シャネル・ベンツ『おれの眼を撃った男は死んだ』(高山真由美訳 東京創元社 2200円+税)は、暴力的、犯罪的あるいは不穏な空気の中で、人間がいかに軋(きし)むかを描いた作品集である――ように思う。断定しなかったのは、所収作のシチュエーションや登場人物の性格が多岐にわたる上に、「いかようにも解釈できる」ぼかした描き方が多用されているためである。


 冒頭の「よくある西部の物語」からして、只事(ただごと)ではない雰囲気がある。舞台は恐らく19世紀、妹を兄が迎えに来て、妹の世話をしていたおじとおばを(恐らく)殺し、妹は銀行強盗を手伝わされる。人だって殺す。そして保安官に捕まり、リンチに処される。西部劇風のノワールとしては、ありがちな設定と展開であると言えるだろう。しかし、妹が独白する体裁での語りが、何というか実に迫力がある。切り詰めた鋭い文体の威力が発揮されている。同時に、白日夢めいた、不安でふわふわした感触がある。妹自身の思いは、語られはするものの妙に形而上(けいじじょう)的で、それもまた読者の不安感を掻き立てる。この短篇は確かにえげつないストーリーだが、それ以上の何か落ち着かないものを備えているのだ。

 一篇ずつこの調子で説明すると字数が足りなくなるので、残りは私の印象に特に残ったものに簡単に言及します。

 子どもの無邪気が邪気そのものとなる「アデラ」は、2020年現在の社会問題(断っておくが新型コロナではない)と共鳴しており、印象は鮮烈である。

「外交官の娘」では、作者は時系列をかき乱して記述し、元々は普通だった女性の、過酷と果断を鮮烈に印象付ける。この手の物語はアクション巨篇にもなり得て作例も多いが、短篇であるにもかかわらず、それらを優に上回るインパクトがある。

 主人公の語り口がやたら少年めいているが、冒頭から明らかに不穏な「ジェイムズ三世」は、ぼかした書き方により作中の現実が随所でぶれている。主人公は実際には何を見て、何に見舞われたのか。

 夫を亡くした女性の変容を描く「死を悼(いた)む人々」では、その変化がじわじわしたものであることが印象に残る。これもまた、長篇であってもおかしくない内容だが、読み終わってふと気付くと30ページしかない。小説として実に高密度である。

 これらをはじめ九篇の短篇が読者を耽溺させ、翻弄する。そして最後に、十篇目の「われらはみなおなじ囲いのなかの羊、あるいは、何世紀ものうち最も腐敗した世界(オ・セキュラム・コラプティシマム)」は、主人公の認識通りのことが起きたのだろうか、との強い疑いを抱かせて、この短篇集の幕を下ろす。読み終わる頃には、読者の喉に、小骨どころではない魚の骨が、深々と刺さっていることだろう。不穏な読書がしたい人は、マスト・バイである。

 とはいえ、ベンツは熟読すると精神をごりごり削られてしまう。それに比べてノヴァ・ジェイコブス『博士を殺した数式』(高里ひろ訳 ハヤカワ・ミステリ文庫 1180円+税)はソフトだ。老天才数学者アイザックが自殺する。彼は、傾きかけの書店を営む孫娘ヘイゼルに遺書を残していた。自分は命を狙われている、あと二人の命が失われる、極秘の《方程式》をある人物に届けて欲しい――遺書の内容に衝撃を受けたヘイゼルは、謎を解こうとする。


 このヘイゼルと、アイザックの長男である粒子物理学者フィリップが、本書の主役級登場人物である。そして、ヘイゼルの兄である警察官グレゴリー、同じくアイザックの孫で長らく音信不通だった(親族には性別を間違えられていた)アレクシスなど、アイザックの親族が主要人物に配されて、物語はゆっくりと起動する。

 丹念に丁寧(ていねい)に、ヘイゼルとフィリップの人生模様をそれぞれ個別に描き出していく。この「個別に」というのがポイントである。二人のパートのストーリーは最終的には一本化するが、人生の重要事項それ自体はあまり交錯しない。人生に対する想いも、独立している。相互影響もほとんどないまま終わる。よって本書は、父であり祖父であるアイザックの方程式を追う物語であるにもかかわらず、群像劇のような様相を呈する。だがそれがいいのだ。

 親戚関係にあるが、人格面でも人脈面でも独立している二人の主人公は、それぞれ全く違う立場から、自分の人生を反芻(はんすう)し、アイザックの方程式を思い、残された謎と、自分の人生(※「自分の人生」は傍点なので、太字にしてください)に悩み惑う。緻密に紬出(ちゅうしゅつ)される彼らの心象を、じっくりゆったり味わうことこそ、本書の読者のなすべきことであり、愉悦なのである。

 ……などと読書を楽しんでいると、メインの謎で突拍子もない大ネタがぶちかまされるので、読者は焦(あせ)ることになると思う。それは読んでのお楽しみ。