石に宿り、主となった人間の気を受けて生まれる美しき精霊“玉妖”と主である少女駆妖師の絆をえがくファンタジイ『玉妖綺譚』。本編は少女駆妖師綾音を中心に展開しますが、玉妖を主人公にしたスピンオフ短編をWeb限定で公開します。
本編を読んでいなくても大丈夫、ここからでもお楽しみいただけます。5月25日からマグコミで配信開始されているコミック(現在第6話まで配信中)とあわせてお楽しみください!
皇国大和の首都、櫂都。その南に位置する白峰区は特別区とされ、居住にはさまざまな規制が設けられている。貴重な動植物の固有種が存在する為、その環境を保護するというのが表向きの理由だが、真実は異なる。
はるか昔から、一部の人々の間では、人間が暮らすこの世界とは別の、もうひとつの世界が存在すると言われてきた。だが、その説が学者たちの間でも取り上げられるようになってから、まだ十年ほどしか経っていない。それゆえに、〝異界〟と呼称されるその別世界について、くわしいことはほとんど明らかにされていなかった。
研究者によると、異界にはさまざまな種族がおり、人間とほぼ同じ姿をした者もいるが、人の顔を持つ八本足の蜘蛛など、異形の者たちも数多いという。それらはすべて、人間たちから見れば妖(あやかし)であり、異界から来た者を総称して〝異界妖(いかいよう)〟と呼ぶ。
異界とこちらの世界のあいだには、互いの世界が重なり合う〝はざま〟という空間が存在するが、〝はざま〟は白峰区にのみ出現し、〝門〟と呼ばれる場所から出入りすることができた。〝はざま〟を経由すれば、ふたつの世界は互いに行き来が可能であるから、異界の住人である異界妖が、こちらの世界に入り込んで来ることもある。そのために、この地区は〝特区〟とされ、政府の機関による監視が行われているのだ。
ただ、幸いと言うべきか、異界妖はほとんどの人間には見えないので、その存在が公けにされることもなく、住民の大半は何も知らずに生活していた。
だが、ここ数年の間に、あらわれる〝はざま〟の数はしだいに増加し、それとともに、妖を目撃したという情報が役所や警察に寄せられるようになった。
獣の姿をした異界妖の中には凶暴なものもいて、目が合うと襲ってくることもある。 異界から来た妖たちは実体を持たないので、もしそうなっても怪我をすることはないが、精神のほうが痛手を受けて寝込んだり、ひどい時には衝撃のあまり死に至ることもある。
異界妖に出くわして恐ろしい思いをした人たちは、警察に駆け込むことが多いようだ。しかし、中には大事(おおごと)にしたくないと考える人々もいて、そういう場合、彼らは〝驅妖師(くようし)〟を呼ぶ。
高崎(たかさき)彩音(あやね)は海景堂(かいけいどう)に所属する驅妖師で、妖のからむ厄介亊を解決するのが主な仕事だ。
奇妙な生き物が家の中にいるようだから、一刻も早く退治してほしい。そう依頼を受けて、彩音は利北(りほく)町の沢野家を訪ねた。
お目当ての家は、北に山の手の住宅街を仰ぎ見る坂の下にある。長い坂をのぼらずにすんだことを感謝しながら、彩音は小さな屋根のついた門をくぐった。
玄関先で迎えてくれた婦人は、六十歳前後かと思われた。白いもののまじった髪をきちんと結いあげ、銀通しの入った黒地の着物に、落ち着いた濃茶の帯を締めている。一分の隙もなく整えられた身なりで、眼前に立たれただけで威圧感がある。すぐさま回れ右をして帰りたくなったが、そういうわけにもいかない。
彩音が名乗ると、彼女は驚きの表情を浮かべた。海景堂を介して受けた仕事なので、依頼人とは初対面だ。つまり、沢野家のほうでも、どんな人物がやってくるのか、まったく知らなかったというわけだ。
「沢野みつと申します。あなたが〝祓(はら)い屋〟さんですか」
「驅妖師」というのが正式な名称だが、「退治屋」だの「妖払(あやかしばら)い」だのと呼ばれることはめずらしくない。それも、今の彼女のように、若干の蔑みが含まれていることがほとんどだ。
「海景堂さんにお願いすれば、妖を退治できる方を紹介していただけると聞いておりましたのに、まさか、こんなに若いお嬢さんだとは思いませんでしたよ」
みつ夫人はまるで値踏みでもするように、じろじろと彩音の姿を眺めた。
十八歳という若さだけでなく、服装も問題なのかもしれない。他の区ならともかく、この白峰区では未だに女性は和装が基本である。白いブラウスに紺色のスーツ、胸元にリボンタイという出で立ちは、この辺りではあまりなじみのないものだろう。それは彩音にもよくわかっていたが、動きやすいほうが良いので、他人の視線はなるべく気にしないようにしている。それに、仕事に行くたびに同じような反応に出会うので、もうずいぶんとなれてきていた。
「皆さん、そのようにおっしゃいますが、驅妖師になってもう三年近く経ちます。経験は積んでおりますから、ご安心ください」
厳密には二年ほどだが、少しばかり年数を上乗せして答えておく。何を言ったところで、無事に仕事を終えるまで相手の不安は消えないだろうから、せめてもの気休めだ。
それでも夫人はなおも怪しむような表情を浮かべたまま、じっとこちらをみつめている。
(困ったな)
これでは話が進まない。彩音は仕方なく、助っ人を呼ぶことにした。
「くろがね」
六尺あまりの長身で、黒ずくめの若い男がいきなりその場にあらわれた。みつ夫人は声こそ上げなかったものの、かなり驚いた様子だ。
「彼は竜卵石という石に宿る、〝玉妖と呼ばれる精霊で、わたしの手伝いをしてくれます」
玉妖は人間の〝気〟を受けて生まれる。くろがねは最初の主である難波俊之の許で生まれ、十年もの時を彼の邸で過ごした。その後、彩音のところに来たのだが、それからもう五、六年は経つだろう。
精霊である彼を異界妖と同じものとみなし、警戒する人もいる。これで断られたなら、紹介してくれた海景堂の主人にも、少しは言い訳が立つだろうと思ったのだ。だが、意外なことに、くろがねを見て、それまで厳めしい顔つきをくずさなかった彼女の口元がほころんだ。
「これは頼もしいこと。このようなお方がご一緒ならば、安心できるというものです」
くろがねは何も言わず、ただ静かにその場にたたずんでいるだけだ。かわって彩音が軽く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
くろがねは武術を好むせいか、見るからに鍛え抜かれた、たくましい体躯の持ち主である。彩音ではなく、彼のほうが依頼人の信頼を得たというのは、無理からぬことかもしれない。
玉妖は異界や〝はざま〟では肉体があるのに、こちらの世界では実体を持たない。それゆえ、人間が彼らにふれることはできないし、逆もまたしかり。こちらの世界の物にさわろうとしても、彼らの手はそれをすりぬけてしまう。だが、初めて玉妖を目にした者はたいてい、一見しただけでは、彼らに実体がないとは気づかないのだ。
(やはり、見た目が大切なのかしら)
彩音は複雑な気持ちになった。
とはいえ、くろがねのおかげで夫人の口がほぐれ、事情がわかった。
数日前から、奇妙な生き物が家の中にいるようだと言う。目撃したのはみつ夫人と、同居する長男の嫁だった。
「息子は見ておらぬものですから、気のせいだなどと申すのですが、わたしと嫁は気味が悪くて、じっとしておられませんでした」
彼女の話によると、直径が七、八寸ほどの白くて丸い毛玉のようなものが、いくつも室内を走り回っているのを見たらしい。それらはとても素早く、あっと言う間に見えなくなってしまうので、後を追うこともできないのだと言う。
「ちょうどその頃、嫁の具合が悪くなりまして、今は奥で臥せっております。もしかして、その妖のせいではないかと、ますます怖くなりまして……」
そう言うと、みつ夫人は急に寒気を覚えたように、身を震わせた。
「お話はわかりました」
彼女にうなずいてみせると、彩音は小声でくろがねにたずねた。
「何か、妖の気配を感じる?」
すると、彼は無言で天井を指さした。
夫人によると、二階は主に息子夫婦が使っているとのことだった。
「寝室もありまして、今はそこで嫁が休んでおります」
彼女に階下にいるよう言い含め、彩音はくろがねと共に二階に上がった。部屋に入る前に、
「胡蝶」
と呼ぶと、空中に二尺ほどの長さの太刀があらわれた。銀色の鞘には、燃え上がる炎の間を飛ぶ、青い羽を持った揚羽蝶の意匠がほどこされている。彩音は太刀を抜き、そっとふすまを開けた。中をのぞきこむと、六畳間に布団が敷かれ、女性が横たわっている。その姿を見て、思わず彩音は息を呑んだ。
掛け布団の上に、七寸ほどの白い綿を丸めたようなものが、いくつも乗っている。おそらく、みつ夫人が見たというのはこれのことだろう。それらは太い針を伸ばし、布団の上から女性の体を刺すと、そのまま動かずにじっとしている。すると、みるみるうちに、体全体がひとまわりほど大きくふくらんだ。
「もしかして、人の生気を吸っているの?」
「そうだ。しかも、それを体内にためておくことができるようだな」
気配を感じたのか、それらはいっせいに振り向いて、こちらを見た。丸い塊の中央に、小さな豆粒ほどの黒い目がある。そのふたつの目の間から、先の尖った銀色の角が飛び出している。先ほど、太い針のように見えたのが、おそらくこれだろうと思われる。
「まちがいなく異界妖よね。あれについて、何か知ってる?」
彩音の問いに、くろがねはすぐさま首を振った。
「見たことのないものだ」
「そう」
異界妖に生気を吸われ続けた人間は、少しずつ衰弱していき、ついには死に至ることもある。たとえ好戦的な種族でなくとも、人に害を与える妖は、すぐに何とかしなければならない。
「くろがね、光の矢で、あの〝綿玉(わただま)〟だけを射ることはできる?」
さすがに病人のそばで剣をふりまわすわけにはいかない。試しに聞いてみると、くろがねはうなずき、手のひらを広げて、異界妖に向けた。そして、自らの妖力をそこに集め、次々と金色に光る矢を放った。
矢は一直線に飛び、立て続けに数体の白い妖に命中した。絶命した異界妖は跡形もなく消え失せてしまう。だが、彩音が勝手に名付けた〝綿玉〟たちは、想像以上に動きが素早かった。くろがねが眠っている病人に当てないよう配慮したせいもあるだろうが、二、三体の妖たちが攻撃を逃れ、部屋の隅まで転がって行った。白い綿のような体から、黒くて細い足が何本も見え隠れしている。それは虫のようにくの字に曲がっていて、忙しなく動き、すべるように畳の上を移動した。
彩音は女性の呼吸を確かめ、ひとまず安堵した。そして、〝綿玉〟が再び近づかないよう、彼女のそばに片ひざをついて控えた。
くろがねが、さらに光の矢を放とうとした時、異界妖は突然、まるで衣であったかのように、白い綿を脱ぎ捨てた。その下からは緑色の体があらわれ、黒い足はその両側に四本ずつついているのが見て取れた。だが、その体色以上に大きく変化したのは、背中に大きな翼が生えたことだ。もはや〝綿玉〟とは言えぬほどに姿を変えた異界妖は、羽を大きく広げ、壁を通り抜けて、外へと出て行ってしまった。
「どこへ行くのか、突き止めて」
彩音の指示で、くろがねも壁をぬけて後を追った。自身も急いで部屋を飛び出したが、玄関から門の外へたどりついた時にはもう、くろがねの姿は二軒ほど先の、民家の屋根の上にあった。
さすがに鳥のようにはいかないが、玉妖も低空ならば飛ぶことができる。さらに、妖力を使えば、人間より何倍も早く移動することが可能だ。せめて、異界妖がどちらの方角へ向かったのか、それだけでも知りたかった。
だが、彩音もここでただ待っているというわけにはいかない。
玉妖は母体とも言える竜卵石から、ある程度の距離ならば離れていられるが、その限度を超えると、自動的に石の中に引き戻されてしまう。くろがねの石は今、彩音の上着の内ポケットに収まっている。彼にできる限り追跡を続けてもらうためにも、彩音は必死で後を追わねばならなかった。四月の終りで、まだそれほど気温が上がっていないのが救いだった。
どれほど走っただろうか。息が切れて、足がどうにも上がらなくなった頃、くろがねが戻ってくるのが見えた。
「遅いぞ」
容赦のない言葉にも、反論する余裕すらない。なんとか呼吸を整えて、ようやく話し出すことができた。
「行き先はわかったの?」
「ああ。途中で追いつけなくなるかと思ったが、あれらが旋回してこちらに戻ってきたからな。ずいぶんと走らされたが、結局、ここからすぐ近くの家に入っていった」
「また、誰かを襲う気なのかしら?」
くろがねの案内で、異界妖が入って行ったという家に向かってみると、確かにそこは沢野家から数間ほどしか離れていなかった。
門には表札が出ていない。裏にまわって、生け垣のすき間からのぞいてみると、庭には雑草がはびこり、長らく手入れをされていないようだった。
「空き家なのかもしれないわね」
彩音はとりあえず沢野家に引き返し、みつ夫人に事の次第を報告した。
「若奥様のお部屋に異界妖がおりました。もしかしたら、お体の具合が悪いのは、妖のせいだったのかもしれません。もう追い払いましたから、大丈夫だとは思いますが、念のためにお医者様を呼ばれたほうがいいかと思います」
「なんとまあ、おそろしいこと」
夫人は眉をひそめた。
「お家の周りに結界を張っておきましょう。それで、妖が外から入ってくることはなくなりますから」
「よろしくお願いいたします。これでようやく安心できます。ありがとうございました」
ずっと険しかった夫人の表情が和らいだ。それを見計らって、彩音はさりげなく尋ねた。
「あの、坂の手前の道を東に入った所に、表札の出ていないお宅があるのですが、誰も住んでいらっしゃらないのでしょうか?」
「関元さんのお家のことかしら。確か一年ほど前に引っ越しをされて、今は空き家のはずですよ。あそこがどうかしましたの?」
追い払った妖が、こんなに近くにひそんでいるとは言いづらい。ここは黙っておいて、一刻も早く退治するに限る。
「いえ、無人になって家が荒れますと、妖が現われやすいと聞いたものですから、そちらのお宅にも結界を張ったほうが良いかと思いまして」
〝はざま〟は人の少ない場所に出現することが多い。異界妖は〝はざま〟から出てくるわけであるから、これはあながち出まかせでもない。
「ぜひ、そうしてくださいまし」
みつ夫人は大きくうなずいてから、急に声をひそめた。
「あのお家は良くないことが続いたのですよ。じつは、奥様がよその男とかけおちなさってね。もともと無口だったご主人は、さらに無愛想になってしまわれたわ。お母様は亡くなったばかりで、お嫁入り間近の妹さんも同居なさっていたから、近所の目も気になったのでしょうね。それからしばらくして、引っ越しをされたのです」
「そうだったのですか」
「でも、意外だったわ。奥様は名門の女学校を卒業されたとかで、とても知的で落ち着いた感じの方だったのよ。人はみかけによらないと言いますけれどね」
よそ様の事情にはあまり興味がなかったが、彩音はおとなしく話を聞いた。せっかくうちとけてくれた依頼人の機嫌を損ねたくはなかったからだ。幸いにも、みつ夫人はそこで話を切り上げ、医者を呼ぶために電話を掛けに行った。
彩音は家の周囲に結界を施し、玄関先であいさつをしてから、沢野家を辞去した。
いったん海景堂に戻るつもりだったが、もういちど異界妖が逃げ込んだ家の様子を確かめてからにしようと思い直した。
空き家の周りを生け垣に沿って一周したが、出入りする異界妖の姿は見られなかった。だが、門の前まで来ると、くろがねが急に立ち止まって目を閉じた。
(何か、気配を感じるのかしら)
彩音は邪魔をしないよう、静かに待った。ほどなくくろがねは目を開いたが、彼の口からは、意外な言葉が発せられた。
「おそらく、この家のどこかに玉妖がいるはずだ」
「まさか……」
くろがねが自分と同じ玉妖の気配をまちがうはずはない。わかってはいても、その事実をすんなりと受け入れられなかった。
「ここは無人なのよ。主に置き去りにされたとでも言うの?」
「ありえないことではないだろう」
くろがねはまったく表情も変えずに言った。そのように冷たい主がいるとは思いたくなかったが、否定できないのが口惜しい。だが、玉妖が竜卵石に宿るものである以上、自力で移動することなどできないし、そもそも自らの意思で主の許を離れるということは、もっと考えられないことだ。
(中に入れれば、すぐにでも確かめられるのに)
そんな思いで、試しに門扉を押してみると、驚くほどあっけなく開いた。
「どうして、鍵がかかっていないのかしら」
わずかに逡巡したものの、彩音はこれ幸いと思い切って中に入った。
門から玄関の間には敷石で道が作られ、その両側には、あまり広くはないものの、松の植えられた庭があった。
もしかしたらと期待したのだが、さすがに玄関の戸には鍵がかかっていた。そこで、前庭に足を踏み入れ、奥へと進むと、家の脇をまわって裏庭へ出ることができた。
先ほど外から見た通り、雑草が茂っていたが、くずれかけた畝が残っており、以前は畑だったのだろうと思われた。だが、その草の間に、白い綿玉がいくつも転がっているのを目にして、彩音は驚いた。
「異界妖がこんなにたくさんいるなんて、近くに〝はざま〟があるの?」
だが、くろがねは即座に否定した。
「この辺りに〝はざま〟の気配は感じない。もしかしたら、以前はあったのかもしれないが、今はもう閉じてしまったようだ」
綿玉は黒い足で地面を進み、頭部から突き出ている尖った針のような角を、草の葉に刺している。それを何度も繰り返すうちに、丸い体が少しずつふくらんでいく。
「植物の生気だけでは足りないから、人間も狙うようになったのだろう」
確かに、この庭の雑草の半分ほどは、すでに茶色くなっている。
「ここが空き家で誰もいないから、異界妖が集まりやすかったのかしら」
「いや、理由はそれだけではないようだ」
くろがねはちらりと背後に建つ平屋に視線を投げた。
「この家にある竜卵石はかなり強い妖気を放っている。それに魅かれて、妖が集まってきたのだろう」
「つまり、妖力の強い玉妖がいるわけね。どうにも嫌な予感がするわ」
彩音も家のほうを振り返った。
今まで気に留めていなかったが、雨戸が一枚だけ外され、縁側の前に置かれた沓(くつ)脱(ぬ)ぎ石 の上には、黒い革靴が一足置かれている。
(中に誰かいるんだわ)
「ごめんください」
彩音は家の中に向かって呼びかけてみたが、何の反応も返ってこなかった。
黙って入れば叱られるに違いない。だが、ここまで来て、何もわからないまま帰りたくなかった。彩音は縁側に膝をついて、目の前の障子をそっと開けてみた。すると、女性があおむけに倒れている。
あわてて靴を脱いで上がり、声をかけようとして、はっとした。女性の姿が全体的にぼんやりと霞んで見える。これは人間が、玉妖の〝郷〟に行った時の状態だ。
竜卵石に宿る玉妖は、自分の石の中に〝郷〟と呼ばれる世界を作り出す。人間も玉妖といっしょであれば、〝郷〟に入ることができるのだ。
彼女の近くに、しずく形の石がふたつ転がっている。どちらも三寸ほどの大きさで、外側は透明だが、中心の色が異なっていた。ひとつは紫紺で、もう一方は濃い桃色をしている。
「どちらの〝郷〟に入ったか、わかる?」
「こちらだな」
くろがねが指し示したのは、桃色の石だった。
「紫紺の石の玉妖と共に、そちらの〝郷〟に入ったのだろう」
わざわざ別の玉妖の力を借りて〝郷〟に入ったということは、この女性が桃色の石に宿る玉妖と、友好的な関係ではないということを示している。
女性は二十歳前後だろうか。彩音よりは少しばかり年上に見えた。耳が見えるほど髪を短く切り、何の飾りもない白のブラウスと黒いズボンを身に着けている。
「事情を聞くには、戻ってくるのを待つしかないわね。それまでに、庭でうろうろしている〝綿玉〟を何とかしましょう」
だが、彩音が太刀を呼び出すと、異界妖たちがいっせいに部屋の中に入ってきた。そして、桃色の石に近づくやいなや、次々と吸い込まれるように消えていった。
「どういうこと?」
驚いて思わずくろがねに尋ねたが、彼もわからないと首を振った。
できるなら、すぐにでもこの竜卵石の〝郷〟に入って、事の真相を確かめたいところだ。だが状況から見て、この女性が同業者である可能性もあり得る。驅妖師の中には、縄張り意識の強い者も多いから、うかつに入って、仕事の邪魔をしたと言われれば、もめごとの種にもなりかねない。
この場にくろがねを残し、念のため家中をまわってみたが、他に異界妖は見当たらなかった。
四半時(しはんとき)近くが経つと、もう待ちきれなくなった。
「戻ってくるのが遅すぎるわ。何かあったのかもしれない。〝郷〟に入ってみましょう」
「要(かなめ)に知らせてからのほうが良いのではないか?」
要というのは、海景堂の店主である寺西(てらにし)要のことだ。仕事のあっせんなど、日頃からさまざまな件で世話になっている彩音にとっては、つねに頭の上がらない存在である。彼の名を出せば、思いとどまると考えているのだろうか。そんな疑いを持ちながら、彩音はくろがねをみつめた。
「あなた、この頃、ずいぶんと用心深くなったわよね」
すると、くろがねは表情を変えぬまま淡々と言った。
「おまえは何度も無謀なまねをしては、要に叱られているだろう。私は同じ注意を何度も聞かされるのに飽き飽きしている。だから、こうして意見しているのだ」
「つまり、要さんの説教を聞くのが嫌だから、用心するようになったというわけ?」
「それだけではない。おまえが愚か者だと思われるのが忍びないからだ」
「失礼ね」
くろがねはいつも歯に衣を着せず、言いたい放題だ。まちがってはいないが、聞いているほうは腹立たしいことこの上ない。
だが、こうして助言をくれるようになったのは、有難いことなのかもしれない。彩音の許に来たばかりの頃、くろがねは彼女が何をしようと、たいして関心もなかったようで、助けを求められた時以外は、自分の石から出てくることもまれだった。意見を述べることはおろか、自ら話しかけてくることもほとんどなかったから、こうして普通に会話ができるようになったのは、彩音にとってうれしいことだった。ただ、この容赦のない物言いだけはなんとかならないものかと、毎回のように思う。
「だけど、店に行って要さんの指示を仰いでいる間に、この人はいなくなってしまうかもしれないわ。竜卵石も持っていかれるでしょう。そうしたら、異界妖がどうなったかわからずじまいよ」
「依頼されたのは異界妖を追い払うことだけだろう。正体を突き止めろとまでは言われていないと思うが?」
「そうやって放っておいて、またこのあたりを妖にうろうろされたら、わたしが仕事を完遂していないと思われるわ。それに、疑問を抱えたまま帰りたくないの」
「では、好きにすると良い」
ついにはあきらめたように、くろがねが言った。冷たく突き放したように聞こえるが、けっして怒っているわけではない。自らの意見を述べ、議論を交わしたうえで、彩音の意思に従うということだ。
彩音が何かしようとした時に、くろがねは止めたことがない。無理強いはしたくなかったので、かつて聞いたことがある、仕方なく従っているのかと。だが、くろがねは即座に否定した。
「違う。おまえが強い意志を持って決めたことならば、私はけっしてさえぎったりはしない。自らの信じた道を行くのが最善だと思うからだ。ただ、短慮にならないよう、おまえが考えもしない他の可能性を提示し、判断材料を提供しているだけだ。おまえの行動が思い通りの良い結果につながるようにと、私はそれだけを願っている」
彼の言葉に、彩音は胸を打たれた。自らの行動に責任を持たねばならないと、強く思った。そのことを今、あらためて思い出す。
「助言をありがとう。でもやっぱり、このまま待っているのが最善とは思えない。行きましょう」
彩音がくろがねに手をさしのべる。彼がその手を取ると、世界が反転した。