参考のために、初期の未訳のものの収録作を掲げておきましょう。邦訳のあるものは訳題で表記します。
邦訳のあるもののうち、いくつかは、前述のウィンターズ・クライム傑作選(『現代イギリス・ミステリ傑作集』)全三巻が、イギリスで編まれ、それがポケミスに入ったときに訳されたものです。しかしながら、初期の未訳の巻の収録作が、完全に無視されていたわけではありません。エリック・アンブラーの「血の協定」(ウィンターズ・クライム2)やアガサ・クリスティの「クィン氏のティー・セット」(同3)など、訳されている例もあります。ミステリマガジンの区切りとなる記念号に、ビッグネイムの未訳短編(そう簡単には見つからないのです)が欲しいとき、重宝されたわけです。前者は20周年記念号、後者は通巻200号を飾りました。しかし、それらはあくまでも例外です。そもそも、ウィンターズ・クライムから訳したのかどうかも定かではなくて、そのことは他の単発邦訳作品にもあてはまります。
ウィンターズ・クライムが、アンソロジーとして、最初に注目されたのは。ミステリマガジン1979年1月号が「ウィンターズ・クライム」傑作選として、コリン・デクスター以下四編を掲載したときでした。そして、このタイミングには、意味がないではありません。
この少し前から、P・D・ジェイムズとコリン・デクスター、当時はふたりに比べると、やや地味な存在だったピーター・ラヴゼイ、そして未訳作品の多かったパトリシア・モイーズといった、イギリスのパズルストーリイ作家を、ポケミスは主要ラインナップにしていました。その掩護という側面はあったでしょう。78年1月号にはP・D・ジェイムズの「豪華美邸売ります」とデズモンド・バグリイ(!)の「ジェイスン・Dの秘密」が載りましたが、どちらも76年のWinter’s Crimes 8の収録作。のちに『ある魔術師の物語』と題して訳書が出たものです。相前後して、アイヴァー・ドラモンドの「椅子」、アントニア・フレイザー「老いぼれ犬の死」(「老犬の死」)といったWinter’s Crimes収録作品が、ミステリマガジンに紹介されます。
実は、その時期について、もうひとつ無視できない状況がありました。1977年7月号を最後に、ミステリマガジンから「ELLERY QUEEN‘S MYSTERY MAGAZINE特約」の文字が消えたのです。そのとき、私がすぐに事態に気づいたかどうかは、覚えていませんが、直ちに事情は明らかになります。光文社からEQが隔月刊で創刊(78年1月号)されたのです。以後EQMMの新作短編は、この雑誌でしか読めなくなります。当時はシャーロック・ホームズのライヴァルたちの影響もあって、旧作の発掘が支持されてはいましたが、新作の供給は必要なところです。ウィンターズ・クライムはその穴を埋めたひとつでした。
余談ですが、出版業界に身を置くようになってから、私は一度だけ早川書房を訪ねたことがあります。なんの目的だったのかは憶えていません(目的などなかったかもしれません)。対応してくださった長戸さんは親切な人でしたが、ことのついでにEQMMの特約が外れた経緯はと、数年前のことを持ち出すと「それはちょっと……」と言葉を濁されました。私の差し出した名刺には「噂の眞相編集部」とありましたから、それも当然のことですが。
もっとも年月が経ってふり返ってみると、70年代の終わりには、すでにEQMMの力は衰えていて、魅力的な短編ミステリを安定供給することは――少なくとも往年に比べては――出来なくなっていました。そして、EQMMから離れたミステリマガジンには、ジェイムズ・マクルーア「パパの番だ」、クリスチアナ・ブランド「もう山査子摘みもおしまい」、パトリシア・ハイスミス「またあの夜明けがくる」といったウィンターズ・クライムの秀作群が顔を見せる。アンソロジーの時代は、静かに幕を開けていたのでした。
では、ウィンターズ・クライムの邦訳のあるものを、順に読んで行くことにしましょう。まず最初は1974年のWinter’s Crimes 6『眼には眼を』です。読んで驚くのは、ディテクションの小説が少ないことです。ミステリマガジンに掲載されていたときも、クライムストーリイが多く、特約が切れる直前のミステリマガジンの主力だった、レンデル、ハリントン、イーリイといった作家を埋めていた印象があります。
巻頭のウィンストン・グレアム「サーカス」は、生き別れていた兄弟が再会し、兄が子ども時代に目撃したサーカス一座での犯罪を語るというサスペンスストーリイです。それほど目新しいことをやっているわけではありませんが、描写と展開がしっかりしていて、巧みに読ませたところで、予想外の不気味さを匂わせる結末がつきます。こういう70 年代にあってはすでにクリシェに近い話を、手厚さで読ませるのが特徴のひとつで、それは以下の三編のクライムストーリイにもあてはまります。
コリン・ワトスンの「裏目」は、パブリックハイスクールを舞台に、いけすかない優等生に、少々悪質ないたずらを仕掛けてやろうという、語り手たちの試みが、無惨な返り討ちにあいます。相棒の破滅になかなか気づかない語り手は、いささかお気楽に見えますが、標的の優等生の不安を描いたのはさすがでした。メアリイ・インゲイドの「アリバイ」は、窃盗常習犯が殺人を犯してしまうというクライムストーリイですが、さすがに、この窃盗の手口は作りものめいているでしょう。アイヴァー・ドラモンドの「椅子」は、老後の唯一の拠り所であるクラブ暮らし(いかにもイギリスの話です)に闖入してきた、傍若無人な新参者に、我慢できなくなったあげく、殺してしまおうとする老人の計画の一部始終を、コミカルに描いたものでした。
ケネス・ベントンの「漂流物」は、冒頭こそ計画犯罪の始まりを思わせますが、不用となった地図を下水に流したところで、舞台がヴェニスであるがために、地図が他人の目に触れてしまうことを示して、そこからは、地図を入手したジャーナリストが事件を嗅ぎつけるという、ディテクションの小説になっていました。もっとも、この冒頭があるがゆえに、謎が謎めかないうらみがあります。トリッキーなプロットという意味で、ミステリ味が強いのが、ジョン・ウェインライトの「あなたには何も話す義務はありません」です。深夜、顧客が殺人の容疑で逮捕されたと呼び出された弁護士を待っていたのは、彼とは相性の悪い下品な刑事でした。刑事の言動に腹立たしく思いながら、挑発には乗らないようにと注意しながらの対決は、意外な、しかし、不自然で無理気味な展開をします。
アントニイ・レジャーンの「失踪」やマイルズ・トリップの「息子の証明」といった、因果噺めいた奇譚もあれば、P・B・ユイル「てめえの運はてめえでひらけ」やヴァル・ギールグッドの「お廻り稼業」のように、ハードボイルドのイギリス版のような短編もあります。どれもディテクションの小説とは言えませんでした。
そうした中で、とりわけ注目に値するのは、クリスチアナ・ブランドの「もう山査子摘みもおしまい」、ジェニイ・メルヴィル「手袋」、P・M・ハバード「赤鹿暴走譚」の三編でしょう。ブランドは、ウェールズの田舎に住み着いたヒッピーたちが(村人たちからは好奇の眼で見られている)、地元の娘の殺人犯にされてしまう経緯を描いて、冤罪の罠が避けようもなく閉じていく(疑いを逃れようとする小細工が裏目に出るのが秀逸)。「手袋」は第二次大戦前の地方の町を舞台に、同級生の夫と不倫関係にある語り手が、コネで栄達目前の不倫相手から、過去に送られてきた手紙の返済を求められています。その男は人前でも室内でも手袋をはずさないという奇妙なディテイルが描かれ、手紙は誰にも見せないのだから、求めには応じないと突っぱねている。そうするうちに、彼の妻が死んでしまいます。「赤鹿暴走譚」はスコットランドのハイランドが舞台です。実直でおそらくは剛健なジェントルマンの語り手が「それが殺人かどうかわからない」事件の顛末を語るものです。紳士階級のいささかもったいぶった一人称で、鹿狩りの現場では彼らに頼らざるをえない庶民間の出来事を控えめに語ってみせるクライムストーリイでした。
三作に共通するのは、イギリス以外ではありえない(しかし、ウェールズやハイランドといったイングランドとも言えない場所だったりします)舞台で起きた犯罪を、巧みなほのめかしによって描いていることです。それは、短編ミステリ黄金時代のアメリカのクライムストーリイの逆輸入と言って悪ければ、そこに触発されて、小説王国イギリスがその伝統を短編ミステリにおいて発揮したもののように、私には見えました。
※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2021年2月19日)