『ランドスケープと夏の定理』の文庫化にあたっては全体的に手を入れて、巻末に掌編を加え、このあとがきを追記している。加藤直之さんには新たな表紙に加えて、さらに挿画を描いていただき、堺三保さんには解説に手を入れていただいている。改めて深い謝意を。そして本作を最初に読んでくれた妻に感謝を。
あれから二年。二〇二〇年の夏までには実に様々なことがあって、世界の風景ランドスケープは大きく変わった。さらに変わっていくだろう。都市への人口集中は、それでも、止まりそうにない。この文章を書いている数日間にも、主人公ネルスが使っているようなARメガネが市販されるというニュースが複数あった。様々な分野で数値計算を超えたAIによる理論研究が本格的に始まっている。
本作は主人公ネルスの姉、テアの失敗から始まる。
姉は天才ではあるものの、当然失敗はする。自他ともに認める天才ではあるものの、頼りになる共同研究者は必要としていて、弟には実験を手伝わせるし、その実験だって様々な承認が必要だ。
弟も姉もランドスケープの研究者と言っていい。ここでランドスケープとは、十の五百乗個とも見積もられている、ありうる宇宙の可能性の総体のことだ。
ランドスケープはひどく捉えがたい。なんとなれば、そのなかにはぼくたちも含まれているからだ。しかしその絶対的な条件を姉は受け入れない。
「私は自分がもどかしい。私は、私にとっての問いしか問いだと思えない。バカみたいじゃない? 私であることが究極的な束縛条件になっている」
ランドスケープが移ろっていく。
その様子にぼくたちは目を奪われる。あるいは心を。
この自らをも巻き込む変化を把握しようと、多くの試みがなされている。SFはその試みの一つと言っていい。
もちろん何も意図しないSFはあるし、そういう作品のほうが、もしかすると圧倒的に多数派なのかもしれない。本作も、その後に書いた『エンタングル:ガール』や『不可視都市』も、ぼくは基本的に新しい世界を、誰も見たことのないランドスケープを描き出すことを念頭に書き進めたのだった。それは今秋刊行の『青い砂漠のエチカ』や、SF考証とシナリオで参加のVRゲーム『ALTDEUS:Beyond Chronos(アルトデウス・ビヨンド・クロノス)』でも同じだ。
とはいえだからこそなのかSFは総体として世界に近づいているように、ぼくには見える。
しかしなぜSFは世界把握の試みになりうるのか。
それはこの二年間、あるいはもっとずっと前から、考えていることだ。把握しようとするものは世界ではなく美や深淵でもいいし、把握という語もいまいち適切ではないかもしれない。SFはなぜか世界に似ていると言ったほうが少しは正しさが増すだろうか。
そしてSFが世界に似ている理由は少しだけわかる。
それはSFが科学と寄り添おうとする芸術だからだ。科学は明確に世界に向き合う知的営為だと言える。科学的要素はあらゆる芸術形式に入り込んでいるのだけれど素材の物理的性質を無視できる芸術はありえないから数ある文化のなかで、特にSFが世界/ランドスケープに触れられるのは、SFがおよそありとあらゆる理論を自由自在にその作品内に書き入れることを可能にしているからだ。SFは完璧な自由を獲得しようとする無数の書き手による試みの流動体であり、その流動体は今も複雑に成長している。SFは最後のものであり、同時に、最初のものでもある。
この小説で「ぼく」以外の最頻出の単語と言えばたとえば「地球」は九十六個あるのだけれど間違いなく「姉」「理論」「知性」のいずれかだろう。姉の名テアは、古代ギリシア語で見ることを意味する〈θεωρiαテオーリア〉を約(つづ)めて作ったから、姉も理論も知性も同じようなものだ。
ボーナストラックでは幼少期のテアに登場してもらった。
彼女がいなければこの物語は始まりもしなかったから。
理論は世界に似ているのか、自らの知性は世界に近づいているのかという問いに、姉弟が出した答えは書いたぼくが言うことではないのだけれど二年たった今も鮮やかであるように思える。二年前にぼくがどのようなランドスケープにいたのか、二年後のぼくには見えないのだけれど。
ランドスケープは変わり続ける。
理論が、そしてSFがどうして〈ランドスケープ接触可能性〉を持っているのかは、もちろん謎のままだ。
だからネルスは、テアは、そしてぼくたちは、永遠にすべてはわからないということになる。
でもそれはきっと、この何もかもが生まれては消えていくランドスケープのなかで、唯一と言っていい希望に他ならないとぼくは思う。ネルスはさておき、テアはいつまでも世界を知ろうとするだろう。
この世界、このランドスケープの〈汲み尽くせなさ〉によって、世界はいつまでも新しいからだ。