻苦勉励していたのだろうとか、千辛万苦を経てきたのだろうと想像してくださる方も多いかと思うのですが、実際には単に私事の都合で書けない状態が続いていたということが大きく、また、その当時の苦労話をここで書いても退屈なだけかと思いますので、休眠期間中のお話はさておき、全然別のことを書きます。
身体という、不可思議で厄介なものに関するお話です。
痛みにまつわる表現が苦手です――と人にお話しすることがたまにあるのですが、そうした際、(特に自作を読んでくださった方からは)大抵、意外だと言われます。痛みを抱えた人物のことや、血みどろの残酷なお話ばかり描いてきたからでしょう。
確かに自分は、そうした各種の惨劇、ホラー映画やスリラー映画で言えば「スプラッター」や「ゴア描写」と呼ばれ得るようなものを執拗に描いてきました。けれども、ひとたび自身が受け手の側に回りますと、そうした描写には胸が苦しくなってしまいますし、映画においてはそうしたシーンが現れそうになるたび、手で顔を覆っています(勿論、広げた指の間からはしっかりと画面を見つめながら)。
そんな、"痛がり"で"怖がり"であるくせに、どうして自らそうしたものを描き続けてしまうのか。ハッキリした答えは自分でもいまだ出せていませんが、ひとつには、痛みというもの、ひいては身体というものについて、長年、ままならない思いを抱え続けていたせいかもしれません。
自分自身と歩調が合わない。
そんな悩みをもうずっと昔から抱えているのですが、何かの折にそれを吐露したりすると、大抵の人からは「えっ」と聞き返されます。他者ではなく、自身と歩調が合わないとはどういうことか、と。けれども、これは別に何かの比喩というわけではなく、わたし自身が長らく直面し続けている主観的な問題のひとつをストレートに表現した言葉です。
歩幅、両脚の筋肉の動き、足の裏が地を踏む感触。それらひとつひとつに対して、わたしの意識は違和感を覚えてしまうのです。実際の肉体の動き、および、アクションの結果として感覚器からフィードバックされる情報と、自分自身が頭の中で抱いているボディイメージとが乖離してしまっているとでも言えばよいのでしょうか。
でも、考えてみると不思議なことです。一つの肉体をもって生を受けた以上、自分自身の身体、自分自身の歩き方しか知らないはずなのに、それが自分に「合っていない」だなんて、どうしてそんなことを感じるのでしょうか。
身体と精神とが不可分なものであり(神経も脳も肉体の一部であり、精神とはそれが生じさせているものである……はずです)、実際の身体の動きと体性感覚や運動を司る脳内領域とのあいだの情報のフィードバックループこそが「身体感覚」というものを形作っている以上、そこにズレが生じてしまうのはおかしな感じがします。「わたし」という乗り物に乗っているわけではないのですから、わたしの精神はわたしの肉体の形に合わせて――オートクチュールのように――ピッタリできあがっていなければおかしい。
にもかかわらず、違和感が拭えずにいる。
これは何も脚に限ったお話ではありません。わたしはわたしの肉体を構成するほとんどすべての部位に対して、絶えず、ちぐはぐな、サイズの合わない衣装を着せられているような感覚を抱いています。
以前であれば、そんな感覚から解放される瞬間というものも確かに存在しました。ライブ会場やクラブのフロアにおいて、全身で音楽を浴び、震動を感じ、ビートにのせて身体を動かしているとき。その瞬間の"わたし"は肉体そのものであり、精神や意識というものはその所産としての不随物という位置に後退していました。
またあるいは逆に、真っ暗な劇場でスクリーンに映し出される映像に没入しているときや、気心の知れた友人とお喋りに興じているとき。"わたし"は肉体であることを忘れ、一個の精神としてそれを受容していました。
そんな風にしているあいだ、わたしは束の間、一方を忘却するという形で、身体と精神のあいだに横たわる違和感から逃れることができていたのです。
けれども、今は違います。
2020年春、わたしは――わたし達は――それらのほとんどすべてを取り上げられてしまいました。
身体を動かせる場は限られ、人と話す機会も極端に減りました。結果、自己と向き合う内省的な時間というものも否応なく増え、わたしは自身の抱える違和感に絶えず絡め取られているような状態になってしまいました。
そうした状況の中、もとより抱えていた違和感が極限まで行き着き、心身ともに不調を来したのが、ちょうど「メタモルフォシスの龍」を書いている最中でした。この作について、実は、その時点までで既に書き上げていた初稿のほとんどを一度破棄し、プロットを大幅に変更した上でのリライトを敢行しています(アンソロジー掲載作ということで締め切りの決まっているお仕事ですから、担当編集の笠原さんは大いに肝を冷やされたことと思います。申し訳ないことをしました)。
変容をテーマのひとつとした物語と同じく、それが書き上げられるまでのあいだには書き手側の心理においても大きな変化があったというわけですが、そこには間違いなく、上述の違和感の極大化が作用していたと考えられます。
心身の不調に加え、相変わらず絶え間なく身と心を苛み続ける違和感。そうしたものと直面しつつ、極めてアンバランスな状態で書き進めることとなりましたが、今回の収録にあたって読み直してみたところ、当時の自身の状態と、それ以前から発生していた極めてパーソナルな問題とが愚直なくらいストレートに反映されていて、これはこれで良いのではないかと思ったりもしています(そう思えるくらいには回復しました)。
さて、身体はまた、絶えず「見られる」ものでもあります。個人が抱える痛みや違和感とは関係なしに、ヒトは一個のイキモノとして他者の視線に晒されています。あるいは、絶えず評価されていると言っても良いかもしれません。
身長、体重、脚の長さ、お腹が出ているかどうか、顔の造作はどうかといった容姿の面で。加えて、表情の変化や視線の動き、ひとつひとつの所作といったアクションの面でも。そうした評価は外形のみのお話にとどまりません。往々にして、「このヒトは、こういうヒトである」と、精神までを含めた一個の生物としての評価が下されてしまいがちです。
それが、わたしは恐ろしくてなりません。ただでさえ、自分自身でも己にフィットしていないという違和感を抱えている身体の形姿によって、己という人間まるごとの評価が下されてしまいかねないということが、です。
SNSを中心とした言語によるやりとりが一般化し、VR機器も普及しつつある今、身体表象を介さないコミュニケーションは確かに以前よりも発展しています。してはいますが、それでもまだまだ「見られる」場面は多過ぎると、個人的には感じています。
願わくは、(惜しむらくもつい先日解散してしまった)Daft Punkのような身体性を排したスタイルが一般化したら良いのにと常々思っていましたが、皮肉なことに、これもやはり去年の春から部分的に現実のものとなってしまいました。もっとも、望んでいた形とはだいぶ異なっていますが……。
とまれ、書き下ろしの「Rampo Sicks」はそうした恐れの所産でもあります。
そしてもうひとつ、身体と精神というものの関わりを考えた際、切っても切れないと思われるものこそが「痛み」です。
精神が身体の所産である以上、肉体の痛みは精神にも作用する――というのがわたしの持論です。例えば身体のどこかに傷を負い、絶えず痛みに苛まれているとき、その人の思考や感情には痛みが一種のノイズとして立ち現れます。盤面に傷の走ったCDというフィジカルな媒体をプレイヤーにかければ、そこから出力される音楽そのものにもノイズや音飛びが生じるのと同じように。
そして同時に「痛み」は、わたし達人間が身体を通してしかこの世に存在できないものである以上、(程度の大小や多寡の差こそあれ)逃れがたいものです。であれば、「痛み」とは身体が生じさせるものであると同時に、精神の構成要素であるとも言えるのではないでしょうか。
「痛み」はまた、それを与える行為者が他者であるか、自己であるかということにもよっても、(結果的には近い作用を精神にもたらしながらも)その意味合いを変えるものです。他者による暴力や病魔によって与えられた「痛み」は、それを被った者の精神をも理不尽に変容させてしまいます。ですから、言うまでもなく、意図的に他者を傷つける行為は絶対に許されることではありません。
一方、自らに痛みを与える行為(それはいわゆる自傷行為と呼ばれるもののみでなく、過度な減量、アルコールや薬品の過剰摂取、意図的な身体改造等々も含みます)はどうでしょうか。それらももちろん、安易に他人に勧められるような行為では決してありません。
けれどもこちらはひとしなみに否定できるものでもないと思ってしまう部分も自分の中にはあります。切迫した感情に迫られ、「自身の身体も精神も、他の誰のものでもない"わたし"のものである」という実感を得るための行為として自ら希求されることもあり得るのではないかと、そう思ってしまうのです(と言って、無暗に自身を傷つけるようなことはしないでくださいね。そもそも、それが本当に自分自身の望んだことなのかという慎重な見極めも大事です)。
いずれにせよ、肉体的な「痛み」や「傷」が精神にもまた作用することは間違いないと思うのですが、その結果というものは、それらを負った当人しか知り得ません。もしも他者がそれを知ることが――その精神を覗き込むことが――できたらどうなるか。そんな発想が、「感応グラン=ギニョル」というお話の源泉のひとつであり、また、反対に、主観的な「痛み」とはどこまでいっても他者には知り得ないものだという見地から書いたのが「徒花(あだばな)物語」であったかもしれません。
事ほど左様に「身体と精神」、「痛み」というものに非常な関心を寄せているからこそ、今回の短編集に収録された各作においても、また、ここには収められなかった諸作においても、わたしは登場人物達に種々とりどりの痛みや苦しみを縫い込めてきたのだろうと思います。
その上、随分と酷い目にも遭わせてきました。あるいはそうした自身の創作行為に対する自罰意識とでも呼ぶべきものが、わたしに「地獄を縫い取る」を書かせたのかもしれません。
いつかきっと、わたしも自らが生み出した人物達の手によって地獄へ堕とされるだろうという確信めいた思いを抱いています。"怪物"を誕生させてしまったヴィクター・フランケンシュタインのように。
……さて、とりとめのないお話を随分長々と書いてきた上、「あとがき」としてはいささか不穏な結びとなってしまいましたが、最後に、この場を借りて本書の刊行までわたしを導いてくださった皆様への感謝を捧げたいと思います。
東京創元社の皆様(わけても、担当編集の笠原さん)、美しい装画を手がけてくださったmachinaさん、素敵な装幀を仕上げてくださった内海由さん、作者自身も気づいていなかった作品の本質を汲み上げてくださった解説の橋本輝幸さん、大学時代の恩師であり古典文学の豊穣な世界へと導いてくださった松井健児先生、遠くから温かく見守ってくれた両親、いつも一番近くで支えてくれたパートナー、そして、この本の刊行に関わってくださったすべての皆様、また、これからこの本を手に取ってくださるすべての読者様に、心よりお礼申し上げます。
この本がお手元に届く頃には、世界が今よりはいくらか良い方向に向かっていることを祈りつつ。
身体という、不可思議で厄介なものに関するお話です。
痛みにまつわる表現が苦手です――と人にお話しすることがたまにあるのですが、そうした際、(特に自作を読んでくださった方からは)大抵、意外だと言われます。痛みを抱えた人物のことや、血みどろの残酷なお話ばかり描いてきたからでしょう。
確かに自分は、そうした各種の惨劇、ホラー映画やスリラー映画で言えば「スプラッター」や「ゴア描写」と呼ばれ得るようなものを執拗に描いてきました。けれども、ひとたび自身が受け手の側に回りますと、そうした描写には胸が苦しくなってしまいますし、映画においてはそうしたシーンが現れそうになるたび、手で顔を覆っています(勿論、広げた指の間からはしっかりと画面を見つめながら)。
そんな、"痛がり"で"怖がり"であるくせに、どうして自らそうしたものを描き続けてしまうのか。ハッキリした答えは自分でもいまだ出せていませんが、ひとつには、痛みというもの、ひいては身体というものについて、長年、ままならない思いを抱え続けていたせいかもしれません。
自分自身と歩調が合わない。
そんな悩みをもうずっと昔から抱えているのですが、何かの折にそれを吐露したりすると、大抵の人からは「えっ」と聞き返されます。他者ではなく、自身と歩調が合わないとはどういうことか、と。けれども、これは別に何かの比喩というわけではなく、わたし自身が長らく直面し続けている主観的な問題のひとつをストレートに表現した言葉です。
歩幅、両脚の筋肉の動き、足の裏が地を踏む感触。それらひとつひとつに対して、わたしの意識は違和感を覚えてしまうのです。実際の肉体の動き、および、アクションの結果として感覚器からフィードバックされる情報と、自分自身が頭の中で抱いているボディイメージとが乖離してしまっているとでも言えばよいのでしょうか。
でも、考えてみると不思議なことです。一つの肉体をもって生を受けた以上、自分自身の身体、自分自身の歩き方しか知らないはずなのに、それが自分に「合っていない」だなんて、どうしてそんなことを感じるのでしょうか。
身体と精神とが不可分なものであり(神経も脳も肉体の一部であり、精神とはそれが生じさせているものである……はずです)、実際の身体の動きと体性感覚や運動を司る脳内領域とのあいだの情報のフィードバックループこそが「身体感覚」というものを形作っている以上、そこにズレが生じてしまうのはおかしな感じがします。「わたし」という乗り物に乗っているわけではないのですから、わたしの精神はわたしの肉体の形に合わせて――オートクチュールのように――ピッタリできあがっていなければおかしい。
にもかかわらず、違和感が拭えずにいる。
これは何も脚に限ったお話ではありません。わたしはわたしの肉体を構成するほとんどすべての部位に対して、絶えず、ちぐはぐな、サイズの合わない衣装を着せられているような感覚を抱いています。
以前であれば、そんな感覚から解放される瞬間というものも確かに存在しました。ライブ会場やクラブのフロアにおいて、全身で音楽を浴び、震動を感じ、ビートにのせて身体を動かしているとき。その瞬間の"わたし"は肉体そのものであり、精神や意識というものはその所産としての不随物という位置に後退していました。
またあるいは逆に、真っ暗な劇場でスクリーンに映し出される映像に没入しているときや、気心の知れた友人とお喋りに興じているとき。"わたし"は肉体であることを忘れ、一個の精神としてそれを受容していました。
そんな風にしているあいだ、わたしは束の間、一方を忘却するという形で、身体と精神のあいだに横たわる違和感から逃れることができていたのです。
けれども、今は違います。
2020年春、わたしは――わたし達は――それらのほとんどすべてを取り上げられてしまいました。
身体を動かせる場は限られ、人と話す機会も極端に減りました。結果、自己と向き合う内省的な時間というものも否応なく増え、わたしは自身の抱える違和感に絶えず絡め取られているような状態になってしまいました。
そうした状況の中、もとより抱えていた違和感が極限まで行き着き、心身ともに不調を来したのが、ちょうど「メタモルフォシスの龍」を書いている最中でした。この作について、実は、その時点までで既に書き上げていた初稿のほとんどを一度破棄し、プロットを大幅に変更した上でのリライトを敢行しています(アンソロジー掲載作ということで締め切りの決まっているお仕事ですから、担当編集の笠原さんは大いに肝を冷やされたことと思います。申し訳ないことをしました)。
変容をテーマのひとつとした物語と同じく、それが書き上げられるまでのあいだには書き手側の心理においても大きな変化があったというわけですが、そこには間違いなく、上述の違和感の極大化が作用していたと考えられます。
心身の不調に加え、相変わらず絶え間なく身と心を苛み続ける違和感。そうしたものと直面しつつ、極めてアンバランスな状態で書き進めることとなりましたが、今回の収録にあたって読み直してみたところ、当時の自身の状態と、それ以前から発生していた極めてパーソナルな問題とが愚直なくらいストレートに反映されていて、これはこれで良いのではないかと思ったりもしています(そう思えるくらいには回復しました)。
さて、身体はまた、絶えず「見られる」ものでもあります。個人が抱える痛みや違和感とは関係なしに、ヒトは一個のイキモノとして他者の視線に晒されています。あるいは、絶えず評価されていると言っても良いかもしれません。
身長、体重、脚の長さ、お腹が出ているかどうか、顔の造作はどうかといった容姿の面で。加えて、表情の変化や視線の動き、ひとつひとつの所作といったアクションの面でも。そうした評価は外形のみのお話にとどまりません。往々にして、「このヒトは、こういうヒトである」と、精神までを含めた一個の生物としての評価が下されてしまいがちです。
それが、わたしは恐ろしくてなりません。ただでさえ、自分自身でも己にフィットしていないという違和感を抱えている身体の形姿によって、己という人間まるごとの評価が下されてしまいかねないということが、です。
SNSを中心とした言語によるやりとりが一般化し、VR機器も普及しつつある今、身体表象を介さないコミュニケーションは確かに以前よりも発展しています。してはいますが、それでもまだまだ「見られる」場面は多過ぎると、個人的には感じています。
願わくは、(惜しむらくもつい先日解散してしまった)Daft Punkのような身体性を排したスタイルが一般化したら良いのにと常々思っていましたが、皮肉なことに、これもやはり去年の春から部分的に現実のものとなってしまいました。もっとも、望んでいた形とはだいぶ異なっていますが……。
とまれ、書き下ろしの「Rampo Sicks」はそうした恐れの所産でもあります。
そしてもうひとつ、身体と精神というものの関わりを考えた際、切っても切れないと思われるものこそが「痛み」です。
精神が身体の所産である以上、肉体の痛みは精神にも作用する――というのがわたしの持論です。例えば身体のどこかに傷を負い、絶えず痛みに苛まれているとき、その人の思考や感情には痛みが一種のノイズとして立ち現れます。盤面に傷の走ったCDというフィジカルな媒体をプレイヤーにかければ、そこから出力される音楽そのものにもノイズや音飛びが生じるのと同じように。
そして同時に「痛み」は、わたし達人間が身体を通してしかこの世に存在できないものである以上、(程度の大小や多寡の差こそあれ)逃れがたいものです。であれば、「痛み」とは身体が生じさせるものであると同時に、精神の構成要素であるとも言えるのではないでしょうか。
「痛み」はまた、それを与える行為者が他者であるか、自己であるかということにもよっても、(結果的には近い作用を精神にもたらしながらも)その意味合いを変えるものです。他者による暴力や病魔によって与えられた「痛み」は、それを被った者の精神をも理不尽に変容させてしまいます。ですから、言うまでもなく、意図的に他者を傷つける行為は絶対に許されることではありません。
一方、自らに痛みを与える行為(それはいわゆる自傷行為と呼ばれるもののみでなく、過度な減量、アルコールや薬品の過剰摂取、意図的な身体改造等々も含みます)はどうでしょうか。それらももちろん、安易に他人に勧められるような行為では決してありません。
けれどもこちらはひとしなみに否定できるものでもないと思ってしまう部分も自分の中にはあります。切迫した感情に迫られ、「自身の身体も精神も、他の誰のものでもない"わたし"のものである」という実感を得るための行為として自ら希求されることもあり得るのではないかと、そう思ってしまうのです(と言って、無暗に自身を傷つけるようなことはしないでくださいね。そもそも、それが本当に自分自身の望んだことなのかという慎重な見極めも大事です)。
いずれにせよ、肉体的な「痛み」や「傷」が精神にもまた作用することは間違いないと思うのですが、その結果というものは、それらを負った当人しか知り得ません。もしも他者がそれを知ることが――その精神を覗き込むことが――できたらどうなるか。そんな発想が、「感応グラン=ギニョル」というお話の源泉のひとつであり、また、反対に、主観的な「痛み」とはどこまでいっても他者には知り得ないものだという見地から書いたのが「徒花(あだばな)物語」であったかもしれません。
事ほど左様に「身体と精神」、「痛み」というものに非常な関心を寄せているからこそ、今回の短編集に収録された各作においても、また、ここには収められなかった諸作においても、わたしは登場人物達に種々とりどりの痛みや苦しみを縫い込めてきたのだろうと思います。
その上、随分と酷い目にも遭わせてきました。あるいはそうした自身の創作行為に対する自罰意識とでも呼ぶべきものが、わたしに「地獄を縫い取る」を書かせたのかもしれません。
いつかきっと、わたしも自らが生み出した人物達の手によって地獄へ堕とされるだろうという確信めいた思いを抱いています。"怪物"を誕生させてしまったヴィクター・フランケンシュタインのように。
……さて、とりとめのないお話を随分長々と書いてきた上、「あとがき」としてはいささか不穏な結びとなってしまいましたが、最後に、この場を借りて本書の刊行までわたしを導いてくださった皆様への感謝を捧げたいと思います。
東京創元社の皆様(わけても、担当編集の笠原さん)、美しい装画を手がけてくださったmachinaさん、素敵な装幀を仕上げてくださった内海由さん、作者自身も気づいていなかった作品の本質を汲み上げてくださった解説の橋本輝幸さん、大学時代の恩師であり古典文学の豊穣な世界へと導いてくださった松井健児先生、遠くから温かく見守ってくれた両親、いつも一番近くで支えてくれたパートナー、そして、この本の刊行に関わってくださったすべての皆様、また、これからこの本を手に取ってくださるすべての読者様に、心よりお礼申し上げます。
この本がお手元に届く頃には、世界が今よりはいくらか良い方向に向かっていることを祈りつつ。
2021年7月14日 空木春宵
空木春宵(うつぎ・しゅんしょう)
1984年静岡県生まれ。駒澤大学文学部国文学科卒。2011年、平安朝を舞台にした言語SF「繭の見る夢」が第2回創元SF短編賞の佳作に選出される。19年、『ミステリーズ!』vol.96にゴシック幻想ホラー「感応グラン=ギニョル」を発表。同年、アンソロジー『Genesis 白昼夢通信』に「地獄を縫い取る」を発表、のちに竹書房刊行の大森望編『ベストSF2020』に採録され話題となった。
1984年静岡県生まれ。駒澤大学文学部国文学科卒。2011年、平安朝を舞台にした言語SF「繭の見る夢」が第2回創元SF短編賞の佳作に選出される。19年、『ミステリーズ!』vol.96にゴシック幻想ホラー「感応グラン=ギニョル」を発表。同年、アンソロジー『Genesis 白昼夢通信』に「地獄を縫い取る」を発表、のちに竹書房刊行の大森望編『ベストSF2020』に採録され話題となった。