本書は米国の作家、エリザベス・ハンドの中短篇の中から、ネビュラ賞受賞作など、評価の高い四篇を選んだ傑作選です。ハンドの作品は、一九九〇年代に《ウィンターロング・トリロジー》の第一作である長篇『冬長のまつり』(浅羽莢子訳、ハヤカワ文庫SF)が翻訳紹介されたほか、映画やドラマのノベライズも何冊か翻訳されています。
『冬長のまつり』は、異形の都と化した未来のワシントンDCを舞台に、共感能者、廓者、ものいう動物などが入り乱れる、残酷で背徳的な、絢爛たる絵巻物のような物語でした。本書に収められた四篇は、どれも時代設定が現代で、『冬長のまつり』とはいささか趣が異なりますが、シェイクスピアやギリシャ神話、ワシントンの博物館といった、ハンドの愛するモチーフはやはり随所にちりばめられています。そしてハンドの多くの作品がそうであるように、舞台はいずれもアメリカ東海岸です。
収録された四篇の内容を簡単に紹介します。
過ぎにし夏、マーズ・ヒルで(Last Summer at Mars Hill)
母が病魔に侵されているらしいと悩む少女ムーニー、その友人で、HIV陽性の父親を持つジェイソン。二人はメイン州沿岸のスピリチュアリスト・コミュニティ、マーズ・ヒルで、強い不安を抱えたまま寄り添い合って夏を過ごします。コミュニティの人々は金色に輝く不思議な存在を信じているのですが――。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』の世界にたとえられるコミュニティの雰囲気と、そこに漂う明るく澄んだ夏の空気が、死という闇と向かい合う人々の姿を浮き上がらせます。一九九六年ネビュラ賞ノヴェラ部門、一九九五年世界幻想文学大賞中篇部門受賞。
底本とした同タイトルの短篇集では、作品の末尾に作者のコメントがつけられていたため、それも訳出しました。
イリリア(Illyria)
ニューヨーク州の郊外、ヨンカーズに暮らすティアニー一族は、シェイクスピアの時代から役者を輩出する家系ながら、すでに舞台を捨ててしまっています。その家に生まれたマディといとこのローガンは、禁じられた恋をはぐくみつつ、演劇や歌への想いを次第に募らせていきます。
『冬長のまつり』にも登場したシェイクスピアの『十二夜』が、本筋に深くかかわっており、タイトルのイリリアは『十二夜』の舞台となる国の名前です。舞台の魔力、若者の一途な恋愛、“才能”の残酷さを描き出した、熱と陶酔と苦さを含んだ物語です。二〇〇八年世界幻想文学大賞中篇部門受賞。
エコー(Echo)
メイン州ペノブスコット湾に浮かぶ小島で、犬だけを相手に一人で暮らす女性。外の世界で何か恐ろしいことが起きている気配を感じとりながら、彼女はかつての恋人を想い続けます。静かで張り詰めた語り口が、ヒロインの孤独の深さをひたひたと伝える一篇です。ハンドとジャーナリストのデイビッド・ストライトフェルドの友情から生まれたという本作は、他の短篇三作(未訳、収録書によっては二作)とともに“The Lost Domain”なる連作を構成しています。
二〇〇七年ネビュラ賞短篇部門受賞。〈SFマガジン〉二〇〇八年三月号に柿沼瑛子氏の訳が掲載されました。
マコーリーのベレロフォンの初飛行(The Maiden Flight of McCauleyʼs Bellerophon)
ハンドは専業作家になる前、スミソニアン国立航空宇宙博物館に勤めていたとのこと。本作はそのときの経験を生かしたと思しき一篇です。
ハンドは専業作家になる前、スミソニアン国立航空宇宙博物館に勤めていたとのこと。本作はそのときの経験を生かしたと思しき一篇です。
若き日に航空宇宙博物館で働いていた男性三人が、乳癌で余命いくばくもない元上司のために、焼失したショートフィルムを再現しようとサウス・カロライナの島に赴きます。胸をえぐるような死別の悲しみを描きながらも、日常を離れた島での生活、奇想天外な模型飛行機、主人公たちが関わる博物館やテレビ関連の仕事など、心惹かれるディテールが多数盛り込まれています。二〇一一年世界幻想文学大賞中篇部門受賞。
四篇すべての登場人物に共通するのは、はかなくて愛おしいものに焦がれたり、それを悼んだりする気持ちです。愛する人は病に倒れ、夢は必ずしも実現せず、別れは容赦なく訪れますが、それでも作中の人々はあがきつつ生き続けています。そんな人々の前にふっと現れる謎めいたものたちは、正体こそ定かではありませんが、しばしば鮮やかな光を伴っていて、まるで彼らの懸命な足取りを、どこか別の世界から、劇場の照明さながら照らし出しているようにも思えます。
エリザベス・ハンドは、ジャンルにとらわれない作品を発表し続けており、二〇〇七年に出版されたクライム・ノベルGeneration Lossは、第一回シャーリイ・ジャクスン賞長篇部門を受賞しました。その作品から始まる《キャス・ニアリー・シリーズ》の四作目にあたる、The Book of Lamps and Bannersが、昨年秋に刊行されたばかりです。