渡邊利道 Toshimichi WATANABE
本書は、アメリカの作家キジ・ジョンスンKij Johnsonが二〇一六年に発表した中編小説(ノヴェラ)The Dream-Quest of Vellitt Boeの全訳である。原著はTor.comからペーパーバックと電子書籍で刊行され、世界幻想文学大賞中編部門を受賞するほか、ヒューゴー、ネビュラ、ローカス等のSF/FTの主要アワードでファイナリストに選出されるなど高い評価を受けた。
物語は我々にとっての現実である「覚醒する世界」の者たちが「夢の国」と呼ぶ世界ではじまる。ウルタール女子カレッジの数学教授ヴェリット・ボーは、夜中に突然叩き起こされて、教え子である優等生クラリー・ジュラットが、覚醒する世界からやってきた男(彼らは「夢見る人」と呼ばれる)に誘惑され、夢の国の外側に向かって出奔してしまったと知らされる。クラリーの父親はカレッジの評議員の一人であり、この不品行が知られれば、ただでさえ夢の国では抑圧されている女性たちのカレッジは閉鎖されてしまうかもしれない。かつて広大な夢の国を旅する冒険者だったヴェリットは、夢見る人が夢の国の住人にとってたいそう魅力的に感じられることを知っていた。また、どういう道筋をたどれば覚醒する世界へ行けるのかも知っている。いまや決して若くはない五十五歳のヴェリットは、安住の地と定めたウルタールを離れ、クラリーを追って夜空に星が九十七個しかなく、時系列も空間配置も覚醒する世界とは違い、乱暴な男たちや凶暴なクリーチャーたちが跋扈(ばっこ)する夢の国をふたたび旅することになる。どうやら気まぐれでついてきたらしい小さな黒猫を道連れに……というもの。
ウルタール、という地名で気づく人もいるかもしれないが、本作はアメリカの作家H・P・ラヴクラフトの書いた〈ドリーム・サイクル〉と言われる一連の作品群、とくに短編「ウルタールの猫」と、中編「未知なるカダスを夢に求めて」を下敷きにしている。ラヴクラフトは、太古に地球を支配していたが現在は眠りに就いている「旧支配者(「神」とか「大いなる古きものども」などとも呼ばれる)」が、現代に蘇るという共通のモチーフで書かれた作品群を、友人の作家や愛読者たちとの交流を通して〈クトゥルー神話〉と呼ばれる創作神話に結実させたことで有名だが、〈ドリーム・サイクル〉は主に作家活動の初期に執筆されたもので、論者によっては神話体系に加えない場合もある少し毛色の違った作品群である。地球の生物たちが見る夢の深層に「夢の国」dream landsと呼ばれる異世界が広がっていて、ごく一部の人だけが夢の中でその世界を訪れることができる、というもので、アイルランド人の幻想作家ダンセイニ卿の強い影響を受けて執筆された、後年の怪奇色の強い作品群とは異なる幻想物語風の作品が多いことで知られている。中でも「夢見る人」ランドルフ・カーターが登場する「未知なるカダス〜」は、それまでのラヴクラフト作品の中でもっとも長い小説であり、傑作「ピックマンのモデル」の登場人物が出てくるなど初期の集大成的作品といえる。〈クトゥルー神話〉はラヴクラフトの死後にもえんえんと複数の作家たちに書き継がれるのみならず、映画やコミック、ゲームなどにも世界を広げていったが、〈ドリーム・サイクル〉も同様にこの世界につながる多数の作品が存在し、近年日本に翻訳紹介されたものではかのロジャー・ゼラズニイによる『虚ろなる十月の夜に』(森瀬繚訳・竹書房文庫)がある。
本作の作者キジ・ジョンスンもラヴクラフト作品の愛読者だったそうである。ラヴクラフト作品には、夙(つと)に人種差別的な表現と女性の不在という問題が指摘されてきた。謝辞にあるように、本作は、子どもの頃に愛したものに立ち返り、大人として意味を持たせられるかという試みであるらしい。
実際本作では、執筆時の作者とほぼ同年齢である五十五歳のヴェリットが、過去の自分の旅と重ね合わせながら、夢の国を経巡っていく。その情景描写はつねに彼女の心象と絡み合って、幻想的で繊細な美しさと不穏な恐ろしさに満ちている(ことに航海の場面の美しさは絶品だ)。それは同時に、「未知なるカダス〜」をはじめとする〈ドリーム・サイクル〉のいくつかの場面やエピソードの記憶を喚起するものでもあって、読者はヴェリットの回想とともにみずからの読書体験の想起も味わうことになる。もちろん本作はそれ自体独立した物語で、ラヴクラフト作品を未読でも十分楽しめるものだが、このシンクロする感覚には捨てがたい魅力があるので、本作を読んで気に入った方は、「未知なるカダス〜」が未読ならば是非目を通して、それからふたたび本作を読み直してみてほしい。ラヴクラフトの作品に比べて本作は非常に明朗で爽やかな旅と冒険の小説だが、そこに込められた作者の積年の思いを感じとることができるはずだ。
また、フランスの作家ミシェル・ウエルベックが指摘するようにラヴクラフトの作品には女性の他にも金銭の不在という特徴があって、それを意識したのかどうかわからないが、ヴェリットが旅立つときに、学生監のグネサが彼女の旅のために必要な経費を充当するための手筈を整え、それが小説の中でたびたび言及されるのも、夢の国に、大人の読者を納得させるためのリアリティを付与する細部となっている。
また、これまでの作者の作品同様、動物や不思議な生き物の丁寧な描写も健在だ。ナイトゴーント(夜鬼)やグール(食屍鬼)など、〈クトゥルー神話〉でお馴染みの恐ろしいクリーチャーたちも生き生きと描かれている。
そしていうまでもなく、こうした幻想世界の冒険小説にはあまり見られない、年齢を重ねた女性の視点による旅の物語には独特の魅力がある。すでに若くはない、ということは、同じ道のりを歩いても疲労度が違う、また異性から見られるときの意味が違う、ということだ。若い異性が好意的な態度で接してくれても、かつてのように異性として魅力的に感じているからではなく、率直に尊敬の眼差しを向けてくれることはありがたいのだが、しかしそれは寂しくもある。また、昔の恋人たちを思う場面もある。彼らにとって自分はなんでもない存在であり、あくまでも彼らが夢中になっていたのは自分自身の物語であって、若いヴェリットはそうした男たちの傍で無益な人生を送ることを肯じなかった。それは五十五歳のいまになっても決して変わらないが、しかし、現在では彼らだって彼女を手に入れたいと欲することはないだろうその選択肢の喪失に感じる痛みと、それらの負の感情をすっぱり断ち切って前へ進んでいく精神的な強さが、自分自身の意志で生きることの本質的な爽快感を付与している。悲しみがないわけではない、しかしそれを受け入れた上で、自分にとってもっとも大切なことを保持し続ける。ヴェリットには子どももおらず、旅の中でその孤独は際立っていくのだが、それがむしろ未来への希望として美しく光り輝いたものに見えるようになっていくのは、まさにファンタジー小説の魔法というべきかもしれない。
最後に作者について。キジ・ジョンスンは一九六〇年アイオワ州生まれ。八八年のデビュー以来、三つの長編と、五十以上の中短編を発表している。そのうちのいくつかはヒューゴー、ネビュラ、世界幻想文学大賞などの賞に輝き、それらの作品の一部は二〇一四年に東京創元社から刊行された日本オリジナル編集の中短編集『霧に橋を架ける』に収録された(一六年に創元SF文庫で文庫化)。作者の経歴について詳しくは『霧に橋を架ける』の解説を参照してほしい。
キジは、ホームページにある“Where Kij comes from, and why I want you to stop asking not just me, but anyone, about their names.”という文章で、その一風変わった名前について、生まれたときに両親からKatherine Irenae Johnsonと名付けられたのだが、ケイティなどのキャサリンの愛称を好まなかった母親が娘のことを手紙に書くときにイニシャルを使っていたのがきっかけでキジという名前で呼ばれるようになったらしいと述べている。自分自身、学校に通う前からキャサリンという名前は大嫌いで、入学してからもずっとキジで押し通し、現在もキジであり、これからもキジであり続ける、と。さらには、変わった名前と思われるせいで、よく人から「本名は?」と質問されるのだが、誰かの名前について質問することは、親しみを感じてのこととしても侵略的な行為であり、トランスジェンダーの男性に「以前の」名前を聞いたり、移民の男性に「本当の」名前を聞いたりすることと同じで、どんな意味であれ、アイデンティティーに対する攻撃であって、失礼で、人を傷つけることもあるのだ、と指摘している。この、自分自身であることを何よりも大切に考える姿勢は、本作でも一貫した精神的態度であるといえるだろう。
なお、キジは現在、ジュラットという名前の猫と一緒に暮らしているそうで、もちろん本作に登場する猫は素晴らしく可愛らしい。
【編集部付記:本稿は『猫の街から世界を夢見る』解説の転載です。】
■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」(『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。