ミネット・ウォルターズ『カメレオンの影』(成川裕子訳 創元推理文庫 1400円+税)は心理描写の白眉(はくび)だ。
 イラクの戦場で頭部と顔面に重傷を負ったアクランド中尉は、昏睡(こんすい)から目覚めてからは性格が気難しくなり、暴力的な行動をとるようにもなってしまった。彼は退院後にロンドンに住むが、一人暮らしの元軍人の男性が殴殺される事件で容疑者に目されて、連行・尋問されてしまう。

 傷痍(しょうい)軍人、しかも恐らくはPTSDに至った人物として、アクランドはほぼ完璧に描写される。切羽詰(せっぱつ)まった内面の緊張。制御困難な怒り。周囲への苛立(いらだ)ち。放っておいて欲しい孤独への渇望。それでもなお彼に関与してくる人間への、明確に言葉にしづらい感情。復帰が絶望的と知りながら軍人であることに拘(こだわ)る、誇りと感傷。そういった自分に対する嫌悪と無関心、自棄。これら様々な心理が、ときに繊細に、ときに大胆に描かれる。

 一方で、アクランドが事件にどう関与し、個別の言動が何を意図としてなされたかは、最終盤になるまで具体的に記述されない。それまでの間一貫して、彼はいち容疑者として描かれる。読者はアクランドにじゅうぶん感情移入できるが、完全に信用を置けもしないのである。しかし心理状態は実によくわかる。この絶妙なバランスが終始保たれる。素晴らしいのは、言葉では説明しきれないであろう、微妙な感情のひだや、彼の周囲の雰囲気も、しっかり読者に伝わるような書き方がなされている点だ。中盤での、路上生活者たちとのやり取りは象徴的であり、その場の雰囲気がはっきりと伝わってくる。

 実質的な主役アクランド以外の人物も、印象的な人物が多く、性格が鮮(あざ)やかに描き出される。いわゆる「キャラが立っている」場合が多く、各人物の描き分けは明々白々である。特に、筋肉美を誇るレズビアンの女性医師ジャクソンは、アクランドの世話を焼き、お互いを振り回し合う。きっぷが良くて思い切りも良いこの個性的な医者がいなければ、物語はもっと陰鬱(いんうつ)なものになっていただろう。ジャクソンは、爽やかな風通しをもたらしているのである(本人が横にいたらまず間違いなく暑苦しいだろうが)。

 他にも実直なジョーンズ警視、フォークランド紛争への従軍経験がある路上生活者チョーキー、Ⅰ型糖尿病を患(わずら)う小ずるい家出少年ベン、アクランドの元恋人で自らの美貌を鼻にかけるジェンなど、個性的な人物が目白押しである。彼らの人生が交錯する中、ウォルターズは、物語を意外な方向に進ませたうえで、意外な真相に至る道筋を、随所に密かに巧みに、意外な形で織り込んでいる。おまけにイラク戦争と傷痍退役軍人に触れて、社会問題への目配りも忘れない。現代ミステリの理想形がここにある。

 ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(吉澤康子訳 東京創元社 1800円+税)は、東西冷戦とソ連での言論弾圧に斬り込んだ、国際謀略小説である。それだけなら「よくある傑作」であったろうが、その謀略がビブリオ要素に拠(よ)ることと、当時は欧米でもまだ偏見と差別の目で見られていた女性たちがメインを張る点で、独特な読み口を獲得している。
 冷戦下のアメリカで、ロシア移民の娘イリーナはCIAにタイピストとして雇われる。だがスパイの才能を見込まれて、特殊作戦――ボリス・パステルナークの作品で、ソ連で発禁処分を受けている『ドクトル・ジバゴ』をソ連国民に普及させる――に従事させられることになった。一方、ソ連では、オリガという女性がKGBに捕まり、『ドクトル・ジバゴ』とパステルナークのことを尋問されていた。

 本で世界を変える、という奇想天外な謀略作戦は、10年以上のロングスパンで実行される。国家権力のえげつなさをダイレクトに描くのではなく、作戦に関係した個々人の人生を描くかのように話は進む。米ソ双方で、女性たちは、運命や国家に翻弄(ほんろう)されつつも、とても強く生きている。その様を軽快に、しかし味わい深く読ませる作者の腕前には舌を巻く。