エルザ・マルポ『念入りに殺された男』(加藤かおり訳 ハヤカワ・ミステリ 1700円+税)は、フレンチ・ノワールの快作である。四十路(よそじ)間近のアレックスは、ナントの小さな村で夫と二人の子と一緒に暮らし、ペンションを営んでいた。そこに客として、大作家シャルル・ベリエがお忍びでやって来る。ベリエは陽気な男で、アレックスも夫も打ち解ける。
 しかし内心、彼女は作家の夢が破れた劣等感を刺激され、穏やかではなかった。そして40歳の誕生日の夜、アレックスはベリエに襲われ、抵抗した勢いでこの大作家を殺してしまう。幸せな今の生活を守るため、彼女は死体を隠す。そしてパリに向かい、偽名でベリエの助手を自称し、彼の生活を調べ上げ、殺人の罪を着せる相手を探し始めた。

 作家になれなかったコンプレックスを抱えつつも、今は田舎(いなか)で幸せに暮らす内気な女が、それを守るために大都会に舞い戻り、身分を偽って、自分がこれまで一切やってこなかった派手なこと、大胆なことを次々に手掛ける。パリのやり手たちとも対等に渡り合う。ここで描かれるのは、(殺人隠ぺいの必要に迫られたとはいえ)誰しもが抱える変身願望の具現化である。

 加えてアレックスは、偽装のためにベリエの生き様を綿密に調査し、作品も読み込み抜いた結果、彼と会話しているような錯覚に至る。自己と死者との同一化は、先述の変身と同じように、「自分ではない者」になる憧れを満たすものだ。アレックスの心理は極めて精密に描かれており、劣等感や名誉欲をストーリー展開が実に巧妙に刺激していることがわかる。真実が暴かれることへの不安の醸成(じょうせい)も万全だ。終盤の展開はやや弱いとはいえ、十分楽しめる作品である。

 最後に、講談社文庫から創元推理文庫へ移ったC・J・ボックス『発火点』(野口百合子訳 1300円+税)について一言。猟区管理官ジョー・ピケットのシリーズ新作である。今回はジョーの知人が殺人容疑者となり、ジョーはその捜索に駆り出される。緊張感ある追跡劇を緩急自在に語り尽くす力量は相変わらず見事である。陰謀はスケールが大きい上に、舞台となる大自然も悠然として巨大である。アクション小説好きには特に強く薦める。