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 ロード・ダンセイニの「二壜のソース」は、短編ミステリの古典のひとつに数えられる名編として、確固たる地位を占めています。日本では乱歩の言う「奇妙な味」の典型的な例としても知られています。この小説が、探偵が謎を解く、ディテクションの小説であることは、『短編ミステリの二百年』第一巻でも指摘しましたが、探偵のリンリーはもちろん、語り手のスミザーズともども、シリーズを構成するキャラクターであったことは、2009年に『二壜の調味料』として短編集が訳されるまで、私は知りませんでした。短編集の原題はThe Little Tales of Smethers巻頭の九編が、リンリーとスミザーズのシリーズでした。
「二壜の調味料」「二壜のソース」)はこのシリーズの第一作めで、次の「スラッガー巡査の射殺」を読むと、少し驚きます。作品そのものは、平凡なハウダニットですが、前作の犯人のスティーガーが、やはり前作で捜査にあたった巡査を殺したという話なのでした。そこにダンセイニの書くパズルストーリイの遊戯性が、端的に現われて、ないしは表わされています。続く三作めの「スコットランド・ヤードの敵」で、予告された警官殺しという事件を描いた(語り手のスミザーズが活躍します)のち、「第二戦線」では、またもスティーガーが、今度はスパイ事件の犯人として登場し、その陰謀をリンリーが阻止する話になります。なお、この「第二戦線」は第六回EQMM年次コンテストに応募されたもので、『短編ミステリの二百年』第三巻のリストでは、別題のみの表記となっていましたが、ご指摘を受けて再版以降訂正しています。つまり、この作品以降は戦後の作品で、スミザーズとリンリーが同居していた戦前を懐かしむという設定になっているのです。そして、シリーズの最終話「一度でたくさん」で四たびスティーガーの企みと相対し、ついに逮捕に到ります。
 ダンセイニの試みたことは、ホームズとワトスンとモリアーティーだけでミステリを書こうとしたことでした。少なくともシリーズ九編のうち四編をそうしたのです。これは一見、登場人物を役割のみに徹したものとする遊戯性の現われ、ないしは、そういう試みに見えます。しかし、短編集の最初の三編が第二次大戦前に書かれ、戦後になっても、過去を舞台にして、シリーズは書き進められました。そして、同じ犯人の犯行を同じ探偵が暴く話が書き継がれるうちに、別の面が浮かび上がってきました。リンリーとスミザーズの属する階級の違いが、終始強調されているように、安定的な階級社会であった(と信じられ、信頼されていた)過去のイギリスを(郷愁とサタイアを併せ持ちながら)描き出す術であるかのように見えるのです。そこでは、紳士と平民が画然と分かれているように、探偵と犯罪者も分かれている。「戦前はおかしな世の中でした。いや、今がおかしいのかもしれません。とにかく、同じ世の中とは思えません」と、シリーズの最終話は始まったのでした。
 しかし、そうした試みが、必ずしも成功していると思えないのは、「二壜の調味料」以外の作品が、平凡な解決であったり、チェスタトンのような風変わりだけれど有無を言わせない推論の魅力が必要なのに、それに乏しかったりするためでしょう。良かれ悪しかれ「二壜の調味料」が傑作すぎました。そのバランスの悪さは如何ともしがたかったようです。
 後半の諸編も、謎解きのアイデアを核にしたものが大半ですが、そんな中で、模型の船で海賊行為(魚雷で他船を撃沈する!)を働くという、異色のクライムストーリイ「ラウンド・ポンドの海賊」が目を引き、もっとも秀れているのは、パズルストーリイのふりしてファンタジーを書いてみせた「アテーナーの楯」でしょう。それらにしても「二壜の調味料」の域に届くのは難しかったようです。

 シーリア・フレムリンは、MWA賞の長編賞を獲った1958年の処女作『夜明け前の時』が、早い時期に翻訳されたものの、後続の紹介がなく、『夜明け前の時』も文庫化がずいぶん遅れた(三十年後でした)ので、日本では不遇の作家だと言っていいでしょう。『夜明け前の時』を日本で評価していたのは、各務三郎ひとりだと思いますが、短編の翻訳についても、ミステリマガジンに太田博が関わるようになってから始まりました。『夜明け前の時』はニューロティックなドメスティックサスペンスの秀作と評価が定まっていますが、短編に関しては、さらに幻想小説・怪奇小説寄りにシフトしたものが訳されました。
 ミステリマガジン初登場は67年10月号の「揺籃」です。しろうと作家の同人発表会に突然参加した奇妙な男に、周囲が戸惑いながら、奇怪な状況に陥る話でした。「階上の部屋」は、二階の物音という単純な設定を活かした(ヒロインの読みかけの小説の一文の使い方が巧みです)サスペンス小説ですが、結末に到ってリアリズムから逸れてみせる。「翼の音が……」「千の太陽の冷たさ」に到っては、幻想小説以外の何物でもないでしょう。むしろ71年8月号恒例の〈幻想と怪奇〉特集で訳された「家のなかに何かが」が、幻想小説とみせて、実はニューロティックサスペンスで、そこがヒロインの救いになっていました。「ベビイ・シッター」は、子どもを家において外出する不安を抱えたヒロインに、追い打ちをかけるように、不信感をつのらせるような外国人(イギリスの話ですね)のベビーシッターがやって来ます。オチは二択のうちの穏やかな方でした。
 ミステリマガジンで紹介されたフレムリンには、ふたつ秀作があります。「こわがらないで」は、『夜明け前の時』以来の、子育てによるフラストレーションをモチーフにして、母娘関係の機微を巧みに描いて秀逸でした。母と娘の関係というのは、フレムリンにとって鍵となるモチーフで、重要なところで顔を出します。「いつまでも美しく」は、ヒロインが、永遠の美を保証するという、いかにも怪しげな医者を訪れるところから始まります。夫が若いだけが取り柄の「ただのばか」に首ったけなのです。対抗するには、自分も若く美しくなればいい。にしても、この医者は見るからに怪しい。悪魔との契約のパターンかと読者は考えながら読み進み、あっという間に、意外な展開の末、思いもよらないオチ(オチそのものは、予想する人もいるかもしれませんが、そこから導かれるものが、思いもよりません)がヒロインに巡ってきました。読者は彼女と含み笑いを共有することになります。
 90年代に入って『夜明け前の時』が創元推理文庫に入り、2000年には短編集『死ぬためのエチケット』も翻訳されました。90年代に創元推理文庫が積み重ねた翻訳ミステリ短編集の紹介・整備の一冊でした。原著刊行は1984年のこの短編集は、リアリスティックなサスペンス小説やクライムストーリイから成っていて、そういう意味では、ミステリマガジンとは異なったフレムリンの貌を示すものでした。
 原著の表題作となった巻頭の「死ぬにはもってこいの日」は、欧米でも十年以上、日本では二、三十年は時代を先取りした、老々介護の悲劇ですが、ここでも母娘関係の話でした。訳書の表題となった「死ぬためのエチケット」は、分不相応なパーティに夫婦で出席した女性が、席上で夫に突然倒れられて、いたたまれなくなるという話です。もともと夫には上流階級に食い込んでやろうという下心があった上に、女主人は親切にして優雅で、ますますいたたまれなくなる。渋くユーモラスなイギリス人の諷刺的な自画像と思いきや、ミステリになることで、この場合は失敗していると思います。
 もっとも、ユーモアというのは、この短編集の特徴的な側面のひとつでもあります。なんの変哲もないサスペンス小説だった「逞しい肩に泣きついて」は、脱力もののオチを迎えますし、「悪魔のような強運」「博士論文」は、それぞれ、ユーモラスな筆致のクライムストーリイとサスペンス小説でした。「すべてを備えた女」の後半は、ユーモア小説以外の何物でもありません。そうしたフレムリンの持つユーモアが生きた秀作といえるのが「夏休み」「ボーナス・イヤーズ」のふたつのクライムストーリイです。とくに前者は終始笑いっぱなしの怪作です。後者は結末の在り方が、きわめて個性的で、「いつまでも美しく」やこの作品のようなオチは、人の心持ちの微細な部分への嗅覚が独特としか言いようがありません。シーリア・フレムリンの一番の特徴は、そこのところでしょう。

 1950年代のある時期、日本では、アンドリュウ・ガーヴやジュリアン・シモンズを「新本格」と呼んでいたことがあって、そのことが、小さくはない混乱をもたらしたように、私には思えます。謎解きミステリを多く書いたニコラス・ブレイクを一まとめにすることもあって、なおのこと混乱に拍車をかけた感がありました。実際は、そのころイギリスで活躍の目だったミステリ作家という以外には、作風として共通する点はなく、ガーヴの長編の多くは、瀬戸川猛資が呼んだように「軟派の冒険小説」という言葉がぴったりですし、シモンズはクライムストーリイを提唱しました。
 もっとも、日本語版EQMM時代に翻訳されたジュリアン・シモンズの短編は、大半がフランシス・クォールズを探偵役とするパズルストーリイでした。短かいものが多く、エドマンド・クリスピンやマイケル・イネスのところでも出てきた、犯人当て問題と紙一重のシンプルな謎解き掌編です。「神かくし」「讃うべし、シェークスピア」「XX-2事件」「サンタクロース・クラブ」(これはやや長い)といったものが、それにあたり、「隠れた手がかり」はミステリマガジン96年12月号掲載(この号のショートショート傑作選は、この他に、アリンガム、クリスピン、クロフツ、イネスと、イギリス産の名探偵による短かい犯人当てが並びました)ですから、いつの時代でも、雑誌としては使い勝手が良いのでしょう。しかし、目を見張らせるようなものはありません。
 クォールズを主人公とする作品には、「ウィンブルドン・テニスの謎」「グランド・ナショナル・レースの殺人」といった、比較的長めのものもあります。前者は中編と言ってもいいでしょう。テニスと競馬というイギリス人に人気の競技を背景にした謎解きミステリで、「ウィンブルドン」は、それに加えて、流行のスパイ小説風味もあるという、いかにも商業的な趣向に満ちています。しかしながら、一通り読ませるという域は出ません。
 やはり、シモンズはクライムストーリイに目を向けるべきなのでしょう。
「お茶と唇のあいだ」「殺人への八分間」は計画犯罪の遂行を、サスペンスフルに描くという点で共通していて、混じりっ気なしのクライムストーリイという感があります。前者は宝石強奪、後者は、仲間を裏切る証言をする法廷が開催されるまで、イギリスに逃げてきているアメリカのギャングを、追いかけて殺すという話です。ともに、些細なことから計画が狂っていき、最後には失敗に終わります。気の利いたサゲが用意してある前者より、計画の歯車が狂っていく過程そのものを描くのに専念した後者の方が、仕上がりは見事でした。これが「ドーヴァー街道で拾った男」になると、意外性を仕組んでやろうと言う手つきが見え透いて、あまり買えません。シモンズの短編を読んで感じるのは、少し複雑な綾になると、筆が及ばないことです。奇妙で不可解な人間関係は思いつけても、その奇妙さ不可解さを描き伝えるだけの巧みさには欠ける。
「街の野獣」は、一時期シモンズが得意としていた青少年ものです。大人をものともしないヨタ者の少年たち、リベラルなところのある主人公、目には目をで強く出ないとつけあがると自警組織を提案する脇役と、型通りながらもそれぞれの立場と、そこに生じた事件が、各人の言動に綾をもたらす。ここでも、それぞれの人物造形が、型通り以上のものにならないもどかしさがありあます。同じようなことは、男女間に生じた機微を描くときにも言えます。「情事の終りに」は、ふとしたことから浮気癖のついた人妻が、漫然と浮気を重ねていくうちに、本当の恋人と呼べる男に出会って……という話ですが、彼女の親友ジェーンならずとも、彼女の行く末は見通せるばかりか、親友の正体もついでに見通せそうです。むしろ、「モイラ-車を愛した女」の、夫への不満の象徴として自動車をもってきたところに新鮮を感じますが、やはり、型通りの結末が待っていました。
 人間関係が炙り出す綾の凄味という点で、注目に値するのが「餌食」という一編でしょう。子どものころの過失から、妹を一生車椅子生活に追いやったヒロインは、自分の結婚などあきらめ、妹の面倒を死ぬまで見る覚悟でいます。ところが、文通から男性と知り合えると焚きつけるおせっかいな人がいて、内緒で試みてみると……という話。シャーロック・ホームズの中の一編の陰惨な変奏とでもいうべき作品で、確かに佳作ではあります。しかし、この結末は、かえってヒロインの悲劇性を薄めているでしょう。シモンズには小説に綾をつけるという点において、何か大切なものが欠けているように思います。


※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2020年11月27日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24


短編ミステリの二百年4 (創元推理文庫)
リッチー、ブラッドベリ他
東京創元社
2020-12-21