――田中鼎さん、初めまして。どうかよろしくお願いします。

 …………

――あの、田中さん? たなか、かなえ、さん。

 ……あ、わたしのこと。失礼。この名前に慣れていなくて。

――そういえば筆名なんでしたね。ではお名前の由来から伺いましょうか。

 モーリス・ルヴェル『夜鳥』の訳者、田中早苗にあやかって、とのことです。

夜鳥 (創元推理文庫)
モーリス・ルヴェル
東京創元社
2003-02-12


――田中「さなえ」と「かなえ」、なるほどねえ。

 この名前を考えたのは、担当した人なんです。

――編集者の命名? それは珍しいケースじゃないでしょうか。

 まあねえ。なかなか夜鳥熱が冷めなかったらしくて。

――つまり、田中早苗調の訳文を目指したわけですか。

 だんだん夏目漱石風になっていきましたけど。

――じゃあ、思惑が外れて担当さんはお冠?

 さあ。小難しい言葉を使いたがる人ですから、そういうのがあれば文句はないのかも。昔の雑誌、例えば〈新青年〉に載ってる宣伝文句や粗筋が面白いって大喜びして、江戸川乱歩の『人間豹』とか『夜鳥』の内容紹介もホームページ記事も、完全に影響されて書いていますよ。「何なの、このノリ、いつの時代の人?」って感じです。

人間豹
江戸川 乱歩
東京創元社
2012-10-25


――(独白:いつの時代の人って、アナタもいい勝負じゃないの。)そのへん、『ヴァルモンの功績』の紹介文は大人しいですね。

 そうでしょうか。好き放題やってるように見えますけど。開巻劈頭あれをやられちゃあ、こっちの1行目が霞むではないですか。

――翻訳に15年かけた小説本体が食われたら、黙っていられない?

 あ、訳者あとがき読んでくださったんですね。結果的に、ヴァルモンが刑事局長だった期間の倍以上かかりました。

――作中に「外国人にどう思われていようと、フランス人は辛抱強い」とあります。フランス人ばりに、お二人とも辛抱強かった?

 校正紙(ゲラ)を何度も読んで、よく飽きないものだと思います。そして、重箱の隅をつつくどころの騒ぎじゃない、ここは漢字使わないの、同じ語尾が続いて単調、近くに似た言い回しがあって芸がない、等々果てしなく続く。今はデータ検索ができますから、何でも瞬時に判ります。“しかし”が山ほどあると発覚して「うひゃーっ!」だったり(少しは減りました、一応)。原稿ではこうだったのをゲラで直したとか、あとで出てくる言葉を活かすために言い換えたんだとか、いちいち憶えているんですから参りました。

――編集の鬼に圧倒されましたか。

 蛇に睨まれた蛙ですね。「明日上京してこい!」って著者を呼び出したこともあるらしいので。

――それは凄い。喧嘩にならなかったんでしょうか。

 よほど心の広い出来た方なのか……不思議なことに仲よくしているようです。わたしの場合、終盤の膝詰め校正で不穏な局面が何度もありました。お互い、ここで投げ出したら今までの苦労が水の泡だと思うから必死にこらえて。理不尽なことを言われるわけじゃない、いいものにしたいという一念は伝わってきますので。そうじゃなければやってられません。でも爆発寸前で危なかったなー。

――ともあれ、無事刊行の日を迎えました。爆発ならぬ百合の花、おめでとうございます。

 第二話を踏まえた祝辞、ありがとうございます。これも関係者各位のお蔭です。大変お世話になりました。
 文体でかなり遊んでいますから、そのあたりを楽しんでいただけると嬉しいです。ロバート・バーは他にもたくさん書いていて、いま読んでもひねりが効いた作品がちらほら。ご紹介できる機会があればと希っています。

――次は15年かけずに、ね。楽しみにしています。本日はどうもありがとうございました。

(こんどにつづく)