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 今回は、これまでの連載で取りこぼしていたり、その後翻訳がでたものの落穂ひろいをしておきましょう。
 まずは大物ジョン・チーヴァーです。チーヴァーは、この連載のかなり早い段階で、一度読みました。その後新版の『ニューヨーカー短篇集』に収録された作品も読みました。そして、2018年に村上春樹の訳で『巨大なラジオ/泳ぐ人』が刊行されましたので、これも読んでおきましょう。チーヴァーは戦後のニューヨーカーを代表する短編作家ですが、ミステリ読みは見逃さない方がよい作家でもあります。
 チーヴァーには決定版とでもいうべき大きな選集がアメリカでは出ていて、川本三郎が訳した『橋の上の天使』も、この『巨大なラジオ/泳ぐ人』も、そこからセレクトして編んだもののようです。「巨大なラジオ」は先行訳の題名が「不機嫌なラジオ」で、チーヴァーといえば、まずこの作品の名があがるだろう代表作。映画化もされた「泳ぐ人」もプールサイドのパーティを描いた都会小説が、みるみる心理的なサスペンスからホラーへと化けていき、なおかつ都会小説のたたずまいを手放さないという、はなれわざを見せた怪作でした。「シェイディー・ヒルの泥棒」『ぴょんぴょんウサギ球』に、「ぼくの弟」『橋の上の天使』に、それぞれ別題で収録されています。これら4編、以前のこの連載で触れていますが、実は『巨大なラジオ/泳ぐ人』でも、まずこの4つが面白い。ただし、「泳ぐ人」の、どれほどリアリズムから逸脱していこうが、最後までサバービアの小説であることを手放さない、村上訳の見事さ――もっとも、だから、つまらないと感じる人もいそうな気がしますが――に対して、「シェイディー・ヒルの泥棒」は、既訳に比べて、ユーモアが巧く出ていないように感じました。後者は、どちらかというと、村上春樹とは相性が悪かったのではないでしょうか。
『橋の上の天使』について、私は「いささか『サバービアの憂鬱』に流された気配が、なくもありません」と書きました。それを埋めるかのように、『巨大なラジオ/泳ぐ人』はバランスのとれた作品選択です。
 チーヴァーらしいというか、おなじみの舞台なのが「バベルの塔のクランシー」「引っ越し日」といった作品でしょう。「クリスマスは悲しい季節」の系列です。階級や格差を、物理的に接近した状況で描く、チーヴァー得意のパターンですが、村上春樹も指摘するように、チーヴァー作品には、しばしば、そうした階級を落ちていくことの恐怖が貼りついています。「引っ越し日」に、私がとりわけ惹かれるのは、家賃の値上げにともなって、引っ越さざるをえなくなった店子を見守る男という、主人公の設定のアイデアと、彼の感情の表出を抑えた描写に、リュウ・アーチャーの姿を想起したためかもしれません。「バベルの塔のクランシー」も面白く読める一編ですが、「クリスマスは悲しい季節」のユーモアと「引っ越し日」の抑制という、チーヴァ-の美点が全開となったふたつに比べれば、どうしたって分が悪いというものです。

『巨大なラジオ/泳ぐ人』を読んでの一番の収穫は、サタイアの作家としての、ある種のほどの良さ、魅力的な抑制を、チーヴァーという作家に読み取れる作品が多いことでした。
 初期の作品「ああ、夢破れし街よ」は、その好例です。インディアナ州ウェントワースのバスの運転手が、知人をモデルに書いた戯曲の一幕が、ひょんなことから、ブロードウェイの有力プロデューサーの目に留まる。妻ともどもウェントワースを引き払ってニューヨークに出向いたその顛末です。いかにも胡散臭い人間関係を訳もわからないままに強要されるのは、サタイアとして珍しいものではないでしょう。イーヴリン・ウォーの「現実への短い旅」なんかを思い出してもらえると、分かりやすいと思いますが、こういうサタイアはえてして狂騒的になり、リアリズムを逸脱する方向に進むことで、サタイアの度を強めるものです。しかし、チーヴァーにあっては、ラジオ・シティ・ミュージック・ホール――を巧みに何度か使います――に入ることでホッとするといったディテイルが示すように、リアリティを守っていくことで、サタイアを積み重ねていく。
「林檎の世界」は、アメリカ人の老桂冠詩人が主人公です。どうして自分はノーベル文学賞を受賞できないのだろうかと考えている。故国を離れて、イタリアの田舎町に住んでいるのは、他人の好奇の目を避けたいからですが、かといって未知の来客を拒むわけでもない。妻とは別れているようですが、家政婦が愛人がわりでもあるらしい。そんな彼が、ちょっとしたきっかけで性的妄想が抑えられなくなる。思い浮かぶ詩句が、ことごとく猥褻なものばかりになるという単純な話です。「四番目の警報」は1970年の作品で、教師のかたわら趣味でアマチュア演劇をやっていた妻が、オフブロードウェイらしき芝居のオーディションを受けると言い出すのですが、これが出演の間じゅう全裸で、舞台上で性行為ないしはそれまがいのことをする――この時代の産物です――と、あらかじめ分かっている。妻は見事オーディションに受かったばかりか、全裸での演技によって、未知の自分に出会えたと解放感にあふれています。スクエアとヒップの衝突は、公演を観に行った主人公が、終演後、観客も服を脱ぐことを求められる――こういう観客を巻き込むのも当時の流行で、日本でも寺山修司の天井桟敷なんかがやってましたねー―ところで、最高潮に達します。
 どちらの作品も、基本的な発想は単純でさえあります。しかし、チーヴァーの筆は、奇怪な状況の虜となった主人公の誇張を許しません。風俗的な面白さのある「四番目の警報」はともかく、「林檎の世界」は、初めのうち、読者も想像のつく範囲内での展開に、退屈ささえ覚えます。しかし、一歩一歩主人公が己の妄想に抜き差しならなくなることで、いつのまにか哄笑の世界へ突入している。
 柴田元幸との解説対談で、村上春樹は、チーヴァーの短編が、「途中で逸れていく」ことで、シュールになったり奇妙な物語になるところを買っていて、かつ「その逸れ方がすごくナチュラルで自然」だと評しています。その典型が「泳ぐ人」でしょう。チーヴァーの短編が、ときとしてミステリとして読めたり、類縁性を認められたりするのも、そうしたところに理由があるのかもしれません。
 ジョン・チーヴァーは、腕前から言っても、作家の格から言っても、もっと邦訳点数があってしかるべき作家だと思います。

 ヘレン・ニールスンは、ヒッチコック・マガジンのところで読んだ作家ですが、あまり感心できるものがありませんでした。しかし、読み落としていた「ある決心」は、少し違います。ヒロインが法廷に入ってくるところから話が始まり、さかのぼって、近所で評判の孝行娘が、粗野で無教養で横暴な父親と、そんな夫に歯向かえない我慢ばかりの母親を、手にかけるまでの経緯が、淡々と語られていきます。分かりやすい設定ではありますが、周到に描かれていて、読者を引きつける力は充分です。そして、ついに彼女は父親をスーツケース(家を出ようとしたのです)で殴打し、それでも夫にとりすがる母親の頭上にも振り下ろします。巧みに書かれたクライムストーリイですが、このオチはない。というより、この終わり方はヒロインを絶望させるはずのものだと思いますが、そうはなっていない。着地を間違っている(もしかしたら翻訳の)としか言いようがありません。
 カート・ヴォネガットJr.の「魔法のランプ」は、最初の短編集が『モンキーハウスへようこそ』に編みなおされたときに、一編だけ落とされたという作品です。1929年。大恐慌を目前に、そんなことになるなど知る由もない主人公は、古い錫のティーポットをしろうと加工して、魔法のランプを作っています。乾電池で鳴るブザーを仕込んで、それを合図に黒人の料理女にそれらしいセリフを喋らせるという、微笑ましいものです、あまり贅沢の好きではない妻に、大きな家やコテージ暮らしをさせるのに、金ではなく魔法で得たことにしようというのです。微笑ましい話が微笑ましいままに、しかし、主人公は財産を失って終わる。ヴォネガットらしい一編でした。
 ヘンリイ・スレッサーの「悪名高いカナリヤ訓練師事件」は、スレッサーにしては珍しい、シャーロック・ホームズのパスティッシュでした。事件の当事者(カナリヤの死体が送りつけられてくる)の手記で、たまたまワトスンと同じクラブに入会し、ワトスンがホームズの手柄話で人気なのが気に食わないというのは愉快でしたが、事件とその解決は平凡なものでした。
 90年代にエド・マクベインがアンソロジーに書き下ろした短編がふたつ。「いつか、どこかで」の主人公は、かつて強盗課の警官で、銀行強盗の通報に駆けつけたところで犯人に遭遇し、銃弾を受けて瀕死の重傷を負った(相棒は死んでしまう)経験があります。一度そういう経験をした警官は、周囲がその勤務のままでいさせないというディテイルがまず描かれ、いまでは銀行の保安係に甘んじている。妻や銀行の女性支店長(は彼と同年代)から軽んじられているという意識が抜けません。そういう主人公の経歴は面白いものがありますが、主人公の意識の中に出てくる、実在しないバーとそこから現われる女という趣向が、実を結ぶには到らず、凡庸な作品に終わってしまいました。むしろ「怪物ども」という短かい一編が、ノワールがかったサスペンス小説として読ませます。ハロウィーンの子どもたちの訪れる時間帯について、男が回想するという出だしで、亡妻――彼はひとり暮らしなのです――の言葉も巧みに入れ込んで、小さな妖精たちの訪問について語るうちに、深夜近くになってやってきた、フランケンシュタインの怪物の仮面をつけたふたり組に筆が及びます。このふたり組はおかしをねだるのではなく、ナイフで主人公を脅して、財布やクレジットカード、あげくは亡き妻のコートや宝石まで奪っていく――「来年またな」という言葉を残して。本物の強盗なのでした。届け出た警察では、来年また来るとは考えられなかったようですが、主人公と怪物たちはそうではない。翌年、またも現われる。主人公は拳銃を手に入れて待ち構えていますが、怪物たちも今度は銃を手に入れていたのでした。たいへんシンプルですが、避けがたい脅威というのは、90年代のアメリカ作品にときおり見られましたが、「怪物ども」もそんな中のひとつでした。もっとも、この結末のつけ方は、ショッキングなようで実は甘さのあるものであって、上記90年代アメリカ作品の例としてジャック・ケッチャムをあげておけば、そのことは了解されるでしょう。



※ EQMM年次コンテスト受賞作リスト(最終更新:2020年8月26日)



短編ミステリの二百年1 (創元推理文庫)
モーム、フォークナー他
東京創元社
2019-10-24


短編ミステリの二百年2 (創元推理文庫)
チャンドラー、アリンガム他
東京創元社
2020-03-19


短編ミステリの二百年3 (創元推理文庫)
マクロイ、エリン他
東京創元社
2020-08-24