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言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)
ローラン・ビネ
東京創元社
2020-09-24


「人生は小説ではない」という文章から、本書は始まります。
 
 少し前に、編集部の子猫たちが、私に黙って、本書について、おしゃべりをしてしまったようですね。彼らが色々話してはいましたが、まだまだお話しすべき事はたくさんあるのです。そんなにあれやこれやお伝えしてしまったら、もう読む必要がなくなりそうですが、ところが、そんなことはありません。実に読みでがある小説なのです。
 しかも楽しんで(呆れながら?)読める作品なのです。 
 
『言語の七番目の機能』というのは、ロマン・ヤコブソンというロシアの言語学者が提唱した『言語の六つの機能』(この六つの機能については、子猫たちのおしゃべりをご覧ください)ですが、実はそれ以外に七番目の機能があって……
と書くと、面倒くさそう! と思う方がいらっしゃるでしょうが、決して面倒くさい小説ではありません。きわめてエンターテインメント性の高い書きぶりなのです。
 エーコの小説を思い出してください。もちろんちりばめられた要素は蘊蓄(うんちく)、歴史的事実も満載で、そのあたりのことを知らないと、迷宮に迷い込んだ感があったかもしれませんが、物語性はしっかり確保されていて面白かったではないですか!
 本書の舞台は現代、1980年から1年ほどのことですし、誰でも知っている世界のことなのですから。といっても21世紀生まれの読者の方々には歴史上の出来事になるのか……。ううぅむ。

 フランスの文芸批評家、哲学者、記号学者のロラン・バルトが、車にはねられて死亡したという、当時本当にびっくりした出来事があって、そこからすべてが始まるのです。

バルトの死を報じたル・モンド紙――――


 その時、バルトは当時大統領選に出馬することになっていたフランソワ・ミッテラン(翌年、第21代の大統領――社会党初の――となった)との会食からの帰り道で、クリーニング店の車にはねられ意識不明に陥った彼は身分証明書も鍵も身につけていなかった。
 この不可解な状況、この小説的状況にビネは心惹かれたというのです。

 どうやら、彼の所持していた謎の文書が狙われて、そのために彼は殺されたらしいという。捜査にあたるのは、情報局付き警視ジャック・バイヤールJacques Bayardと、彼が補佐役として選んだ若い記号学者シモン・エルゾグSimon Hersog。
「記号学? なんだ、そりゃ?」というバイヤール警視ですから、大学内部のことや、学者たちのことをよく知るシモンの助けが必要だったのです。
 シモン・エルゾグのイニシャルはS・H、シャーロック・ホームズと同じですよ!
 ではジャック・バイヤールのJ・B は? ジャック・バウワー= アメリカのTVシリーズ《24 : トウェンティフォー》の主人公である政府機関の有能な捜査官。この辺りも子猫たちバラされていてまったく困ったものです。
 実際、バイヤール警視と初めて会った場面で、シモンはホームズばりにバイヤール警部の正体を推理してみせます。
 この場面で、もうホームズを目指していることは明らかになるわけです。シャーロッキアンであれば、この場面のためだけにも本書をお読みにならねばなりませんよ(ヒヒヒヒ)。

 そして、とにかく登場人物が綺羅星(きらほし)のごとく……なのです。 
 探偵役の二人、バイヤール警視とシモン以外の、主要な登場人物のほとんどが実在の人物です。
 ロラン・バルトのことはすでに書きました。
 ミシェル・フーコー(哲学者、『狂気の歴史』『監獄の誕生』他、1984年エイズで死去)、ウンベルト・エーコ(イタリアの記号学者、作家『薔薇の名前』他)、ジュリア・クリステヴァ(ブルガリア出身の哲学者、著述家)、フィリップ・ソレルス(クリステヴァの夫、作家)、アルチュセール(マルクス主義哲学者)、デリダ、ドゥルーズ、ガタリ、ジャック・ラング、ベルナール=アンリ・レヴィ、エルヴェ・ギベール、サール、フランソワ・ミッテラン、ジスカール・デスタン、アンドレ・テシネ、イザベル・アジャーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、モニカ・ヴィッティ……きりがありません。
 サルトルがフランソワーズ・サガンにつきそわれるようにしてカフェにいる姿も。

 実在の人々のことをこんなふうに書いていいのか……と、ぎょっとするようなことが色々書かれているのです。このあたりの真実と嘘はかなりカクテルされています。つまり真実も相当入っています。フーコーはゲイ・サウナに入り浸り、ソレルスはなんとも大変な目に遭う。「スキャンダラス」という言葉さえ頭に浮かびました。
 でも考えてみるとソレルスは『女たち』という小説で、自分の妻のクリステヴァ、バルト、ラカン等をモデルに、好き放題書いたのでしたから、彼は何も言えないでしょう。

 バルトの部屋の描写がP47に出てきますが、その部屋の様子はここで見られます。パリ6区、サン・シュルピス教会近くの自宅の7階の部屋。そしてビネが「フィリップ・ノワレの声」と書いている声も聴くことができます。そしてピアノを弾く彼の姿も。




 哲学者ルイ・アルチュセールが、この1980年に妻を殺害した事件は日本でもニュースになり「私もええっ!」と驚いた記憶があります。



 この写真は、たぶん事件の数か月前の二人の姿でしょう。
 この事件も、ビネは小説に組み込んでいるのですから、はじめに読んだときは、他にもある〈やり過ぎ感〉のある様々なエピソードなどと合わせ考えて、本当にこの本を出していいんだろうかとしばらく悩みました。

〈ロゴス・クラブ〉という謎の秘密クラブは『ファイト・クラブ』から思いついたようで、あの映画のすさまじい殴り合いをディベートに置き換えたシーンは圧巻です。まさに言葉の戦い。

 本書中、パリの街での、007ばりのカー・チェイスもすごいのですが、ブルガリアの秘密警察が仕込み傘を持って暗躍するあたり、笑えます。ただ、笑えますが、実はこの仕込み傘は、本当にあった話なのです。1978年にロンドンでゲオルギー・マルコフというブルガリア出身のジャーナリストで作家が、リシンを仕込んだ傘で暗殺されるという事件があり、「うをっ! まるでスパイ映画!」と世を騒がせた事件だったのですが、
ここをご覧になればよくわかります。



 そして、ジュリア・クリステヴァはブルガリア出身。一時期、彼女はブルガリア秘密警察との関係を取り沙汰されたことがあったのでした。もちろんその疑いは晴れたようですが。

 探偵役二人はパリから、ボローニャ、イサカ、ヴェネツィア、ナポリと世界を飛び回ります。

 ボローニャで、バイヤール警視とシモンがエーコを捜して訪れた〈オステリーア・デル・ソーレ〉はこんなお店です。ここでエーコ先生はひどい目に遭います!


 学会があって、みんなが向かうアメリカはイサカのコーネル大学は今回、ネット検索してみたら、実に美しいところで驚きました。一件の価値ありです。こんなところで学生生活を送る人たちもいるのですね。そして、こんなとろこで、あの学会があり、登場人物たちが大挙して押し寄せ、X氏やY氏が命を落とす……



 ヴェネツィアで、ソレルスがシモンとバイヤールに是非行くべきと勧めている、サント・ステファノ広場にあるニッコロ・トマセオの彫像の写真はここでご覧ください。いかにもソレルス的な紹介、「書物を排泄している云々」というあれです。


 そしてフェニーチェ劇場での〈ロゴス・クラブ〉の大会のあと、シモンとバイヤール警視は、ムラーノ島のガラス工房に行くことになる! ああ、なんということか!



 エピローグの最後の場面はナポリ近郊のソルファターラ火山。こんなところです。



 あまりに、ふざけ過ぎではないだろうか? やり過ぎではないだろうか? インテリ坊やの若気の至りでは?(実はもうローラン・ビネは47歳、坊やなどではないのですが)などとはじめは本当に思ったのですが、何事も見た目で判断してはいけないというのは、当たり前といえば当たり前。
 一見ふざけ過ぎでスキャンダラスで、いったいどういうつもりなんだ……と思える本書も実は、現実とフィクションというテーマを追い求めている作品であり、言葉の持つ力への愛に満ちた作品であることは、読み通されれば実感していただけるはずです。
『HHhH』とはひと味もふた味も違う、しかしローラン・ビネらしい本書を、是非お楽しみください。(子猫たちに先にいろいろおしゃべりされてしまって困惑気味の編集部M・I)
 
*「記号学ミステリ」という言葉に相応しい、きりっとした、独特の雰囲気のある装丁は、柳川貴代さんによるものです。

☆ 重要なお知らせ
実はローランロ・ビネ氏は、今秋、フランス大使館の招聘で来日することになっていましたが、コロナ禍により実現せず、代わりに10月31日に、オンライン・トークイベントが開催されます。
対談相手は、平野啓一郎氏、司会は佐々木敦氏。
詳細はこちらをご覧ください。




HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)
ローラン・ビネ
東京創元社
2013-06-29