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 グレアム・グリーンには『二十一の短篇』『現実的感覚』『旦那さまを拝借』『最後の言葉』の四つの短編集があり、それぞれ邦訳もありますが、2008年にそれらに加えて、未収録作を増補したComplete Short Storiesがペンギンブックから出て、日本では三冊本としてハヤカワepi文庫に新訳で入りました。2013年のことです。正確には、2005年に『二十一の短篇』を新訳で文庫化していたので、それ以外を二分冊で加えました。『見えない日本の紳士たち』『国境の向こう側』です。

 グリーンの短編集は、比較的翻訳が早かったせいか『二十一の短篇』が圧倒的に有名でしょう。二〇年代の若書きと言えそうなものから、戦後の作品までも収めていた上に、よく人の口の端に上ったり、アンソロジーに取られたりする作品(「地下室」「アイ・スパイ」)も含んでいたので、なおさらです。しかし、原著刊行でいえば、次の『現実的感覚』とそれほど差があるわけではありません。コンスタントに短編集がまとめられてきたのは、さすがの実力というものでしょう。

『二十一の短篇』epi文庫版は、収録順が年代の新しいものから遡っていく構成になっています。どうして、そうしたのかは分かりませんが、これ幸いと、逆に古いものから順に読んでいくことにしました。

 巻末の「パーティの終わり」は29年の作品。『内なる私』を書いたこの年、グリーン25歳です。毎年新年にヘンファルコン夫人が子どもたちを集めて開くパーティに、ピーターとフランシスの兄弟は、とりわけ弟のフランシスは、あまり行きたくなさそうです。暗闇のかくれんぼという遊びがフランシスは怖くて、おまけに年上の女の子たち(たぶん怖がっているのがバレている)には、笑われてしまうからです。しかも、当日の朝、フランシスは自分が死ぬ夢をみてしまう。いやいや参加したパーティでは、避けようもなく、暗闇のかくれんぼが始まってしまいます。子ども時代の体験と恐怖の感情というグリーンの重要なモチーフが出てくる一編ですが、主人公を兄弟にしたことで、死への恐怖が重層的になっているのが巧みでした。

 初期のグリーンの短編には、一場面を切り取ることで成立させた作品が、いくつかありますが、「たしかな証拠」「一日の得」にしても、あまり成功しているとは言えないでしょう。その行き方で見事なのは、やはり「アイ・スパイ」ということになります。アンブラーがグリーンの書いた唯一の短編のスパイ小説と評したものですが、実は題名がこうでなければ、スパイ小説と言ってしまえるかどうか、にわかには分からない。しかし、母親がドイツ人嫌い(もしかして夫を売ったのか?)とか、主人公の息子は暗闇に隠れてみている(父親はとても彼に似ている)といった短かく触れられるディテイルが強烈で、読み終わってみれば、スパイ事件がもっともスパイ事件らしいのはどの瞬間なのかを、すっぱりと切り取ってみせて、秀作の名に恥じません。ここでも、子どもの体験というモチーフが生きていました。「アイ・スパイ」がかくれんぼの「みつけた」に相当することは、みなさんご存じですね。

「即位二十五年記念祭」は、年老いて落ちぶれた結婚詐欺師というか、ご婦人相手のたかり(訳者は男娼としていますが)の話です。ジョージ五世即位二十五年式典の賑わいに、外出を控えているのは、式典のために田舎から出てきた知人に出くわしでもしたら、家に招かざるをえなくなってしまい、それを避けたいからでした。それでも、その日外に出たのは。かろうじてメイフェア住まいに見えている外見を保つ気力が、これ以上引きこもっていると、失われそうだったからです。ストーリイ自体は、詐欺師の失敗談としてルーティンに近いものですが、そういう見栄をはるためのディテイルを、いじわるで洒落た筆致で描いてみせるのが笑いっぱなし。酒場での最初の一杯は必ず自分で払うことになるので、それは所得税申告の際に経費につけるというのが、たまらなくおかしい。即位二十五年が、若さに任せていたであろう主人公の人生と重なるのは明らかでした。

「地下室」は中編といった長さで、のちに「堕ちた偶像」という映画になり、題名も改題されて知られることになります。先に示した子ども時代の体験というモチーフが、もっとも効果的な一編です。「育児係の谷間」にいる少年は、執事のベインズとその妻に面倒を見られています。ところが、ベインズには妻に隠れて逢っている「姪」がいて、夫婦間の秘密を共有する立場に立たされてしまう。ベインズとベインズ夫人の板挟みとなりますが、そこらの子どもが、大人に嘘をつき通せるはずもありません。それでなくても、ベインズ夫人は「姪」の存在に気づいています。関係は破局を迎えて終わりますが、少年の人生に影を落としたのが何だったのかが判明する結末は、未知のままであることが、どれだけ強く長く人の脳裏に刻まれるかを示して、どこにでもありそうな話を、他のどこにもないような読後感で締めくくっていました。

「たしかな証拠」「エッジウェア通り」「弁護士の言い分」「ばかしあい」といった比較的短かい作品は、イギリス人が面白い話を書いたときに、ミステリに接近してしまう。あるいは「能なしのメイリング」のようなナンセンスになってしまうという実例ですが、どれも一読楽しめますが、とりたてて称揚するほどではありません。

『二十一の短篇』の最高作は巻頭の(従来は最後に置かれていた)「廃物破壊者たち」でしょう。ロームズリー・コモン団という少年たちのグループ(ジェット団とかオスムス団とか、そういう類のものです)が、たまり場である空地に隣り合う小屋を、家の主である老人の留守を狙って、内側からそっくり壊してしまうという、それだけの話です。家の内部がどんどん壊され、外側だけになって(映画のセットみたいなものでしょうか)しまい、最後には冗談のようにその外側が倒壊する。そのプロセスだけが描かれていくのは、サイレント喜劇を観るようでもあり、不条理劇を観るようでもあります。しかし、その筆致は、まったくのリアリズムで、少年たちの間のリーダーのありようや、「遊びじゃなくて仕事」のようだと、メンバーのひとりがグチるほどの、少年たちの熱心で勤勉なことの示すチグハグさ。そういったものが、この小説を暗喩に満ちたものにしました、実際、三十歳前後での初読時には、国家の転覆とか革命といったものは、こういうことではないのかと考えながら、私は読みすすめたものでした。散文以外の何物でもない、非常に明快なストーリイライン――通俗的とさえ言ってもいい――を持った、リアリスティックな話の背後に、かかる厚みを築いていく。まずは、グリーンの実力が如何なく発揮された一編でした。

 

『現実的感覚』は、その表題に反して、「森で見つけたもの」「庭の下」といった、分量としては中編の、ファンタスティックな作品が目立ちます。このふたつでは、少年のころの逃避の記憶を、老いてから辿りなおして、主人公を手記をしたためる「庭の下」が、グリーンらしいモチーフを、グリーンらしいとは言えない幻想譚に活かして、奇妙な読後感を与えます。「モランとの一夜」は、カトリック作家グリーンの面が出た一編ですが、この短編集でエンターテインメントと呼べそうなのは「見知らぬ国の夢」でしょう。らい病の正式名称がハンセン病に変わって五年後、なお、一般的には不治の伝染病と信じられているころ、その病名を告げられた患者が、主人公の医者にコトを内密にするようお願いしている。法律上、それは無理なことでした。治る病気だからと説得する医者に、患者は、周囲の人間はそうは思わないと訴えます。シリアスで地味な話と思っていると、一転して、著名な将軍の誕生日のためのびっくりパーティに、主人公の屋敷を一夜だけカジノにしてしまうという、冗談そこのけの話になっていく。

『旦那さまを拝借』の表題作(epi文庫版では「ご主人を拝借」)は、季節外れの南仏の保養地で、語り手の主人公と、どうやら同性愛者らしい二人組の男と、新婚ほやほやのカップルが織りなす、コミカルな不倫の話でした。グリーン版のスクリューボール・コメディ――そして、そのオリジンがヨーロッパにあることを示しています――とでも呼ぶべきもので、最初から手の内を明かすことで不穏さを演出し、笑いがしだいに重層的になっていくのが見事でした。ケラリーノ・サンドロビッチが舞台にしないかな。

「悔恨の三断章」「見えない日本の紳士たち」は、グリーンの分身ふうの作家の一人称によるスケッチですが、唐突な日本人グループの利用といった技においても、人間観察のユニークさにおいても、後者が一枚上手でした。

 表題作がスクリューボール・コメディふうだったほかにも、「旅行カバン」「ショッキングな事故」といった作品で、ユーモアがより前面に手てきているのが、この第三短編集の特徴でしょう。「旅行カバン」は不条理劇を思わせる、異常が正常になった状態で終始するユーモアが不気味なのに対し、「ショッキングな事故」は、落下してきた豚のために首を折って死んだという、どうしても、まともに聞いてもらえない父親の死因を抱えた主人公の、苦労のほどが笑いの種でした。ひとつの異常な状況が徹底することで、笑いを生んでいくのは、ひとつの手法ですが、その粒の立て方はさすがのもので、結末に、この形のハッピーエンドを持ってきたのも、口当たりのよい仕上がりになった一因でしょう。

 しかし、第三短編集で表題作と双璧となるコメディは「諸悪の根源」でしょう。父から聞いた、その父の話という枠組みで語られる、前世紀ドイツでの騒動です。些細な問題を手ばやく解決するために、ちっぽけな隠し事を図ったところ、その企みの歯車が、ゆっくりと狂っていき、大騒ぎになってしまう。ソフィスティケイトされた「ご主人を拝借」が、ルビッチとすれば、こちらはスピーディで豪快なハワード・ホークスでしょうか。にもかかわらず、作品の背後には――そしてサゲにも――プロテスタントへの皮肉な眼差しという、達者なコメディとは別のグリーン印が刻印されていました。

 

『最後の言葉』は、もともと、グリーンの落穂ひろいの趣があったので、Complete Short Storiesに初収録の作品と、区別する必要は感じられません。

 先に、アンブラーはグリーンが書いた短編スパイ小説をひとつだけとしたことに触れましたが、実際はそうでもありません。「英語放送」は第二次大戦中の1940年に書かれました。開戦直前に渡独した数学教師が、捕らえられ、英語の対英プロパガンダ放送を強要されている。イギリスで放送を聞いている人々からは非国民あつかいです。その中には、彼の母親や妻もいました。やがて、彼の妻は気づきます。ふたりだけの約束事である暗号を使って、夫が何かを告げようとしていると。荒唐無稽さはないものの、やっていることはジョン・バカンとそう差があるわけではない。うっかりすると、当時のハリウッドのスタジオでさえ通りかねない巧みなメロドラマでした。もうひとつ「秘密情報機関の一部局」は、ミシュランのようなレストランの評価ガイドの調査員を装ったスパイの話という、まあ『ハバナの男』に近いファースです。イギリスの片田舎にパラシュート降下して、あっという間に村を占領したドイツ軍を、ひとりだけ捕まりそこなった(ウサギを密猟するために隠れていたのです)老人が、かつて参戦したボーア戦争の続きと思い込んで、ひとりでドイツ軍を全滅させてしまうのが「中尉が最後に死んだ――戦史に残らない一九四〇年の勝利」です。スパイ小説というわけではありませんが、戦争冒険小説のファース(のちに書かれる『鷲は舞い降りた』の先取りのパロディでしょうか。それだけ、ドイツ軍が舞い降りることはリアリティがあったということでしょう)でした。

「エッフェル塔を盗んだ男」は「私にとって、エッフェル塔を盗み出すこと自体は、さほどの難事業でもなかった。誰にも気づかれずに元に戻す方がよほど大変だった」という冒頭の文章が、すべてを語っているような、ナンセンスなホラ話でした。同じホラでも『〈新パパイラスの舟〉と21の短篇』にも採られた「拝啓ファルケンハイム博士」は、その死を信じることで存在を疑えなくなるという、グリーンらしい苦さがまぎれようもなく貼りついていました。独立直前のケニヤを舞台にした「戦う教会」にも、苦いユーモアがありますが、こちらは、イーヴリン・ウォーの『黒いいたずら』「アザニア島事件」に近いものがありました。

「最後の言葉」は、近未来を舞台にした、最後のキリスト教徒となった最後の教皇が、幽閉を解かれ、将軍と相まみえるという話でした。人が宗教を必要としなくなった、未来のありえない世界を淡々と描き、それでも、このオチになるところが、グリーンでした。この作品といい「ある老人の記憶」のエッセイスタイルの嘘八百といい、グリーンが様々な手練手管をストレイトノヴェルに持ち込んだことを、ことさら意識させるのが、彼の短編の特徴でしょう。そして、それは短編だから読み取りやすいだけのことで、長編においても、実はおなじことが起きているというのが、私の考えです。



※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2020年8月26日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24