目を開けると、彩音は周囲を水に囲まれた小島の上にいた。眼前には真っ白な壁の洋館が立っていて、それを取り巻くように庭園が広がっていた。上等な絨毯のようになめらかな芝が敷かれ、裸足でも歩けそうだ。そこには赤や白、桃色といったさまざまな種類の薔薇や、彩音が見たことのない濃い橙色や黄色の花々が咲き乱れていた。
見ているだけで明るく、華やいだ気分になる。こんな時でなければ、思わず長居をしたくなってしまうような美しい場所だ。
だが、そんな思いはすぐに吹き飛んだ。薔薇の低木の間から〝綿玉〟がいくつもあらわれたからだ。
「やっぱり、ここにいたのね」
妖たちは彩音の姿を見るや、いっせいに逃げ出した。とりあえず手近にいた〝綿玉〟を追いかけていくと、すべらかな石で作られた通路に出た。
すると、そこには、白いブラウスと黒いズボンを身に着けた女性がいて、四つ足の獣と対峙していた。彼女が捜していた相手に間違いないが、獣のほうにも見覚えがあった。
「狐狼(ころう)だわ」
体長はおよそ四尺、顔つきは狐そっくりだが、白く尖った牙が三寸ほど、口の端から飛び出している。細身でしなやかな体つきが示す通り、動きが俊敏で、なかなかに手強い相手だ。ただ、好戦的な種族ではないようで、こちらが攻撃する気配をみせなければ、襲ってくることはないというが、彼女はすでに太刀を抜いている。
そこには他の〝綿玉〟たちも集まっていたが、皆、白い綿毛を脱ぎ捨てて、鳥の姿になると、空へとはばたいた。緑の小鳥たちは、鋭いくちばしを使い、上空から彼女に襲いかかった。
(これはひとりでは無理だわ。助けないと)
そう思った時、少し離れたところに立っている男の姿が目に入った。黒いスーツを身に着けていたが、腰まである長い髪は紫紺だった。それは、座敷にあったもう一方の竜卵石と同じ色だ。おそらく女性といっしょに来た玉妖に違いないだろう。
だが、彼は異界妖と戦う彼女を助けようともせず、ただその場にたたずんで、じっと見ているだけだ。鼻筋の通った、涼しげな目元の美青年だが、黒々とした瞳にはまるで何も映していないような空虚さが感じられた。
くろがねもあまり感情を面に出す性質(たち)ではないが、紫紺の玉妖はそれとはまた異なっている。人形のようにまったく表情が動かないのだ。
彩音がその玉妖に気を取られている隙に、彼女の状況はさらに悪化していた。縄のように細長い狐狼の尻尾に手首をからめ捕られ、太刀を取り落としてしまい、もう一方の手をむやみにふりまわして、鳥たちの攻撃に耐えている。
狐狼は自分でとどめを刺さず、彼らにまかせるつもりのようだ。
たとえ〝郷〟で傷を受けても、肉体は外の世界にあるのだから無事ではある。だが、命に関わるほどの痛手を負えば、精神に衝撃を受け、実際に死に至ることもある。
「くろがね、鳥のほうをお願い」
「承知した」
くろがねが手のひらから光の矢を放ち、次々と緑の鳥を撃ち落としていく。彩音は走りながら太刀を抜くと、横から狐狼の脇腹を狙って斬りつけた。
狐狼は苦痛の叫びをあげると、牙をむいて飛びかかってくる。ぎりぎりまでひきつけておいて、彩音はすっと身を沈め、狐狼の体の下にすべりこむと、真上に向かって剣を突き立てた。刃が胸のあたりを貫き、妖は力なく彩音に覆いかぶさるようにして息絶えた。すると、その体はすぐに跡形もなく消え失せてしまった。
彩音が立ち上がると、くろがねはすでに仕事を終えていた。太刀を鞘に収めてから、女性のほうに近づいたが、彼女は剣を抜いたままで、肩で息をしながらこちらに向き直った。
彩音が海景堂から来た驅妖師だと名乗ると、相手の口元に皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
「あなたのことは知っているわ、女性の同業者は少ないから。それに、そちらの玉妖は有名だもの。難波コレクションのくろがねでしょう?」
〝難波コレクション〟とは、異界と妖の研究者であった難波俊之が所有していた、七つの竜卵石のことだ。それらの石に宿る玉妖は、現存するどの玉妖よりも美しいと言われ、竜卵石の収集家の間では、もはや伝説的な存在となっている。
俊之の妻が亡くなった母の幼なじみだった縁もあり、彩音は十二歳の時に、俊之から直接、くろがねの石を譲り受けた。
「では、あなたも驅妖師なのですね」
「ええ。富野(とみの)屋に所属している浅井(あさい)忍(しのぶ)といいます。なぜ、あなた方はここに来たの?」
「あの白い異界妖がこの〝郷〟に入ったようなので、ここまで追ってきたのです。お仕事の邪魔をするつもりはなかったのですが、どうしても訳が知りたくて」
「あれは〝緑雲(りょくうん)〟と呼ばれているわ。本来は鳥の姿なのだけれど、餌を取る時だけ、体内からあの白い綿のような物を出して擬態するの。異界によく似た花をつける植物があるそうだから、それを真似しているらしいけど、なぜ彼らがここにいるのかは、あたしにもわからない」
「あなたは玉妖を浄化するためにここにいらしたのですか?」
「いいえ、あたしも異界妖を追ってきたの。もっとも緑雲じゃなくて、狐狼のほうだけれど」
「この玉妖の竜卵石は、もともとあの家にあった物なのですか?」
「正確に言うと、庭の畑に埋まっていたのを、あたしが掘り出したの。狐狼が裏庭の辺りで消えたので、周辺を探っていてみつけたのよ。それで、この〝郷〟に来たのだけれど、肝心の狐狼がなかなか出てこなくてね。あきらめて帰ろうとしたら、その途端、ばったり出くわしたというわけ」
「では、もう戻られるのですね」
「あなたはどうするの?」
「玉妖をみつけて、なぜ異界妖がここにいるのか、事情を話してもらいます」
すると、忍はなぜか、きまり悪そうに目をそらした。
「あのね、助けてもらったことには感謝しているわ。でも、本当は手を出してもらいたくなかったの。じつを言うと、あたしの報酬は退治した妖の数で決まるのよ。だけど、あなたが狐狼を倒してしまったでしょう? だから、このままだと、あたしは手ぶらで帰ることになるわけ」
「あなたが退治したと言えばいいわ。わたしは緑雲がいなくなればいいので」
「そういうわけにもいかないのよ。あそこに監視役がいるから」
忍はずっとその場から動かずにこちらを見ている、紫紺の玉妖を指さした。
「だからね、ここの玉妖を浄化していくわ」
〝浄化〟というのは、端的に言えば、竜卵石に宿っている玉妖を消し去ることだ。驅妖師が〝郷〟に入って玉妖を捕らえ、左胸から〝心(しん)芽(が)〟というものを取り出して壊す。そうすれば、玉妖とその〝郷〟はどちらも消えてなくなる。
「でも、持ち主から依頼されてもいないのに」
「問題があるものなら浄化しても良いと、お役所の人から聞いているわ。手当も出るそうよ。〝郷〟の中に異界妖を引き込むなんて、ここの玉妖はとてもまともな子とは言えないでしょう?」
そう言うと、彩音が止める間もなく、彼女は洋館に向かって駆け出そうとした。だが、白を基調とした瀟洒な建物はいきなり眼前から消え失せ、次の瞬間には、その場にいた者は全員、赤と金の天鵞絨(ビロード)の絨毯の上に立っていた。
そこは広間のようで、胴部に丸みのある白い柱が部屋を囲むように、何本も立っている。奥まったところは数段高くなっており、下方に向かって広がる階段が設えられていた。
そのいちばん高い場所に、きらびやかに着飾った女性が立っていた。
すその長い、ふくらんだ袖のドレスは薄い桃色で、細い首に大粒の真珠を着けている。濃い金色の髪を高く結い上げ、瞳の色と同じ青い宝石をうめこんだ櫛をさし、両方の耳も同じ色の石で飾っていた。
「わたくしは璃杏(りあん)。この館の主です」
彼女は高らかに名乗ると、きれいに整えられた黄褐色の眉をつりあげ、彩音たちをにらんだ ねめつけた。
「あなた方はどうして、わたくしたちを傷つけようとするの?」
「あなたが異界妖をかくまっているからよ」
忍は相手を威嚇するように、大声を張り上げた。
「あれらは人間の生気を吸っている。そんな危険なものたちを野放しにはできないわ」
「彼らは命をつなぐために仕方なくそうしているの。他に生きる術がないからよ」
「同情したから、ここに住まわせていると?」
「それだけじゃないわ」
璃杏は振り返り、後ろのカーテンを引いた。すると、そこには大理石で造られた、若い女性の立像があった。
ワンピースを身に着けたその人は、けっして整っているとは言えないが、意志の強さを感じさせる非凡な顔立ちをしていた。心持ちあごを上げて、どこか遠くを見るような目をしているのが、特に印象的だった。
「すべては、斗貴子(ときこ)様をよみがえらせるためよ。この人形(ひとがた)に、人間の生気を注ぎ込むの。そうすれば、わたしの作ったものでも、命を得ることができるかもしれない」
「狂ってるわ。そんなこと、できるわけないでしょう」
忍は今にも璃杏に向かっていきそうな勢いだ。彩音はその前に立ちはだかるようにして、璃杏にたずねた。
「その方があなたの主なのね。亡くなられたの?」
「わからない。ある日突然、気配が感じられなくなったわ。そして、二度と呼ばれることなく、わたくしは地中に埋められ、知らぬ間に眠りについていた。それが、あの緑雲たちの気配を感じて、目覚めることができたわ。彼らをかくまうかわりに、少しばかり生気をわけてもらう。そう取り決めをして共存することにしたのよ」
「〝郷〟の中でなら、あなたは自分が目にした主の姿を再現できるはずだわ。それなのに、なぜ、人の生気が必要なの?」
「確かに、わたくしが共に過ごした、かつてのあの方の姿なら、いくらでも再現することができるわ。でも、わたくしは新しい斗貴子様が欲しいのよ。あの方が紡ぐ、まだ聞いたことのない言葉が欲しいの」
異様なほどに目を輝かせて、璃杏は熱っぽく語った。確信に満ちたその言葉に、彩音は説得の余地を見出すことができず、絶句した。
「やっぱり、この玉妖はおかしくなっているわ。このままほうってはおけない」
忍が太刀を抜くと、璃杏は右手を高くあげた。腕にはめたいくつもの金細工の腕輪が、きらきらと輝く。
「わたくしはあの方を取り戻す為なら、どんなことでもするわ。邪魔する者は許さない」
すると、土で出来たらしい茶色の人形が、床からわきあがるように次々とあらわれた。身の丈が六尺あまりの人形は、璃杏の前にずらりと並んで盾となった。
忍が太刀を振り上げ、目の前の一体を斬り倒した。土人形はひと太刀でもろくも崩れ落ちたかに見えたが、すぐさま再生し、太い指で忍の首をつかんだ。
「忍さん」
すでに太刀を抜いていた彩音が、まわりこんで背後から斬りかかる。袈裟がけに斬ると、人形は崩れて土の塊となった。だが、解放されてせき込む忍を介抱する間もなく、土人形は再生してしまう。
座り込んだままの忍をかばうように、その前に立ち、向かってくる土人形を斬り続けたが、一向に数が減らない。これらは璃杏の妖力によって動いている。止めるには彼女を浄化するか、もしくは妖力が尽きるのを待つしかないようだ。だが、それまでこちらの体力がもつか自信はない。
妖力の消耗を防ぐためか、くろがねは素手で黙々と人形たちを倒し続けている。だが、こんな時にも、忍の連れである紫紺の玉妖は、遠く離れた部屋の隅で、成り行きを見守るばかりだ。
「迷っている場合ではないわね」
彩音は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。〝浄化〟というのは、玉妖を殺すことだ。できればそんなことはしたくないと、いつもそう思っている。だが、璃杏は異界妖をかくまい、人間の生気を得ることを覚え、それを阻止しようとした者を襲った。そんな彼女をこのまま放っておくことはできない。
彩音が心を決めると、くろがねがすっと彼女の前に立った。
「私が道を開こう」
そう言うと、くろがねは土人形たちの間をすりぬけるように走り、手刀で素早く両側の人形の首の辺りを打った。えぐられたように茶色の土が落ち、頭部が傾ぐ。体勢を崩したところに後ろから足をまわして蹴りを入れると、二体が同時に床にくずれ落ちた。流れるような動きで、彩音が太刀を振るうより何倍も早く、土の塊をいくつも作っていく。さすがに土人形たちも再生が追いつかないようで、目に見えて数が減っていった。
その隙をついて、彩音は玉妖の許に向かった。だが、太刀を構えて駆け寄る彩音を見ても、璃杏はあわてる様子もなく、右腕を前方に突き出した。
手のひらが金色の光に包まれ、今まさに光の矢が放たれようとした、その瞬間。
銀色の剣が彩音の脇を通り過ぎ、壇上に向かって一直線に飛んだ。だが、それは璃杏ではなく、白い彫像の胸に深々と突き刺さった。
「ああっ」
璃杏は悲鳴のような声を上げ、主の像に駆け寄ると、その足に取り縋(すが)った。
「風華(ふうか)」
忍の呼ぶ声に応え、太刀はひとりでに像から抜け、彼女の許に戻った。それと同時に彫像の胸から足元にかけて、縦に大きな亀裂が走った。
「許さないわ」
璃杏は眉をつり上げ、憤怒の形相を浮かべた。そして、彩音には目もくれず、床を蹴って宙を舞い、空中から光の矢を立て続けに放った。
忍も太刀を構えて応戦したが、雨のように何本も降ってくる矢を捕らえきれない。ついには右肩に連続して矢を受け、太刀を取り落としてしまった。それでも、璃杏の右手は光を増すばかりだった。さらに妖力を集中させ、怒りにまかせて強力な一撃を繰り出そうとしているに違いない。
「くろがね、肩を貸して」
彩音は璃杏に近づきながら叫んだ。くろがねはもう何十体目かの土人形を倒したばかりだったが、すぐさま彼女の進む先に移動し、床に片膝をついた。靴を脱ぎ捨て、全速力で助走をつけると、彩音はくろがねの肩を踏み台にして高く跳んだ。
玉妖の心芽は左胸にある。背後からその辺りを貫くつもりだったが、空中では思うように狙えず、切っ先は璃杏の腰に突き刺さった。彩音は太刀の柄を握ったまま、体を預けるようにして、さらに力を込める。璃杏の両腕がだらりと下がり、彩音は彼女と共に床の上に落下した。
とっさに太刀を放し、受け身の姿勢は取ったものの、やはり体のあちこちが痛む。それでもなんとか起きあがって、隣に倒れている璃杏の腰から、剣を抜いた。赤い血が流れ出すのを見ると、ひどく胸が痛む。璃杏は薄く目を開いて、彩音を見た。
「どうして死ななければならないの? わたくしはただ、あの方を取り戻したかっただけなのに……」
〝郷〟に異界妖を住まわせている危険な存在だから。そう言ったところで、璃杏には理解できないだろう。それは人間の側の都合でしかない。玉妖にとっては、驅妖師である自分こそが悪者だろう。だが、それを受け入れるしかないと、彩音はつねに思っている。
「ごめん」
許しを請うつもりはない。だが、いつもこの瞬間にどうしてもつぶやいてしまう言葉だ。
彩音は太刀を握り直すと、背後から左胸を突いた。何か固いものに当たる感覚があったが、それこそが心芽だ。壊してしまえば、玉妖は消える。それでも力をゆるめずにいると、やがて手応えがなくなった。その途端に、世界が暗転した。